蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロース神話学第9回蜜から灰へ5まとめ(最終)Youtube

2023年12月24日 | 小説
蜜から灰へ5まとめ(最終)Youtube投稿(2023年12月24日)の案内。

レヴィストロースは文化の成立を「料理して食べる慣習」としている。神話学第1巻生と調理では「火の取得と水の創造」を起点として語る。では文化進展とは、第2巻「蜜から灰へ」の立ち位置はここに収まる。「文化の二重三角」は第一巻で提示された。この三角が指し示す二重方向での進展とは、火を用いて獲物の肉を焼き食する、休むことなくそれを実践する。これが世俗世界(Profane)での文化実践である。一方が神聖環境(Sacré)は水(儀礼と装飾)を極め、儀式で蜜酒をたらふく呑むに尽きる。いずれの方向も実現が困難なのである。狩りでは猟果を得られず、蜂蜜も採取できない。人が目指すべき三角は出来上がったが、それを享受できない。肉なし蜜なしの不毛が続く。人々は「自然との」出会いで実現する楽園を夢に描いた。
この出会いこそレヴィストロースの説く「対極Polaire」求める出会いである。出会いとは「antinomie initiative」原初から二律背反を抱える。対極出会いは狙いを隠す出会いであり破局に至る。第2巻蜜から灰へに収録される神話には「求める出会い狙う出会い」の無限旋律を奏でられる。束の間の幸福、そして破綻は文化形成の「原初」に決められていた。動画に使用されるプレゼン資料(PDF)は部族民通信ホームサイト www.tribesman.net の神話学(https://tribesman.net/mythe.html)頁に収録されている。



自然との同盟はつかの間天国をこの世にもたらした。肉はふんだん、蜜酒はたらふく。しかし人(文化)の断絶志向が破局を呼んだ。Simo,Adaba,Mabaのら楽園は新大陸のエデンの園説話。



動画リンク
https://youtu.be/0-amHoEuMVo

動画閲覧の裏技: Google検索(部族民通信@9pccwVtW6e3J3AF)で部族民のXTwitter頁に入れば2分のシュート動画、Youtube動画(低解像度)が閲覧できる(2023年12月24日投稿)。
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レヴィストロース神話学第8回 蜜から灰へ4Haburiの冒険 Youtube投稿

2023年12月15日 | 小説
神話学第2巻「蜜から灰へDu Miel aux Cendres」第4回目はジャガーに殺されかけカエル婦人Wauutaの愛人となったHaburiの神話です。物語の紹介のみ、七面倒な構造主義、形而上、フランス語修辞法などがでてきません。気楽に楽しんでください。本書の主題は「自然と文化の出会い」、この物語にもこの出会いが3通り綴られています。母とカワウソ夫、ジャガーとHaburi家族、HaburiとカエルWauuta。結末はいずれも破綻する。破綻の原因は対極Polaire、求める出会いと規定した(前回12月6日投稿)。上記3の出会いで3番目の(WauutaとHaburi)はその旋律を見事に奏でています(Wauutaは愛に飢えていた、Haburiは愛をもたらす)。こうした出会い(老婦人と若者)は西欧にては要約、18世紀後半に語られた(ルソーのConfessionでWarans婦人との情事が告白される)。それをしてレヴィストロースはHaburiはルソーの前世だ―とサムネイルを入れました(レヴィストロースがそう語ったわけではないけど)。動画に使用されるプレゼン資料(PDF)は部族民通信ホームサイト www.tribesman.net の神話学(https://tribesman.net/mythe.html)頁に収録されている。



動画リンク
https://youtu.be/LVWoqvGv_1U

動画閲覧の裏技: Google検索(部族民通信@9pccwVtW6e3J3AF)で部族民のXTwitterに入れば2分のシュート動画、Youtube動画(低解像度)が閲覧できる。
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レヴィストロース 神話学第2巻 « Du miel aux cendres » 蜜から灰へを読む4 追記

