蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

奇跡の金魚鉢 部族民通信 特別投稿  読切

2023年01月31日 | 小説
金魚鉢の法則とは

1 小さい金魚鉢から大きい鉢に移されても、金魚は小回りしかし無い(日下公人氏の発見、政治で実証)

2 大きい鉢から小さな鉢に移された金魚に悲劇が(部族民通信の仮説)

それがこの程証明された。日野市在のK老人宅の惨劇。


身の丈にあう鉢で泳がせておけば幸せ金魚


動画リンク
https://youtu.be/lADkmmE2op4 

Twitter

部族民通信@9pccwVtW6e3J3AF

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初不動の一日(読み切り)

2023年01月29日 | 小説

(2023年1月29日)昨日は1月28日、高幡不動の初不動でした。高窓から覗く空の模様は青の快晴。初不動に参拝するのは毎年の決まりと心しているから、私は晝を早めに済ませジャンパーに腕を通しスニーカーを履いた。ドアを開けても外は寒い、散歩がてらの小一時間、くぐりを抜けて「えいや」出た。西風が頬を抜けその音まで冷たかった。
寒の内なら風も寒さも散歩の味付け、己に言い聞かせ戸を閉めた。
住まいは丘陵の急坂に屋根も傾き崩れるばかりの古屋、そんな見飽きた風景など振り返らずに外を進む。すぐの小路の下りがきつい。坂の下までを大股で稼いでそこに街道。信号を渡ると眼の前が浅川の土手堤、上面の遊歩道に立ち見下ろす河原は冬枯れススキ、川の流れは青くくねって、幾羽もの白鷺が流れ深みに嘴を黄に振るっていた。
下流に向かいしばし歩く、前から背の高い色の浅黒い男がこちらに向かってきた。面で出会うと、とある地名をぎこちない声で伝えた。行き道を尋ねている素振り。そこまでの道筋を知っている、日本人ではなさそうなこの若者に私は英語で答えた。
そして彼と分かれた。それだけの出会い。しかしここで「袖振り合うも他生の…」教えを思い出し「どこの国から」尋ねた。ネパール、「私の祖国を知っているか」と彼が尋ね返した。「もちろん」は私の返事、「ブッダが生まれた国だろ」これが要らぬお世話だった。「君はブディスト、仏教徒か」と尋ねる調子がいささか追い込む口調だった。
「ノー」、残念の眉に互いの顔が少しだけ曇った。
歩みに戻って遊歩道も終点、程なくお不動さんへ到着。



高幡不動(東京日野市)初不動の本堂前
山門を越すに手袋を外して合掌、脱帽し垂れる頭の白髪が無言で不動、いつもの決まりである。しばし直立の数秒を耐え門をくぐった。本堂前、お不動さんに祈り願う合掌の人々が溢れるばかりだった。幾重に並ぶ列の最後で本堂に向かい再度、合掌、お賽銭を投げ参道に戻り帰路の駅に向かう。
心に雑が湧いたのか、ネパール若者との会話の記憶が残ったか。ちょっとした思いがよぎった。悔みかもしれない。
「ブッダの教えの何を私が知るのか」「生きる無常、地位もつながりもすべてが無常。死に際に苦しむ膏の滴りはなお無常」参道を呟きながら足を早めた。
高幡不動駅の広場に着いた。帰りは京王線に乗って退散。
あえぐかの苦しい声が聞こえてきた。



駅前広場を俯瞰する渡来部

交番の前がエスカレータ、その内側の広場歩道にはタクシー乗り場、案内柱に挟まれる小さな隙間、男には身の置けない小さな空間の脇に小柄、華奢な方が立っていた。あえぎの発信元か。
編笠を口元までに深かぶり、黒染め小袖に絡子の袈裟懸け、足元の地下足袋は黒の灰砂まぶし。托鉢の勧進僧か、いいや編笠を藺笠と受けとればこれは虚無僧の姿、尺八を奏でているから成りも動きも虚無僧です。細身なれば女性であろう。


