蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

精神分析現象学ゲシュタルト 6 最終回

2022年05月27日 | 小説
(2022年5月27日)Hyppoliteのフロイト解釈はラカンのそれと噛み合わない。
前回(25日)引用でHyppolite は返答でリピドー(性欲)を生体系の一部として、他の生体系要素と集合、統合する傾向(身体機械説を示唆する)を持つと指摘した。この解釈では自然・生物は主体性を持ち自然淘汰が発生し、単方向への進展が進む進化論に近似する。一方ラカンはリピドーが他本能と連関、集体するなどを想定しないが、フロイト原著にそれが記されている事実は否定できない。
ラカンによればリピドーは死の本能と対をなすであり、性欲と死願望には精神構造的に因果が認められる。前回文の訳「君が説明してくれた抗争」とはラカン主張の最重要の「性と死」の抗争と理解する。
ともかく、フロイト説はダーウインに影響を受けているとHyppoliteが指摘した。Mannoniと合わせて2段撃ちを食らったラカン先生、形勢は一気に不利になった、どうする。しかし追い詰められても慌てないのがラカンの真骨頂、頬を苦味に崩してニヤリのセリフが<J’entends> 聞いてるよ。続く文句は雪崩の怒涛か竜巻吹きまくり、
<Mais observez que la tendance à l’union―l’Eros tend à unir ― n’est jamais saisie que dans son rapport à la tendance contraire, qui porte à la division, à la rupture, et très spécialement de la manière inanimée. Ces deux tendances sont strictement inséparables. Il n’y a pas de notion qui soit moins unitaire. Reprenons cela pas à pas. (101頁)
訳:合同する傾向なるを見て取ると、まあエロスは他を取り込む一方だが、普通は、その正反の傾向との関連を理解しないと駄目だ。それを分離、破断とするが動きにおいては、こちらはとりわけ不活性、なかなか見破れない。この2の傾向(合同と分離)は一切、分離できない。単一体よりも少ない構成は考えられない。これらを一歩一歩、取り組むつもりだ。
これまでの本セミナー(Au-delà du principe du plaisir, la répétition)の論考の流れをまとめると:
1 Merleau-PontyのPhénoménologie講演について「分析的でない、Gestalt思考の一派生だとラカンが否定
2 Gestaltとはなんぞやをラカンが講釈する。モノ(自然)は主体で常に正しい形体を求める単一方向性を持つ
3 Merleau-Pontyは世界を理解する知覚を語るが、その仕組みは直感的、瞬間的で、世界を理解できない
4 Hyppoliteが「それは画像的現象学なのだ」(Gestaltではない)と指摘してから風向きに異変が生じた。
5 今回投稿(27日)でこの顛末が閉じた。
ここでセミナーは小休止を迎え、ラカン先生は自室に戻る。再開されたセミナーではMerleau-Pontyへの言及は無くなった。ここまで「知覚の現象学はゲシュタルト」なるラカン解釈は参加者から同意を得られたか。答えは;
ノーと判断したい。かのHyppolite (この時点で高等師範学校哲学教授であり学校長)は明確に反対の意思を顕にした。
再開セミナーではHyppolite への反論とフロイトへのラカンの味付け(形而上思考で精神分析を哲学に引き上げる試み)が読める。例えば快楽原理 « principe du plaisir »および精神2重構造を形成する要因のラカン説明。これが大変面白いので「悦楽の果、身体機械、繰り返し」として6月中には連続投稿を再開します。


ブルジョワ出のラカンは服装に気遣いを欠かさない。超ネクタイを好むのと、こんな伊達男姿でセミナーを運営していた。

苦み走って頬を崩した写真はネットから

精神分析現象学ゲシュタルト 6 最終回 の了 (2022年5月27日)
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精神分析現象学ゲシュタルト 5

