蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 7 

2018年06月27日 | 小説
(6月27日)

矢を獲物に向けず宙に放つ。この狩猟技術はM238(折れた矢)の前の神話(M237Abadaの物語=histoire d’Abada)でも語られる。主人公の若者Adabaはカエルの化身。若者Simoが蜂の化身、折れた矢神話に出てくる指南役がカエルの化身で女性。その中間を占める変奏曲です。要約は;
兄たちの狩ははかばかしくない。娘が月の障りで一人狩小屋にとどまる。カエルの鳴きの「ワンワン」に「騒音を止めて、肉を持ってきてくれたら」と娘が返事した。するとAdabaが獲物を携えて現れた。そこに狩から戻った兄達、昨日同様に手ぶら。Adabaは木の間に釣り糸を張ってくれと娘に頼み「あの糸を狙って」と兄達にけしかける。3人とも寸分違わず真ん中に矢を通し糸はプツリと切れた。並はずれた腕前を持っている、しかし狩は成功しない。
翌日、共に狩に出てAdabaの「矢を宙に放ち獲物の背に落とす」技法<<Adaba chassait d’une curieuse facon, il tirait sa fleche vers le ciel, elle se planter dans le dos du gibier>>を目の前にして驚くも早速取り入れて、兄達の坊主戻り(獲物無しla bredouille)が途絶えた。

宙に放たれた矢は上昇し引力に引き戻され、放物弧を描いて地に落ちる。そこに的が置かれるならば、命中。こうした弓箭の技法は遠方の標的を狙うに、世界、多くの地で見られる。弓矢による狩猟をもっぱらとしていたボロロ族の手練れ振りをレヴィストロースが、本書で紹介している。径が1メートルに満たない円を地に描いて、数歩退く。弓弦をいっぱいに引き絞り垂直に矢を放つ。矢は数十メートルの高みを凌いで目の前、地の円の中心に落ちた。ボロロ族に限らず南米先住民は、獲物に接近したうえで矢を宙に放つのである。
幾つかの説明が寄せられる。例えば上空から落ちる矢はエネルギー量が勝り、大型獣を一矢で仕留められる。あるいは己に向かう矢は獲物に気付かれてしまう。動物反応的、瞬時に避けられ、当たらないなどである。矢の運動機能を主点にした物性論と言えよう。
レヴィストロースは、放物弧たる物性に隠れる思想を論じる。以下に彼の分析を解説する(Du miel aux cendres主として148頁)。
神話、Maba(蜜の精)から折れた矢までは主題の提示と3の変奏曲である。これら神話が人性と物性で3軸の対向(opposition)を表している。それを1)un personage et le nom q’il porte 2)un individu et une chose qu’il ne suporte pas 3)deux individus qu’ils ne se supportent reciproquement pas>>(148頁)と伝える。さらに出会いの大原則、偶然系と秩序系の対立が(l’oppsition entre systeme ordonne et systeme aleatoire)3軸に重なるのだと続ける。分かり難いから解説する;
1) は名前と作中登場人物の人性(personage=これは彼が神話論で言うpropriete特性と同等である。人とは限らない)の対峙関係。この関係は両立する。例としてMabaとは蜜、名の通り蜜と共生している。Simoは蜂の若者。働き者で婿の義務prestationを潤沢に運んでくるとは、蜜蜂だから。
2) 作中人性とモノには両立しない関係がある。Simoに義理の妹が水を掛けた。これは気を引く為の遊びに過ぎないし、bigamie(姉妹婚)を起因させる文化行為であったが、水とSimoは両立しなかった。Mabaにしても宴席で発せられた己の名(これはモノ)と己の身の置き場は両立しなかった。
3) 作中人性2者の関係が両立しない対峙。(神話折れた矢)食うか食われるか、巨木回りの追いかけで、追ってきたジャガーに追いついて後ろから捕らえた男。人とジャガー(deux individus)の関係は本来的に両立しない。
上の説明は神話構成を場面(sequence)として解説したのだが、その思想展開(code)に迫らないと構造主義ではない。レヴィストロースが伝える1)~3)の思想とは。

1)は個体と人性が自然のままに存在する。それはintrinseque(=内在本質、思想と協和する存在)で両立する。
しかし2)3)が不協和に陥る宿命(fatalite)なのは、対極(polaire)にあるからだとレヴィストロースは主張する。この対極polaireを「自然対文化」と訳せば理解につながる。出自が異なるならば両立しない、自然と文化は融和しないし同盟(婚姻関係)にあってはならない。両者の分断が (宇宙の)システムなのだ、この状態をsysteme ordonne秩序ある分断としよう。
本来、自然と文化の接触はあってはならない。しかしそれ、出会いと融和、婚姻は一時にせよ発生するのだ。自然文化が融和する例外状況を担保するのがsysteme aleatoire (意味としてはイチかバチかに近いが、偶然性とします)
投稿子は前々回で自然側が文化にしかける融和を語った。しかし企んだ出会いは建前としての偶然aleatoireに隠されている。Mabaが夫となる男に裸身を曝したのは「Maba(蜜)よと呼びかけたから出てきたのよ」とMabaに言わしめた。Adaba(カエルの若者)も「肉が欲しいと言っただろう」同様の状況下だった。たとえ名目だとしてもaleatoireの出会いならば、共生は成立するのである。


写真:ヤノマミ族は狩りの名手。ネットから取得。

狩人が狙いすまして獲物に直接、矢を射かけたらこれが自然と文化の直接対決。小から大へ、種から種へと連続する動物界の整然(神話折れた矢で主人公が夜の行進として見せつけられた動物自然の連続性)を乱したとして狩人は罪を負う。しかし矢の行く先を宙にして、落ちた矢先に動物がいるのだったら、実際は名目にすぎないが、偶然aleatoireであるとして狩人は罪を問われない。Warrau族の思考の根底にある連続、分断の自然観文化であります。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 7 の了次回は6月29日を予定

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神話「蜜から灰へ」を構造主... | トップ | 神話「蜜から灰へ」を構造主... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

小説」カテゴリの最新記事