かつては女虚無僧が道を流していた。本投稿の虚無僧はより地味な黒染め小袖(ネット採取)。

エスカレータに乗るのを止めて立ち尽した訳は、あえぎと聞き誤った尺八の音色の、か細さに引き止められたからだった。か細くも吐くか殺すか、息の苦しさ音色に乗せる。私は引き止められた。
尺八寸の長さなら54センチ、肉厚の末端(管尻)が孟宗根本の瘤。比べてこの管は短く細く端尻が直に切れる、尺四寸ほど。籠もりを持たせる尺八寸の音色と異なり、こちらは清々しく素直に聞こえる。
足を止めて耳傾ける、目を閉じてしばし。吹きはじめの調子は変わらず、しばらくして高くそして低くなる。ピアノの鍵盤を叩けばドの次はレ、中間の高さは無い。しかし目の前の奏者は音の高低変化に連続を限りなく模している、中間の音で止まる、その中間の高さが外れ調子の不安を醸し出す。
女虚無僧を幾分かのお年寄りと思った。その年代ならば、この方は身の虚しさを感じたかもしれない。生きる虚しさか死にきれない辛さか、そんな思いがこの連続の音色に込めているのだと。なぜか涙が出てきた。去ろうとかくしを探りコインの一枚、喜捨の小箱に入れるとした。ここでもう一度「袖振り合うも…」が湧いてきた。
「話かけてよろしいですか」
演奏が止まって「はい」微かな声が編笠を抜けた。
「平素耳にする尺八の音色とは異なっているので、どのような流派なのかと」
「虚無僧です、今は廃っているのですがある方が再興しようと道場を開いて」
「聞いていて涙が出て、尋ねました。演奏をお続けください」
編笠が開いて顔が出た。白い、若い、23歳と見た。
「虚無僧の演奏は読経の代わりです、死者への引導を音にして奏でる」
ここで私は理解した、突然なぜに涙がでたのか。女虚無僧のこの調子と音色が、念仏代わりに私の死に際を予告していたからに違いない。死ぬ時にはこんな気分で死にたいと私に自覚させていたのだ。いまや死は間近、伸ばしてくれと抗える筈はない。その宿命に気づいた涙だった。
「あと5年で死を迎える者です。願いは貴女様の奏でる曲を己の心境に移して、死に際を迎えたい、それを今理解しました」
23歳うら若き女虚無僧は編笠を通して私に笑みかけてくれた。「私も涙が止められません」
かくしに指を入れより大きな硬貨を探し、あわせて喜捨箱に入れた、チリーン。
家に戻って名古屋から10歳の孫娘が電話してきた。「おじいちゃん、誕生日おめでとう」今日が76歳の誕生日であると思い出した(渡来部)。了







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構造人類学 Anthropologie Structurale の紹介2

2023年01月27日 | 小説
構造人類学 Anthropologie Structurale 2 人類学での構造主義 上
(2023年1月27日)Jean Pouillon(1916~2002年)。レヴィストロースの直近 にして構造主義の理解者、L’homme(レヴィストロースが参画している人類学専門誌)編集長を長年(30年ほど)努め « Le cru et le su » など著作も多く数えられる。アカデミー側にも立ち « Ecole Pratique d’Anthropologie Sociale EPRAS » 実践社会人類学教室(Ecole Pratique des Hautes Etudes実践高等学院の一部門)を立ち上げ後身の指導に力を入れた。レヴィストロース著作には時折、資料とりまとめなどで彼への感謝の文を見かける。彼の指揮で学生が物量的仕事、神話学を起草するに当たり南米神話(原資料)を集めるなどに協力した節が伺える。人柄に優れ学生達はレヴィストロースの直近への尊敬と彼個人への親しみを併せ持ち、協力したと聞く。

Pouillonは自身のレヴィストロース評が、本書の巻頭に転載されるのを願っていない、とレヴィストロースになぜ見抜かれたのか。追い打ちでもかけるかにレヴィストロースは « Je me sentirais comblé si ce livre pouvais amener d’autres lecteurs à partager ce jugement » もし(仮定法なのでそうした事態はありえないが)本書が読者を彼の見解のレヴィストロース評に導くとしたら、私は困惑してしまうだろう。

上の写真ではサルトル正面が目立つがPouillonは右に立っている。彼はサルトルと近かったが1956年(ハンガリー動乱)を境にしてLes temps modernesから離れた。アレクサンドル3世橋にてのスナップ、後方にアンバリッドが見える。Cartier-Bresson写す、ネットから。