2022年05月25日 | 小説
(2022年5月25日)Mannoniが投げかけた一閃の指摘がセミナーを暗転させた。
<Cela peut dépasser quand même le plan de l’imaginaire. Je vois le germe de la pensée gestaltiste dans la pensée de Darwin. Quand il remplace la variation par la mutation, il découvre une nature qui donne de bonnes formes>
訳:それ(ゲシュタルト)は画像的考え手順を越えています。ダーウイン思想にはすでにゲシュタルトの萌芽が見て取れます。生物の差異を突然変異に置き換えた。正しい形を追求する自然をここに見つけたわけです。
なるほど自然の中で場(生物進化)の設定、主体性の確保(自然淘汰なる原理)、単方向で「bonne forme正しい形」に向かう(進化)など(ラカン定義の)ゲシュタルト思想そのものである。しかしラカン先生、この指摘をして、一般に膾炙される「フロイトはダーウイン進化論の影響を受けて精神分析を立ち上げた」に議論が向かう事態を怖れた。なぜなら本家のフロイト師匠が進化論に示唆を受け、その進化論はゲシュタルトそのものとなると精神分析学の正統後継者を自称するラカンには格好がつかない。「ゲシュタルト心理学が正統なんじゃない」と突っ込まれてしまいます。
<Je ne veux pas au-delà du plan où se tient Merleau-Ponty> Merleau-Pontyについて話ししているんだから、それから外れる話題は採り上げたくないと乗ってこない。
とは言うもののこんな時に鼻柱の強さが見えてくる先生です、進化論についての自己解釈講義に発展してしまう。続く文節、
<L’idée d’une évolution vitale,…(中略)…la croyance à un progrès immanent au mouvement de la vie, tout cela lui est étranger, et il répudie expressément> 生命進化なる思想=中略、自然がより上位の形を形成しているとなど進化論を彼の論法で断定し、生命活動に内在する活動、発展の確信なる…略を閉じる=は彼に馴染まない、彼はその思考を除外している。
唐突に彼 « lui, il » が出てきた。前文に出てきたMerleau-Pontyに結びつけるのが正しい読み方だが、文脈が乱れる。おそらく聴講していた参加者も「誰だい彼とは」首を傾げたのだろう、早速、続く口調にフロイトを出してきた。前文の「彼」はフロイトと目星がつく。「フロイトは臨床に近い、経験を学に発達させたのだ」説教を垂れ、フロイトにおける進化論の影響を否定する。それが、
<Comme Freud est un sujet peu porté dans ses choix à partir de position de principe, je crois que c’est son expérience de l’homme qui l’oriente. C’est une expérience médicale. Elle lui a permis de situer le registre d’un certain type de souffrance et de maladie dans l’homme, d’un confit fondamental>
訳:原理を定めその思想を尊重して論を展開する、そうした姿勢をそもそもフロイトは全く持っていない(ダーウインとは違う)。接してきた人間との関連の様でその理由は説明ができる。臨床体験です。特定の苦しみ、精神の抗争、そうした病態の臨床経験が、彼の意思をその方向に向けさせたのです。
<Expliquer le monde par une tendance naturelle à créer des formes supérieures est à l’opposé du conflit essentiel tel qu’il le voit dans l’être humain. Mais ce conflit dépasse l’être humain. Freud est comme projeté dans l’Au-delà du plaisir, qui est une incontestablement métaphysique, il sort des limites du champ de l’humain au sens organique du terme. C’est une catégorie de la pensée, à quoi toute expérience du sujet concret ne peut pas se référer.
訳:自然が傾向を持ち常により良き形に形成されるなどの理論は、彼、フロイトが見つめる生きる人の精神の抗う様とは対極にあります(ダーウインとは違うのだ、これでもか!)。しかるにこの抗争は人の手(彼の手)に余るものです。「欲望の果に」なる著作、それは正しく形而上の論ですが、それに没頭していたその時彼は、人の範疇を越えてしまった、生体系との意味ですが(頭が混乱した)。これは思想を語る作品です、そこに具体的個性(肉身の個体)への応用できないでしょう。
(ゲシュタルトとか、自然哲学など本家はおクビにも参考にしていないよ)。ただ最後の著作でその試みをしたが、トチ狂ったね(フロイトを人と呼したワケは先生への直接悪口避けたと見られる)。精神分析の本道と進化論の乖離の説明にラカン必死の様子が伺えます。
今まで聞くのみだったHyppoliteがここでようやく口を開いた。その言を聞こう。


的を射た質問でラカンを立ち往生させる高等師範学校哲学教授Hyppolite、ヘーゲルの紹介者でもある。写真はHyppolitteの訳による精神現象学の仏語版の表題頁、1936年出版

