蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

書く苦しさ、絶対「解」はすでに出来ている 4 最終回

2020年01月31日 | 小説
(2020年1月31日)
徳永恂氏の「読む楽しさ書く苦しさ教えるむなしさ」を続ける。3の行動なかで「書く」はもっとも創造が必要とされる。読む、教えるにも創造がまとわりつくだろうが、それらには創造性は「書く」ほどには濃くないと思う。例えば;10年一日のやり方で同じ思想と実行で、教えたとしても、そのやり方で教育効果が生まれるなら、先生として尊敬される。「職人」の先生がいたっておかしくないし、事実、そんな名物教師は数えられるものだ。
逆に、教壇に立つ度に創造的な「新たな思想で」教えられたら、教わる方が追随出来ない。創造が逆効果を産んで生徒はただ、途惑う憂き目を会う。

前の投稿ではこの「新たな思想」が創造、芸術に他ならないとした。では書く行為では、いかなる新しさが求められるのだろうか。

書く者は周囲を観察する。
彼は自然、家族、社会、法律など形として見える事象に囲まれている。さらに書物、新聞、報道でこれらの周囲状況に2次的に接する。これらをかくとしと受け入れ、遠方の情報でも掴める。これらが書く者を囲む周囲milieuである。
しかし、情報は混乱の様を見せる。そんなもつれる情報が彼に押し寄る。その信号は無限に広がりchaos混乱の様を顕わにする。混乱の嵐の荒れ野を彼が彷徨している。創造する者はカオス混乱から信号を選び、その成分をより分けしまい込み思想に昇華せねばならない。創造する度ごとに思想を更新しなければならない。さもなくばただの書き手、職人の書き手となってしまう。

三島由紀夫の手書き原稿、ネットから採取。

三島由紀夫が代表作「潮騒」の着想を得たのは世界旅行(1951年)でギリシャの自然に魅了され、少女の恋愛譚「ダフニスとクロエ」に触発を受けたからとされる。後に神島を訪れ、筋立てを決めた。
執筆開始から4ヶ月(神島訪問と出版の月日から逆算した)、出版社に持ち込まれた原稿は訂正、加筆、削除など書き直し一行にも汚れが探せない完全原稿であった。

神の作品とは疑いもない(潮騒の原稿ではないが、かならず無謬原稿が出版社に届けられる)

作家の創造過程を推察するに着想、構成、細部、執筆の流れは全てに共通する。
着想は思想の形成であり、潮騒ではダフニス…からそれを得ている。自身の言葉で彼は思想を「彼は貴族や、大政治家や富豪ではない。生活の行為者であつて生れたときから、天使であつて幸運、一種の天寵が彼の身を離れない。愛する女と幸福に結ばれる」(創作ノートから、Wikipedia、一部略)と語っている。
思想を温め実地に足を運んで執筆を始めた。それに続く仕事の様などはうかがい知るべくもないが、書き出した途端、原稿用紙の空白に完全解を見いだした筈だ。後はひたすら目に浮かぶ、あるいは頭によぎる言い回し、文節を用紙に書き連ねるだけである。
この4ヶ月は彼をして神憑りの状態であったかもしれない。

そして;
潮騒は思想の新たさが際だっていた。発表の直後、口うるさい論壇から「現実離れ、牧歌的な恋物語、ハリウッド的な通俗」が感動を呼ばないとの酷評もあった(Wikipediaから)。禁色など人性の暗さを主題とした三島の「新たな思想」に読む側が追随出来なかった証である。

凡人が何かを書こうとして、思いつき程度の主題をネタとして、書き始めても言い回し文言の選択で躓くから、訂正し加筆して、それでも気に入らず全てを消してまた書き出して。こんな繰り返しを幾重に重ねても、一向に解には辿り着かない。
彼は勘違いしているのだ。
筆耕を繰り返せば何とか、完全と言えなくとも、それに迫る原稿はモノに出来ると。これが違う、着想を持った時に神は作品を用意しているのだ。完全解はすでに出来ている、神のその作品をなぞらえる苦労が創造活動なのだから。

潮騒執筆の数ヶ月、三島に神が降臨していた。この神憑り状態を苦しいと表する事は可能かも知れないが、凡才はどうやってもそれが「見えない苦しさ」なので次元が異なるようだ。

サリエリが努力してもモーツアルトに化けられない。私が由起夫に生まれ変わる幸運は絶対にやってこない。この悲しい現実を見直したら神が遮っていた次第でした。読者様には第二の三島と変わることは可能であるかも知れません。了
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レヴィストロース、ルロワグーランとの対話 4

2020年01月30日 | 小説
11月に入れば講座、ゼミ(travaux diriges)がすべて開講した。
それまで学部に入れるのか、授業では己の席を見つけられるのか、内容について行けるのかなど心配を抱えていた。一番真剣な不安事とは学籍証を持つか持たないかの身分差であった。それを持たないと「安い」学生食堂で昼飯と晩飯を食べられない、昼にパンをむしり夜には薄いマギーのスープをすする悲惨状態に陥るのだ。そんな不安がすべて解消し、落ち着を取り戻し、ひたすら学業にいそしむ心構えをもてるようになった。

