蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 8

2018年06月28日 | 小説
(6月28日)

南米先住民が自然をどう捉えているか。
動物界(自然)との接触において、矢を宙に放ち「偶然aleatoireを装う」狩の技法を前回に紹介した。これこそ、自然を崇拝しその秩序体系を乱さないとの思想を前回は紹介したである。崇拝、畏怖、この感情を掘り下げるため、神話「人殺し鳥」(l’oiseau meurtrier M226、Kraho族)を取りあげます。Kraho族はジェ語族に属しアマゾンの東、パルナイバ川の流域に住む(住んでいた) 。
あらすじ;人殺し鳥から逃れるため人々は空に戻った。しかし兄弟のKengunan、Akrey少年は地に残った。二人は鳥征伐を決め、修行に励んだ。Kengunanはあらゆる動物に化ける魔術を修得するまでに至った。二人のため、祖父は川面に退避小屋を作るなど応援した。
Apres un isolement prolonge, ils reapparaissent grands et forts, tandis que leur grand-pere celebre les rites marquant la fin de la reclusion des jeunes gens.>> (103頁)
訳;しばらくの孤立を経て二人は大きく、強くなって現れた。二人の孤立生活の終わりを祝福する儀式を祖父があげた。
(成人initiation儀礼を通過した事を意味しています。Initiationは数ヶ月続きます)

協力して2羽の人殺し鳥を征伐に至るのですが、犠牲も出た。兄弟の一人Akreyは疲れか、襲われたら避けるとの動作に遅れ、2羽目の鳥に殺されてしまう。さらに;
Les grands-parents restes seuls erraient sans but dans la savane.Arretes par une montagne ils decident de la contourner, l’homme par la droite, sa femme par sa gauche, et de se joindre de l’autre cote. Apeine se sont-ils separes, qu’ils se changent en fourmiliers. Des chasseurs tuent le veillard. Sa femme l’attend vainement, tout en pleurs. Finalement elle poursuit sa route et disparait>>(106頁)
訳;残された祖父母、孤立したままあてどなくサバンナをさ迷う。行く手を山に阻まれ、迂回しようと祖父は右回り、祖母は左回りをとり、頂の反対側で再会すると別れた。すぐに二人はアリクイに変身し、祖父は猟師に狩られ、祖母は連れ合いを待つも虚しく、道を引き返して行方知らずとなった。

解説:この前段に征伐の立役者Kengunanは逃避した同胞を捜しに旅に出る。村人と再会し、無事旧居に戻り、とある娘と結婚し平和に暮らすとあります。
兄弟間の明暗とも重なり、祖父母の零落ぶりが強調されている。自然に干渉した罰と受け止められる。
前回紹介した神話折れた矢で、主人公は動物の夜の行進を見せつけられる。個体差、種別に沿って小から大へと整然と列を組む自然界を、人(文化)が手を加えるのは罪である。人食い鳥は大きさ、種別からして自然、動物界の頂点である。それが跋扈するなら、その地から逃げれば、干渉は起こらない。自然に介入して成功したところで罰が控える。村人は空に戻った、正しい選択である。しかしそれでは人は地上に住めない。老人は通過儀礼initiationの進め方で、孫を鍛えあげ征伐を企画し、成功まで持ち込んで、当然に罰をうけた。

もう一席。
狂った猟師(M240 Tukuna族 le chasseur fou)
Tukunaはアマゾン支流のプトマヨとジャプラ川に挟まれた奥地に住む(住んでいた)。所属する言語は不明。
紐縄猟をもっぱらとする男。腕が悪いか運に尽きたか、他の猟師が大猟の日でも鳥の一羽もモノに出来ない。その日の獲物は一匹のツグミ(une grive)、男は怒って力ずくでウズラの嘴をあけて<<Il ouvrit de force le bec d’un oiseau , peta dedans et relacha la bestiole>>屁を放ってから鳥を逃がした。その夜から男は気が狂った。
Il parlait sans arret de serpents , de pluie, du cou du fourmiler , etc. Il disait a sa mere qu’il avit faim,et quand elle lui apportait de la nourriture il la refusait en affirmant qu’il avait a peine fini de manger>>


幾日も獲物なし、掛かったのがツグミ1羽。しかし怒ってはならぬ、静かにツグミを放し、己の腕にコケが生していないか確かめるのだった。写真はラルース辞典から、コオロギgrillonはオマケです。。

とどまりも無く喋りつづけた。蛇、雨、仕舞いにはアリクイの頸まで喋った。母親に腹が減ったと嘆き、母がなにがしかの食料を運んだら、たった今食べ終わったところだと皿を押し返した。
(脚注にアリクイには頸がない、胴体に頭が直接ついていると信じられているから、無い事を話題にした。狂った徴)
5日後に死んだ。カビが死体を覆い茸が生えてきてもしゃべりは止まらず、
Quand on vint pour le mettre en terre , il dit : si vous m’enterrez, les fourmis venimeuses vous attaqueront. Mais on en avait assez d’attendre.
埋葬の時にも、俺を埋める気だな、そうなったら毒蟻を差し向けるぞ、お前等を噛みつくぞと脅す。人々はもう十分に長く(埋葬)を待っていたのだからと埋めた。

身体にカビが生えても喋っているのだから男はまだ生きている。しかし一丁前の男として、猟師として役はもう果たせない。それが先住民には「死ぬ」と判定される。日本語では「彼はもう死んだ(=も同然)」比喩で生き死を語る。この死生観は西洋医学のそれとは異なります。この神話は自然を侮辱した男の死に様とはこんなモノだと知らしめる点にあります。ウズラ一羽では狩にならないのなら、屁を放たず自然に帰せばよいので、屁の一発が冒涜です。
レヴィストロースは男の死体(cadavre)を覆うカビは、折れた矢の神話にも取りあげられ、それが狩を失敗させる人のintrinseque(内包する)真実だと気付かせて、男に拭わせた。しかしこちらの神話ではカビの覆うに任せ、喋る死体を埋葬した。
自然との付き合い方の差です。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 8 の了
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神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 7 

2018年06月27日 | 小説
(6月27日)

矢を獲物に向けず宙に放つ。この狩猟技術はM238(折れた矢)の前の神話(M237Abadaの物語=histoire d’Abada)でも語られる。主人公の若者Adabaはカエルの化身。若者Simoが蜂の化身、折れた矢神話に出てくる指南役がカエルの化身で女性。その中間を占める変奏曲です。要約は;
兄たちの狩ははかばかしくない。娘が月の障りで一人狩小屋にとどまる。カエルの鳴きの「ワンワン」に「騒音を止めて、肉を持ってきてくれたら」と娘が返事した。するとAdabaが獲物を携えて現れた。そこに狩から戻った兄達、昨日同様に手ぶら。Adabaは木の間に釣り糸を張ってくれと娘に頼み「あの糸を狙って」と兄達にけしかける。3人とも寸分違わず真ん中に矢を通し糸はプツリと切れた。並はずれた腕前を持っている、しかし狩は成功しない。
翌日、共に狩に出てAdabaの「矢を宙に放ち獲物の背に落とす」技法<<Adaba chassait d’une curieuse facon, il tirait sa fleche vers le ciel, elle se planter dans le dos du gibier>>を目の前にして驚くも早速取り入れて、兄達の坊主戻り(獲物無しla bredouille)が途絶えた。