ハードバック、格調高い革装、全2巻

その1ページ。
本書は難解、しかし名訳とされる。難解なのはHegelが難解なので訳も必然、難解になってしまう。

<Je ne conteste pas du tout la crise décrite par Freud. Mais il oppose à l’instinct de mort la libido, et il la définit comme la tendance d’un orgasme à se grouper avec d’autre organismes, comme si c’était là un progrès, une intégration. Il y a donc quand même chez lui, indépendamment de ce conflit indéniable dont vous parlez et qui ne le rend pas optimiste du point de vue humain, une conception de la libido, d’ailleurs mal définie, qui affirme bien intégration plus en plus grandes des organismes. Freud le dit d’une manière nette dans son texte même(101頁).
訳:フロイトが述べるところ精神における発作を疑うつもりなど全くない。しかし彼はリビドーを死の本能と対立させている。それ(リビドー)とは一つの生体であって他の生体系と集合する傾向を持つ。進展、統合であるかに。そう考えていくと、君が説明してくれた「抗争」を否定しないけれど、それとは独立している(別個の)リビドーの概念をフロイトは考えていたのではないか。それ(精神における機械反応、ひいては精神の独立性)はフロイトを楽天的人間にするものでないし、うまく説明していないけれど、より大きな生体系に統合すると決めつけている。フロイトは著作でそれを明確に言っている。
Hyppoliteの指摘はフロイトにおける「自然の主体性」である。それはダーウィンと一脈通じるしゲシュタルト的でもあるーラカン先生、どうするね。

精神分析現象学ゲシュタルト 5の了(2022年5月25日)次回(最終回)は27日予定

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精神分析現象学ゲシュタルト 4

2022年05月23日 | 小説
(2022年5月23日)Merleau-Pontyの知覚の現象学(Phénoménologie de perception)、その主唱する中身が出揃った。彼は現象(phénomène、自然)と知覚(perception、人側)を峻別している。現象側の構造を見ると;
場(espace)にはモノ(chose)が充満し、モノは特性(qualité)を具有する。特性は方向性(sens現れ)を発信する。方向性はモノそれぞれの発信の仕方を見せるも、全体としてまとまりがある。場は目の前の空間と理解すればよろしい、空域時域に限定を受ける瞬時性の空間であり、これらの一連が « apparences » 表出であり場に宿り構造性を形成する。これを して« phénomène » 現象という。
現象を見据える側、人の « perception » 知覚は何をしているのか。
人はモノを吟味する(視覚、嗅覚などの五感)、モノから表出する方向性(sens)を感じ取って自己の内に取り込む(imaginaire)。Merleau-Pontyによると受け止め(favorable)と拒絶(défavorable)に分かれたりする。家宅の絨毯を選ぶときに人は暗い色合いを選ばない、その色が感情を落ち込ませてしまうからとの例をあげる。これが知覚であり、モノを吟味するとはそのモノの存在を、現れを通して自己に再現することである。自己再現にいたるまでの精神作用を導引、conduiteとする。
<Une qualité comme le mielleux ― et c’est ce qui la rend capable de symboliser toute une conduite humaine ― ne se comprend que par le débat qu’elle établit entre moi comme sujet incarné et objet extérieur qui est le porteur ; il n’y a de cette qualité qu’une définition humaine>
訳:(前文で蜂蜜を例に挙げ、手で掴むとヌルとした感触を得るとして)この蜂蜜の特性がそれ(la、前文にある人の手)に(蜂蜜であるとの意識)をシンボル化させしめるのである。生身の主体である自己(知覚)と外部の方向性を持つ対象(現象)との間のやり取りはかくあると疑いようはない、特性とは人が(方向性を通じて)規定するものなのだ。
以上がMerleau-Ponty がCauserieで解説した知覚の現象学となる。
知覚とは;
五感を用いて対象物を吟味して、特質から発せられる方向性を理性で統合する。するとconduite導引の作用で精神に対象のimaginaireが宿る。かくして現象と知覚の結合が成就する。
ここでラカンの批判に戻ると(以下3箇条は18日の再掲なので後半省略);
1 現象学はゲシュタルト…
2 形態(=自然)を知覚するperceptionなる機能は単なる思いこみ…
3 人が世界を自身に構築する作業は積み重ね…
ラカンによると現象側、場はモノを含みそれらは「bonne forme正しい形」を常に形成する。なぜならあるがままの形は必ず場に形成されるのであって、その必然形態が人に覚知される(場の瞬時性をこのように理解した)。
モノには特質が付属し刺激を放出する。これらの現象作用はゲシュタルトが言うところの自然構造である。ゲシュタルト思考では場の構造性は「主体」である。ヒトがその存在を知らなくても場には形体の構造、規則性、恒常性が存在する。無意識の判断、錯誤を標榜するゲシュタルト心理学では特に顕著。
Merleau-Pontyによると現象を覚知する作業は « synthèse intellectuelle » 知的統合であり、人が知覚しない限りその場espaceのモノに特質(qualité)は発現しないから存在しない 。すると場をl’unitéとして一体化するphénomèneも発生しない―と教える。場は物理的には存在する主体であっても、それが包有するphénomène現象はヒトが「既見したimaginaire(画像=Hyppoliteの規定)の客体としてのみ存在する」のである。
(Gestaltがだんだん近づくと前述(20日投稿の最終文節)したが、« synthèse intellectuelle »で大逆転した。Gestalt現象学は別モノを宣言するこの語の意味づけ、その精緻さに部族民は感動を覚えた。知覚は人の思考の覚知作用に他ならない、知覚の現象学は分析的、形而上です)
場の「正しい形bonne forme=ラカンの用語」は人精神にのみ存在する。イヌの主体が人の頭にあると、ソシュールの意味論構造をひっくり返したレヴィストロースの論説と通じる。
現象と知覚の交流をMerleau-Pontyは « débats » 論争とする。特質の方向性を吟味し « imaginaire »を汲み出そうとするヒトの思弁活動を言い換えた換喩と読め、名句であると熱烈評価したい(哲学者は時たまこのように破格の表現を試みるものだ)。


