蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

野生の思考まとめ2 図の解説

2020年07月31日 | 小説
野生思考と近代思考の図1枚目、左のコラム;

両者の差を語彙の豊かさ、貧しさから判定していた時期があった(らしい。レヴィブリュール20世紀初頭の民族学者、らの時代だったか)。とくに抽象語の多さ少なさで族民の精神発達の度合いを決めていた。頂点に立つのが西欧近代思想とのオチが用意される

抽象語とは様々な個体を統合する語で、カタバミ、ナズナなどの種々を「草」する思考です。草と木を統合すると「植物」となりその上位に「生物」が位置する。統合するとはこれら似かようモノを取りまとめる思考力が必要になるわけで、上位、さらに上位の統合を試みるとは、そうした思考の成熟がなければ不可とする考え。

未開人は個々の草に名称を与えている。その数は西欧の一般人よりも多いかも知れない。しかし「草」なる抽象語を持たない「植物」の語彙もない(小筆には民族誌に不明だから検証できない)。こうした事象は「関心の持ち方」の差であると「百科全書」の一節を引用し、思考能力の差を否定している。

この主張、先住民と文明人とに「考えを進める思考力に差はない」、これが本書「野生の思考」の底流思想として流れている。

右のコラム;
言語と思考を説明している。
自然は断絶など見せずに連続している。それを人は概念を持ち込んで分断する。概念は言葉に表れる。イヌといえばイヌでしかないが、実はこのイヌ世界は人が頭に描いた概念の世界である。ソシュールの意味論の構造性を用い、かつ思考的に大いに発展させて自然、概念、言葉、実態を(本書のそこかしこで)言い表している。その辺りに解説を入れた。

1枚目の伝えかけとは;

1 概念、あるいは思考、思想でも良いが、それは頭に宿り言葉として表現される。その仕組みには先住民と文明人には優位劣位の差別はない。
2 先住民の語彙に抽象語が少ない(事実かどうかは不明)理由は抽象化する必要はないし、使う場面もないから。そんな語を用いると不便になる場合が頻繁に出てくる。

3 Nambikwara族(ブラジルマトグロッソに居住)は毒草の利用に長け、当然個別の語彙も豊富だ。故に「毒草」なる抽象語を持たない。全ての毒草に固有の具体名称が当てられている。父親は「そこに生える「毒草」を採ってくれ」と命じたら、息子は目当てとは別の毒草を持ってくるかも知れない。必ず「生え丈も盛りで吠え猿なんかを鏃一塗りでマイラせる紅トリカブト=Nambikwara語で言ってもチンプンカンプンにしか聞こえないが=を採れ」と命ずる。

余談ながら;

本書の最終章「歴史と弁証法」でレヴィストロースはサルトルの「弁証法的理性批判」への批判を展開した。サルトルは1950~60年代に共産主義に傾き、その歴史観である「唯物弁証法」による歴史解釈を「実存主義」独特の言葉遣いで開陳した。この著で「人の歴史の究極は共産主義経済にあり、人間社会はその途上」であるとした。ここまではよろしかろうが「西欧社会が共産主義に向かう未来は確実で、なぜならこの社会は、未だ発展していない「未開社会」とは異なり、共産化に接近しているから」と述べた。
これにレヴィストロースが(文の調子からしてまさに)噛みついた訳です。

第一章の冒頭に百科全書でのDidrotの言を挿んで、最終章で展開した。この著作で当初からサルトル批判を念頭に置いていたのだ。

第2葉について;


本書中には野生の思考PenseeSauvageなる語は出てこない。sauvageに替わってconcret具体あるいは具体的を用いる。具体思考は近代思考PenseesModernes(複数)に対峙する。実はこの近代思考についての記述は少ないので、小筆は勝手に科学でいえばコペルニクス、哲学ではデカルト以降とした。

具体思考とは何か。

1 モノを通した宇宙観。宇宙はモノで出来ている。
2 モノは形を持つ。形(forme=全体の姿、morphologie=部分の形状)による植物の分類。
3 形状(形以外にも色、生息域、感情、思考などもモノの一部)は本質である。というか本質と属性の区別を持たない(部族民通信の解釈)
4 似通う本質のモノ同士の移動、交流など(魔術magieに通じる)

これに対する近代思考は
1 モノは属性を持つ。
2 属性が似通っても本質が同一に結びつかない。この原理を最初に発見したのはコペルニクスです。天動説は天空の動きを見てのまま、天空が動くと説明した。ここに形状の似通いは本質の同一と決めつける具体科学の考え方が表れている。中世までは西欧もモノを基盤とした具体思考の大陸でした。

3枚目については後日に。続く
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野生の思考を読むのまとめ 1