宙に放たれた矢は上昇し引力に引き戻され、放物弧を描いて地に落ちる。そこに的が置かれるならば、命中。こうした弓箭の技法は遠方の標的を狙うに、世界、多くの地で見られる。弓矢による狩猟をもっぱらとしていたボロロ族の手練れ振りをレヴィストロースが、本書で紹介している。径が1メートルに満たない円を地に描いて、数歩退く。弓弦をいっぱいに引き絞り垂直に矢を放つ。矢は数十メートルの高みを凌いで目の前、地の円の中心に落ちた。ボロロ族に限らず南米先住民は、獲物に接近したうえで矢を宙に放つのである。
幾つかの説明が寄せられる。例えば上空から落ちる矢はエネルギー量が勝り、大型獣を一矢で仕留められる。あるいは己に向かう矢は獲物に気付かれてしまう。動物反応的、瞬時に避けられ、当たらないなどである。矢の運動機能を主点にした物性論と言えよう。
レヴィストロースは、放物弧たる物性に隠れる思想を論じる。以下に彼の分析を解説する(Du miel aux cendres主として148頁)。
神話、Maba(蜜の精)から折れた矢までは主題の提示と3の変奏曲である。これら神話が人性と物性で3軸の対向(opposition)を表している。それを1)un personage et le nom q’il porte 2)un individu et une chose qu’il ne suporte pas 3)deux individus qu’ils ne se supportent reciproquement pas>>(148頁)と伝える。さらに出会いの大原則、偶然系と秩序系の対立が(l’oppsition entre systeme ordonne et systeme aleatoire)3軸に重なるのだと続ける。分かり難いから解説する;
1) は名前と作中登場人物の人性(personage=これは彼が神話論で言うpropriete特性と同等である。人とは限らない)の対峙関係。この関係は両立する。例としてMabaとは蜜、名の通り蜜と共生している。Simoは蜂の若者。働き者で婿の義務prestationを潤沢に運んでくるとは、蜜蜂だから。
2) 作中人性とモノには両立しない関係がある。Simoに義理の妹が水を掛けた。これは気を引く為の遊びに過ぎないし、bigamie(姉妹婚)を起因させる文化行為であったが、水とSimoは両立しなかった。Mabaにしても宴席で発せられた己の名(これはモノ)と己の身の置き場は両立しなかった。
3) 作中人性2者の関係が両立しない対峙。(神話折れた矢)食うか食われるか、巨木回りの追いかけで、追ってきたジャガーに追いついて後ろから捕らえた男。人とジャガー(deux individus)の関係は本来的に両立しない。
上の説明は神話構成を場面(sequence)として解説したのだが、その思想展開(code)に迫らないと構造主義ではない。レヴィストロースが伝える1)~3)の思想とは。

1)は個体と人性が自然のままに存在する。それはintrinseque(=内在本質、思想と協和する存在)で両立する。
しかし2)3)が不協和に陥る宿命(fatalite)なのは、対極(polaire)にあるからだとレヴィストロースは主張する。この対極polaireを「自然対文化」と訳せば理解につながる。出自が異なるならば両立しない、自然と文化は融和しないし同盟(婚姻関係)にあってはならない。両者の分断が (宇宙の)システムなのだ、この状態をsysteme ordonne秩序ある分断としよう。
本来、自然と文化の接触はあってはならない。しかしそれ、出会いと融和、婚姻は一時にせよ発生するのだ。自然文化が融和する例外状況を担保するのがsysteme aleatoire (意味としてはイチかバチかに近いが、偶然性とします)
投稿子は前々回で自然側が文化にしかける融和を語った。しかし企んだ出会いは建前としての偶然aleatoireに隠されている。Mabaが夫となる男に裸身を曝したのは「Maba(蜜)よと呼びかけたから出てきたのよ」とMabaに言わしめた。Adaba(カエルの若者)も「肉が欲しいと言っただろう」同様の状況下だった。たとえ名目だとしてもaleatoireの出会いならば、共生は成立するのである。


写真:ヤノマミ族は狩りの名手。ネットから取得。

狩人が狙いすまして獲物に直接、矢を射かけたらこれが自然と文化の直接対決。小から大へ、種から種へと連続する動物界の整然(神話折れた矢で主人公が夜の行進として見せつけられた動物自然の連続性)を乱したとして狩人は罪を負う。しかし矢の行く先を宙にして、落ちた矢先に動物がいるのだったら、実際は名目にすぎないが、偶然aleatoireであるとして狩人は罪を問われない。Warrau族の思考の根底にある連続、分断の自然観文化であります。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 7 の了次回は6月29日を予定
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神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 6

2018年06月25日 | 小説
(6月25日)

文化(culture) とは人、自然(nature)は畢竟、動物界であろう。この二者はかつて融和し同盟(allience婚姻)を結んだ。自然からの動きとは、誠実な男にMaba(蜂蜜の精)を妻として与え、美しい娘にSimo(蜜蜂の化身、狩の名手)が言い寄った。しかし同盟は瓦解した、すべては人側の失策であった。伝えてはならない本名Mabaをうっかり洩らした夫、止めてくれと乞う遊びの掛け水を被り身を焼いたSimo。
ふんだんに用意されていた蜜酒と肉、近隣を呼んで夕餉の酒盛り、食卓のあの時の様をレヴィストロースは黄金時代(age d’or)の追憶と形容した。(以上がこれまでの内容)
手が届かなくなった自然を人は今、どの様に受け止めるのか。Du miel aux cendres 蜜から灰へに戻る。

神話番号M238 Warrau族(現在のギアナに居住していた)折れた矢(fleche brisee)
前段のあらすじ;3人兄弟の末弟は狩が下手、兄二人が毎回、獲物を肩に意気揚々と帰るが、彼はいつも獲物無し。お荷物の弟を兄達はジャガーの森に置き去りにする。そして森の怪物と出会ってしまった。
A la vue du monstre l’Indien prit la fuite, le jaguar le pouchasseit et ils se mirent tous les deaux en courant autour d’un arbre enorme>>(144頁)
訳;ジャガーを目にしたその男、慌てて逃げたもののジャガーは追いかけた。いつのまにか巨大な樹の周囲、ぐるぐる回りの二人に果てた>>
狩は下手だが逃げ足が速い、追われる男が追うジャガーに追いついて、後ろ足ひかがみ(jarrets)を切り裂いてジャガー成敗に成功した。男の勇敢さが村中に知れ渡り嫁を貰えるまでになった。ジャガー仕留めの手順はかく編みだしたが、それでも男は満足しない。すべての獣を狩る秘訣を探りたい(Mais l’homme voulait etre consacre grand chasseur de toutes les autres especes d’animaux)
Wau-uta(カエル)にその秘訣を伝授して貰おうとそれが棲む木の前で一晩泣いて懇願した。
許されて登った樹上から見下ろす草むら動物が通り抜ける。
Une troupe d’oiseax apparut, ranges par ordre de taille , de petit au plus grand. L’un apres l’autre ils picoterent ses pieds a coups de bec pour le rendre habile a la chasse. Apres les oiseaux vinrent les rats par ordere de taille, suivs par acouri, le peca, le cervide, le cochon sauvage>>
拙訳;鳥の一群が見えた、小鳥、中くらい、大鳥の大きさに順に目下に行列する。嘴で足元を突きうろつく姿勢から易しく狩りとれる姿を見せていた。鳥の後にネズミ、同じく小さいモノから大きな個体へ順に行進。続いてacouri(ネズミ属?)、paca天竺ネズミ、鹿属, 野豚と続いた>>
挿入の絵はジャガー、レヴィストロースの著作Lecruetlecuitから。