写真はネットから、拡大と説明は下

私(渡来部)が潜り込んだ下宿はカセット通り10番地、サンシュルピス聖堂は間近。サンジェルマン、リュクサンブールにも接しており、俗に言うラテン区(カルチエラタン)の一角である。ある土曜日(第2土曜日かと、その年なので11月15日かも知れない)の昼下がり、学生食堂は開いてないから行きつけのカフェ(cafe de cassette)で軽い昼食(saucisses fritesソーセージに揚げジャガイモ)、なぜこんな事まで書けるかというと、それを食った記憶にあるのではなく、(学生食堂以外での)昼はこんなモノしか食えなかった事実を今も覚えているから。
友人は下宿に戻り私は一人になってサンジェルマンに向かう。途中、サンシュルピス広場で前方から来る大柄な男には見覚えがある。相手も私を認めたらしく、通り過ぎずに足を止めた。
「Bon jour, comment ca va」なんて常套句で挨拶した相手はJean Pouillonだった。
恰幅が良く背丈は見上げるほど。黒のオーバーコートに赤と茶の絹スカーフを首に巻いていた、手はポケットに。真冬には遠いけれど厚着していた。
Jean Pouillon(ジャンプイヨン)とは誰か。
哲学の教育を受けサルトルの朋友、のちに民族学人類学に関心を持ちアフリカ現地調査を進める。人類学雑誌L’Homme(人間)レヴィストロースが1961年に開設、編集長を創刊(1961年)以来35年勤めた。
彼の業績はネット検索で調べても全容は掴めない。サルトルが主唱する知識人とは社会参画を義務として持つ、これを実行していた(ようだ)。ニュルンベルグ裁判を批判、アルジェリア独立を支持などでそれと窺える。哲学では実存主義を信奉するのか。するとレヴィストロースのカント主義とは相容れない。民族学に転出しチャド先住民の宗教を調査した(とネット情報)に接するも、その著作が見えない。
足跡としてレヴィストロースの神話学第3巻「Origine des manières de table食事作法の起源」の前書きでJean Pouillon氏がまとめた1963~64の講義録(College de Franceでの講義)無しには本書(食事作法…)の刊行は大いに後れたはずとの謝辞が読める。(14頁)
第3巻のみならず、1巻から資料解析の手伝い、助言で大いにレヴィストロースの著作に貢献した、とは当時の学生の語り話。
レヴィストロースの盟友、それ故に社会学系の学生には尊敬されていた。

Ecole Pratique des Hautes Etudes(実践高等学院)の社会人類学課程で教授レヴィストロースに次ぐ主幹として講義内容、人選を執り仕切っていた。私たち1年生(stagiaire)の講座を受け持つことはなかったが、学期の開始に当たっての対話(colloque)には出席、発言を多くしていた。アフリカ調査を敢行するにはアフリカ学の重鎮バランディエにも「渡り」を付けたはずだ(この辺り日本土着の感覚だが許せ)。
哲学でサルトルに薫陶を得て、人類学ではレヴィストロースをおおいに助け、実地調査でバランディエの門に入る。
上の3人は思想と実践で相容れない。レヴィストロースはサルトルを「非科学的」と辛辣に批判したし、人類学の手法で「意識」を調べるレヴィストロースにたいし、バランディエは「物」を見ていた。しかしこれらの異質がPouillonの中では渾然一体に融合して、新しいマグマとなって、地平のどこかに噴き上がったのかも知れない。L’homme1997年143巻の「歴史」がそれらしいが、手に入らない。

有名なサルトルのスナップショットである。彼に面する人物がジャンプイヨンと本投稿を整理する時点で知った。

一言で彼を形容すれば「包容力がある」「人物が出来ている」であろう。

出来ているその人物は挨拶の後、私を見下ろしながら、
Est-ce-que vous etes au courant, Claude va retenir le cours au publique, a college ?
君はクロードが学校で公衆むけ講座を再開するがそれを知るか?
私の答えは「どこのクロード?」バカ内容で返答するのが私(渡来部)の癖なのだが、この加減がそれまで過去21年の経緯でもっとも馬鹿さに濃さに輝いた瞬間だった。
クロードとはレヴィストロースに決まっている。Collegeとはフランス学院であるし、公衆向けとは公開講座、誰でも飛び込んで聞ける無料講座である。

Pouillonは人物が出来ているから、マヌケな対応にイヤな顔つきの素振りもせず、レヴィストロースと明かした上で「次の日曜の11時から学院の階段教室」と告げて別れた。

このショットが私(渡来部)の知るプイヨンである。いかにも温厚、その通りの人格の持ち主だった。

レヴィストロースはフランス学院のChaireである。その意はprofesseur教授に他ならないが、敬意をこめてこの語「席」を用いる。その席に座る物には一つの義務が課される。公開講座を持ち自己の説、成果を市民に直接語りかけるべしと。
その講座が再開されると教えてくれた。続く
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書く苦しさ、絶対「解」はすでに出来ている 3

2020年01月28日 | 小説
(2020年1月28日)
モーツアルトが「フィガロの結婚」の着想を得たのはボーマルシェの同名戯曲に接した直後であると伝わる。婚約者スザンナとの結婚に立ちはだかる公爵、彼は「初夜権」をタテにスザンナに迫る。フィガロの機知で公爵をやりこめる筋立てを2管編成、4幕、幾つかのアリア、多重唱を散りばめた作品を楽曲とすると彼が決めた。序曲、アリア、重唱で歌われるメロディが自然に耳に湧いて聞こえてきた。なぜなら神が解、きっと解の一部分をモーツアルトに耳打ちしたからだろう。
そして、
完全解は五線譜上に出来上がっている。
総譜はそこに存在しているのだから、神が造りたもう音の重なりと響きの流れを苦心して、盗み聞いて譜面に起こして作品に仕上げる。その作業がただ残るだけだ。その作業を才能と人は伝えるしモーツアルトにして、才能は神から授かったほど完璧だけれど、ペンを取って五線譜を眺めても即座に見えない。それを曝こうと苦心の果ての幾週に作品が出来上がる。
人類には彼を越える才能を持つ者はいないから、これ以上のフィガロは他のどの作曲家にだって作れない。人が聞く事が可能のなかで最高の「フィガロ」なのだから、それを崇めればよろしい。サリエリ(当時の宮廷作曲家)だったら着想でつまずき、メロディを聞き取れず、和音進行のドラマを書き込めず、神の完全解にはとても及ばない平凡作品に終わっただろうに。しかしその初演で皇帝は欠伸して退席し、さんざんな悪評を受けた。(ハリウッド映画アマデウスが描く天才と凡庸の構図)

画:渡辺崋山筆、鷹見泉石肖像(部分)、東京国立博物館から採取。国宝(絵画で最も若い国宝)

もう一人の天才;
渡辺崋山が鷹見泉石に肖像画を依頼され、正装した彼と浅草誓願寺にて対面し何を心に感じただろうか。残された作品から探るしかない。
肖像ならば顔の全体、着衣帯刀の半身像が描かれている。後代の者がその半身像を前にして何やらの異様を感じるとすれば、画面に漲る光であろうか。画の全様から光が発せられているとしたら、それが意思ではなかろうか。対峙すると引き込まれる、何やらの力の原点とは意思であり画にその者の意思が溢れているなら、画裏の奥に意思の中心核が存在して、そこが発光の起点となって絹地を抜けて光が放射していると気付く。
故に両の目に漲る光、それが何やらの異様さの正体、は人の意思であると感じる。崋山は人が秘める意思の力を思想に固め、この肖像画を作品とした。
ならば絶対の解は崋山の目の前に座り、目を光らせた泉石の存在そのものであろうか。それならば写実に徹すれば神の解を得られる。しかし小筆はその考えに与しない。物体としての泉石が創造の解ではない。崋山が温めた思想としての泉石が解なのだ。崋山が画にしたのは形態の泉石ではなく、崋山の頭に閃いた思想を画にしたのだ。