2020年07月30日 | 小説
(2020年7月30日)
GooBlogに6月22日から野生の思考LaPenseeSauvageの解説を投稿してきました。ブリコラージュ、魔術、トーテム分類など系16回の投稿となりました。第2章のトーテム的分類は続きますが、その内容は民族誌を引用して「野生の思考」の証明となります。文化人類学を専攻するかたには関心はあるかと思いますが、小筆には取りかかりが不能です。
これまでの内容についても、私自身もとりまとめが出来なくなったのでパワーポイント3葉を作成しました。JPEG形式に変換して写真としてBlogにアップ出来ます。
本日はその3葉を一挙掲載。
解説といってもこれまで説明したとおりですが、まとめのまとめのつもりで明日以降に。

冒頭の「野生の思想」の思索的根幹を述べています。下は拡大。

2葉目、

3葉目です


明日以降、各頁の解説に取りかかります。
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野生の思考トーテム的分類法のホームサイト掲載

2020年07月29日 | 小説
野生の思考トーテム的分類法1~4を7月22~28日にブログ投稿していました。ホームサイト(tribesman.net)にトーテミズム分類の論理上、下に掲載しています。
トーテム論理とはcorrespondance(交流、異界交流)です。日常世界と別世界のモノが関連を持つとの信心がそこにあります。それと中世西欧、デカルト以降の西欧との比較を試みています。よろしくご訪問を。

(部族民の脱香港」は実行段階に入っています。長らく親しんでいただきましたtribesman.asiaにはIndex頁のみを入れています。是非ご訪問を。
なお、google検索では

tribesman.net 人類学哲学, フランス語修辞 レヴィストロース紹介

をコピーペーストしてクリックすると確実に入れます。


占星術の図。西欧の彼らにしても中世には非日常と日常を結びつけていた、具体科学を信奉していた証左。
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野生の思考LaPenseeSauvage トーテム的分類法 4

2020年07月28日 | 小説
Correspondace(異種交信)の実例を本書「野生の思考」から取りだしてみよう。

1 Chaque animal ou plante est en correspondance avec un element naturel.
動物植物は自然の要素と交流する。例として鶴と空、赤い鳥と太陽、鷲と山、ハイタカと岩山などNavaho族(56頁)
2 木々と鮭、イヌイット 前出。
3 植物家族=必ずしも似通いのない植物が番いを持ち次世代を再生産する、Dogon族、前出。
4 動物が何をしたい、何が欲しいのか全て分かる、なぜなら人と動物はかつて親族関係を持っていた。ハワイ先住民、52頁。

5 どんな植物も人間の誰も知らない神聖な用途を持っている、大事に扱わなければならない。白人が野の花を採取する習慣を批判するOmaha族。59頁。
6 独自の鷲狩りの手法、穴を掘り人が潜む。上の筵に餌の肉片を置き、取りに来た鷲の足を掴む。この手法を超自然の動物から習った。狩りの技術とその由来に超自然を持ち込んでいる。北米Hidasta族、67頁。
この猟技法の特異性についてレヴィストロースは>le chasseur et le gibier y sont conjoins dans l’espace intermediare , tandis que la chasse aux aigles les disjoint en leur assignant des emplacements opposes :<と解説する。その意味は「狩人(弓)と獲物の間には、本来、空という介在物がある。よって狩りは宇宙論的に許可されているのだが、「穴狩り」には狩人は直接鷲を掴む、しかし人が穴に隠れることは、この狩り以外にはない、穴に落ちるのは狩られる動物である。狩人が穴に落ちた動物と化けることで、この狩りは宇宙的に許される。Hidasta族の狩りの起源をこのように解釈している。

7 猟の成果と狩人妻の月経との関係。多くの先住民では貧果に結びつけるがHidasta族は好猟をもたらすと信じられる。その理由は上記の特殊性にあるかも知れない。68頁。

8 中世の西欧、星占いでは7の植物を惑星に結びつけ、12の植物に黄道12宮との関連を与え36の植物を占いに紐つけしている。人の将来と宇宙には繋がりがあり、それを予告する植物。

この「異種交信」について著者は;
>Tout cela, que nous attribuons volontiers a une philosophie naturelle longuement elaboree par des specialistes , eux-memes heritiers d’une tradition millenaire, se trouve tres exactement dans les sociates exotiques .<(59頁)
訳;これら全て(異種交信)について私達は、幾世代に渡り専門家が取り組み、彼らにしても千年もの先人の知識を受け継いで入念に練り上げられた自然哲学とすべきである。その哲学は明確に、西洋文明以外のあらゆる社会に見いだされる。

この論評にある「自然哲学」と上1~8を結びつけたい;