行進は続く、大蛇を最後に夜が明けた。すると見知らぬ風体が男に近づいた。Wau-utaだった。一本の矢を手にしている。それは見たこともない奇妙な形状だった。
Wau-utaはRegarde plutot ton bras, deepuis l’apule jusqu’a main.>>まずはお前の腕、肩から手までを見てご覧と命じた。男が何気なく見ると苔が密集していた。L’homme recla toute la moissiture, car c’etait la cause de sa malchance.男は「それが失敗の原因」と指摘されぬぐい取った。原因はもう一つあった。男の持つ矢は矢軸が壊れているからだった。Wau-utaは己の矢との交換を命じた。そして、
Dorenant, il lui suffirait de tirer en air n’importe ou. L’Indian s’apercut sa fleche atteigait toujours quelque gibier>>(145頁)
拙訳:男は空に向かって矢を放つだけでよいとのWau-utaの説明通りで、以降、矢を放てば必ず獲物に当たった。

この筋には色々と疑念が湧く。投稿子は幾度か読み返してそれらの解を考えた。
なぜカエルに狩の伝授を願うのか。これは易しい、Warrau族の信心ではカエルは動物界の長である。その長が許せば成功は疑いない。
なぜ、動物の行進が小さい種から始まり、種のなかでも小さい個体からより大きなものへ、そして最も大きな蛇で終わったのか、行進中に鳥のついばみに同期するのか、それぞれの動物が警戒を解き、餌探しに夢中になっている無防備の行動を見せた。狩人には正に好機の姿勢である。
この解、Wu-utaが男に見せたのは動物界の秩序である。それは連続(小から大へ)、規則(種族)、調和(無警戒のゆとり)に特徴づけられる。
なぜ腕に苔がむしていたのか。常に苔がむしている、それを男がしらないだけで、Wau-utaに指摘されたこの場で男は気づいた。矢軸の破損が幾箇所か、それも男はしらなかった。すなわちaprioriにもposterioriにも人は狩が下手なのである。Aprioriとは弓を引こうにも鈍る腕。鈍りに原因にも気付かない感性。そして入念に制作したところで、狩の道具には瑕疵が至る所にある。それを識別して修正する能力を持ち合わせない、これがposterioriの不能である。
カエル特製の自然界公認の矢を持つに至った男。
目に見える獲物に狙いを定めて矢を飛ばす、いわばこれが人の技術で、男の今までのやり方。ここには問題がある。もしそれで、一匹の獣が刈り取られたら、小から大へと隙間見せずに揃う自然の調和を、人がかき乱すことになる。
そして狙わずに空に放った矢が地に落ちる、その場に獣がいたならば、それは自然の都合である。その獣の代替は即用意されるか、いずれにせよ人に罪は生じない。
これがWau-utaの人に教えた最大の秘訣である。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 6 の了次回は6月28日を予定
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神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 5

2018年06月21日 | 小説

6月21日)

Maba(蜜の精)とfiancee de bois(木の婚約者)の2の神話を取りあげ、自然(nature)
と文化(culture)の交流と断絶の様を本投稿の2~4で見てきました。この章「カエルの饗宴」は変奏曲スタイルをとっています。Maba神話を第1主題として1,2,3の変奏を取りあげています。木の婚約者は第2主題(変奏曲4,5,6)の扱いです。
Maba神話の主題は「蜂、女性」で、その変奏の1がSimo神話(Warrau族)これは「蜂男性」を主題に替えて、メロディ(的な語り口)も音調が変わる。それ以下2変奏Adabaは「男性のカエル」、3での「Wauuta」は女性のカエルとなります。

写真1 本家の作成した自然と文化の断絶の表。最下の項(conjonction+/disjonction-がすべてマイナス)に注目ください。

主題のメロディ基調とは「自然と文化はかつて同盟の関係にあった」と当投稿(2~4)で指摘している。御大レヴィストロースはどの様にそれを解説しているか。第3変奏の演奏にさしかかって(147頁)に興味深い表を載せています(写真の1)。これはメロディの「音素分解」的解説となりますか、なぜ自然と文化は断絶したのか、その解説の表です。まさに短調、文化の葬送行進曲だと耳を傾けたら理解が深まります。
そのレヴィストロースの本元の表を投稿子なりに解釈し、一部は勝手ながら変更して手書き表にしました(写真2)。

写真2 投稿子が改編した表。本家の主旨は変えないから 4)はすべてがー、すなわち自然と文化は断絶。

写真2の読み解きに入ります。
上の神話番号は連番です。レヴィストロースの整理手法の整合性が理解できます。その下Maba,Simoなどは主人公の名称です。
主題のMabaは2回目に詳しいのでとばして、
第1変奏曲。番号(M235、Simoはオスの蜂);第2回(6月12日)であらすじは紹介したので、Simoと娘の出会いを引用します。娘が家族から離れ一人となる頃合いを狙っていたSimoが娘に同衾を迫る場面;
En depit du soin qu’elle prit de l’avertir de sa condition de la resistance qu’elle lui opposa, mais le garcon eut le dernier mot, et il s’installa aupres d’elle en protestant de la purete de ses intentions. Certes, il l’aimait depuis lontemps.(Du miel auz cendres 135頁)
拙訳;(たとえ同衾にしても)同意を見せずに抵抗する娘、その理由「私の身体は汚れている」をとつと告げる気の配り。それにも関わらず、少年は娘の脇に座り込んで、意図の純真さを隠さずに、心の奥には密か、しまい込んだ最後の言葉を伝える。前々からお前を愛していたのだ。

美しい場面です。日本のどこか、東京でも青森県でも人目を避けての片隅、うぶな少年と少女が俯いて頬を赤くして、こんな会話が交わしている。
さて、女は火を熾して肉を焼く。そこに兄たちが帰ってきた。狩旅行に出て以来、来る日も来る日も獣は狩れない、すなわち坊主(狩や漁で獲物無しを伝える、フランス語でbredouille)。落胆の歩みは重いけれど、近づくテントからなぜか煙りが立ち上り、脂の爆ぜる音、焼き焦げる肉の燻りに鼻がうずき、思わず足を早めた。見知らぬ若者が火の前、妹の脇に立っていた。

Simoは喰いきれない数の獲物を担いで帰っては兄たちに提供する(これがprestation、婿候補(prenneur)が、娘を与える側(donneur)へ提供する義務)。帰村までには村人全員に行き渡る量を確保した。Simoは婿として認められ、結婚にいたる。そのSimoが自然に戻ってしまった経緯は;
義理の妹二人がSimoに関心を抱く。沐浴する皆の横で川岸にとどまり子を抱くSimoに、二人が水を掛ける。Simoは「身が焼ける、焼ける」と叫んで空に消えた。最後の部分を原文は;Un jour qu’il se tenait sure le ravage avec le bebe dans le bras pendant que les trois femmes se baignaient, les belles-soeur reussirent a le mouiller.。Aussito il s`ecria << je brule! je brulle!>>(156頁)

解説:水を掛けられた蜂は飛び立ち逃げる。義理の妹達に前もって「水を掛けないでくれ」Simoの懇願を「気を惹くため、正反対の願いを洩らしたのよ」と妹たちが勘違いし、ふざけて水を掛けた。女が男に水を掛けるのは愛を受け入れるとの表現。それにしても何故、妹なのか。婿のprestationが標準とされる要求(野豚の数、標準はおおまかに月に一匹、子豚なら3匹と聞く)を越す働き場合、donneur(義理の兄)は手持ちの妹をさらに上げる。沢山豚を狩ればうれしいボーナスが貰える。Simo神話Warrau族ならず南米先住民の規則(文化)である。しかしSimoは自然児だった。
兄達は「残り妹二人を遣るにたる仕事をしている」決めたし、妹達もその気になっているから沐浴が好機「私たちぞっこんよ」水を掛けた。
Simoは義理の兄に狩の仕方を伝授していた。逃避でSimoのprestation豚肉も、彼らの狩も奮わなくなった。自然との同盟は破棄されて文化が肉を失った。
破棄の原因が約束破りである。Mabaとの約束は言葉の禁忌(本名を言ってはならぬ)、Simoとの約束は物に関わる実質の禁忌、水掛がダメだった。