なお、
作品(国宝1837年、東京博物館所蔵)実物を目にしていない。一般公開はされるはずだが、その機会に浴していない。同館ホームサイトを眺めるのをもっぱらにするが、パソコンスクリーンからでも本画の目玉の異様に圧倒される。
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レヴィストロース、ルロワグーランとの対話 3

2020年01月27日 | 小説
試験官から事務所の案内を受け、その足で駆けつけて無事、パリ大学第一文学部(ソルボンヌ=68年当時は文書にもSorbonneの呼称が使われていた)、その内のEcole pratique des hautes études(実践高等学院), 課程はanthropologie sociale(社会人類学課程)に潜り込めた。学期の始まりは10月であるも、講義が開始するのはその月もかなり遅くなってからになる。その間に学生と教官の対話,colloqueに参加したが、学制と評価の話で旧制度も新制度も知らない私にはちんぷんかんぷんだった。ただ「学生が教官を評価する」の提案には教官側がきつくNonと答えた。これは分かったし、印象的だった。

講座(cours)とゼミ(travaux dirigés)を選べ、私(渡来部)は極北民族(イヌイット、当時はエスキモー)とアフリカ(ドゴン族など)の講座を選び、ゼミにおいては音韻学を選んだ。講義内容に関してはいずれ語る機会があるだろう。本題にはいる。

11月に入ってしばし、金曜のゼミが終わって学生が散らばる前に友人から
「明日、発掘現場に行くけれど、来ないか」誘われた。
こういう時には即座に絶対に、前向きのd’accordを返さないと、あとあと誘いが来ない。とっておきの「vachement oui」と返事した。(vachementとは「雌牛的」にの意味の学生俗語、(雌牛はマヌケだから)無批判に絶対信頼しての意味で使っていた)

翌日の朝、しめし合わせた広場で待つも時間に遅れることしばし、前方からかなりくたびれた2CV(ドゥーシュヴォー、直訳すると2馬力車、シトロエンの大衆車)が独特エンジン音をバタバタと響かせ、目の前にプスー止まった。同じクラスの顔見知りが前に2人、もう一人が後ろの左。後ろ右に座るのは見知らぬ女性、姿と格好から学生と知れる。
紹介してくれた名はジュヌビエーブだった。
運転者も含め身振りと手振りの会話が始まった。ちなみにフランス人は運転者といえど、車中の会話に積極参加する。時に後部に振り返っては自説を繰り返す。上下3車線の追い越し線に入っている時だって、果敢に振り返る。それでも事故を起こさないとは見上げた腕前だ。(上下2車線の中央に1車線の追い越しが設けられて、どちらからも追い越しできる。うっかりすると正面衝突に巻き込まれる。今はこうした線はないだろう)

写真:アンドレ・ルロワグーラン教授北海道での調査旅行と思える1935年。

車中の会話は出始めが2CVについての性能。
「エンジンは非力だが、車体が軽い分走りは軽快。5人乗ってもしっかり走る」
私は5人目になって後ろの中央に座らせられた。後部シートは鉄パイプの枠にキャンパス張り。中央に強度を取るため前後の鉄の棒が渡される。これが中央に座る者のお尻に当たる。
「XXはこれでモスクワ学会まで皆と行ったと自慢していた」XXとは講座を受け持つ若手の講師。
「何人が乗り込んだか知ってるかい」は私の問い。
「4人で行ったと聞いている」
「Bonne chance pour le quatrième monsieur」(4番目の人はラッキーだったね)
「Pourquoi ?」(何故)
「il a pas eu le problème au derrière」(お尻が痛くなかったから)
皆が大笑い。
真ん中の棒はやっかいと知っていたのだ。右手のジュヌビエーブが何かをつぶやいた。これが何とも分からない。「旅程はモスクワよりも長くはない」程度の軽い内容の筈だが、どうもこれを「痛みの限界点を超さない筈だから、お前にも神の祝福なる幸運はいずれ訪れよう」なんて言っているみたいだ。こうした言い方をして名詞文節とするが、勿体ぶった言い回しこの上ない。彼女にはそれからも度々会う。私として会話をそれなりに上達しても、それを凌ぐ勿体ぶりの増進にはついて行けなかった。

痛み限界の前に着くと慰められた地点はモー市、パリ近郊になるので一時間はかからない。マルヌ川の段丘。到着して飛び出すかのごとく渡し棒鉄のせめぎから逃げられた。
見学して一通りの説明を受け、昼食となった。仮設の大テーブルに白のクロス、各自が指定場に座るのだが、何故か中央の左脇の席をあてがわれた。ルロワグーラン教授が鎮座する席の右であった。
その時は思わなかったが、これは仕組まれた席だった。教授とは偉いけれど煙ったい存在で、近づけば構えなければならない。その席は敬遠される。日本人ならどうでもよかろうとの逆の配慮が働いたと後に感づいた。
皿を配膳されてもナイフがなかった。ボーイに告げようと手を上げた矢先に、教授が
「これを使え」と手前のナイフをずらした。自身にはオピネル(ナイフのブランド)をポケットから取り出し皿の横に置いた。研ぎこまれた刃先を見るに、かなり以前から使い込んだ愛着品と思えた。
食事が始まって、めいめい会話に花が咲く。私も何かの切り口を開かねば。しかし相手は先史学、民族歴史学の大教授である。何かを探るに付けフト思いついた。
「教授、ご存じでしょうか。戦後の日本では主張の自由が広まって、皇室の成り立ちも語られるほどになりました」
「ほう、昔は不自由だったのか」
ルロワグーラン教授は1935年にアイヌ研究で日本を訪れている。昭和の初期の日本世情に接していたのだから、この返事は知らない素振り。
「騎馬民族が皇室の祖先であるとの説がもてはやされています」
江上波夫の「騎馬民族説」を語った。教授がこの説を知っていた様子はなく、私の説明を聞いても同意の素振りは見せなかった。
「遺跡や風俗に遊牧民(nomade)の痕跡が裏打ちしているのか」
騎馬民族などという範疇はない。故に彼は私が用いた「peuple sur le cheval」は使わず、遊牧民として返した。
佐原真、石田英一郎氏などの反論を念頭において私は、
「考古学と民族学の方々からは批判を受けています」
「証拠となる遺跡、ないしそれを伝える風習がない限り仮説である」
先史学の泰斗としてごもっともは結論となった。