異種交信の背景説明とは;

1 形体の似通い。木の肌と鮭の肉身の色との共通性。赤い木肌を紅鮭、白は北極イワナなどと見比べたのかも知れない。植物家族では似通うところは多くはない植物を家族構成とした。これは動物の群れ(あるいは孤立)という形体を植物に応用したかと思われる。
2 動物と生活圏の結びつき。鷲と岩山、鶴と空など。
3 過去、出自からの類推。人はかつて動物と通婚していた。花は人の知らない神聖な役割がある。
4 非日常と日常の結びつき。穴に潜み鷲を狩る。また猟果を非日常の月経と結びつける。8の星占いは中世ヨーロッパなので「先住民」とは言い難いが「黄道12宮」なる日常からほど遠いモノを設定し人の未来、日常と結びつかせる。

8の異種交信の例を4に分類した。それらを統一する考え方は「モノとモノとの」繋がりです。これはいわば先住民の分類作業です。この基盤には具体科学の「モノ」思考が大きく影響している。

ブリコラージュの投稿でパワーポイント図(JPEG化した図)を添付したが、その中で「先住民のモノ思考とは限られた属性をかき集め、それらをして「本質」とするところにある」とした。本質と属性の区別を付けずに、ありきたりの知識をかき集め、それをそのモノ自体、本質としてしまう。近代科学の考え方は属性の追求であります。その究極に(相対性理論に王者の地位を譲ったが)ニュートンの万有引力、ダーウィン進化論、クリックらのDNAが位置する。




パワーポイント図を再掲する。

限られた範囲での知見を元に木の本質を木肌の色とし、それを鮭と先住民は比べた。自分たちが入植者よりもより良く知るという事実を出自に結びつけた。1~8これら全てが、属性を本質と見なしたモノとモノとの結びつきです。続く
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野生の思考LaPenseeSauvage トーテム的分類法 3

2020年07月27日 | 小説
Dogon族の植物分類法をあげている(54頁)
植物を22家族(famille)としている。
それぞれの家族は木、灌木、草と3の構成となる。それらそれぞれは身体の部分(生殖器)、とある技術、社会の構成と交流(correspondance)関係をもつ。

平素は分かれて暮らす植物のメス、ヨモギ類。

これら植物家族は単独に生活する、ともに生活するに分けられる。単独生活の植物はオスとメスに分かれる。これはイチョウなどにあるオス、メスの木を実際的に分けているのではなく、おおよそ関連がない植物同士を家族のオスとメス(夫と妻)としている。雨期(ないし乾期)はつがいを組、それぞれが子を持つ。オスの子はその種の子、メスのそれもメスの種の子。
一方、常に対に生活する植物もまた雨期(乾期)につがいとなってこちらもまた双子を産む。子の分布はA植物がBを生み、BはA を子に持つ。

こちらはオスがわ、セージ。挿絵はいずれも本書から

この分類法で驚かされるのは関連のない植物を交流させる奇抜さではなく、ここで大きな役割を受け持つcorrespondaneceの考え方がアメリカ先住民にも見られる事実があるからとしている。Navaho族民族誌でDurkeim,Maussが報告した内容では;

>生物は言葉なしと言葉ありに分けられ、言葉なしは動物と植物で、動物は走り、飛び、這いに3分され.....それぞれは自然の構成要素と交流correspondaneceを持つ。

アフリカDogon族北米のNavaho族は、ともに自然の分類にかけては長大で精緻で「独自」の分類法を持つことで知られている。その根底にcorrespondanceを置いている。また、分類にはそれほどの巧妙さを持たない民族にしても>Tous les bois sont du saumon>全ての木は鮭である(イヌイット族、Rasmussenの報告から)などこの概念を取りいれている。
すると、西欧の思考では説明が難しいcorrespondanceなるは、世界多くの先住民が取りいれていると言えるのか。

さらに幾つか部族の分類法を挙げたのちレヴィストロースは
>Les classifications indigenes ne sont pas seulement methodiques et fondes sur un savoir theorique solidement charpente. Il arrive aussi qu’elles soient comparables , d’un point de vue formel , a celle que la zoologie et la botanique continuent d’utiliser.(60頁)
訳;先住民の分類法は方法論的であるのみならず、入念にして強固な一種の理論的知識の上に成り立ち、ある種の公式的見方をすれば、動物学植物学が今も用いる分類法にも通じるところがある。