以上が基礎知識、さて写真の表を解読する。
Maba神話の第1変奏曲は235。主題が蜜の精(女)から蜜蜂オスに変化した。出会いは自然から、企て(娘と一緒になりたい)が潜んだから+、約束破りは実体(水)で+、失いは同盟関係と肉なので+、最後4)の継続か断絶とは、自然と文化の融和は継続せず、もうかつての黄金時代age d’or(ふんだんに肉が食えた)は戻らない、故に-。
どの様な状況で出会っても、たとえ融和があったとしても、自然と文化は同盟(allience)を維持できない。必ず断絶に陥る。4)の項のすべてが-の意味です。
次回で237と238を解説します。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 5 の了
(次回投稿は6月25日 予定)





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神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 5

2018年06月21日 | 小説
(6月21日)

Maba(蜜の精)とfiancee de bois(木の婚約者)の2の神話を取りあげ、自然(nature)
と文化(culture)の交流と断絶の様を本投稿の2~4で見てきました。この章「カエルの饗宴」は変奏曲スタイルをとっています。Maba神話を第1主題として1,2,3の変奏を取りあげています。木の婚約者は第2主題(変奏曲4,5,6)の扱いです。
Maba神話の主題は「蜂、女性」で、その変奏の1がSimo神話(Warrau族)これは「蜂男性」を主題に替えて、メロディ(的な語り口)も音調が変わる。それ以下2変奏Adabaは「男性のカエル」、3での「Wauuta」は女性のカエルとなります。

写真1 本家の作成した自然と文化の断絶の表。最下の項(conjonction+/disjonction-がすべてマイナス)に注目ください。

主題のメロディ基調とは「自然と文化はかつて同盟の関係にあった」と当投稿(2~4)で指摘している。御大レヴィストロースはどの様にそれを解説しているか。第3変奏の演奏にさしかかって(147頁)に興味深い表を載せています(写真の1)。これはメロディの「音素分解」的解説となりますか、なぜ自然と文化は断絶したのか、その解説の表です。まさに短調、文化の葬送行進曲だと耳を傾けたら理解が深まります。
そのレヴィストロースの本元の表を投稿子なりに解釈し、一部は勝手ながら変更して手書き表にしました(写真2)。

写真2 投稿子が改編した表。本家の主旨は変えないから 4)はすべてがー、すなわち自然と文化は断絶。

写真2の読み解きに入ります。
上の神話番号は連番です。レヴィストロースの整理手法の整合性が理解できます。その下Maba,Simoなどは主人公の名称です。
主題のMabaは2回目に詳しいのでとばして、
第1変奏曲。番号(M235、Simoはオスの蜂);第2回(6月12日)であらすじは紹介したので、Simoと娘の出会いを引用します。娘が家族から離れ一人となる頃合いを狙っていたSimoが娘に同衾を迫る場面;
En depit du soin qu’elle prit de l’avertir de sa condition de la resistance qu’elle lui opposa, mais le garcon eut le dernier mot, et il s’installa aupres d’elle en protestant de la purete de ses intentions. Certes, il l’aimait depuis lontemps.(Du miel auz cendres 135頁)
拙訳;(たとえ同衾にしても)同意を見せずに抵抗する娘、その理由「私の身体は汚れている」をとつと告げる気の配り。それにも関わらず、少年は娘の脇に座り込んで、意図の純真さを隠さずに、心の奥には密か、しまい込んだ最後の言葉を伝える。前々からお前を愛していたのだ。

美しい場面です。日本のどこか、東京でも青森県でも人目を避けての片隅、うぶな少年と少女が俯いて頬を赤くして、こんな会話が交わしている。
さて、女は火を熾して肉を焼く。そこに兄たちが帰ってきた。狩旅行に出て以来、来る日も来る日も獣は狩れない、すなわち坊主(狩や漁で獲物無しを伝える、フランス語でbredouille)。落胆の歩みは重いけれど、近づくテントからなぜか煙りが立ち上り、脂の爆ぜる音、焼き焦げる肉の燻りに鼻がうずき、思わず足を早めた。見知らぬ若者が火の前、妹の脇に立っていた。

Simoは喰いきれない数の獲物を担いで帰っては兄たちに提供する(これがprestation、婿候補(prenneur)が、娘を与える側(donneur)へ提供する義務)。帰村までには村人全員に行き渡る量を確保した。Simoは婿として認められ、結婚にいたる。そのSimoが自然に戻ってしまった経緯は;
義理の妹二人がSimoに関心を抱く。沐浴する皆の横で川岸にとどまり子を抱くSimoに、二人が水を掛ける。Simoは「身が焼ける、焼ける」と叫んで空に消えた。最後の部分を原文は;Un jour qu’il se tenait sure le ravage avec le bebe dans le bras pendant que les trois femmes se baignaient, les belles-soeur reussirent a le mouiller.。Aussito il s`ecria << je brule! je brulle!>>(156頁)

解説:水を掛けられた蜂は飛び立ち逃げる。義理の妹達に前もって「水を掛けないでくれ」Simoの懇願を「気を惹くため、正反対の願いを洩らしたのよ」と妹たちが勘違いし、ふざけて水を掛けた。女が男に水を掛けるのは愛を受け入れるとの表現。それにしても何故、妹なのか。婿のprestationが標準とされる要求(野豚の数、標準はおおまかに月に一匹、子豚なら3匹と聞く)を越す働き場合、donneur(義理の兄)は手持ちの妹をさらに上げる。沢山豚を狩ればうれしいボーナスが貰える。Simo神話Warrau族ならず南米先住民の規則(文化)である。しかしSimoは自然児だった。
兄達は「残り妹二人を遣るにたる仕事をしている」決めたし、妹達もその気になっているから沐浴が好機「私たちぞっこんよ」水を掛けた。
Simoは義理の兄に狩の仕方を伝授していた。逃避でSimoのprestation豚肉も、彼らの狩も奮わなくなった。自然との同盟は破棄されて文化が肉を失った。
破棄の原因が約束破りである。Mabaとの約束は言葉の禁忌(本名を言ってはならぬ)、Simoとの約束は物に関わる実質の禁忌、水掛がダメだった。

以上が基礎知識、さて写真の表を解読する。
Maba神話の第1変奏曲は235。主題が蜜の精(女)から蜜蜂オスに変化した。出会いは自然から、企て(娘と一緒になりたい)が潜んだから+、約束破りは実体(水)で+、失いは同盟関係と肉なので+、最後4)の継続か断絶とは、自然と文化の融和は継続せず、もうかつての黄金時代age d’or(ふんだんに肉が食えた)は戻らない、故に-。
どの様な状況で出会っても、たとえ融和があったとしても、自然と文化は同盟(allience)を維持できない。必ず断絶に陥る。4)の項のすべてが-の意味です。
次回で237と238を解説します。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 5 の了
(次回投稿は6月25日 予定)


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エリュアールの詩、ユゴーの挿し絵 2

2018年06月19日 | 小説
(2018年6月19日)
ガリマール社Pleiade(スバル)叢書エリュアール全集からMedieuses(メディアの女達)を紹介しています。