2023年12月09日 | 小説
副題 レヴィストロース思考回路の解析、仏語哲学書の読み方
(2023年12月9日)蜜から灰への「カエル変奏曲」では神話(2部6曲のソナタとしている)の紹介のみならず、「形而上的に」それらの有機的繋がり解釈している。その展開はまさにレヴィストロースの思考回路、頭の内部を見透かすかの気に囚われるほどだ。
実は彼はそれを « Nous avons affaire à des systèmes à deux termes » (変奏曲の)神話には2の言葉にまとわる2の体系しかない(一の個体とそれが持つ名、それと2の個体の相容れない関係=としている=148頁)。別の項では(人と自然界の)関係とは « Polaire » 対極と « Cyclique » 周回の2に限られるとも主張している。これらが頁を挟んで散開しているわけだが、まとまりがある筈だ(そうでないと著作にはならない)。
分解すると因数は1に(動物の)名を持つ個体、持たない別個体(人)。2には関係の形態2種(対極周回) 3に結末の破綻か幸運かーの3変数式となる。これらが旋律に乗り6曲ソナタが奏でられる。
部族民の解は「求める出会いは対極で破綻する」「求めない出会いは幸運」(Youtube12月6日投稿の動画、ないしは部族民ホームサイトwww.tribesman.netに入って神話学の頁からムービーあるいはPDFをクリック)。この解が正しいか誤りかは皆さんの判断に依ります。
極めて私的なこの「解」に至る足跡は、部族民流としてまとめるまでの「仏語の哲学書」解釈の一歩です。これらはあくまで私ごとですが、以下のレヴィストロース文を頭ひねりで解釈までをお伝えします。


蜜から灰へ、本書は大変面白く読める。時折七面倒な「形而上」的説明に出くわすが、そんなのを無視して、カエルの王様とかHaburiの冒険(次回のYoutube予定)を読んでワクワクすればよろしい。

文全体を原典から;
« Au début, nous avons affaire à des systèmes à deux termes : un personnage et le nom qu'il porte,‥長いので中断 » (Du Miel aux Cendres、page148)

3節に分解し解説する ;
« Au début, nous avons affaire à des systèmes à deux termes : un personnage et le nom qu'il porte, un individu et une chose qu'il ne supporte pas. Puis, à partir de M238 deux individus qui ne se supportent réciproquement pas (le hello et le jaguar). Jusqu'ici, la relation négative est donc polaire, comme est polaire (subjectivement aléatoire) » までを訳:
(2部6の変奏曲)のそもそもの始め(Maba蜜の女王、Simoカエルの婿、Adabaカエルの婿の3神話)では対の要素が対抗する仕組みが奏でられる。それは名を持つ個人とそれに対峙するモノで個人はそれを保持できない。(Maba対蜜狩人、狩人は蜜を取得できない。Simo対娘、娘は肉から疎外される。Adaba対娘も同じ構図)
ここまで(M238での折れている矢、男とジャガーの追いかけっこも含め)、人と自然の出会いは対極(polaire)である。対極は(主体的かつ偶然であり)かならず否定結果を生む。

(部族民)ヒトとモノの出会いとはヒトがモノを求めるに尽きる。蜜狩人が蜜を求める、娘は不猟続きの兄弟が持ち込めない肉を求める。Maba、Adabaがそれらの個に偶然に出会い、必要とするモノを給仕する。この神話での経緯を読むと「個と特定の個(モノを調達できる)との出会いであり、個と特定の個の対極関係はモノを通して互いの主体意思が仲介している。
この文節で鍵語となる « subjectivement aléatoire » 主体的偶然を部族民は「個と特定個の求める出会い=前回投稿」と翻意した。

 « la relation positive s'instaure depuis M236 entre un chasseur et son gibier à la condition qu'il tire un air, c'est-à-dire sans qu’apparaisse une connexion prévisible entre cette conduite et son résultat : un animal sera sans doute tué, mais l'espace à laquelle il appartiendra restera inconnaissable jusqu'à ce que le résultat soit acquis »
M236から肯定的関係が描写される(M236は本書に引用されない。故に記述から筋を推測するが;獣を見て矢を射る普通の手法の狩人が獣に反逆される。俗神が助けて、合わせ空に矢を放つ技法を教えた)。矢を空に放つ、仕留められるの狩人と獲物の間には因果が予見されない。獲物は疑うまえに殺される。そして獲物が所属する種の個体らは、それが起こる前には何事も予知できない。

(部族民)Adabaと森のカエルの王Wauutaは矢を空に放つ弓箭秘術を狩人に教えた。空に放つ優位は記述通り。「折れている矢=前回」は特定の個(獲物)との出会いを求めていない。何がしか獲物との出会いが地表で発生する。これをして「個と不定個の求めない出会い」とした。

« Nous avons déjà appelé l'attention sur le caractère semi-aléatoire de la conduite de limite que M236 prend soin d'interdire : si l'on tire en direction d'une volée, l'incertitude portera sur l'identité de l'individu qui sera tué, mais non sur l'espèce et les conditions requises par hypothèse ne seront plus réunies. Aussi les autres oiseaux foncent sur le coupable st le dépècent »
M236神話が仲介役(対極から周回へ)となる、これを半偶然semi-aléatoireとしよう(対極関係から抜け出ていない)。より述べるならもし目標に向かって矢を射てば射たれれる個体は怖れを抱く。しかし種全体を覆う怖れではない。仮定として推察できる条件はもう再結合されない。故に生き残る鳥は狩人をついばみ、バラバラにしてしまう。