ルロワグーラン教授との対話であった。ちなみに昼食はfaux filetとfrites、こちらも美味しかった。 続く
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法務大臣の死刑容認について 読み切り

2020年01月26日 | 小説
森まさこ法務大臣は「死刑を廃止することは適当ではない」との考えを示した。容認に至った理由には「やむを得ない」と回答する人が80.8%をしめ、「廃止すべき」9.0%を大幅に上回った調査結果を上げている(内閣府調査、2020年1月24日、サンケイ新聞ネットから)。無回答の9%は事実上の容認なので、国民90%が死刑の存続を求めている。
この話題をとりあげるに「何故それほど高い比率」で死刑制度の存続を認めるかを考えたい。
なお、AかBか、こうした論評を広げるには己の立場を明確にする要がある。私自身は90%の中に組み入るを認める。ある特定集団、例えば県の弁護士会、国際人権団体の参加者団などが死刑反対の論を上げているが、そうした立場にはないごく普通の日本人である。

罪の在りかと罰の下し様が彼我で逆転している。
彼とは死刑制度反対を声高に表明している国際機関である。彼らの宗教、信条の基盤はユダヤ・キリスト教である。昨年末の執行(12月26日)の直後、フランス駐日大使(ローランピック)は「不公平、非人道かつ抑止効果がない」を理由に日本政府を非難した。(フランス声明は執行の度に配達されるようだ)。
大使が非難のために取り上げた理由については国内からの反論が根強い。
「公平を期すなら残虐犯人にも死刑を」(昨年末の執行された中国人犯人は一家4人を残虐な手口で快楽殺人)「非人道は犯人の仕業で、死刑はそれに見合う懲罰である」など。
この論争は決して埋まらない。相手側を納得させる倫理をいずれ側も持たない。突き詰めれば論理と倫理を越えた精神の底に彼我は共通性を持たないからである。

先の指摘、罪と罰の認識が彼我で逆転、これを論じよう;
西洋の意識形成にはギリシャの思考、ユダヤ・キリスト教の教条が大きく影響を及ぼした。小筆の意見ではない、学識多くが伝えているから事実と思う。その思想では罪とは何処にあろうか。外界である。
人はそもそも純真無垢であると彼らは信じる。
ミロのヴィーナス、サマトラケのニケなど彫刻を前にするとギリシャ人がいかに人の生きる姿を礼賛していたかを知る。生きる姿こそ正しいとする証である。
ユダヤには裸体礼賛のおおらかさは欠けるけれど、人そもそもの根性は無垢であるとしている。アダムがリンゴを囓った横にそそのかした悪魔が嘲り嗤う。イスカリオテのユダは悪魔が差し出す金に目がくらんでイエスを売った。罪を犯すとは、悪が跋扈する外部からの影響を防ぎきれなかったためだ。ゆえに罪の源は外にある。

写真:イランの母は殺害者に平手打ちして、死刑執行を止めた。拡大は下に(ネットから採取)

人が犯すけれど由来は悪魔、その罪を神が裁く。
キリスト教は教義の根底に「最後の審判」をおいた。死刑に該当する罪だとしても、罪人が教徒である限り死刑は執行できない。封建時代、密猟領民にも領主は死をもって罰しない。悪行とは無許可伐採、狩猟。これらの罪の戒めは土牢。土牢とは領主館の地下、窓無し石囲いの牢屋で死ぬまで閉じこめられる。善悪の裁断は神にまかせて、罪人を生きる限り収監した。なお土牢で人はすぐに死ぬ、太陽光から隔離される人は弱いのだ。
ヨーロッパではかく、死刑を否定する歴史を持つが、一歩、罪人がキリスト教からはずれたら、堂々と死刑を実行していた。
異教徒には死刑、残虐な火刑が実行される。カタリ派、異端(ユダヤ改宗者)、魔女、地動説の主唱者にカソリックは迷わず火刑で弾圧した。サルトルの言い回し、l’enfer c’est les autres「悪は他者」(戯曲「出口無し」の台詞だとか)人は外の悪の犠牲となる、この信条を現している。

レヴィストロースはこの意味の正反l’enfer c’est nous-même「悪は自分」なる文句を生み出した。自己に潜む悪の横溢を防げない者が罪を犯すとの意味である。西洋こそサルトルの告げるままだが、南米先住民では悪は我と信じていると彼が主張したのだ。小筆はこれを日本に当てた。

遠くはイザナギイザナミから、内に潜まる罪を神道が教えている。イザナミはモガリ穴の奥で腐乱死体になっていた。内に潜む毒気が主の死により恣に身をむしばむ。死んでもなおの懸想を夢見たイザナギも己の悪を抑えきれなかったから地下に潜った。黄泉からの逃げ帰り、イザナギが身のうちの穢れ祓いを試みた。神道儀礼の縁起である。
日本では罪悪は、己の内の悪を制御できなかったためと考えられている。悪を押さえ込むには日頃の鍛錬、潔斎、修行を重ねるしかない。神主にお祓いを受ける儀礼も有効である。それでも罪悪を犯し、死に価するとなったら。己の命で罪を償う、死刑の自己責任論である。

光市、母子殺人の犯人は18歳であった。3人を越す殺害では未成年でも死刑の実例がある。2人なら無期懲役の判決となるか、弁護士を含めおおかたが極刑は予想していなかった。被害者の夫は残虐な殺し方には死刑をと社会運動に引き上げ、判決は死刑が下された。
イラン、母親による死刑の免罪。刑の執行は被害者近親の同意を必要とする(イランの慣習法らしい)。執行の直前、被害者の母は殺害者を許した。死刑は執行されなかった(2014年イラン北部ウシャハル)。