Octave Mannoni 精神分析医 1923Lamotte-Beuvron~98年Paris。写真は壮年期、セミナー参加時で31歳。ネットから


ラカンはperceptionには、ヒトが外界を統合する能力は無いとする。« Débats » に対するラカンの言葉は « contemplation, échange » 。精神内に経時に流れる経験を貯め込み共時に統合する。これが深層心理を形成する。直感的 « débats » に対して沈潜して複層化を目指す語感との対比は明確である。ラカンの思弁性が批判3の「瞬時の直感」では現象は「知覚」できない(批判の2)―につながる。
ラカンとMerleau-Pontyの違いは外界を認識する作業の異なりに絞れる。それを経験の空想的 « imagination » 累層(ラカン)と言うか、空間構造性の知的統合(Merleau-Ponty)とするか。認識とは個人体験の経時累層(精神分析)なのか、瞬時直感の単層導引(現象学)であるのか。はたまた記憶の積み上げか瞬時認識か、この差異にまとまる。
精神分析はゲシュタルトと世界観、認識で大いに離反している。それを非分析的と非難するラカン思いこみが勢い余って、やはり精神分析とは異なる認識論を主張する現象学をその派生と判断して、論が走ってしまったのではないか。たしかにその文脈にはモノを主体とするかに受け止められる論考がうかがえる。部族民は « synthèse intellectuelle »知的統合を理解する鍵の語と採り、ラカンには « la pensée en eux de structures solides » 「強固な構造がそれら(自然)に内蔵される思想」が引っかかった。のではないかと思う次第です。
しかしここでセミナーは暗転する。Mannoniが切り口も鋭い一閃の指摘をラカンに投げかける、
精神分析現象学ゲシュタルト 4の了(2022年5月23日)
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精神分析現象学ゲシュタルト 3