(部族民)更に踏み込むと動物界の調和を乱さないー教訓に行き着く。百獣夜行の行列をWauutaが狩人に見せつけた。連続する調和が動物界にはこのように保たれているのだーと。味が良いなどで特定の獲物に拘泥すると連続の輪が閉ざされる。循環が途切れるーこんな狩猟は自然への挑戦とWauutaが諭した。
Wauuta神話は自然の連続性、そして文化の断絶性を暗示する。

神話学第2巻 蜜から灰へを読む4 折れている矢の追記 了 (12月9日)
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レヴィストロース神話学第7回 蜜から灰へ3 Toutube投稿

2023年12月06日 | 小説
(2023年12月6日)神話学第2巻「蜜から灰へDu Miel aux Cendres」11月27日投稿に続く第3回目です。「出会い」をレヴィストロースが語ります。 "Antinomie initiale"二律背反が仕組まれる、始めから予定されており、一に対極する(求める)出会いがあってこれは「個と個」の関係からなり必ず否定(破局)を呼ぶ。循環Cycliqueの出会いとは「個と不定個」であり肯定をもたらす。
以上がYoutubeでの説明欄の中身です。Blog なのでもう少し詳しく ;
求める出会いは破綻する、無欲の出会いは幸運を生む。レヴィストロースが「魔法の矢」神話(南米先住民、Warrau族の伝承、神話学「蜜から灰へ」に収録されている)での筋回しで重要な役を演じる「折れている矢」について解説した内容です。出会いとはそもそも “Antinomie initiale” 二律背反が仕組まれる。二律とは上記の破綻と幸運であり、背反が出会いの宿命であるーと超人的哲学を述べている。
さらに尊師は先住民の狩猟哲学に筆をすすめる。



獲物を狩るときにその動物に照準を当ててはならない。それは「求める出会い」である。狩人はその獲物を仕留めんとして矢を放つ。矢は獲物当たろうとしてまっしぐらに向かう、矢にも獲物は求める出会いである。この出会い方は他の神話でも、人間界の出来事として語られる。Maba(蜜蜂の女王)神話ではMabaと狩人が出会った。狩人の狙いは蜂蜜、Mabaは蜜酒をふんだんに用意する。ここにも「求める出会い」そして破局があった。
こうした出会い方は対極 Polaireとされる。分断を持ってする「文化」の典型的出会いとも言える。結末の悲劇が宿命 “Fatalité”とされる由縁でもある。
連続をもっぱらとする自然はこの対極出会いを避ける。連続出会いとは「循環」する出会い、こちらはCycliqueとレヴィストロースは定義する。この出会いを狩りに譬えると ;
折れている矢を獲物に照準を合わせても当たらない、空に向けて放つ。空から降りる地上の瞬間に何がしかの獲物に当たる。獲物が野ブタ(最高の獲物)だとしても狩人も矢も野ブタを求めていなかった。求めない出会いとなる。狩人はこの野ブタを狙ったわけでないから、生き残りの野ブタから反撃を食わない。安心して次の狩猟に取り組める。次の獲物はネズミなんかに移動して、一回り循環して野ブタに戻る。かく循環する「出会いの狩り」は、自然にも破綻が起こさない、至って平和な狩猟である。
さて、1930年代の南米先住民の思想、令和の今の日本にどう反映できるのか。
出会いから潔く「求める」を外すのだ。赤ちゃんの心境に戻ってくれ。なぜなら赤ちゃんは生まれるときに親を「選ばない」、何も求めない。まさにレヴィストロースが語る循環の出会い。キミが25歳になって配偶を探すときに、多くの若者が陥る陥穽、「気立てよし、見た目キレイ、持参金たっぷり」を求めてはならない。それこそ破局の原因である。20歳のお嬢ちゃんには「3高=背丈学歴給与=を条件にするな」と諌めたい。
出会いだけが肝心だ、出会って閃いたら「ブXで小煩くとも、3低でも」宿命と念じて突き進め(部族民老人の無責任発言を許せ)。
なおWWW.tribesman.net部族民通信ホームサイトのIndex(目次)ページから神話学をクリックするとYoutube動画(FHD)、Twitter用の2分動画、プレゼン資料(パワーポイントのPDF)が一気に閲覧できるよ。 了

Youtube動画リンクは https://youtu.be/ioscG-nJkVE
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