一読してDogon,Navahoの分類法は西欧にも比肩するなどと持ち上げているかに思えるが、要注意である。
Les classi...とles定冠詞複数を用いている。この意味は先住民の分類知識はアフリカであろうとアメリカ、アジアでもすべて共通項があるとの主張である。その共通項はsur un savoir theoriqueである。un savoirとは「一種の」知識である。理論的であるところは同等ながら、DogonとNavahoはそれぞれ「とある一種の」知識となるし、入念にcharpenterされている点には共通性がある。この動詞charpenterは材木を切る、削るが原義である。知恵や知識を削ったり叩いたりはしない。知を削るとの言い回しは日本語にたとえたら「鉄床で頭を叩いて考察力を増す」なる言い方だろう。こんな動作には理解が及ばない。文法は正しいが、表現になにやらの異質が醸し出されている。
さらにun point de vue formelにしても「そんな見方もあるかも知れない」程度の一歩退いた文の調子だ。

>Il n’est donc pas exessif de dire , comme le fait l’auteur de ces observations , que la distribution des plantes et des animaux , ainsi que des nouritures et matieres premieres qui en derivent, offre une cetaine ressembrance avec une classification linneenne simple.
(62頁、ThompsonのNamings in Wik tribesについての論評)

訳;これら事実については報告者(Thompson)もそう述べているのだが、彼ら(Wik族)の植物、動物、食物とその素材に関しての分類法は単純リンネ式分類法と似通う点が無いとは言えない、こう言っても言い過ぎにはならない。

尊師レヴィストロースは不定冠詞の遣い方で独自の修辞をこの文でも発揮している。une certaine...は「何となく似ているかも」が訳。une classification linnne...は「一種の単純リンネ式」。リンネに「単純分類」なるバージョンがあったとは知らなかったが、この言い回しではDogon等と分類学の近代的始祖リンネと似通いは認められるものの、それなりの隔たりがあると判断せざるを得ない。

2の引用を通してのレヴィストロースの伝えかけは明瞭である。

1 近代分類法(リンネ)と先住民のそれは異なる。似通いう部分は思考手順であり、それは理論をたてて演繹で、時には観察を通しての帰納で宇宙を分類し説明する。
2 両者を分ける要素は先住民の「単純リンネ式分類」が採用しているcorrespondance(交流)とarrangement(整え作業)である。
3 correspondance(交流)とarrangement(整え作業)はscience du concret具体科学が駆使する「モノへの拘泥」と「本質重視」の思考に立脚していると思える。

思考の進め方は先住民も文明人と変わらない。この考え方は人類学の基本である。先住民も演繹帰納の思考を持つから1は公理である。

2については、先にarrangementを寄せ集め技術のキー語として説明した。ありきたりそしてある限りの材料、道具で建築する。建築を土木、工芸作品と言い換える事も可能である。神話の創造過程には寄せ集めと整え作業が窺える。先住民の技術、哲学(魔術)、創造(神話)を通して統一性が認められるし、さらに世界観(分類法)に置いても、西欧人には考えがつかないcorrespondanceなる思考の一貫性がある。
上記2,3について推察を深めよう。続く

案内;先にBlog投稿したトーテミズムを、ホームサイトtribesman.netにブリコラージュの中として投稿しております。

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野生の思考LaPenseeSauvage トーテム的分類法 2

2020年07月24日 | 小説
神話や寄せ集め建築などで素材を仕分け、整理する作業を「arrangement整え作業」とした。作業する姿勢は「signe意味論」と「esthetique美意識」に分けられる。意味論では人の思考作用が働き、美意識は感覚に動かされる。ここが前回まで、続く頁で分離しているわけでなく、両者の2姿勢を統合した精神作用が、多くの民族誌学者から報告されていると指摘を入れている。

美形揃いと評判高いojibwa族、その娘

>Celle-ci les saisi sous un double aspect , affectif et intellectuel. (52頁)彼らからの報告で整え作業には2の性格があると知る。感情と知性である。Celle-ciは前文のl’observation ethnograohique民族誌学の観察、les(ses caracteres=整理作業の性格)同じく前文を受ける。

写真はネットから

続いて;

>Les etres que la pensee indigene charge de signification sont percus comme offrant avec l’homme une cetaine parente. Les Ojibwa croient en un univers d’etres surnaturels :
先住民らが意味づけをしているそれら存在を、あたかも人との親戚関係があるとみなしている。Ojibwa族(北米先住民)は超自然存在が住む別の宇宙を信じている。

signification(意味つけ)とpercus=percevoir感知する、2の語を用いているが、前の文節にあるsigneとesthetiqueを受け継いでいる。それらの精神作用が別の世界と超自然存在を想定し、それらを信ずるのだ。引用を続ける;

>ils resemblent a l’homme en ce qu’ils sont doues d’intelligence et d’emotion. Comme l’homme aussi, ils sont males et femelles , et certains peuvent avoir une famille.(同)
超自然者は人に似ているし知性と感情を持つし、人と同じく男と女に分かれ、家族を持つ。(male男は人に使えるがfemelleは大変な卑語メスで、人の女性にはまず使わない。ここでは超自然な存在なので用いたと思われる)