なぜレヴィストロースが困惑するのか、
ここに修辞を読む。すなわち « elle répond admirablement à tout ce que j’ai souhaité accomplir… » この引用部「この文は見事に私がかくあれと…」(主語elleはune phraseを変則で受ける=前出)はレヴィストロースが本書に臨む心境(構造への真摯な姿勢を表している、しかし行き着いていないと自ら疑う)を見事に言い表している。あまりに言い表しが見事なので、この批評が前判断と化して読者に纏い付いたら、レヴィストロース観がそこPouillonの判断に固定されてしまう。本書の理解を妨げるかもしれない。読者にはくれぐれも白紙の立場で読んでくださいとの危惧が見えてくる。
« On y trouvera réunis dix-sept des quelque cent textes écrits depuis bientôt trente ans »
過去30年に渡り発表した百を数える作品を17に分け掲載した。
別の文節でそれら「発表小品の多くは英文専門誌への投稿であり、原英文の訳にあたり加筆し、テーマを取りまとめ17の内容(本書の章数)に色分けした」とあります.
部族民は出版された単行本のみを彼の著作と考えていた。米英系も含め学術誌へ投稿していただろうが、こうした専門性の高い論文に接近はできない。それらが過去30年で100有余と知らなかった。これらの総決算であり、また決別でもあった。より構造への思索を純化させる次段階、神話学への助走であったのだろう(部族民の推理)。
2 人類学での構造主義に入る。
« En Amérique du Sud, cette institution (ou, plus exactement, ce schème d’organisation) représente un élément commun à plusieurs sociétés, qui comprennent les plus primitives comme le plus avancées, avec toute une série d’intermédiaires » (127頁)
南アメリカではこの制度は、より正しく云えば組織の図表(スキーム)となるのだが、未開な社会から最も開化している多くの部族社会に共通す要素を表現するものとなる。
ここに語る「制度」は南米先住民に広く分布する « organisation dualiste » (部族社会の)二重組織を指す。一の村落が2の部(あるいは支族)に分かれ婚姻、祭儀遂行、狩猟の段取りなどを分かち合う制度で、「悲しき熱帯」Bororo族村落(Tsugare、Ceraに分かれる)の描写にその典型が読み取れる。
一旦はこれを « institution » であるとしたが正確を帰せばそれは « schème » なのだと訂正を入れた。ではスキーム « schème » の意味は


Shème としてのBororo村落2重構造


レヴィストロースの調査による実際のBororo村。悲しき熱帯の図版をデジカメ。

Kantの用語―Représentation qui est l’intermédiaire entre les phénomènes perçus par le sens et les catégories de l’entendement (Robertから) 感覚が認める事象と思考が定める範疇を結びつける表象。

« schème » を « institution » との対比で用いている。 « institution » は「設立されている」「実際に存在している制度」など目に見える「モノ」に属す。対比するcatégorieの訳に「範疇」を用いたが(哲学での使い方は)概念がより近い。概念とは思想であって感覚がそれを覗くことは不可。レヴィストロースはここでの « schème » の意味合いにKant用法を借り入れているから、上文の理解は「各部族、村落で認められる二分制度は実際にそこに存在するモノであるが、それらはモノとして変異を顕にしている(様々な形体がありうる)。それら偏倚を結びつける範疇とは概念であり、これは思想に属する。南米族民の二分制度とは実態ではなく概念が君臨していると言えよう。
形体を決定するのが思想である「概念」である。構造主義の理念に一歩近づいた。
構造人類学 Anthropologie Structurale 2の了 続く
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部族民までネットに乗出したぞ~(一回読み切り)

2023年01月24日 | 小説
部族民SNSの功徳 ; 知の足元を固める。SNS活動として

当ブログ、そのアドレスは : https://blog.goo.ne.jp/tribesman

Twitterにも割り込んでいる~ : 部族民通信@9pccwVtW6e3J3AF
TwitterではYoutubeリンクが可能、ミニチュアサイズの画面ながら10~20分の動画が見られるよ。また2分のダイジェスト版も突っ込んでいるぞ~

Youtubeのチャンネルはこれじや : sumao toraibe@sumaotoraibe4761
登録者数はなんと! 23人じゃ!! (コテコテの硬口内容にしては、これ多いよね)

ご存知ホームサイト www.tribesman.net

皆様にお願いしたく、ぜひ上記全てをGoogle検索頁のリボンにお気に入り登録して、朝な夕な、朝は朝星夜は夜星、昼は梅干しでも齧ってレヴィストロース紹介を見て読んでくだされ。お気に入りを忘れたら「部族民通信」でネット検索。