2022年05月20日 | 小説
(2022年5月20日)Merleau-Pontyの現象学を否定するラカン要点をまとめる;
1 現象学はゲシュタルト(形態は内蔵される物の集体。それ自体が主体であり、必ず「良い形」を表現する)の流れをくむ
2 形態(=自然)を知覚するperceptionなる機能は単なる思いこみ(saisie)であって、自然と人意識を結びつける能はそれには備わらない
3 人が世界を自身(精神)に再構築する作業は積み重ねであって、現象学が論ずるかの「瞬時の直感」ではない。
上の3点にまとまるかと思う。ラカン論難3点の根拠を探ろう。
それはまずはMerleau-Pontyの思考を浮き彫りにして後に上記の3点と対比させる。Merleau-Pontyがこの講演、おそらくCollège de France講堂で何を語ったかを見極めるところから出発する。何が語られたのか。
現象学とは;
Science d’apparaitre, déterminer la structure du phénomène:現れる様を解明する、現象の機構を特定する(Puf哲学辞典)。Merleau-Pontyが主唱するそれは知覚の現象学(Phénoménologie de perception)とされる。その思想は;
<Pour marquer à la fois l’intimité des objets et la pensée en eux de structures solides qui les distinguent des apparences, on les appellera des « phénomènes » et la philosophie devient phénoménologie, c’est-à-dire un inventaire de la conscience comme milieu de l’univers ( 著作Phénoménologie de perceptionから)思考とその対象の親密性とその構造の緻密さに着目し、外観の差異をもって対象を分別する。それが現象であり、その学を現象学という。目的は宇宙を場(milieu)として認識するのである。
かいつまんで;人は全宇宙を見渡せない、目の前の光景を場として、それを認識するに構成要素の外観を持ってする―と部族民は理解する。ちなみに現象学の濫觴はフッサールにあるとされる。フランスにおいてはMerleau-Ponty以外にサルトルなどが影響を受けたとされる。本セミナーに参加しているHyppoliteはヘーゲル現象学の権威でもある(と聞いた)。「外界と人の作用」解釈おいて多くがそれぞれ独自の仕組みを開陳している(らしい)。ちなみにフッサールは現象を「学」として大成させてはいない。故に現象学の全域を俯瞰する要は感じないから、本投稿ではMerleau-Pontyの説のみを紹介する。
眼の前の光景をMilieuとしたが別の著作ではEspace(空間)と規定している。更に別作ではChamp(フィールド)も用いるなど用語の入れ替わりはあるが概念は同一なので、場とする。場はモノ(chose)で構成される。
この概念を基本として講演内容を探る。
彼の死(1961年5月)の後60年を経過し著作権が消えた。出版社ガリマールはネットに彼の主要作品を公開した。「Causerie1948年」を見つけこれをネタ本として採り上げる。この小論文は映画学校École de cinémaで若き映画人Cinéastesを前にしての講演の活字起こしである。ラカンらが聴講した講演と6年の隔たりはあるが、内容に差は無いとする。冒頭、

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ガリマール(出版社)の粋な図らいで彼の著作はネットで閲覧、コピーダウンできる。Causerieもネットから借用した。