両者の行動を比べ、いずれが正か邪かを論じるなどは無意味である。論ずべきは執行に民の倫理が反映されているかである。さらに民の倫理を見比べ、一方は他方より「人道的」などとうそぶくことも無意味である。了

なお部族民通信のホームサイトでは地獄は身のうち1,2,3(2019年7月、10月投稿)にて罪のありかと罰の下し方を論じている。
また、昨日(1月25日)投稿した「書く苦しさ...2」は1と合わせてホームサイトに「完全解は目の前1」として投稿した。WWW.tribesman.netにもご訪問を。









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書く苦しさ、絶対「解」はすでに出来ている 2

2020年01月25日 | 小説
(2020年1月25日)
>ジンジャン、左官、モーツアルト、崋山を比べてみたい次回に<を前回(1月23日)予告した。
前回のまとめ;
ヒトの製作活動の特質は「思想」を持つに尽きる。
では今回;
思想のあり方で工芸と創造に分けてみると;
反論もあるだろうが、同一の作品を変わることのない思想のもとで繰り返し作る工芸、その担い手を職人とする。思想を新たに創造して作品の製作をもっぱらとする人が芸術家となる。
両の製作の環境にはどのような差異があるだろうか。

猿も道具を用いる、この現象をして文化と評価する学派も活発と聞く。小筆の立場はエテ公(apeを含め)は「思想」を持たないから、道具の習熟、再生産をモノにできない。文化の体系を作れない。人様が上である。

工芸は道具を作製する。使われるからすり減る。減ったら買い足しする。以前に使用していたそれと新規道具の使い勝手が異なると、買い手から文句が出る。故に同じモノ、同じ思想の作品を作り続ける。出来上がり品はステレオタイプ、規範品となる。
職人の腕の見せ処とは技術をかける部分の水準の高さとなる。水準とは寸法、なめらかさ華麗さなど表層の仕上がり、立て付け仕組みの狂い無さ堅牢さ、組み合わせる適合の度合いなどで、規格とも伝わる。
仕上がり品に対しての正か不良かの判断を職人は持つし、規範品であるから制作に関わらない者、例えば購入者、使用者も出来上がりの善し悪しを即座に判断できる。
故に職人とは俗世間にすでに存在する製品の思想をいずこから、親方や発注主から引き出し(奉公し学ぶ盗む)、完成度のみを追い求める者と言える。
ジンジャン(350年前オルドヴァイ渓谷に住んでいた猿人)は典型的職人であり、石斧をステレオタイプ化して作って来ていた。石斧の使われ方は獲物の腹皮を切り裂き四肢を分断し(両刃)、骨から肉片を剥離する(片刃)、この制作過程、制作品に対して規範の設定、使い方の標準などの集合体はすでに文化を形成している。

ジンジャンと作品石器との関係とは;
1作品思想の確定 2作製技術の確立と伝承 3品質の固定、評価の基準 4使用法の一般化と民族としての伝承(文化)。
かくしてジンジャンと石器の体系が確立していたので、200万年を継続していた。前回、手練れ左官を述べたが、彼と泥壁との思考体系はその原型を350万年前のジンジャンに求められる。

では芸術家とは;

ポンティ先生には幾度かお出ましを願った。今回は知覚と芸術を統合していただいた。

先学がどのように芸術が創造されるかの説明を紹介したい。
メルロポンティ(1908~1961年フランス)。知覚の現象論の創始。
彼は人の周囲環境に焦点をあてる。
周囲をmonde(宇宙)、champ(野)、milieu(環境)などと呼びそこではchose(物、信号)が交雑するカオス地である(カオスは小筆の解釈、耶蘇教徒なる彼は、神の被創造物をして混乱などと規定せずchamp…で通した)。これら信号は(凡人は)見逃し聞き逃するので単なる雑景雑音にすぎないが、実はそれに成分が含まれる。
この成分、神の信号を得る手段とは;

>Les choses ne sont pas devant nous de simples objets neutres que nous contemplons ; chacune d’elles symbolise pour nous une certaine conduite, provoque de notre part des réactions favorables ou défavorables, et c’est pourquoi les gouts d’un homme se lisent dans les objets de s’entourer...(Causeries 閑話SS4 1948年)
訳:私たちが眺めすごす対象物とは単なる単純な物ではなく、一つ一つがある成分を象徴化している物なのだ。その信号成分は受け入れられ、時には受け入れられない。それ故、人の性状は周囲環境のなかに統合されるものだ。
>Ma perception n’est pas une somme de données visuelles tactiles , je percois d’une manière indivisée avec mon être total(La nouvelle psychologie, 新しい心理学1945. SNS88)
訳;私の知覚とは見ている、さわっている、聞いているなどの総合ではない。私は、己の存在全体と一体化しているやり方で知覚しているのだ。

2の引用を通して周囲の事象には信号が備わり、人はそれを、知覚を超えた全身で受け止め、時には排除している。全身とはヨーロッパ哲学の流れから判断すれば「智」、思考となる。知覚のみならず智で事象の信号を評価し、選択する。これが創造である。

選択する信号とは何か;
レヴィストロースの「3分節」を引用する。
神話学第一巻「生と料理」の序曲(序文)で神話の構成を音楽と同じく3の階層とした。それは音素、旋律、楽曲となる。音素とは高さを決める周波数がふらつかず一定し、調の7の音に適合する音である。メロディはそれら音素を響きの長短、強弱の拍を組み合わせたつながりである。作曲家は雑音にあふれる外部環境、音のカオスから音素を取りだし、メロディを口ずさむ。調を選び和音とその進行を考えて楽曲(思想)に昇華させる。これが楽曲創造の3分節で、神話(言語)にしても同様であると指摘する。

メルロポンティは画家がいかにして環境から作品を引き抜くか、セザンヌを例にして解説している。同じ仕組みは文芸にも適用できる。
ここまでを芸術家が創造する過程とする。

工芸との差は思想のあらたな創造に集約される。
芸術家は思想を創る。
有神論では神が作製している誰もそれまで探れなかった思想、これを見つけ出す工程と言う。メルロポンティは耶蘇信徒であるから、前の引用を噛みしめて読めば「神が造りたまわる環境は調和にあふれ、その調和を探しえる知覚の持ち主が作品を物に出来る」となる。
芸術家の「思想」はステレオタイプではない、判定基準がまだないから作品としての善し悪しは、鑑賞者や批評家には即座に判定できない。工芸品と異なる処である。
さらには芸術家が着想し作品に昇華せむとする物の、あるべき姿は神がすでに図面を書いているのである。
芸術作品は道具でないから消耗しない。思想が形成され作品に昇華したら石器とか土壁と異なり「減らないから」そのまま残る。別の芸術品を発表するにはあたらな思想を探し出さなければ、作品とはならない。
焼き直し思想を発表する作者は芸術を語れない。
(以上が2回目)
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書く苦しさ、絶対「解」はすでに出来ている 1