部族民SNSの功徳 ; 知の足元を固める(前出)。

小柴昌俊先生(故)、天文物理学ノーベル賞受賞者の名言 ; ニュートリノを知ってヒトに良いことある?の質問に「知の地平線を広げる」と答えた。なるほど、私達人類は中世の暗黒から抜け出して、コペルニクス、ニュートン、クリック、そしてニュートリノ小柴...彼らの業績を吸収しながら「知の地平線」広げていたのだ。


知の地平線、その向こうには何が


なんとかこの言を遣いたくて、「足元」にバージョンを替えて、部族民(蕃神)は時折持ち出します。なお「知の地平線」は読売新聞「時代の証言」から部族民が採録した。他のネットサイトには載っていない。地平線と足元を切り分けて用いると表現が多彩になるかも。知の折返し、なんかもありそう。部族民はこの折返しは用いないから、皆様、お遣いください。早いものがち。

(以上は部族民蕃神、2023年1月24日)


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構造人類学 Anthropologie Structurale の紹介1

2023年01月24日 | 小説
(2023年1月24日)この投稿は連載を予定し内容は;1 序文本書の立ち位置(本稿) 2人類学に於いての構造主義、社会制度の構造とはなにか 3神話が諭す人の由来(人は砂から生まれたか女の股から生まれたか) 4出来事の由来、出来事はあったのか空想だったのか(実際か思想か)となります。
本書出版は1958年、言葉と親族、社会構成、魔術と信仰など5部、17章に分かれ400頁を越す大作である。内容には民族学、社会人類学の専攻分野の深みに立ち入る文脈も多く、(部族民を含めて)分野素人には読み至れぬ箇所も散見される。故に全てページの総覧的な紹介は無理なので(上記4内容に)絞った次第である。


本書、飾り風帯付きのハードバック 価格は27F (およそ2000円相当)


本序文にては1958年出版の意味合いを掘り下げる。
他著作の出版年と比べる。悲しき熱帯TristesTropiques1955年、野生の思考LaPenséeSauvage1962年。同氏の代表作2冊の中間期の出版となる。
著作を通じ己の思想を世に投げかけるレヴィストロース。作品それぞれに主題が付加され曲がり流れる大河であるかに、それが様相を明らかにしつつ収束点に向かう。そこで「中間」を探ると、第一作親族の基本構造(1949年)から始まる思索の流れが、この構造人類学 Anthropologie Structurale で締めくくり、一の収束を迎える。収束してゆく内実が本書、様々な言い回しの行間に凝縮されていると感じ入る。
次作、野生の思考1962年での流れの向きの変わりの様は「構造」への思索の濃淡と(部族民蕃神は)思う。レヴィストロースにおける思索の分水嶺がこの書であって、嶺の見晴らしに登りあぐねる苦心は本書内容の重層の様、そして一行一読では理解及ばない言い回し、修辞のくねりの晦渋に浮かび上がる。
前記「思索の濃淡」は後述に委ねる。


表題の頁

前文 Préfaceに入る。文頭の一節が本作品の性格を表している。
« M. Jean Pouillon a écrit une phrase qu’il ne m’en voudra pas, j’espère, de citer en tête du présent ouvrage, car elle répond admirablement à tout ce que j’ai souhaité accomplir dans l’ordre scientifique, en doutant souvent d’y être parvenu »
Jean Pouillon氏は自身が寄稿した一節を、本作品の巻頭に引用するを望まないかもしれない、そうであろうと私は願うのだが。なぜなら(elleはune phraseを変則で受ける)その文節は私が、学術的基準のなかで、かくあれと望み、そこに行き着いていないと疑いつつ振り返る事情に、見事に応えているからである(3頁)。
Pouillon の引用は続く;
« Lévi-Strauss n’est certes ni le premier, ni le seul à souligner le caractère structurel des phénomènes sociaux, mais son originalité est de le prendre au sérieux et d’en tirer imperturbablement toutes les conséquences »
レヴィストロースは構造に起因する(structurel)社会の事象に注目した研究者として初めてでも唯一でもない。彼の特異は構造を真摯に、そしてそこから派生するあらゆる帰結を、混乱を招かずに引き出している点にある(同)。
Jean Pouillonがしたためた一文とは本書刊行の前1956年 « Les temps modernes » (Sartre、Merleau-Pontyらの共同主宰となる文芸雑誌) に掲載された書評を指す。表題は « L’œuvre de Claude Lévi-Strauss » レヴィストロースの作品、この文頭を飾った一節を指します。
引用文での « sérieux » 真摯を注目したい。社会科学者多くが制度、慣習などに「構造」が見え隠れすると気づいている。「構造」を自説の傍証に用いる例も多い。例えば中根は「タテ社会の人間関係」なる著を発表した(1967年)。人間関係をタテ構造で説明している。しかし中根を構造主義者とは言わない。彼女の論点は年功序列、女性軽視の風潮を批判しているのであって、そのために「タテ構造」を用いて暴いた。すなわち「構造」とはそこに在るし覚知できる。その中身がタテだーと述べているのであって、なぜ構造が在るのかを問う姿勢ではない。
レヴィストロースが « sérieux » シリアス真摯に「構造」に向かい合う理由は、構造は「本質」につながると主張するからである。実際とはそこに存在するモノであり文化、社会でもある。しかし、モノを意味づけているのは思想であり、ヒトが頭に持つ表象であり、モノと表象の対峙が構造である。ここにヒトの特異、自然を乗り越える知恵が宿るーとレヴィストロースは主張するのである。構造人類学の紹介に当たり、まずはこの一点、実際と思想の対峙を確認したく思う。
話をJean Pouillonに戻す。