<Si après avoir examiné l’espace, nous considérons les choses mêmes qui le remplissent, et nous interrogeons là-dessus un manuel classique psychologie, il nous dire que la chose est un système de qualités offertes aux différents sens réunies par un acte de synthèse intellectuelle> (Causerie Chapitre III les choses sensiblesから)
訳:場 « espace »を探究するとそれはモノ « chose » で充満していると気づく。心理学の教科書にそってモノとはなにかを追求する。それは色々な方向性を持つ特質(qualités)の集成であり、それらは知性の持つ統合力によってまとまる。
ここでモノと思想、主体客体、現象論とゲシュタルトについて数行を費やしたい。
前引用のPhénoménologie de perception にでは « la pensée en eux de structures solides »「それら(モノ)に潜む構造の思想」とモノが主体であるかに記述している。Causerieではモノが発する方向性を纏めるのが知性であるとするが、この意味は知性が主体となる。このあたりには表現の錯綜が認められるが、部族民はこれを意味論(ソシュール)の手法と照らし合わせ解釈したい。
犬なる動物がいるから「イヌ」と指差す。犬は実体で主体を持ち、言葉の「イヌ」は客体である。言語学(実学)であるからこの相関は許される。レヴィストロースはこの相関を逆に考えた。犬なる動物は自然に存在しない、それは人の頭にある。人が「知性の統合力」を発揮し、ワン吠え尻尾付きの4足動物を「イヌ」とした。意味論の主(signifié)客(signifiant)を構造主義が反転させた 。レヴィストロース解釈では主はsignifiant、それは思想である。
ではモノ « la pensée en eux de structures solides »と思想« synthèse intellectuelle »の関連をMerleau-Pontyはどのように捉えたか。部族民(蕃神)はレヴィストロース構造主義流として考えていたはずと思うが、ラカンはla pensée en…の文脈通りに捉えた。するとこれはゲシュタルトの傾向です(ラカン論難の根拠です)。
Causerieに戻る。
モノの特質には方向性(sens)が備わる。方向性の意味合いが不明だが次の文章に、
<Le citron est cette forme ovale…>レモンを引き合いに出し、それは両端に突起を持つ楕円錐の形状、黄色、手触りなどの特質を列挙する。
となると特質qualitéは色、形などの性状、付随するsensはそれらが外界に表出する刺激、見てくれと言える。現象学science d’apparaitreとは現れの科学とされる所以がここにある。レモンが外観として表出している各要素(形、色、手触り)などはそれ自体に伝えかけ(=affection)が備わり、人は黄色を見てレモンと気づくのだが、特質を個々に分離してそれらの伝えかけに反応するわけではない。
<Cette analyse nous laisse insatisfaits parce que nous ne voyons pas ce qui unit chacune de ces qualités ou propriétés aux autres et qu’il nous sembles cependant que le citron possède l’unité d’un être dont toutes les qualités ne sont que différentes manifestations>
訳:こうした分析(個別分離)には不満が残る。なぜならこれら特質ないし属性を集体するものが見えてこないからだ。レモンには存在物としての一体があって、それぞれの特質とは表示に過ぎないのだ。
<L’unité de la chose demeure mystérieuse tant qu’on considère ses différentes qualités ( sa couleur, sa saveur, par exemple) . La psychologie moderne a fait observer que chacune de ses qualités, loin d’être rigoureusement isolée, possède une signification affective qui la met en correspondance avec celles des autres sens>
訳:それら特質の差(レモンの色、香りなど)のみに拘泥する限り、存在の一体性は謎めいたままに残る。心理学の教科書にても指摘されているが、それら特質は孤立しているのではなく、一種の意味合いを伝える。それをしてその特質が他特質の意味合いと関連を持つ起因となる。
現象学がだんだんゲシュタルトに近づいている、気になる文脈だ。

精神分析現象学ゲシュタルト 3の了(2022年5月20日)次回は23日。
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精神分析現象学ゲシュタルト2

2022年05月18日 | 小説
(2022年5月18日)このところ(=前回16日投稿の最終文節、ラカンは現象学をゲシュタルトの派生として軽んじる部分)は部族民(蕃神)と考え方を異にするのだが、ラカン先生の言い分を聞こう。
<Il se raccroche en effet aux notions de totalité, de fonctionnement unitaire, il suppose toujours une unité donnée qui serait accessible à une saisie en fin de compte instantanée, théorique, contemplative, à laquelle l’expérience de la bonne forme, tellement ambiguë dans le gestaltisme, donne un semblant d’appui>(100頁)
訳:彼(Merleau-Ponty)は結局、一種の方向性を持つ集体の観念にしがみついている。これは形としてまとまりを持つわけだから、取り憑かれた精神によって思弁的に理論的に、瞬時にそれと見分けられる。ゲシュタルト思考が述べるところの「良き形」、それ自体は大変曖昧な観念であるけど、その集体が精神に認められる見せかけの根拠となっている。
分かりにくいから思い切った意訳を試みる:ゲシュタルトでは集体が維持されるとはそれが「正しい形態」に向かうから―と考える。直感というか偏見というか、説明できていない精神(知覚perception)がその形態を即座に見極められるとMerleau-Pontyが主張したのだ。