ハワイ先住民が超自然世界を信ずる例を紹介する(Handyなどの民族誌から)。原文の紹介は省くが精霊、神々、人の精神などが人と共存する世界を信仰しているとする。

ハワイと北米の先住民には交流はない。それぞれが異なる文化生活を展開していた。共通点は「先住民」の立場と新石器革命に獲得したscience du concret具体科学を信奉している人々であり、かつ西欧の哲学科学が2~3百年前に獲得した「sciences modernes近代科学」の洗礼を受けていない。
具体科学の基本思想は「モノ」世界の展開である。モノを展開するとなぜ超自然世界を考えつくのか。小筆は稚拙な推論を控え、引用を通しレヴィストロースの考え方を探る。

Ojibwa族の古老は語る>Nous savons ce que les animaux font , quels sont les besoins du castor, ou de l’ours , du saumon et des autres creatures , parce que , jadis, les hommes se mariaient avec eux...我々は。ビーバー、熊、鮭、他のあらゆる動物が何を必要とするのか、なぜそうした行動を取るのかを知っている なぜならかつて人は動物と通婚していたから。

>Ce savoir desinteresse et attentif , affectueux et tendre, acquis et transmis dans un climat conjugal et filial , est ici decrit avec une si nobles simplicite qu’il parait superflu d’evoquer a ce sujet les hypotheses bizzares inspirees a des philosophes par une vue trop theorique de developpement des connaissances humaines.(53頁)

訳;この損得なしの注意深い観察、婚姻生活の雰囲気からでも浮き出たような温かみと優しさがここで高邁な単純さと相まって、とっても奇妙な仮説をひねり出し、きっとそれは誰かしらの哲学者達が人の知識の発展の様を理論として考えついたものである。

自分たち白人(入植者)と較べ動物の知識にいかにすぐれるかの理論である。先住民の口述、ここでも、精神性と思考性を引き出している。

>Les conditions pratiques de cette connaissance concrete , ses moyens et ses methodes, les valeurs affectives qu’ils l’impregnent, tout cela se trouve et peut etre observe tout pres de nous, chez de nos contemporains que leurs gouts et leur matier placent, vis-a-vis des animaux, dans une situation qui est aussi proche que notre civilisation le tolere de celle fut habituelle a tous les peuples chasseurs....(同)

訳;こうした具体知識、それのみならず方法、手法そして愛情を込める事の価値など、これらを体得するに至る条件なるを考えてみると、同じ事が我々のごく近いところで見いだせると知る。その好み、そして選んだ職業によっては動物と向き合う同時代の人々、狩人....(続いてサーカス芸人、庭園管理者などを列挙している)

神話と寄せ集め技術の分析で「arrangement整え作業」なる概念を持ちだした。それらの行動は思考と感情に動かされているとした。先住民が動物界を整える作業には「親近感」が溢れるとレヴィストロースは教える。

>De tels propos , sous la plume d’un homme de science, suffiraient a montrer s’il en etait besoin que le savoir theorique n’est pas incompatible avec le sentiment, que la connaissance peut etre a la fois objective et subjective...(54頁)

訳;こうした話題(人と動物の交流話し)を耳にするにつれ、一介の科学者たる者(レヴィストロース自身)の筆は、理論を追求する事と感情は両立していない訳ではない、知識とは客観的でありおそらく同時に主観的であると、したためるだけであろう(54頁)。

超自然の信心、そして動物自然への分け隔て無い姿勢。これらはscience du concret具体科学を信ずる民族、部族に共通している。野生の思考の核心、トーテム的分類に近づいているのか。続く
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野生の思考LaPenseeSauvage トーテミズム分類 1

2020年07月22日 | 小説
Chapitre II La logique des classifications totemiques
トーテミズムの論理

序段に神話と寄せ集め技術の比較が置かれる。前章La science du concret具体科学では魔術と寄せ集めの比較(7月21日投稿の比較表を参照に)であった。ここに神話を持ってきたのはトーテミズムを導入する布石である。

神話と寄せ集めの共通点でanalogie類似性として万華鏡を絶妙にも引用する。

万華鏡

>Cette logique opere un peu a la facon du kaleidoscope : instrument qui contient aussi des bribes et des morecaux , au moyen des quels se realizent des arrangements structuaux<ここでの論理展開は少しだけだが万華鏡に喩えられる。この器具は(神話、寄せ集めと)同じにガラクタ破片を用いるがそれらを構造的に(あたかも意志が決めるかに)整頓する。(51頁)

