蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

宮沢賢治、心の震え 永訣の朝の原稿を前に

2009年02月09日 | 小説
昨週末に「宮沢賢治展」がありまして行ってきました。(2月7,8日、主催林風舎、八王子住宅公園会場)
展示目的は作品朗読会に併設して、主催者(賢治の実弟清六氏の孫に当たる和樹氏が代表)の所有する写真、原稿、自筆絵画の計15展が入り口脇の待合い室に展示されていました。休日だったので私はジャンパーに散歩靴という定年おじさんスタイルで乗り込んだのですが、これは猛反省です。賢治の遺影にこんなラフで失礼ということと、八王子なる田舎町には場違いな綺麗な艶姿、お姉さんがなんと目の前に腰掛けていました。思わず身構えてしまいましたが、その方が語り役の「青木菜な」さんでした。
私の狙いは展示、それも自筆原稿なので脇目振りたくも我慢して、そそくさと美人の前を。せめて青い背広だったら声懸けられたかなーこれがもう一つの反省点。ありました原稿5点が。
「永訣の朝」に焦点をあてます。ある方がこの詩の自筆原稿は訂正・書き直し、まさに苦心推敲が伺えると報告していた、私は疑問を持っていました。賢治の詩はそういう「推敲重ね」の詩ではないはずだ、その理解が私の賢治感、いわば信念だったのです。目の前の「永訣の朝」は(写真)一筆の書き直しもない語り書き、書きとどめの原稿です。ほっとすると同時に、思わずそこで涙を落としてしまった。賢治の詩自筆原稿の前で、失礼な振る舞いだったかも知れない。(写真は会場で撮影許可を得ました、ライトの反射で見づらい点御容赦)詩の前半を;

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛〔さうえん〕いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)以下略

冒頭から不吉な言い回しと奇妙な心象で始まります。
けふのうちに とほくへいってしまふ わたくしのいもうとよ みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ(今日中に遠くに行ってしまう私の妹、霙だというのに変に明るい外)
この3行をどう理解するかで詩の解釈が決まります。これは妹が行く極楽浄土のイメージであると思います。賢治が幻覚としてみたとの解釈でなく、浄土の光景が死の前に現れた。変に明るい外、霙が降るときは普通は暗い、明るい外は浄土になっているのだ。だから賢治は「きょうのうち」にと予告できたのだ。妹さんが死んだのは夜八時でした。
妹は外の霙を取ってきてくれと賢治に頼みます。それが=あめゆじゅとてちてけんじゃ=です。死に行く妹は霙空に関わらず明るい外が分かっていた、あのように浄土は明るい所だ、あそこに降る霙こそ兄さんにあげたい、今とってきておくれ、これが死を覚悟した妹の兄への別れの言葉です。
賢治は「ふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に」霙を取りに出る。そして
死ぬといふいまごろになって わたくしをいっしゃうあかるくするために こんなさっぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ

この4行が良く理解できます。「いっしょうあかるく」、空の明るさもべちゃべちゃ霙がさっぱりした雪に変身するのも、浄土、死に行く先の光景がもう外に現れている。兄さん外は浄土だ、と妹が兄を慰める。霙をとっておくれ、その兄妹の心の交じわり、心の共振がこの詩の底流です。死の前に共有する体験があった、そのようにしてこそ妹の死を受け止められる。これが賢治の心です。

賢治のこの詩にはまだ震えがあります。日蓮宗の実践家ではある、しかし近親の死を哀しみとまどう心の震えがあります。十年後の「雨にも負けず」で「でくの坊とよばれ」呼ばれるに、少しのとまどいも見せません。「そういう者になりたい」は死の覚悟ですが、心に震えはありません。人の死にあたり「震えから達観」までの十年の軌跡、信仰心と実践の重なりが賢治の生涯です。
書き足らないので以下次回に。
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鬼灯を遠くに投げての7を上梓

2009年02月06日 | 小説
「鬼灯を遠くに投げて」(小説)の7をHPにアップデートしました。全文長いのであらすじと一部をブログに載せます。

これまで(1~6)のあらすじ:1歳半で突然死した井田林太郎は霊(小太郎)となって三途の川、エンマ政庁にたどり着く。エンマから「悪人天国、善人地獄」に最近(と言っても2000年くらい前)変わったと聞かされ驚く。青鬼が説明する天国とは200億年の冷暗静謐の世界(オールトの海)。エンマが小太郎裁きを宣告しようとその時、娑婆から鬼灯が転がり込んだ。それは姉みどりの祈りを実相にもった鬼灯抜け殻だった。そのおかげで地獄に落とされた小太郎。

7は筋から離れた現代の批判。無く子も黙るウエルチ氏の経営哲学の批判も盛り込んでいます。これを起草したのが2008年の8月、その後派遣切りが起こりました。2009年の状況を予測し当たったと思っています。以下は抜粋、全文400字で30ページは左側のHPをクリック。


>二十世紀後半の企業経営者の中でウエルチ氏ほど賞賛を受けた人物はいない。彼は三十年に及ぶ企業経営のあと、=中略= 彼の狂信ぶりを語ろう。
「とにもかくにも毎年労働者の一割を解雇する」
これは信条でも理想でもない。彼の実践なのだ。

彼はその種族の男子としては小柄でかつ笑い顔を保つという自己訓練を実行してきた。=中略= 地獄の釜底で辛酸をなめたためではないかと推測している。しかし、何がなくとも何でもかんでも、詮索なしの問答無用で、彼は愛する従業員の十%を毎年首切りしていたのだ。

「お前は首だ.」
彼らは収入と生活基盤と社会的存在価値を一度に奪われる。
かくしてウエルチ氏には「そでに隠した血まみれナイフ」伝説がまつわりつく。薄気味わるいスマイルで人に近づく。血まみれのナイフを仕立てよい背広の袖に潜ませ、もう一方の手で従業員に握手して厳かに、
「君は会社にとって必要ない人物だ」

それと同時にナイフを首に突きたてるのである<
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