2020年01月23日 | 小説
(2020年1月23日)
徳永恂氏の「…書く苦しさ教えるむなしさ…」(著書「絢爛たる悲惨」2015年刊の後書きから)に戻る。
ブログおよびホームサイト(WWW.tribesman.asia)にて幾回か取り上げたから、「またか」と飽きられる訪問者様も少なくないやも知れぬ。同書に読みとれる、とある逸話から飽き気味への答えを導いてみたい。
氏は講演で幾度かベンヤミン(ドイツ哲学者1892~1940年、ナチス迫害からの逃避行中にピレネー山中で横死。なおアーレント、レヴィストロースなどはマルセイユから旅客船での亡命が叶い過酷なピレネー越えを免れた)を取り上げていた。さる主催側から「またベンヤ…ですか」あきれ顔を見せられた。対して「またかとする御仁はベンヤ…を尽くしたからだろう。私は彼を尽くしているとは思っていない。学び話す事柄など未だ多く抱える。これからも…」と答えたそうだ。誠に正論である、主催側はグウの音もでなかったろう。

写真:徳永氏を紹介したかったが、ネットに画像が現れないからベンヤミンを張り付けます。アーレント、レヴィストロース、ブルトンなどは貨客船で無事に亡命できた。ベンヤミンがヴァリアンフライの選択から外れた理由は何だったろうか。フライのユダヤ人救出劇はホームサイト2019年投稿。
(ピレネー越えの実情をさる書籍で知った。ナチス側の取締官は雨の夜には街道を巡回しない。真っ暗ぬかるみ急坂を20キロ徒歩で縦貫するのだとか。「ヤンカルスキ、大虐殺の証人」から仕入れた。2022年2月15日加筆)

小筆蕃神には上記「…書く…」の含蓄の深みを尽くすどころか、重苦しさのそのあまりを理解するとば口にたどり着いていない。「教える」を「伝える」に言い換えて、この警句こそ徳永氏の教えと大事に抱えてしばらくは、きっと幾年おそらく終生を、越して思いに返すのかと身が震える。

前のブログ投稿で;
頭をひねって考えて、何とかかんとか作品に行きついたあげくの過程を「創造」とは言わないとした。
何かの作品を「創ろう」と思ったとたんそこに音楽であれば五線紙、絵画ならばキャンパスの上、文芸だったら原稿用紙今はパソコンのスクリーン上に、絶対の「解」が既に存在している。当然、この解は聞こえず見えず囁かず、よって創造しようとする彼に覚知できる筈がない。信徒であればそれを神による「必然」あるいは「天啓」と伝えるかも知れない。彼は全知全能であるからそんな、ありとあらゆる芸術に関与する芸当は可能である。しかしその天啓を探し出すのがヒトなのだ。絶対は必ずあるから、遙か高みの空に隠れるそれを探し出さねばならない。
いまだ見えない必然を探し出す作業は苦しい。書く苦しさ、それを創造とした。

「創造」を具体的に探ろう;
左官が壁を塗る。
すき藁を練り込んだ半仕上げの荒壁が目の前、その表に中層、上肌と泥を塗る作業が残る。左官の頭には土壁の仕上がり景色がすり込まれている。色合い風合い、肌合い照りの具合がいかがに仕舞うかを知っている。塗り泥のひとかたまりを小板にすくいコテに取っては荒壁に当る、幾度も繰り返す。幾百千回の作業を経て追い求める完全「解」に至れば出来上がり。腕がよい職人と旦那から褒められる。
作業する前に出来上がりを知っている。

ヒトはズーット前からこの工程「経験する前から知恵を持つ」をモノにしていた。
認識考古学なる分野があるらしい。ネット通販、図書館などで探せる書物では「心の先史時代」(ミズン著)は門外漢(小筆のことです)にも分かり易い。ミズンは氷河期以降、新石器革命以降の人の拡大を認識力の強化と結びつけて説明している。

小筆が言うところの「ズーット前」ははるか以前である。

旧石器の嚆矢は350万年前、今はケニア・オルドヴァイとされる渓谷で製作されていた。製作主はヒトの祖先ジンジャントロプス・ボイセイなる類猿人である。(用語のジンジャン…も類猿人にしても現在は用いられない。「ご祖先さま」についても怪しい。製作主は別猿人「ハビリス族」かも知れない。古い用語、知識にはご容赦)

写真:ネットから。ジンジャン、ベンヤミン、手練れの左官、徳永氏に共通する属性は「経験する前に智を持つ」に尽きる。

石斧を製作過程とは二十四の選択に分解できる。各選択はかならず+か-の結果を出す。種石(斧となる石)の先端部を加工石(ジンジャンが探しだした道具)で振り叩いて一の辺の鋭角を作る。振り下ろしが成功すれば+、おとす箇所あるいは力加減の誤りで鋭角が様にならなかったら-でNG。これを繰り返し、二十四の過程で全てを+に成功しなければ切り口が鋭い、使い物となる斧をジンジャンは得るに至らない。
さらに選択は+か-であるが、+を得る条件は相当厳しいから2択ながら100分の1ほどの可能性である。不器用なジンジャンの腹は減ったままだ。
石斧を製作するとした時に、彼の脳は石斧の材質、形状、大きさ重さをその内に描いていた。脳が石斧なるモノの表象、すなわち思想を持っていた。製作する過程は頭が描く石斧の像をなぞりつつ、加工石で種石を叩き、叩き痕の鋭角の様を吟味しつつ、頭が浮かべる表象に近づける。だから作製できた。
ジンジャンは「経験する前から知恵を持つ」ヒトだった。