万華鏡は皆様ご存じ、手で握れる太さの紙筒。両端は塞がれる。一方の端に採光の色ガラス、もう一方には覗き込みレンズ。覗いて廻してあら不思議、色鮮やかで幾何学的な模様が広がる。絡繰りを知るよしもないが、色とりどりのガラス破片(今はプラスチック)が筒内を浮遊し、その重なりが幾何学模様に反映される仕組みである。
arrangementsなる語の意味を後に考察する。

それら一つ一つを取るとクズ破片、それが万華鏡の論理(絡繰り)で統制のある構造に化ける。この点が神話、寄せ集め技術と似通う。両者には絡繰りならぬ、論理があるわけだ。

破片が作品に変質する。万華鏡的絡繰りは神話の形成と同じとレヴィストロースが曰う。写真はいずれもネットから。

引用文頭の「Cette logiqueここでの論理」は前文の内容をさす。

>Leur necessite n’est pas simple et univoque ; elle existe pourtant , comme l’invariance , d’ordre semantique et esthetique , qui caracterise le groupe des transformations auxquelles ils se pretent , et dont nous avons vu qu’elles n’etaient pas illimitees.<(同)

leur(それら、かれら)はこの文の前の「contraintes不自由、制限」を指す。ガラクタを集めて何やらを形成しようとしても、表現には制限があるとの意味合い。
ilsは同じく前文のleurs paliers d’utilisationを受ける。leurは神話イメージ及び寄せ集められた素材。すなわち神話や寄せ集め技術の表現の場。神話の口承内容や作品となる。

すると上引用の訳は;

表現においてなにがしの制限が課せられるが、それは単純でも、一言で言い表せる内容でもない。意味論としてかつ美学の見知から、神話では断片の集まり、寄せ集め技術ではガラクタが変容する過程を決めつけている。それは確かにある。変容の様には無制限ではないとは既に見た。

万華鏡の絡繰りは神話では意味論の制約、寄せ集め技術では美学に取り変わった。こうした制限をarrangementなる語に言い換えるのだが、その文節を引用する前にちょいと整理を;

contraintes表現における制限でこれは意味論(辻褄の合わない突拍子もない組み合わせは、喩え神話でも避ける。別の言い方をすればimages(神話イメージ)には訴え(message)が必ず潜む。この考え方は次著作の神話4部作に引き継がれる。寄せ集め技術の作品は時にmythopoetique(神話詩的)表現でおどろおどろしいが(facteur Chevalのお城、7月15日投稿)そこにも美学的配慮が窺える。

le groupe des transformations幾つかの表現(ガラクタ素材)が集体となって訴えある1の作品に化ける過程。

arrangement整え作業、ここに人の意志が表れます。その文を;

>sous un autre rapport, ils(=fragmants) doivent en avoir suffisament pour participer utilement a la formation d’un etre d’un nouveau type : cet etre consiste en arragement ou, par le jeu de miroir , des refrets equivalent a des objets , c’est-a-dire ou des signes prennent rang des choses signifiees ; 後略(51頁)

訳;(引用の前文に寄せ集めのガラクタや神話の断片は、それらを個々に見ると意味を持たない(Ils n’ont plus d’etre propre=本来持っていた存在を失している)破片に変わっているとして)
本来とは別の関連の中でそれら破片は(前出discours=対話、元々の製造者がその部分に意味が付せられるように計算して作る)、意味合いを十分所有し新たな応用の中で1の存在として形成されてゆく。新たな存在は整え作業に生まれる。鏡の効果により反射光が作品となる。同じくこの整え作業にては、(神話の形成過程での) 意味論的配慮(des signes)が意味される物(神話の断片)を順に定めて取り上げている。それと同じである。

この語がclassification(分類)につながるキーワードです。続く
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野生の思考、具体科学と魔術のまとめ

2020年07月21日 | 小説
(2020年7月21日)
これまでレヴィストロース著「野生の思考LaPenseeSauvage」の第一章「具体科学、魔術」につき3回の投稿をGooに入れている。明日からLa logique des classifications totemiquesトーテム分類の論理を予定する。この合間を活用して、これまでのまとめをパワーポイントで作成した。パワーポイントはJPEG(写真保存の形式)に保存できると最近知った。JPEGであればGooBlogも受け付けるので、PCスクリーンをデジカメ化するなどの作業は不要となる。もっと前から知っておけば良かった、無知は複雑系に走るとの、一つのbricolage教訓です。