形態とは一体で一方向性を持ち、正しき形(Bonne Forme)に収斂する。ラカン先生の解釈です、

バラとかカーネーションが一方向に収斂した花束(日比谷花壇殿御謹製)を眺めながらラカンの解釈力そして修辞の卓越性には感心させられる。

続く文は<L’ambiguïté dans une théorisation où la physique se confond avec la phénoménologie, où la goutte d’eau, =後略>(同)
訳:理論付けでの曖昧さは自然と知覚現象を混同してしまった過ちにも認められる。(以下は後略部)水滴は円錐体を取るが我々はそれを円形として見ている(現象学では自然の形状を見分けられない)。
<Il y a sans doute quelque chose qui tend à produire au fond de la rétine cette bonne forme, il y a quelque chose dans le monde physique qui tend à réaliser certaines formes analogues, mais mettre ces deux fais en relation n’est pas une façon de résoudre l’expérience dans toute sa richesse. Si on le fait, en tout cas, on ne peut plus maintenir comme Merleau-Ponty le voudrait, la primauté de la conscience>(同)
訳:網膜がこの正しい形を形成する何らかの機構は存在する、かつ自然界がその像に近似した像を形成している事はある。しかしこの両の事象を結びつける事は、人の経験(知性)の豊かさを説明するには不向きである。もしそれを試みようとすれば「意識」が抱える何にも増しての優位さを、Merleau-Pontyが維持されると望むのだが、保持しようがない。
そもそもの順番は自然の形態が原初で、網膜上の像が自然と「似た」形となる。それを逆にして、自然が網膜像と似た形としている。実はMerleau-Pontyが説く知覚perceptionの特徴は「人が知覚する像が実体」とする点にある。ラカンはその主張を理解した上で、逆置など無いとの皮肉として自然と網膜を逆転させたと(部族民は)捉える。ラカンは « bonne forme正しい形 » なる語で、ゲシュタルト解釈の形体収束点を表現した。正しいとは目の前には「あるがままの」形で、それはが必ずそこに存在する。その形体の究極形を確認するというゲシュタルトの思考そのものだが、イタリック体で記されているとは曖昧だから、曰く付きとなる。
現象学に手厳しいラカン、ここで自説を誘導する。
<Une conscience contemplative constitue le monde sur une série de synthèses, d’échange, qui le situe à chaque instant dans une totalité renouvelée, plus enveloppante, mais qui toujours prend son origine dans le sujet. (À M. Hyppolite) Vous n’êtes pas d’accord(同)
訳:思弁的な意識とは統合の流れ、そして交換として世界を構築する。流れにおいての各瞬間には、より広く覆う統一体として世界を更新して行く。そして世界の原初とは常に主体(個人)に置くのである。Hyppoliteに向かって「あなたは同意してない」
上訳はクセジュ文庫化してしまった。解説を試みる;
「一つの思弁的意識」がラカン主張する意識である。それは世界を、自己意識と世界との交換(交流、弁証法的)を保ちながら、経時に重なる経験(知性)を共時的に統合synthèsesし、自己の経験としての個(主体)の精神に積み上げる。経験を共時に統合し、それを意識の底流、潜在意識として取り置く。これが上引用文の主旨で、フロイト説を踏襲したラカンの学説そのものを語っている。
Hyppoliteの返事は、
<J’écoute le mouvement que vous développez à partir de Gestalt. En fin de compte, c’est une phénoménologie de l’imaginaire>(Merleau-Ponty)の思想をゲシュタルトから説明する、これを君が語ったのだと理解する。いずれにしても(講演内容)は私達(哲学側)が語る意味での画像現象学なのだから。
« Imaginaire » の元語となる « imagination » は既見の対象を画像として思い起こすが一義。空想よりも具体性が強い。画像現象学とした。
上訳において « c’est une » の「それce」の意味が曖昧、Gestaltとも捉えられるが部族民はMerleau-Pontyの講演とした。直前(ラカンの話)がMerleau-Pontyの解釈に集中しているからだ。するとMerleau-Pontyの知覚現象学が「画像現象学」と言い換えられ、気分的にも座りがよろしい。対話の文字起こしなので難しい処である。
さて、突然に投げかけられた否定疑問に対するHyppoliteの返事にはラカンの現象学 説明への不同意が聞こえる。普通、否定疑問を問われたら答えは « non » ないし « si » の選択を迫られる。対話を継続しようとの意思を持てば、答えは « non否 »であるけれどそれを的確に発言すると、後のやり取りがぎこちなさに陥る。そこで « non » を表に出さず淡々と理屈を開陳する。このあたりは対話の技巧と言えようが、否定が間接的に滲み出るものの、即座に否定されるよりは対話は和らぐ。こうした上品なやり取りに仏語は « discret慎み » を用意している。
Hyppolite(哲学、高等師範学校長など歴任)のラカンセミナーでの重要な立ち位置については過去投稿で取り上げた。
精神分析現象学ゲシュタルト2の了(2022年5月18日)
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精神分析現象学ゲシュタルト 1 