しかし;
当時の渓谷にはジンジャンを越える運動能力と咀嚼能を持つゴリラないしチンパンジ(の祖先)が住んでいた。彼らがジンジャンの成功を真似して石斧を作製するとしたら;
種石と加工石を彼らに与えてやろう。
種を押さえて加工石を振りかざし、下ろす動作からをゴリかチンパにまかせる。エイヤッ、一回目にしてうまく当たらない。正しい打撃点を打たなかったから種石の一つが無為となった。別の種石を拾う、適当に振り下ろすだけだから、どれかの工程で-を出してしまう。二十四の工程の全てを+で通るには困難の800万回を乗り越えなくてはならぬ。ゴリラ、チンパに克服は難しいだろう。
(ベキ乗の計算結果を照会して部族民通信ホームサイトWWW.tribesman.asiaにジンジャントロプスを投稿した。)
参考にその部分を引用>ジンジャンは選択して拾うから完成までの80224回の加工行程で全てにGOODを勝ち取らなければ、一片の石器を作成できない。eの両面加工choppingtoolが欲しいとなったらさらに10回余分の打撃に邁進し、全行程は23回の打ち下ろし、それぞれが2分の1の確率で良し悪しがあるから(実際は手加減の仕方、振り下ろし箇所の精密打擲など確率はより厳しい)。簡素に考えているから、全てがBad:Goodの2通りその2を23乗、ベキ乗をネットで計算させると800万分の一の確率となる。一のchoppingtoolを造るに800万回の選択と力加減打ち加減に成功しなければならない。(部族民通信ホームサイトWWW.tribesman.asia2019年5月投稿から)

ヒトと猿との差は作るモノへの思想を持つか持たない、作る何かへの表象を頭に描けるか、不能かに尽きる。ヒトが抱く作る思想を猿(ゴリラ、チンパンジを含めて)は持たない。
ジンジャンの創造能力を左官と比べれば、左官にしても泥を塗る前に出来上がりを頭にすりつけている。同じ仕組みが絵画、音楽、文芸にある。

ジンジャン、左官、モーツアルト、崋山を比べてみたい、次回に。
(部族民通信ホームサイトを改編した。Index=最初の頁=は2019年投稿の紹介が重くなったので、分離した。Indexは2020年の投稿記事紹介です。2019年分は頁上部のボタンをクリックして入る)



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50年前の留学 サイト投稿の報せ

2020年01月20日 | 小説
表題で過去投稿を2回しています。
投稿者の渡来部氏が「ホームサイトに掲載する際に加筆したい」要望があって、一部訂正のうえ加筆して1,2を合わせてホームサイト一回分として載せました。
加筆の部分は多いのですが、
>>こんなやっつけ対話でも一つ二つは学べる。
窓口では黒髪パリジェンヌからTu(お前、くだけた呼びかけ)と問われた。こう言われると親しみが湧く。しかし部屋に入って検査官は私をVOUS(あなた)と呼んだ。Vousとtuを「あなたお前」と区分するのも、この呼称の含意を日本語の位置にくみ取れば誤訳となる。フランス語でのそれは「尊敬」と「なれなれしさ」の差ではなく、社会における距離を現す。若い者同士なら、特に互いが学生であれば、初対面でもtuで呼びかける。この用法を学んだ。
一方、社会地位と年の差が歴然とする試験官とはvousで話した。これが2点目であった。

拡大は下に

後に授業に臨むことになるが、学生同士はすぐさまtutoyer(お前で呼びかけ)で話し合い、教師にはながく講義を受けてもvousvoyer(あなたを使う)から離れられなかった。きっと年齢差もあるが社会での地位を互いに意識したのだろう。
さて;
今もって私がこの口頭諮問に「合格」した理由は分からない。答えようにもしどろもどろ、返答の様をなしていなかったとは明らかだった。

写真:渡来部が手に入れた学部(ソルボンヌ)生の証明書と高等学院の学生証。ずいぶん前の写真なので個人として認識される情報などはないが、一応黒線を入れた。

大学院生には国どうしで選考する留学の制度がある。
彼らには受け入れる機関が保証するから、こうした出先での能力確認など検査するのも不要である。私費で「学生」が留学して「学部」に編入するのは建前で可能だが、実数は少ない。なぜなら学部の講義についていくは難しい。多くは「文明講座」なる学級に振り分けられる。
しかし海外大学生が大学の学部「faculté」に編入を求めるが門は狭い。これが半世紀前の私の場合は珍しいケースであろう(今も珍しいかは知らない)。<<

ぜひ部族民通信ホームサイトでご確認を(WWW.tribesman.asia)
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50年前の留学 レヴィストロースとルロワグーラン 2

2020年01月17日 | 小説
渡来部氏からの寄稿をブログに投稿しています。

1968年新学年が始まった。私(渡来部)が潜り込めた機関はパリ大学第一文学部(通称ソルボンヌ)、その組織内のEcole pratique des hautes études(実践高等学院), 課程はanthropologie sociale(社会人類学課程)。
前回の投稿で学生証入手の際にかいくぐった「口頭試問」で渡された、学院ポスターの写真を掲載する。これは試験官が「この中から選べる」と指し示しながら手渡され、50年をも大事に取っておいたモノだ。学院に所属する課程とその内容が紹介されている。社会人類、地理、心理分析、経済、歴史…ざっと100を優に越す専門課程が並んでいる。

ソルボンヌ実践高等学院のポスター1968~69年

日本の学制に喩えれば学院は文学・経済学部(こういう組織があるとして)に近い。一の学部が100を越す教授と課程を有するとなる。日本で最大の「学部」がいずれかを私は知らないが、これほど多数の専門課程を抱える組織は無いかと思う。

とっさに筆頭にあるanthropologie socialeを私は選んだ。試験官は「une bonne selection良い選択だ」と褒め、連絡先の住所を書き渡してくれた。
anthropologie…がなぜ部の第一の行を占めていたかとはその時、詮索しなかった(科としてはantho…préhistoireの後で2番目)。きっと重要な課程だから初めと、いつもの安請け合い思考で考えただけ。それなら講座も充実しているだろう。教授(professeur)の名にC.Lévi-Straussがしっかりと書かれている。これならば同期となる学生にも俊才が揃うはずだ、早合点の期待に胸がふくらんだ。
しかし筆頭の位置はアルファベットの順、anthro…は必ずgéolo、やsociolo…よりも先に来る。始めにAが来る、Angolaが五輪の入場で最初となる、それだけの価値です。さらに試験官の「良い選択」の意味を、どうも取り違えていたようだ。Lévi-Straussの高名はパリに広まっていた。しかしそれと学生が学位の後の就業に有利かどうかは別の話となる。
そもそもフランス人が人を褒めるときには裏があると気づくべきだった。