写真はネットから取得、肖像権の違反があれば指摘ください。

掲載一枚目の写真をご覧ください。後列中央にピカソが腕組みしています。背景の壁にキュービズムの絵画がかけられている。彼の個展会場に訪問した友人達との集合写真と思われる。それら人物が凄い。
後列左端にラカン(哲学者Jaques Lacan),一人女性を置いてカミュ(異邦人の作家、Albert Camus),女性を置いてピカソ、その背後に飾り帽を付けた女性は、撮影された経緯からして(おそらく)ピカソ同伴者のジロー(Francoise Jilot)かと思える。その横、スカーフ姿がValentine Hugoである。その右がボーボワール(Simone de Beauvoir),
前列左端にサルトル(Jean-Paul Sartre)中央がブルトン(Andre Breton)その右がValentineの夫君Jean Hugoである。幾人かは特定できないのだが、この写真には戦後フランスの思想、芸術のエッセンスが凝縮されている。哲学としての構造主義、一世を風靡した文学、実存主義、不条理、シュールレアリズム、キュービズム。それら旗手の勢揃い、圧倒感には投稿子(蕃神)ならずも、読者も震えを覚えるか。
Valentine Hugo活動の時期と舞台背景が一目にできる写真である。
撮影年の特定は1950年初頭(あるいは1940年代の後半)、これはサルトルとラカンの顔つき表情の若さからの推測で、また飾り帽の女性がJilotであるとの前提から。Jilotとピカソの破局が1953年とWikiにでていた。

Valentineに戻る。旧姓はGross、文豪Victor Hugoの曾孫、Jean (作曲家と伝わる)との結婚でHugoと名乗る。これだけでHugoとの血縁はないと判断するのは早計である。なぜならフランスのみならずイギリス、ヨーロッパの上流階層は「交差イトコ婚」を好み、頻繁に実行していた。文学作品ではJideの狭き門の主人公(AlissaとJerome)はイトコ同士で、両家族も二人を結婚へと後押ししていた。うまく進んでないとみて「姉が気に入らないなら妹Julietteもいるから、こっちにしたら」なんて助言まで飛び出す。
故に、Gross家にHugoの血が流れていたらJeanとValentineはVictorを曾祖父に持つイトコ(cousins germains)であるかも知れない。結婚してもGross-Hugoと名乗らず、Hugoのみを自称したValentineの背景がそこにあるかも知れない。さらに写真をご覧あれ、スカーフからのぞくValentineと前列にしゃがむJeanは確かに似ている。Google,Wikiでの調べではイトコ婚云々は確認できなかった。

エリュアール詩集メディアの女達(medieuses)第二作を紹介する


Medieuses Ⅰ
Elle va s’eveiller d’un reve noir et bleu
Elle va se lever de la nuit grise et mauve
Sa jambe est lisse et son pied nu
Au son d’un chant premedite
Tout son corps pave de pluie arme de parfums tendres
Demele le fuseau matinal de sa vie

拙訳;漆黒に群青の重なり、夢から女は目覚める
夜のしじまが紫と灰、そして起き上がる
つややか脚 剥き出し足首
ほら、歌声が聞こえただろう
ときめきくまでの輝きを受けながら
濡れきった甘酸っぱいその身体の
朝の息吹に解き放たれる子午線が今だ

Bleuを青と訳しても面白くないので群青(ラピスラズリ色)とした。Mauveは葵色、紫らしい。Fuseauが分からなかった。第一義は紡績の錘、朝の錘は意味を成さない。辞書に尋ねると「24 fuseaux spheriques imaginaires a la surface du globe avec les poles pour extremites」(grand robert)とあった。地球を等分に24の経度で区分けする、その一つ一つで(国際)標準時間帯と訳せる(らしい)。しかし標準の経度の位置で時間を分割しようと、実際は国家の都合が優先するから、でっこみひっこみはあるので、用語の意味自体が実体を成していない。「時間」の言い換え用法もある(らしい)が、天空上の架空線の誤訳を承知、格好付けもあって、「子午線」を持ち出した。
読者にはさらなる秀逸訳を期待します。

エリュアールの詩、ユゴーの挿し絵 2 の了
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神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 4

2018年06月18日 | 小説
(6月18日)

南米先住民の神話を収集し分析を試みる「蜜から灰へ Du miel aux cendres」筆者は構造主義の創始、クロード・レヴィストロースです。構成は第一回投稿(6月11日)にあります。第2章カエルの饗宴(le festin de la grenouille)を取りあげています。自然と文化の融和、同盟の試みと苦闘。かならず断絶へと向かう宿命。文化である食物と蜜を得るに人が、かくも苦労する理由は、かつて自然に見放されたからと嘆き、それがこの章のテーマであります。
これまで(3回の投稿)で出会いと融和、不調和をまとめました。では断絶、分離はどの様に描かれるか。
神話番号M259、Warrau族神話の木の婚約者la fiancée de bois に戻ります。


写真:Fiancee de bois ならぬ能面小面 

婚約者の閉鎖された膣も開通させてYar(太陽神)とUsi-du(木の婚約者の名前)は互いの愛を確かめられた。老人Nahakoboniは婚約期間(膣の閉鎖)がYarの機転でかってに短縮され、嫌がらせを続けたが、
Ayant acheve de construire une cabane pour son beau-pere en depit des malefices du vieillard, il put enfin se soncsacer a son foyer et, pendant longtemps, sa femme et lui vecurent tres heureux>>
小屋を建てやるなどで老人に報い、Yarも新しい家庭に過ごせる事となった。二人は末永く睦みあい暮らします。
この結末は自然文化の同盟の成功を謳うばかりですが、神話は次章に続き、幸せが一転します。
Un jour, Yar decida de partir en voyage vers l’ouest. Comme Usi-du etait enceinte, il lui conseilla de faire des petites etapes. Elle n’aurait qu’suivre ses traces en ayant soin de prendre toujours adroite>>
拙訳;Yarはある日、西を目指すと旅に出た。Usi-duは妊娠していたので、少しづつ歩みを進めよと彼女に忠告しました。彼女はともかく注意深く、常にまっすぐに、Yarの足跡をたどるしかなかった。

Prestationに労力を費やしやっとの事で手に入れた嫁、その腹には己の子を宿すその時になって太陽神Yarは出奔します。この理由についての記述はありません。
特別な理由もなく旅に出る記述は他にも幾つか拾えます。番号が近いところで、
M241 Warrau族 Haburi物語(152頁)。Haburiは自然と文化の同盟で生まれた。母と共に逃避行しカエルに拾われた。カエルは魔術でHaburiを一夜で成人に変身させ愛人とした。経緯を知ったHaburiは母と伯母を引きつれて旅たちます。

実松克義著の「アマゾン文明の研究」(現代書館)の一節を紹介します。
「Tupi-Guarani語族文化の仲に理想の土地を求めて旅をするという独特の思想が存在する事が知られている。悪なき土地と呼ばれ山の彼方に存在した=中略=1000~13000人が居住地を捨てて西に向かい、ペルーアマゾンの源流まで足を運んだ(1534~1549年)生き残ったのは300人であった。旅には必ず引率者がいた。身分的に自由な予言者(シャーマン)であったと言われている」