奥付 1958年出版、8161印刷、3242番と読める。1億2000万人の日本で学術書多くは3000部の出版。当時フランスの人口が4000万人であると比べて驚きです。

構造人類学 Anthropologie Structurale 1 序文の了 続く
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Univoque/EquivoqueのYoutube投稿

2023年01月17日 | 小説
(2023年1月17日)Univoque/Equivoqueは反対語です。前の語は明瞭の意味を持ち、後者は曖昧となります。レヴィストロースは民族、とくに制度の運用を表すにこの語を用いる頻度はそれなりに高い。今まで辞書通り「明瞭」「曖昧」で片付けてきたが、その程度の理解では文意が汲み取れなかった。深入して「真意」を探った。
この経緯は2022年12月19日、23年1月6日に本Blogに投稿した。その動画編をこの程作成、Youtube に投稿となりました(本日17日)
以下はYoutubeでの説明文句:
>Univoqueとは「明瞭」「一語一義」の意味を持つ。この語が婚姻制度の説明に遣われると意味がとりにくい。辞書を色々参照して「片務」の訳語を見つけた。そこまでの経緯と反義語 « équivoque » 同義語 « Biunivoque » の意味合い、訳語も合わせて考えた一文<

動画(12分ほど)リンク

https://youtu.be/2HXTiaK3iSU 一旦Youtubeに入って左アドレスを検索窓に入れクリック

部族民通信Twitter アドレス : 部族民通信@9pccwVtW6e3J3AF (Google検索で)入るとYoutube動画が、ミニチュアサイズ画面で閲覧できる
2分のダイジェスト版もUpLoadすします。

動画解説に用いられたパワーポイント資料(PDF)は部族民通信のホームサイト www.tribesman.net で参照、DLできる


この表が結論、ここにいたるまでの探索が動画の筋となります


以上は渡来部須万男(トライブスマン)の投稿です。 

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狩人に女はいない、Youtube動画投稿

2023年01月12日 | 小説
(2023年1月12日)部族民通信のYoutube動画投稿。「狩人に女」はいない―の案内です。昨年(22年、12月14,15日に上下で投稿したブログの動画版となります、
何故か?永年の民族学の課題に部族民通信が取り組みます。
1物理、2理念、3摂理の3大理の欠損が女にまといつく、よって狩人には程遠い。そしてもうひつつ、婚姻制度の原理にその根源があったのだ。婿入する男には手ミヤゲがなくては婿入り先で立場がない。彼の立場を保証するのが「狩りをする権利」。狩りの獲物を配って「ドヤ」顔して立場を安堵する。これを女に渡したら部族民男の財産はなくなってしまう。
ここに原理が被さる。すると4大理の女欠損なのだ。


ダイアナは狩りの女神、しかし彼女は神


神話学「生と調理」プラス「親族の基本構造」がこの結論を導いた。部族民通信ブログhttps://blog.goo.ne.jp/tribesman、ホームサイトwww.tribesman.netでは動画で用いられる資料(パワーポイントPDF化)を参照できます。

動画リンク(下記アドレスをYoutube の検索窓に入れてクリック)
https://youtu.be/dtDjdbSEROk
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Univoque余話 équivoque とは 下