野生の思考と近代思考を較べた。
左コラムには起源、思考、世界観、哲学、科学技術を5列にしている。


野生思考の起源を新石器革命とした。
本書冒頭に農業、工芸、建造などの始まりを新石器の出現と合わせ述べていることを「知」の起源とした判断による。レヴィストロースは歴史家ではないから、当時(1950年代)の風潮を受けたと見る。現在ではスチーブン・ミズン(英国歴史家、著作に心の先史学など)もこの説を唱えている。

paradoxe neolithique (新石器逆説)なる語をレヴィストロースは用いる。
>que l’origine des scineces modernes remonte seulement a quelques siecles pose un probleme ; le nom de paradoxe neolithique lui conviendrait parfaitement(26 頁).
近代科学の成立は僅か数世紀前にしかたどれない。このことは新石器逆説なる語は(それに=lui)完璧に合致している。

この一文から以下を理解する;
luiは前文のl’origine(=近代科学の起源)を受ける。
les sciences modernesは2~300年前にしか起源を求められない(quelqueの語感は2~3なので)。
新石器革命は1万2千年前とされる。いったんは革命的知識、技術を獲得した人類は、その後かくも長くscience du concretを信仰していたのだ。その間に知的進展は認められなかった。これが新石器逆説である。この逆説をうち破いたのが近代思考(科学)である。故に新~逆説は(origineは女性だから“彼女に”)似つかわしいとされるのだ。似つかわしいとは表現で、その出現が待ち望まれていたと言いたいのでしょう。

近代思考の起源をコペルニクスとした。
これは小筆の独断です。2~300年前としているからレヴィストロースはニュートンを念頭に置いたかも知れない。見えている天体の動き(モノ)はとある法則(本質)に支配されているとする考えである。ここに本質(万有引力)で属性(太陽系の運動)が説明できた。

具体思考とは「宇宙をモノで説明する」に他ならない。モノとは外貌(見た目)である。本質と外貌の融合とは本質と属性の未分化である。認識は概念と知覚のふらつきがあり、不鮮明である。

一方で近代思考の哲学ではデカルト、カントに代表される「知恵」の優先、これが確立され科学技術の支えとなった。

魔術の説明に「本質の異形転移」とある。
本質と属性が未分化、ということは本質が憑りうつって別の属性を持つことが可能。

azenda族の不運な男は呪われていた。呪いは誰かさんの怨みそのものだが、それが野牛や屋根に憑りうつり男を苦しめた。道真伝説もこの「本質憑依」で説明できる。

それ以外、世界観、哲学、科学技術の列説明についても、前投稿をご高覧なさったかたには理解に至ると思います。

追;日本人は、小筆部族民蕃神もその一人だが、デカルト・カントらの哲学を通しての知的訓練など受けていない。言霊の魔力を信ずる一人である。ならば、知覚と概念の対峙(ソシュールの言語学)なんてクソ喰らえかもしれない。この観点から哲学の先達を読むのも面白そうだ。

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野生の思考ブリコラージュをサイト投稿

2020年07月18日 | 小説
本ブログにて7月15~17日、3回投稿した「野生の思考ブリコラージュ」を部族民通信ホームサイトに、18日本日投稿しました。
内容に変化はありません。

ホームサイトについて

部族民の脱香港計画は着々と進んでいます。

tribesman.asia (DSNサーバーが香港にある)への新規投稿はありません。Index頁のみを投稿しています。

http://tribesman.net/ に新規記事を投稿しています。

Googleで「部族民通信」をキーにすると.asiaになります。.asiaを開いて頁あたまの案内「...net」をクリックすると「...net」に飛びます。一旦パソコンに.netをブックマークに入れれば、以降は.netにつながります。

Google窓に「...net」入れると、なぜかいまだに.asiaになります。Googleのキャッシュは長持ちするようです。.asiaでのネット活動は長かったからかも知れません了





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野生の思考ブリコラージュ3

2020年07月17日 | 小説
(2020年7月17日)
共時経時のモノの因果(causalite)これが魔術思考であるが、近代科学は決定論(determinisme)として結果を説明する。引用を進める。

>C’est de la meme facon que les elements de la reflexion mytique se situent a mi-chmin entre des percepts et des concepts<(32頁)
この文節からbricolage行動の思考論に入る。C’estは前の文節で語っている寄せ集め作業のこと。element=要素=とは作品を形作る各要素。前々回に掲載した奇怪な建造物(facteur du Cheval)を例に取れば石、煉瓦、窓枠など。pensee mythiqueでのelementは呪いの護摩の灰やらクマのクソなど(と推測する)。