Warrau族はTupi-Guarani語族には入らないが、神話世界において密接な関連を持っている。Warrau族にも西方を「悪なき土地」浄土とする信仰が、かつてあったとしたら、Yarの突然の西行きが説明できる。舅とのいざこざに厭きたなどとの卑近な理由ではない。部族、村落のからめる何らかの事情があって、太陽神ならばおそらくは指導者としても無理はない。そして族民を引きつれての旅立ちがあったとの記憶にYarを重ねて、突然のYar旅立ちを神話の筋に盛り込んだのであろう。
その底流に、たとえYarと妻が仲良く暮らしたとして、自然と文化の融和はあり得ない。二人で過ごすそのことが不条理、この関係が世を汚すとの暗示。仲良く暮らせば暮らすほど、分断の可能性はたかまる。突然の出奔をこの信仰のあり方で説明できないだろうか。

さて、M259 にもどると;夫を追いかける妻は疲れ果て、カエルに拾われます。お礼にシラミとりの奉公の最中、人シラミと異なるとは知らずカエルの毒シラミを口にはさんで死にます。カエルは死体を開け双子の胎児を取り出し養子にする。

ここでも自然文化の融和は分断の結末となります。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 4 の了
(次回投稿は6月20日 予定)

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神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 3

2018年06月15日 | 小説
(2018年6月15日)

前回まで。
働きかけに応じ文化(culture)は自然(nature)との同盟(allience=婚姻)をうっかり結び、一時は、蜜酒(hydromel)肉、など文化(culture)につながる食材を、人がふんだんに口に出来た。自然の企ては惜しげなく人に文化(食物)を与えようとも窺えるし、自然は(蜂蜜の精Maba)邪に何かを為にするなどの悪ではない。しかし、この同盟は続かない。原因は人の約束破り、禁忌を犯したためである。自然に見捨てられ(allience、同盟関係の断絶)、以来、蜜も肉も獲得には額に汗をし、ひと碗の蜜を得る様に堕ちた。
罰(chatiment)を受けたのである。
これが失いperte。本書「蜜から灰へ」に掲載されている神話群の主題の一つです。レヴィストロースはテーマをして「前作の=生から調理=では社会組織を創成し、食物を獲得する手立ての創造神話。しかし本書は喪失の神話」と述べている。

断絶に関わる神話は続く。今回は同盟関係と分断をの神話の精神の2として取りあげる(前回の出会いの様が1);
木の(女)婚約者(fiancee de bois)は類型的である。同タイトルで7数えられる変容(transformation)から、代表神話としてM259 Warrau族(Carib族の支族)木の婚約者(182頁)を取りあげる。

写真:南米先住民の少女、ネットから取得。

要約;Nahakoboniとは大食い男を意味する。歳がいったが娘はいない。娘なしには婿が来ない、この先、老後を誰が養うのかとの怖れに取りつかれた。
プラムの木(固い)の幹から娘を彫った。出来栄えの良さとは少女の美しさ、近在に知れ渡り、結婚の申し込みは引きも切らない。Naha..は若者Yar(太陽神)が(出自から)眼鏡にかなった。早速、婚約の段取り。
婚約の男 (preneur de femme嫁取り) 側が娘家族(donneur de femme、嫁出し)側に提供する義務をprestationとレヴィストロースは規定する。この語を辞書 grand robertに温ねると封建領主への賦役、公共への夫役があげられのみで、「婿の無償労働」の意味はない。フランスにはこの慣習が無かった。日本には結納の風習が残るが、これは金銭価値の物を送るので、これとも異なる。嫁を貰う(prenerur)婿となる婚約者の労働供与である。その義務は食物、肉と蜂蜜の供給である。義務を越して絶対条件、有無を言わさぬ強制である。
Yarは舅Naha..に肉と蜜ををふんだんに供給し、無事結婚に至った。しかし;

Mais quand il veut prouver son amour il decouvre que c’est impossible. L’auteur de ses jours avait oublie un detail essentiel qu’il s’avoue maintenant incapable d’ajouter>>
訳:(初夜に)Yarは己の愛を確かめようとして、かなわぬと知った。その頃(ses jours)の木彫家(l’auteur)は些細ながら基本的部位の作成を忘れた。もう補修はかなわないと白状した。
注;レヴィストロースは突如「その頃の木彫作者」なるを持ち出した。あたかもN..老人が手練れ職人に「木の婚約者」を発注したかに言葉を並べるが、これは違う。木彫したのはNaha..老人で、忘れたのではなく恣意的にその部位を作成しなかった。文脈の「un detail essentiel些細ながら基本的」を入れなかったうえ、それが後付けは出来ない理由は;
部位は女の外性器で、N..老人は膣の欠落した(木造)娘をYar太陽神に押しつけた。その狙いはprestation=婿候補の義務を長引かせたい為に他ならない。
木彫家は(女性器を造成するなどの)卑属さは備えていない、原住民は奥ゆかしいと修辞的にレヴィストロースはほのめかす。こんな「的はずれコメント」をよく、さらりと流すが、これって哲人レヴィストロースの茶目っ気である。
投稿子は文章の洒脱さに悶えてしまう。

ままならないYarは
Yar consulte l’oiseau bunia; il lui promet son aide, se laisse prendre et cajoter par la demoiselle , et profite d’une occasion favorable pour percer l’ouverture manquante, don’t il faudra ensuite extraire un serpent qui s’y trouvait.
拙訳;Yarはbunia鳥(キツツキの一種)に相談した。しっかり請け負うと約束し、木の婚約者につきまといへつらい、様子をうかがいながらおあつらえの機会を見逃さず、buniaは閉ざされている部を開口した。内には蛇が潜んでいて引き出した。

未完成にしたのみならず、Naha..老人は蛇を木の婚約者の膣の内に潜ませていた。これはYarが気を急いて無理矢理に挿入したり、あるいは自ら開口して勇ましく試みるなどの(若者に)ありうる経緯に、妨害の罠を仕掛けたに他ならない。やっとの挿入で「ああよかった」、有頂天のYarは蛇に噛まれて即昇天と果てる。
それなら木の婚約者は「まだオボコだ、もう一度誰かと婚約させられる」と邪な企てが組まれる。しかしYarは賢いと評判のキツツキを呼び、周到に危険を回避した。
二人の愛を阻むモノはもういない、邪魔もなく暮らす。(desormais, rien ne s’oppose plus au bonheur des jeunes gens)
しかしNaha..老人の重なる嫌がらせにYarは嫌気が差して、妻と子を置いて出奔する。婚約者(妻)はYarを追いに西に旅たつが、疲れて死ぬ。
結局この同盟も分断された。

神話(M26)のこの流れを本投稿2回目で提起した「自然対文化」「同盟の成立と分断」「出会いの仕組みは計画か偶然か」を核として分析すると。

1 Yarは太陽神、紛れもなく自然側である。Naha..老人は焼き肉を喰いたいとの願望をもつからに文化側である。文化が自然に誘いをかけた。誘いかけは自然からが主流とは前回に説明したが、これは数少ない文化の企みの例です。
2 神話M233(Maba)では自然が計画して文化(人)に食物をふんだんに与える。同じsequenceのM235ではMabaが蜂の男(Simo)にとり変わって、嫁側にprestationの蜜と肉与える。こちらでも接近は自然側である。
3 この神話M269でNaha..老人はallianceを結びたくないけれど、婚約者を募った。Yarを選んだ理由は彼が自然側であるから。Maba,Simoの例を逆手にとって、自然を引き込めば、そして婚約のままにしておけば食をふんだんに得られると計算した。動機からして同盟の分断、破綻を狙っている。文化(人)が何かを企めばそれには必ず邪さが潜む。それがこの神話のメッセージでもあるなら、正に能楽「羽衣」、天女の謡い「人の世はいざ知らず天に邪はない」と同じです。