2023年01月06日 | 小説
(2023年1月6日)バンツー族の奇習lobolaは、嫁を得るために牛の幾頭かを相手家族に「贈る」慣習を指す。それなら日本でもかつて実施されていた、婿家族が用意し嫁家族に贈る「結納金」と差はない―との指摘を貰いそうだが、違いは大きい。いわゆる結納 « prestation » は「個から個へ」で終結する。貰った側はそれをいかに使おうと自由に処分できる。しかしloboloでは贈られた牛群れを部族の交換経路に還元しなければならない。具体的には「流用」。花嫁を出して牛を貰った兄、ときにはいとこが嫁を貰う原資にこれを用いる。牛群れを別の系統にわたす。
ここには2の « univoque » が認められる。嫁を貰った側は嫁を「原資」に次代再生産を図り、かつ現状の生活の質を高める、牛の頭数だって増えるだろう。もう一方の« univoque » がこの「流用」にある。それを財の巡回経路に乗せるのは、貰った側の義務である。自家消費してはならない。この2を併せて « bi-univoque » 相片務の交換とえる。
前回、妻側の落ち度で婚姻が継続不可となった場合、妻に去られた男は« grande moukonwana » 妻の実家に嫁いだ嫁、これをしてオオアネと訳したが、彼女を後釜に要求する。平常は話しかけることすら禁忌として遠ざけられるオオアネを、立場が替われば嫁に出せとせまる。
根拠は彼女が妻実家に居座るのは(嫁に逃げられた)婿の艱難辛苦のはてに贈った牛群れが原資だったから。ここで騒動が始まる。妻の実家側として新妻は再生産の要、取られたら次代の設計が不透明となる。駆け引きが始まり、妻側に代替品(妹か)が用意できればそこで落ち着くとか。
一の « équivoque » で破綻する。そして発端となった落ち度ある側が代償を支払う。相片務 « bi-univoque »は交換に参加している系統(家族)を保護する効用も併せ持つ。
ここで« équivoque » の訳をひねり出そう。語感として「偏務」が原義により近い、しかし片務と同音となってしまう。そこで「失務」を考えついた。


片務、さもなくば死―と曰うカミユ。写真はネットから。

まとめ;
Murungin族の婚姻形態は « univoque » 片務を強いる一般化交換
Bantou族は « bi-univoque » 相片務の一般化交換。巡回経路がより延伸している故の信用保証制度であろう。
2の系統の間で嫁のやり取りをする場合が « réciproque » 相互。
いずれの場合にも « équivoque » 失務の行為で破綻する。レヴィストロースの主張は片務が制度を保証する。 « L’équivoque est la mort » 失務は死だ!と見破ったカミユ、彼は作家ではない預言者なのだ。
Univoque余話 équivoque とは 了
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Univoque余話 équivoque とは 中

2023年01月04日 | 小説
(2023年1月4日)コントが諭す「科学の在り方」とは;応用に惑わされてはならない、それ自身で自律するものだ― (前回2日投稿) 。これをカミユ「さもなくば死」と合わせると、応用での効用を気にして原理の科学を研究すれば、研究の「死」と読み替えられる。この考え方を社会の状況に当てはめると;
社会制度を運用する場において同じ状況、成り行きながら結果が、判定の曖昧さを残すまま、入れ替わる事例はあるだろうか。例えば婚姻とその儀礼を考えると両家、縁者、地域隣在を集め、然るべき立場の者が儀礼を司り、晴れて婿嫁は地域の構成員として認められる。これが婚姻制度と儀礼の意義である。しかしある時に限ってへそ曲がりが出て来て「その婚姻には反対だ」とゴネて大方が「仕方ねえ」と妥協すると、婚姻が不成立となる。左記は仮の話だがこれは« équivoque » 反応が制度を捻じ曲げたといえる。制度の死につながる。不徹底がまかり通れば、地域がまとまらない、故にあり得ない。

レヴィストロースが喝破したが如く制度は « univoque » 片務性を強制する。婚姻そして親族構造、これは制度の塊。コントが伝える「科学」と同列で、原則貫徹の原理主義が跳梁するから、片務は必ず潜在するのだ。故に制度は « univoque » を前提に運用される。それでも« équivoque » の陥穽に落ち込む時もある。「親族の基本構造」興味深い例が載っていた。

Bantou族(アフリカ南部)の既習 « lobola » を紹介する。家畜、主として牛の数頭分になり、一般に « prix de fiancée » (男が婚約者家族に支払う)婚約金とされている。Netでもそのように紹介されている。
Lobola is an essential custom practised in most South African cultures,. The groom’s family traditionally pays the bride’s family with a certain number of cows. Lobola is a fundamental requirement that any man must fulfill when marrying into an African family. (Threestreammediaから)。婿家庭が嫁家庭へ幾頭かの牛を贈る習慣(要訳)。すなわち個から個への贈りで、社会性が含まれる記述はない。これが21世紀版の« lobola »となるのだろう。