訳;魔術的考察の各要素が「知覚されるモノ」と「考察されるモノ」の間をふらつくと同じく、bricolageに用いられる要素も同じくふらつく。

少々分かりにくいのはこの文の前段を引用しなかったからで、そこでは石煉瓦窓枠などのelementsはそれらが入手できたから用いるのであって、使えるなら何でも、使いにくくてもはめ込むという精神で作業する。するとこれらの材質は、その状態と用途に必要な規格との間で、すなわち、あるべき位置には置かれないけれど、何とか使えるから用いる。こうした状況を説明している。これをして「知覚...」と「考察...」と説明している。
さらにそれと魔術思考を重ね合わせたのだ。

魔術考察における「ふらつき」とは何かを申さねばならぬ。それこそ妙薬「クマのクソ」を巡る知覚=単なるクソ、と考察=頭痛の快癒、ここに信じようとも、ある意味では距離感を持たざるを得ない実態と言おう(苦しいけれど他に思いつかない)

bricolageと民芸運動の差は、片方はできあがりの形態を明確に持たない。もう一方はそれを持ち、作業道具を規格にあわせ管理している。


民芸運動とは古くの「寄せ集め作品」を近代手順で再現したものと言い切れるだろうか。写真は柳宗悦の作品。


染織(紬織り)で人間国宝の栄を受けた志村ふくみ氏(写真は同氏作品)は若かりし頃、民芸運動に参加した。しかし彼女が目指す方向は「bricolageに似せる」とはあわず、柳氏と決別した(新聞掲載の回顧録から)
2の作品を見比べ、両者の方向性の違いは理解できる。しかるに志村氏の作品にも幾分かの「崩れ」は窺えるのだが。前回掲載した日光陽明門にしても崩れ、奇抜、奇怪などは当てはまる。近代にして我々は、新石器革命以前bricolageの記憶にうなされているのか。


ここでの主張は

1 Bricolageの方法論とは要素(部材)の規格に拘泥しない。要素の本質(材質そのもの)を重視し属性(規格)を軽視する。前投稿で説明したモノの形態に拘泥する具体科学と思察の進め方は共通する。またそれは魔術とも共通する。いずれも属性を軽視し本質を最重要視する考え方でsる。
本質と属性の語を使った理由は、この後にすぐソシュール言語学の「構造」を取り込む仕掛けを入れているから。

ソシュールの意味論に入ろう。

前記のperceptsとconcepts「知覚...」と「考察...」は意味論のsignifieとsignifiantに相当します。小筆は幾度か解説を挙げているがここでもう一度。

Percepts=signifie(ソシュールの言う意味されるモノ), 知覚できる(モノ)はイヌに例えればそこらをうろつく、見えているイヌです。
Concepts=signifiant(同 意味するモノ)頭にあり言葉としてイヌを発音せしめる考察です。

>Il serait impossible d’extraire les premiers (percepts) de la situation concrete ou ils sont apparus , tandis que le recours aux seconds (concepts)exigerait que la pensee puisse mettre ses projets entre parentheses< (32頁) ( )は訳者。

この文は寄せ集め者の思考と行動を説いています。目の前にできあがった作品とそれを作らさしむに至った頭の中(設計図かも知れない)の関係を、ソシュール言語学の「意味する」、「意味される」の対峙を用いて解説する。( )は訳者。

訳;感じられるモノをそれが顕れている具体状況から引き抜く(Chevalの城で見ると、無造作に積まれる煉瓦や石の意味あい)は不可能かも知れない。さらには考察していたなにがしかを突き詰める作業とは、思想(設計図的なモノ)がそれらの考察を括弧内に置く(何を作るのを明瞭にさせる)事につながり、これも労を要する。

前出>(魔術は)「知覚されるモノ」と「考察されるモノ」の間をふらつくと同じく、bricolageに用いられる要素も同じくふらつく<この考え方を言語学意味論を用いて説明している。
何故意味論を持ち出したかは、思察の進め方を一般的に、思弁的に進めるためと考える(レヴィストロースは哲学者なので)

劇的な一文が続きます;
>Or, un intermediaire existe entre l’image et le concept : c’est le signe , puisequ’ on peut toujours le définir , de la façon inauguree par Saussure a propos de cette categorie particuliaire que forment les signes linguistiques , comme un lien entre image et le concept , qui, dans l’union ainsi realisee, jouent respectivement les roles de signifiant et de signifie.(32頁)

訳 ; さよう、イメージと考察の間には何者かが仲介している、それが「意味」である。この特別な範疇(bricolageの作品と設計図)、それはイメージと考察との関係であるが、それを意味する、意味されるの、ソシュールが先鞭を付けた言語学意味論の手法でもって、解析できる。

この後、寄せ集め作業者の製作姿勢、思考の描写が入る。貧弱な道具体系、手に入る素材を何でも使うの制約から作品がhetereclite奇抜、不規則になってしまう。この製作過程の跛行性をして寄せ集め従事者の頭には意味論の破綻が生じている。続く


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