M269と引用の(MabaとSimo)神話の構成を比較すると、夫のうっかりがNaha..老人の邪さに入れ替わり、企みが文化側、Maba神話などの自然側からの誘いとは反対となる。レヴィストロースによればこうした反転現象は「構造的には近似する。変容(transformation)の過程でinversement(逆転)は頻繁に見られる」
両神話の語り手(Arawak族とWarrau族)は言語系統は同一、地理的に近接している。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 3 の了
(次回投稿は6月18日 予定)

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エリュアールの詩ユゴーの挿し絵 1

2018年06月13日 | 小説
(2018年6月13日)

さる事情で投稿子の書棚に置かれる事となった詩人Paul Eluard (ポールエリュアール)全集(全2巻、ガリマール社発行、Pleiade叢書)。永らくは片隅に冷遇されていたが、手にとって頁を何気なくめくったのが数日前。詩集41、メディユーズ(Medieuses)にたどり着いて目が止まった。挿し絵がなかなかのモノ。調べるとバランチーヌユゴー(ValentineHugo)の作と分かった。


Valentine Hugo 挿絵(左頁)と詩 (Gallimart Biblioteque Pleiade版 Paul Eluard oeuvres completesから)

エリュアールにはアンドレブルトン、ダリなどと交遊が伝わる、ダリの細君となったガラ夫人はエリュアールが初婚の相手だったとも(ネット)で知った。こうした交わりで分かるとおり、エリュアールはシュールレアリズム運動に参加していた。さぞかしチンプンカンプンな詩なのだろうと読み始めると、これがなんとも平易、取っつき易い。投稿子がこの訳を挑戦するとは、ABCアベセとボンジュールの壁を乗り越える手段にも最適と確信して、このブログで取りあげるに至った。
エリュアールの訳本は20に迫るが、ネットで調べる限りメディユーズは紹介されていない。ユゴーの絵はネットかしこに見えるが、メディユーズの挿画は見ていない。これが第2の理由。


Paul Eluard (写真はネットから)

まず題名のMedieusesに躓いた。ギリシャ神話のメデゥーサ、髪が蛇、顔はとても恐ろしく、見た人は石に固まる)と推理したが、そちらはMeduse(クラゲの意味もある)。調べて行き着いたのが古代ペルシャの王国メディアMedie、その住民の女がMedieuseならば複数なので女達となるか。訳してメディアの女達、マスコミの女性記者と混同しそうだが、これを訳とする。

第一の詩 <<Je ne suis pas seule>>
Chargee
De fruits legers aux levres
Paree
De mille fleurs varies
Glorieuse
Dans les bras du soleil
Heureuse
D’un oisea familer
Ravie
D’une goutte de pluie
Plus belle
Que le ciel du matin
Fidele
Je parle d’un jardin
Je reve
Mais j’aime justement.
拙訳;一人じゃない、だって果物を口元に優しくあてているの、色々な千の花に飾られているわ、太陽の腕に抱かれて誇らしい、小鳥のいつものさえずりを聞いてとっても幸せ、雨の一粒を頬にうけてうっとりしたわ、私って朝の空よりも美しい、自身に誠実だから。
今、ある庭の事を話しているの、夢をみているのかしら。
でも私、愛するわ、時がきたら。

的はずれかも知れぬが解説;
ユゴーの挿し絵が素晴らしい。メデイア女はブドウを口元にしている、花は千を揃えていないが矢車草(blouet、フランス人がとくに好む、グレコは♪blouet est une fleur bleue♪と歌う)、チューリップ(tulipe)、ボタン(pivoine)が特定できる。腕が小麦穂に変わっている。春の終わりに実る小麦は黄金の輝きを野に放つ、太陽の賜とされる。小麦穂で太陽をかつ日やけした黄金色の腕を匂わせている、官能的だ。小鳥と雨と朝の空は見当たらないが、これは絵が煩瑣にならぬ画家の良心。
最後の。<<justement、正しく>>が分からなかった。辞書をたどれば2の意味があって、正義にもとると理性に適合するとある。しかし、この意味合いが詩とそぐわない。
時制との関連で正しく(その時に)との使い方を思い起こした。例えば「お前ブレーキを踏まなかったのか」「si, justement quand le feu a change rouge. 踏んだよ、信号が赤になったその時にまさに正しく=justement」などの使い方である。この語法を用いて訳した。すると詩全体が
「メディアの女は庭にたたずむ己を夢想している、果実、花と小鳥、通り雨に打たれたが、自身に誠実だから、男をまだ愛していない。でも、その時がきたら愛するーとなり、整合する。これを正義に則ってとか理性に委ねて愛するとしたら、付きあっていた男がドロボー、ぐうたらばっか、どうもこれでは詩にならない。
なお、Justementの時制での使い方は会話で聞くのみ、辞書le grand Robertには入っていない。

エリュアール、ユゴーの詩と挿し絵 1 の了(次回は来週)

注1 Pleiades版の注によるとユーゴへの手紙(1939年)で<<…J’ai en tete un grand poeme intitule Medieuses, une espece de mythologie feminine…>>訳;メディユーズと名付ける一つの(新しい)女性神話の詩を頭に浮かべている。なればメディユーズなる語は彼が創造したともとれる。
注2 エリュアールは1952年に逝去、ユゴーの没年は1968年3月(本年から50年と3月前)。著作権は死後50年と知るので、ネットで使用しても違反ではないとした。出版社(ガリマール)などから別の解釈を残せば、指摘を寄せて頂きたし。
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神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 2

2018年06月12日 | 小説
(2018年6月12日)

レヴィストロースは南米先住民の民俗記録から関心ある神話を選択、内容にあわせて分類し、本書で紹介しています。ブラジルだけに原典の多くはポルトガル語、先達の民族学者やサレジオ会をはじめとする布教の宣教師の記録も取りあげています。それが理由になるのか、文体用語が古めかしい。古風さが内容をより神話らしく熟成させています。それらを読みながら感じるのは簡潔な数語、数十行を一読し、時には辞書の頸っ引きに苦闘の責め苦、何気ない語り口を歓ぶとあわせ、思考と論理の明晰、対句や比喩の華麗さ、複雑な修辞の盛り込みに圧倒されます。ボロロ族や本書の主役のチュピ語族、カリブ族の表現形態と精神風土かとうかがいます。

精神風土としたが、それを取りあげると;
その1、出会い、禁忌、失敗裏切り、喪失について
本書第2章、「Festin degrenouilleカエルの饗宴」は変奏曲形式で記述されています。元になるテーマに続いて6の変奏が続きます。テーマメロディにあたる神話が「蜜の精Maba」(通し番号M233,本書129頁、Arawak(カリブの一部族、現在もギニアに小集団ながら自己同定を維持し生存している)題名は「なぜ蜜はかくも貴重なのか」。蜜狩人の男と蜜のプリンセスMabaの出会いを引用します。