人類学の現地報告(1930年代)は幾分異なる;
Le lobola est ne peut-être une dot ― puisqu’il ne s’accompagne pas la fiancée, mais entre dans la famille de celle-ci, ni un paiement ; en effet, la femme ne fait jamais l’objet d’une appropriation : elle ne peut être vendue, ni mise à mort : elle reste placée sous la protection jalouse de sa famille, et si elle abandonne son mari pour un juste motif, celui-ci ne pourra prétendre à la restitution du lobola.(同書535頁) 
このlobolaは贈り物ではないだろう。なぜなら(嫁となる)婚約者に付属するものではなく、彼女の家庭に入るから。支払い代の意味も持たない。なぜなら(それを払ったとしても)妻は夫の所有物では全くないし、夫から悪く扱われもしない、彼女は婚家の家庭、(嫁へ)やっかみの籠もった空間に位置しているだけ。もし彼女が正当な理由で夫から逃げたら、夫はlobolaを返還してくれと要求できない。
この後、部族内での娘とlobolaやり取りの周回の様が語られ; « La raison essentielle , pour laquelle on ne peut voir en lui un paiement, est qu’il ne sera jamais consommé. A peine reçu, il fera l’objet d’un remploi pour le frère ou le cousin de la jeune mariée. (同)
Lobola が支払い代と見なされない理由はそれは決して消費されない事情につきる。それを受け取るやいなや、花嫁の兄弟あるいはいとこに回って、彼らのlobola払いに充当される。

これら記述で判断出来るのは;花婿が花嫁家に贈るlobolaは財産(牛)ながら、それを受け取る側、嫁贈り出し元には自由に使えない制約が付随している。嫁贈り元がその財を自家の男子の嫁手当に用いる、この財は流用と言うか、部族内で流通させる前条件が決められていて、自家消費できない。ならば「贈り物」ではないだろう。「嫁預かり」の供託金、部族内の財産、こうした性格が強い。
Bantou族村落では嫁を出したらその兄が、供託金を繰り回して嫁をもらえる、
嫁と家畜財が逆の周りで周回する仕組みで、画像的に捉えると女子が一方向に周回し逆回りに牛の群れが動く―二重の巡回列を頭に描くと良い。
嫁交換を介した財の周回、これは一般化交換であり財の支払い側にも受け取り側にも片務がかかる。婿は嫁待遇に気を遣う、もし婿自身の過ちで嫁に三下り半を突きつけられたら責任のすべてを己が背負い込む(あたかも嫁が婚家に居残る(仮想)状況となって、lobolaを取り戻せない)
しかし本当の破綻はそこにない。« en cas de séparation dont les torts seraient reconnus incomber à la femme » 落ち度が妻側に帰せられ、婚姻が維持できなくなった場合、 « univoque » で安定していた交換が « équivoque »に変化してしまった。これが状況を深刻に引き寄せる。


数えて牛が10頭ほど、Bantou別嬪の価値のほどが理解できる。

Bantou族の婚姻風景 (写真はいずれもネットから採取)

嫁の落ち度で破綻すれば、婿は嫁取り戻し権を行使できる。嫁の実家に要求するのは「代替」。最初の要求が嫁の兄の妻に向く。なぜなら彼、婿が艱難辛苦の果てにまとめた家畜群の牛の群れ。それを嫁兄がせしめて妻を得た。その妻、義姉こそ私の肉(ma chair)だ―との言い回しも用意されている。
Bantou語は義姉に特別の呼称を用意する« grande moukonwana » 、訳しようがないから「大姐オオアネ」様とする。オオアネと男(夫の妹の婿)の日常での繋がりは禁忌視される。言葉をかわしても、近寄っても疑われる。続く
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Equivoqueの訳語は上

