蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

牧野富太郎、シーボルト、お滝 1 

2022年08月08日 | 小説
(渡来部須磨男の投稿,2022年8月8日)
本投稿に立ち寄る皆様に残暑お見舞い申し上げます。北陸、東北の集中豪雨の被害を被った方々に部族民通信からのお見舞いを申し上げます。渡来部が起稿する居場所の陋屋は東京日野市、昨日までは一時の暑さが和らいだ日々を、快適とは言わないけれどそれなりに数日を過ごしていた。本日になって、朝から夏の暑さが再来した。皆様のお住いの地はいかがでしょうか。
これほどの暑さにあっては草ムシリ、チャリ巡行は叶わず、部屋にこもって読書をもっぱらにしています。市立図書館を訪れ、棚に目をやるとMAKINOなる書題を見つけた。マキノであれば富太郎とひらめき借り入れ、さっそく頁をめくり読みふけった。(高知新聞社編、平成26年初版、北隆館発行)。植物分類における彼の功績、発見、その採集旅行を経時的にまとめ、かつ小学中退の事情、結婚、家族、困窮などの私生活を挟んだ洒脱な文の運び、名著です。
しかしこんな一節に戸惑った。


富太郎20歳の写真(本書からデジカメ)


「植物を命名するに私情を挟むことを牧野は嫌悪した。シーボルトが日本のアジサイに学名を付けて発表した。学名(Hydrangea Otaksa)、HydrangeaとはHydro水に由来するから「水気の」の意味となり植生を伝えている、しかしオタクサなる語はなにか。日本の植物学者にとって謎だった。牧野は調べる。初めはシーボルトが住んでいた長崎での地方名ではと推測した。長崎への採集旅行の折に調査してもそのような事情は見つけられなかった。そして、シーボルトの愛人楠本滝の通称「お滝さん」にちなむと分かった」(本書140頁)牧野は怒った。学会誌でシーボルトを激しく非難した。「清浄な花姿が名前で汚されている」と。(長崎に旅行したのは明治41年1908年、富太郎46歳とある=本書から。学会雑誌投稿もその年かと)


本書MAKINO

怒りは学に関わる人としてもっともであると理解する反面、余りにも人の心情、哀慕など心の動きを押さえつけた「学術至上」の原理主義かと部族民は理解してしまった。この頑なさは富太郎(晩年の)好々爺の風情とはかけ離れていると迷った、戸惑いの理由がここにある。
シーボルトと滝(楠本)の情報をネットで探ると;
彼が来日したのは1823年、通詞からオランダ発音の不正確さを指摘されると「オランダ高地人」としてドイツ訛りをごまかして、追放処分を切り抜けたなどの挿話は愉快(オランダの別名はPay bas、低地の国。山も丘も高台すら見えない、そんな国での高地人、ありえない人種を創造してしまった)。滝と知り合い、滝はシーボルトの子イネ(1828~1903年)を生む。滝の素性を「遊女」とする見方が一般である。出島には女性の出入りが禁じられて遊女のみが許されていた事情からの推察である。また其扇(ソノギ)なる遊女名( ?)を用いていた事実も残る。
渡来部は別の推測もあって然るべきと感じる。
出島に監禁同然に監視されていたオランダ人であるが、医者は別待遇。病者を診察する理由が立てば長崎市内への外出は可能。この条件、誰を診立てられるのか、頻度は、謝礼に決まりはなどの情報はネットでは不可能だった。しかし肥前藩高官、裕福な商人に限られているかとは容易に理解できる。武家商人らを通して「シーボルトはタダの医師あらず、博学に長じた学者」なる評判が立ち、鳴滝に塾を構えるまでに至ったのであろう。
鳴滝では日本人子弟に学問を教授し高野長英,伊東玄朴など後に日本医学を牽引する俊才が排出した。しかし全員が男。封建時代にあって女は読み書きそろばんで十分、学は要らない、まして蘭学など。滝に鳴滝に参加は能わず、やむを得ず遊女に身をやつし、出島にシーボルトを突撃したのではないだろうか。今のリケジョの元祖だったかもしれない(このあたりは推察)。シーボルトと滝が居を構えたのは塾の近辺であった。シーボルトは滝をなんと呼んだか。オタキサンに決まっている。
牧野富太郎、シーボルト、お滝 1 の了(次回は8月10日)

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