(いつもながら木を穿って巣を捜し、男は蜜を採取していた。どこからともなく若い女の叫び声が)<> Il (=l’Indian) poursuivit son travail avec precaution et deecouvrit au coeur de l’arbre une femme ravissante qui lui dit s’appeler Maba, <<miel>>, et qui etait la femme ou l’ Esprit du miel. Comme elle etait toute nue, l’Indian rassenbla un peu de cotton dont elle se fit un vettement et il lui demanda d’etre sa femme=後略
訳=「気をつけて、私を傷つけないで」声の出所は木の内から、怪訝な気持ちを抱くもさらに抉ると空洞(蜜蜂の巣のありか)の手応え。男は注意深く、先に斧をすすめる。開ききって見ると、なんと蜂の巣の代わりに輝くばかりの女が現れた。「私の名はMaba(=蜜)、あなた、私を呼んだのでしょう」と恥ずかしげに語る(前段で男は「蜂の巣出てこい蜂蜜でてこい」の掛け声をあげて蜂の巣狩に没頭していた)。恥ずかしさには理由がある、なぜって女は全裸、男はわずかばかりの綿布をかき集め、与えると女は前を隠した。妻にならないかと尋ねる男に=
見詰めながらMabaは男にそのか細い頸をタテにした。たった一つの条件とは「名のMabaを絶対に他の人に教えないでね」
この一節を読み、投稿子は悲しき熱帯のNambikwaraでの一シーンを思い浮かべた。
Elle vint se refugier aupres de moi, en grand mystere,a me murumurer quelque chose a l’oreille=(TristesTropiques悲しき熱帯、ポケット版の326頁)
=女の子同士で諍いがあって一人が相方を叩いた。その子(elle)がレヴィストロースに駆け寄って、その後がとってもミステリアスだった、何かを呟いた=
それが意地悪の仕返しで叩いた子の本名だった。怪しい事態がなにか、それを掴んで大急ぎでかけよりその子は密告の子の髪を掴んでレヴィストロースから引き離した。
本名は他人に伝われば呪いの文句に変わる。身内、せいぜい集落内の者にしか教えない。実名を嫌った日本の風習、諱(イミナ)に近いか。

さて、二人は仲睦まじく暮らす。Mabaは蜂蜜酒(=Hydromel、蜜を水で薄め数日間、放置すると甘美なアルコールに変わる。ただし南米とアフリカの蜜のみがこの手法で発酵する)を欠かさず用意した。その晩の宴会、珍しく樽を飲み尽くした。男は「今晩は蜜酒がきれた。次には十分な量をMabaに用意してもらう」とうっかり本名を口にした。Mabaは消え去り、男は森に捜すも二度と会えなかった。うっかりミスが男の約束破り、Mabaの呪い威力は無くなって、掛け声をかけてもMabaはもう出てこない。
以来、蜂蜜を採取するに額に汗(la seur au front)が必須、それほど貴重と化したのは男の約束破りのせいだとさ。

解釈の前にウンチクその1;
南米先住民が心に抱く美女とはまずは肉付き。全体がふっくら、かといって乗る膏の過剰ぶりは否定される。若さとの関連で肌の張りの様も評価となるが、はち切れんばかりが特に評価されると聞く。アメリカ白人はメリハリの誇張された凹凸系を好むと聞くが、それとは対照的である。次には肌の色、南米先住民と日本人が属す北東アジア系は、古ブリヤートの血を共にするから、本来は薄黄色の肌とされる。しかし、時にはスカンジナビア系かと疑う色白の娘が隔世遺伝として出現する。Mabaはそんな白肌の持ち主だろう。白肌は評価が高い、さもありなん、これも理解できる。
文脈ではfemmeとあり老若美醜、気だてなども特定されない女なので、年齢等が不詳だが、引用のravissanteを辞書に尋ねると魅力的、若い娘にのみ使うと(robert)。この一言が効いているから、年増でも、まして年を召した女性でもない明確な主張がが行外に見える。総括すると男を待っていたのは「輝くばかりの白いむっちり肌の娘」だった
以上のウンチクと主観の絡む判断は投稿子の創作ではない、主としてTristesTropiques(悲しき熱帯)から仕入れた。

ウンチク2;蜜から灰へのテーマの一つが出会い。出会いとは男女、文化と自然に属するそれぞれが出会う。なお文化側同士の男女はフツーの出会い。特異現象は発生しないから、神話は取りあげない。自然側同士は動物のオスとメス、勝手にしろの範疇なのでこれも神話に書かれていない。男と女いずれかが自然側に属し、二人の出会いを仕掛けるのは常に自然から。これを計画された出会い(rapprochement programme)と師は規定する
自然側が仕掛ける出会いの一例あげる。M235 (Simoの話、135頁)要約=男が子女を引きつれ狩に出た。娘は月の障りをむかえたので仮のキャンプで休んでいると=La jeune fille fut suriprise de voir un homme s’approcher et partager sa couche=誰かが近づく足音に驚いた、若い男(Simo)で娘にかけより褥を共にした=
Simoは蜜蜂で若い男はその化身、見初めた娘が親兄弟から離れ、一人になるのを待ちかまえていた。故にこの出会いは蜜蜂、自然側からなので、かく仕掛け(programme)が設けられた。Simoは娘と褥(寝床)を共にしたが、前後の文脈で交合には至らないとは明確。障りの女には手を出さない、自然も奥ゆかしいのである。
一方、さりげなく発生してそれによって文化側(人)が継続し利益なりを受ける出会い、これは必ず偶然である。これを(rapprochement aleatoire)偶然の出会いとしている。


木の幹の空洞を利用した野生の蜂蜜の巣、その断面図。狩人が見つけたのは巣ではなく娘だった。同書43頁、

南米先住民が抱く自然への憧憬、その現れが仕掛け出会い偶然の邂逅programme/aleatoireであるから、より踏み込んでみよう。
かつて、一度だけ、自然は文化との同盟(allience)を望んだ。同盟とは婚姻である。しかし文化側の約束破りで破綻した。文化(人)は自然に接近する企ては禁じられるから、破綻は取り返しが出来ない。さらに文化側から仕掛けの接近があって、何らかでも継続すれば、それは禁じられているので、罰chatiment(レヴィストロースの言葉)が構える。
仕掛けでも偶然でも、いずれの場合も結果は分断(discontinuite)をむかえる。本書のテーマが喪失perteである理由に、自然文化の同盟は必ず破綻するを謳う神話が並ぶからである。

さて、ravissanteMaba(素敵なMaba)、M233に戻る。
蜂蜜狩の男との出会いは仕掛けられたか偶然だったのか。
裸姿を見られてしまってうろたえたMaba、仕方なく男の求婚を受け入れたのか。それなら偶然である。何かの企み、仕掛けがこの出会いに潜むなら、それは自然側Mabaの意志だから、蜜狩人に密かに惚れたMabaが偶然を装い、実は積極的に己の裸姿を自信たっぷり、白さ輝き肌をこれ見よがしに曝したのか。
引用している文脈は淡々と、いかにも偶然を装うが、この出会いはMabaの仕掛けと投稿子は解釈する、レヴィストロースも同意するはず。理由は男の仕事態度、蜂蜜を巧みに採取する描写が好意的で、真面目で温厚、約束を守る、女受けする実直仕事人の印象を前段で彼に与えている。Mabaが蜂蜜狩人の男を見初めたのだ、そして裸の姿で賭けたのだ。

ブログを訪問してくれる方々にはMabaの心境を考えてほしい。それが女性ならば;
「あの狩人、真面目ね、毎日、一心不乱に斧を振り立てているわ。婿さんにしようかしら」
の心境を理解するでしょう。隠し兵器が決戦の場の「白く輝く裸」であった。
当ブログ訪問が男にしたって、洞を開けた目の前に、蜂の巣ならぬ全裸の娘、その輝きには目が眩みます。ふくよかさ白さ、若さにはち切れる肌の熱さを妄想し、このArawak族の蜜狩人の幸せを北川ケイの勝負姿を目の当たりにしたdaigonかと投稿子は、一瞬の雑念で羨ましんだ。ブラジル先住民の精神、行動は現在の日本人がしっかりと理解でき、行動できるのだ。

うかりの禁忌破り。すべてがひっくり返った。

神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 2 の了
(次回は6月15日を予定)
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