2023年01月02日 | 小説
Univoque余話 équivoque とは 上
(2023年1月2日)部族民通信、本年初のブログ投稿となります。昨年は多くの皆様から当ブログにご訪問をいただき、御礼申し上げますGooBlog (blog.goo.ne.jp/tribesman) 、ホームサイト(www.tribesman.net)運用に加えてYoutube (https://youtu.be/7cv-FAAAdxA)及びTwitter (部族民通信@9pccwVtW6e3J3AF)
を発信媒体として広範活用する予定です。皆様からのアクセスは何よりの励まし、昨年にましてよろしくご訪問をお願いします。昨年は71回のブログ投稿を数えました。本年は100回超えとなるか、この数を目標としてキーボード叩きは日課と心得ます(渡来部、蕃神)。
実は恥ずかしながら蕃神、未払いの借金を抱えたまま年越しを迎えた件、年初に完払に挑戦せむと年初ブログの挽回投稿です。
Univoqueなる聞き慣れない語の「人類学的訳語」は片務。人類学にカッコを載せたのは語彙論での意味合いと異なるから。語彙論では「一語一意、明瞭」なる語の有様を表す。さらに幅広くして語を文節とすれば、文とは「伝えかけ、訴えかけ」を必ず具有している。その意義にはどの場合でも「同じ受け止め」が表出するのが片務ーとなります。こうなると語彙論を超えて哲学思考からの説明と受け止めると、レヴィストロースの « univoque » 用法もこのあたりから出発していると勘ぐります。
「魚、鰐、犬」にたいして「動物」と規定する。この伝えかけはある一点(動物性)を切り口としていて、それに対する人々の反応は皆同じ、 « univoque» 同意するである。この反義語が « équivoque »。昨年の投稿では前の例文を逆手にとって鰐を「犬とそっくり」と伝えかけた例を挙げた。こちらの反応は様々で否定がほとんど。ただ一人「脊椎学の権威者」は「そっくりだ」と同意した。
伝えかけに対して様々な反応が醸し出る、これをして « équivoque » とした。
ここまでが昨年中の投稿で、しかしながら言い足りなさを感じながら年越ししてしまった。未払い借金を抱えた寝ぼけ頭に元日の朝日が差し込んだ。でもわだかまりは晴れない。
借金には「訳語」を示さなかったからが大きい。更には鰐と犬の同体の切り口に脊椎を持ち込んだ「唐突さ」を、我ながら、感じてしまう後悔も強い。例文を挙げるに無い知恵を弄り回すが無理がバレているとも感じた。
新年早々、年越し借金完払いで « équivoque » にカタをつける。
辞書では「同一語が多様な意義」を持つとある。
Equiは同じ、対等を意味する、 « équilibre » 均等は用例。Vocは音を促す « vocal » などのvoc。この2語を合わせれば「別語ながら同じ発音を促す」ーとなる(Robert Méthodiqueから)。同音意義 « homonyme » と同義語であるともこの辞書に。この説明は言語での用法で、そのとおりに受け止めれば良い。カミユに耳を傾けよう:
« chaque équivoque suscite la mort : le langage clair, le mot simple, peut sauver de cette mort » 一つ一つの多意義語が死を招く。明快な言語 、単純な語がその死から抜け出せる(A. Camus L’homme révoltéから、Puf. Dictionnaire de philo. から孫引き)。語用の曖昧さを死に結びつけるカミユ、さすがに格好良いけど人類学には使えない。他の用法はないかと文献を渉猟すると(手持ちのいくつかの小辞典の頁をめくる作業のことです);
« La condition rationnelle du vrai système des connaissances humaines impose une telle condition [rendre la science indépendante de ses applications], sans laquelle nos conceptions fondamentales auraient nécessairement un caractère équivoque » (A. Comte, Cours de Philos) 人間の正しい認識体系は以下の理性条件を要求する。それは「科学とはいかなる派生、応用から独立する」仕組みである。その仕組なくしては基本概念そのものが多意義化(un caractère équivoque )してしまう(オーギュストコント、仏の哲学者)。
謎の « équivoque » 、その用法の人類学的解決はこれだ~と頭にひらめいたこじつけはここに:上文をこう読み替えよう:
<人間界の諸規則の正しい運用とは、いかなる妥協、読み替え応用を認めないことに尽きる。もし応用などがまかり通ってしまったら、規則やら制度などが « équivoque » 曖昧となって、社会制度の運用不可に陥る>
まさにレヴィストロースが婚姻制度とはかくあるべしと « univoque » 規定した逆方向からの説明です(蕃神義男、出稼ぎ先の愛知県みよし市からの投稿)続く。



昨年は1月6日に関東地方大雪、写真は7日にブログ投稿した際の添付写真です、東京多摩地区。
本年は年末に新潟、日本海側東北で大雪。この地方に住むアクセス者様にお見舞い申し上げます。
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