ではこの褒めの裏とは、
日本は高度成長の時期なので当時すでに、人手不足が始まって学士を取る(筈の)ゴロ学生にしても職に就けた。フランスはそうした環境には無かった。就業を目的とすれば文系ならば経済、政治、国際など。これら売れ行きの良い部門は他の機関(例えば高等師範学校、政治学院など)が占めている。
ソルボンヌに学籍申請する時点で教育界を目指す以外、一般会社への就業に苦労する事になる。それでも苦労なしの御仁とは強力なコネを使えば、就職できる恵まれた方となります。ちなみにフランスはコネがなければ、まともに生きて行くには難しい社会です。

試験官の言葉の裏に戻ろう。
「その課程は人気がないから、お前でも登録できる」
「実利と関係がないから学ぶ喜びみたいなモノは叶えられる」
「他の選択がない場合にはまともだ…」
の裏押しが籠められていたと知るべきだった。
本来は100を越す課程の一つ一つを検分して、優先を決めそれぞれの事務局を訪ねて登録可能かを確かめるべきだった。他の教授課程とは;

レヴィストロース講座の紹介

Condominas(民族学ベトナム高地人の研究)
Malaurie(民族歴史極北民族調査)
LeGoff(歴史書多い)
Barthes(意味論)
Balandier(アフリカ、ドゴン族)
50年後に(渡来部が)調べなおしたが、当時の社会科学系で今にしても名を残す泰斗の名がいくつも読める。

バルトの意味論社会学講座。

その年5月の学生騒乱の影響はなかったが、この年に限って学生の全員と教職員一部による対話(colloque)集会が開催された。騒乱の原因は「学生の不満にあり」とした当局(きっと文部省)の差し金で相互理解を深めるが目的だった。私も呼ばれた。続く

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50年前の留学、レヴィストロースとルロワグーラン 1

2020年01月14日 | 小説
部族民通信の創始者、渡来部須万男氏からの投稿です。

拡大は下に

私はある新聞社が主催する学生を対象とした留学制度に合格し、1968~70年をパリ大学文学部に籍を置いた。68年5月いわゆる5月革命が勃発したが、私達(5人)がパリ(オルリー空港)に到着したのは9月の半ばで、学生争乱は既に納まっており、その跡形も窺えなかった。路上で騒動を起こした多くの学生も、夏休みをはさんでの新学期で、あれらの行動をすっかり忘れたと思えた。
10月になっての月曜日、学部編入の手続きに入った。出発前に在日大使館から必要書式を得て、仏国のバカロレア合格者同等の資格と遇されたので、編入に難しい処はないはずだったと聞いていた。
しかし;
事務所はJustice(パリ裁判所)の近くにあった。小さなドアを開けると人いきれが充満する混雑。「正規」の入学ではない海外県旧植民地からの希望者など「外国人学生」を審査する事務所のようだ。その看板の眺めると
Accuil des Etudiants Etrangers
海外学生受け入れ機関 とあった。その上にはMinistère de l’éducation nationale 文部省の直轄である。


窓口で学生ヴィザと(国内)大学在籍証明、それと日本の仏語学校の単位証明書を提示した。すると受付女性が小首をかしげ「奥に入れ」との支持、小さな室に入ってしばし待つ。事務官らしき中年が入ってきて、いろいろな質問を投げてきた。なぜ「民族学」を学びたいのか、その学の素養はあるのか、フランス人の学者学説など知るかなどだった。しかしこの対話は学の素養を確かめるなどではなく、字が読めるのか会話が維持できるかの口頭試問だった。学部に入って講義について行けるのかを確かめたようだ。
それもそのはず、院生には国家留学制度がある。しかし学生の身分で「学部」に編入するなどは珍しい。ぶっつけ本番で無事この関門を突破できた。

その時、質問に的確な答えを出せなかったり、対話の様がつたなかったりであったなら、学部への編入は敵わなかった筈だ。
ちなみに、同期に留学した方々にしても、私費で留学する多くの方が「文明講座」に入る。この講座は言ってみれば「外国人」向けの授業で、フランス文明全般を教える(らしい)。フランス語を学んだ期間の少ない私には、そうした一般教養は不要。今すぐにも知りたいコトを学ぶ、この意気で学部に入りたかった故の申請だから「文明講座」は問題外だった。

第一文学部とは「ソルボンヌ」である。しかし学生騒動の余波なのか、前からの準備なのか走らないが68年の学期からこの言い回しは(あまり)用いられなくなった。第一は旧称ソルボンヌ、ナンテールを第二文学部とした。

口頭試問に戻る、試験官のウケが良かったせいからか、試問の採点結果を書式にしてくれた。(写真)そして、極東の島国から来てちょっとばっかりフランス語が話せる若者に貴重な情報をくれてやる気になったのか、
「et alors、ついでに」専攻講座を紹介してくれた。「お前にはそれが向いているぞ、学部の階段教室で講座を聴いていても面白くなかろう」とも付け加えた。(vousを遣ったから、あなたにはが正しい)
それが;
1 実践社会学高等研究所=Ecole pratique des hautes études de l’anthroplogie sociale
(EPRAS)
もう一つが
2 人類学博物館付属講座
であった。

裏話であるが、1は構造主義の旗頭レヴィストロースの肝いりで、弟子筋にあたるJean Pouillonが部門長となっていた。Pouillonが講義を持つことは(私が受けられる講座に関しては)ないが、時たま出会うときには挨拶が交わせるほどの近さにはあった。
2は民族歴史学のLeRoi-Gourhanが主宰するソルボンヌに直結していた。

学説の主導、学派の首魁、二人の重鎮。決して仲が良好とは言えない。いずれかの講義を選ぶとは、その説を学ぶことであり、それがその学生の思考形態の基本となるのだから、一の側に学ぶ学生を別の側は受け入れない。これは当然である。しかしなんと私は両方に応募した。
いずれも開講の前に口頭試問を受けるハメになるのだが、その時絶対的効果を発揮したのが試問の「合格証」であった。

学部およびコレージュドフランスでの受講能力を証明するとある。名前はこちらで線を入れた。

続く

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