2022年05月16日 | 小説
(2022年5月16日)Jacques Lacan著セミナー第2巻を読んでいます。3章の主題はLe circuitなんとこれを訳すか。前向き意義から順に「周回、一周巡り、堂々巡り、元の木阿弥」が候補となるか。章題に否定の語感は選ばないから一周巡りとしたいが、それが何を比喩(換喩)するのかはこの段階では不明。副題に « Maurice Merleau-Ponty et la compréhension » メルロポンティと理解。 « la compréhension » は彼が理解するところ理解力であり、一般的な理解を意味するのではないは明白。LacanがMerleau-Pontyの学説と能力程度を批判する 、それが実は一周巡りなのだと主張するかと覚えた。


知覚の現象学を主唱したMerleau-Ponty ネットから


早速序文;<Nous allons nous interroger sur la conférence extraordinaire d’hier soir. Vous y êtes-vous un peu retrouvés ? La discussion a été remarquablement peu divergente. Voyez-vous bien le cœur du problème, et la distance où Merleau-Ponty reste irréductiblement de l’expérience analytique ?>(本書99頁)訳:今日は昨晩に開かれたとてつもない講演について議論するつもりだ。君たち、なんのことか見当がつくかな。一幅にも議題は振れず、とある方向に向かい白熱した。問題の核心を思い出しているはずだ。それはメルロポンティが「分析的事実」から取り戻しできないまでに距離をおいている事実である。
引用文で « extraordinaire、irréductible »の語が重なり用いられる。読む側としては肯定的意義を見いだせず、Merleau-Pontyの学説の陥穽を挙げ、頑なに彼はそれと主張している、これがLacanの言い分かと受け止める。
この講演とは一体どこで、どのような演題だったのか不明。1955年1月18日の夕であったとはセミナー日付から特定できる。Merleau-PontyはCollège de Franceのchair(教授)に就任している(1952年)から、同施設での公開講演だったと伺われる(同院教授は学生講義は免除されるが公開講座の義務を受ける)。この時点で共産主義とは決別したがサルトルとの確執は解消されていない。左派とされる人(hommes dits gauche)からの批判も受けていた。そのような雰囲気を匂わせる表現が本文中にも挿まれる。
<Il y a un terme sur lequel la discussion aurait pu porter si nous avions eu plus de temps, à savoir le gestaltisme>もし時間に余裕があったのならきっとあの語に付いて言及が持たれたはずだ。その語はゲシュタルト思想。<Je ne sais pas si vous l’avez repéré au passage, il a poussé à un moment dans le discours de Maurice Merleau-Ponty comme ce qui est vraiment pour lui la mesure, l’étalon de la rencontre avec l’autre et avec la réalité>
訳:君たちはそれ(ゲシュタルト思想)が講演の筋たてでどの位置にあるかに気づいたかどうかは知らないが、一時において、あたかも指標の如く標準原器の如くにしてそれが彼を現実に向き合わせていたのだよ(同)。
ここに来て形容詞形容動詞の用い方で幾分かのトゲの刺さりが読めた。ラカン先生側に事情があった、「ゲシュタルト」が気に入らなかったのです。
ドイツ語 « Gestaltisme » ゲシュタルトの仏訳は « forme » 形。形とは構成物の集成で、一体化され常に一定の形状に収束する。こんな考え方を情念的に捉える思考傾向であって« ―isme »が付属するも、どなたか偉い哲人が「学、思想」として体系化されるまでには至っていない。形を主体として捉えるこの思考傾向は、時として社会科学に応用される。困った時の助け舟の哲学用語辞典(Puf版)にもGestalt項目は立てられていないから、哲学が取りざたする概念ではないとしている。心理学ではこれを主張する一派が戦前のドイツで結成されていた。Wikipediaの一節を引用;
<心理学の一学派。人間の精神を部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重点を置いて捉える。この構造をドイツ語でゲシュタルト(Gestalt :形態)と呼ぶ>
フロイト学説を受け継ぐラカン先生にとり精神は客体、入れ物であり、主体は個が「過去経験を底流に共時的に押し込める」「二重構造」を謳うから。ゲシュタルト心理学とは対立する。ラカンはそれを自然哲学(原始的思考)の派生として軽んじる、現象学も同類。そんな文句が本書のそこかしこに見つかる。ゲシュタルト心理学を認めないラカンが、この傾向をMerleau-Pontyに嗅ぎつけた。
精神分析現象学ゲシュタルト1の了(2022年5月16日)
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