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蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

裸の男フィナーレのホームサイト掲載の案内

2020年05月22日 | 小説

裸の男フィナーレ4,5,6,7は5月18~22日にGooBlogに投稿しました。本日、それらをフィナーレ解説3,4としてホームサイト(WWW.tribesman.asia)に掲載した。内容はブログと同じであるが、


>大前提としていささか哲学から;
人あるいは部族がとある思想(神話)に接する。反応として「同意」と「反意」いずれかにに分かれる。この精神作用はプラトンの説くdialogue対話(正反のせめぎ)に遡るし、批判critiqueとも重なる。人が思考の根源にもつ判断作用である。その知性を先住民が(われわれと)共有している。
同意は神話のidentique(同一)に、反意はinverse(逆立)つながる。先住民神話に両者が認められるとは、そこに方向性を持つ交流がもたれた証拠である。
(レヴィストロースはここまで語っていないから、部族民蕃神がお節介的に注釈した)<


同一も逆立も理性判断の形体としてくくれば、同じなのだ。分かるだろうと教えるレヴィストロース(コレージェドフランスの公開講座1970年代

をさらりと入れてます。レヴィストロースは「同じも正反対」も同一の範疇に入れて論ずる。その訳を探れば上記の哲学に遡るしかない、こう結論づけました。了

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神話学裸の男フィナーレ終楽章について 7(最終回)

2020年05月21日 | 小説
神話北上説の追記
部族民通信は昨年のホームサイト(WWW.tribesman.asia)投稿にモンマネキ、月の嫁の両神話を比較している(食事作法の起源の続き1、2019年10月15日投稿)。サイトに入って確認いただきたいが、時間のゆとりある方は少ないので、その頁の要約PDFをデジカメで画像化して本ブログに貼り付けた。不鮮明画像で申し訳ない、鮮鋭なるPDFはサイトに入ってPDF頁に移り、PDF#13(モンマネキと月の嫁)を開けてください。
このPDFはfinaleのレヴィストロース記述(両神話は筋立ては逆立、意味は同一)を知る前だったから、部族民蕃神の独自(勝手)解釈に基づいている。分析の手法に共時因果(分析的理性)を横に経時因果(弁証法的解析)を縦にとる。


共時に家族の孤立、文化基盤を持つも踏み出すに不備(食事作法の未完成、周期性の不備)、同盟構築の希求を上げる。両の神話はこれら横の並びで統合されるとの意味合いを表に持たせた。
神話の意味をレヴィストロースはschemeスキームと表現し、部族民は共時因果、分析的理性としているが、両者共に同じ事を述べている。(またレヴィストロースはlangue(言語)とparole(言葉)のソシュール用語を引き出し、共時と経時に当てはめている=裸の男finale566頁)
両神話が筋において同一とのレヴィストロースの指摘は部族民蕃神において、共時因果の共通性に反映されている。これは同意見。
いっぽう経時因果、これはあらすじに他ならないが、それぞれが共時因果との絡みで経時展開を見せるとして、縦列に記載した。同盟結成、5回の失敗のあと村を去り、新天地に向かうまでがモンマネキ神話の筋である。月の嫁では月の神の娘さらい、食べ方コンクール、子の誕生が筋となる。レヴィストロースが指摘する神話の逆立とは、正逆に進む筋であるが、部族民の解析ではその思考はまったくに薄い。

PDFの全体
蕃神は筋立てに置いても両神話はベクトルを同じくするとしてしまった。どちらが説得力に秀でるかとふと迷うが、そうした優劣の比較は意味がないと気づいた。
レヴィストロースは神話筋立て、あるいは登場人物の性格行動などを幾つかの神話で比較し、同一(identique)、半分だけ一致(congurance)、逆立(inverse)に組み分けしていた。判断とは同意か反論か、プラトンの対話discours以来の智の伝統に受け継がれた解析法を彼が神話に使ったと見る。
一方、根っからの日本人なる蕃神は原人以来の包括思考、別の言い方では「何もかも一緒くた」に骨も身も浸かる訳だから、かの毅然を得られない。異質の裏に同一を探るのが智とする。レヴィストロースの指摘と部族民PDF表との食い違いは、智の有様と分析目的の差異が現れているだけと感じ入る次第です。
最後列に「預言者」とある。モンマネキ老母と舅(天上の神)が当てはまる、機会に現れてはことごとく「説教」を垂れる。モンマネキでは「ムカデゲジなどは文化食い物」でないとして、カエル嫁を追い出すなど。月の嫁では舅が息子二人に周期性を求め、嫁にはさわりは月に一回、子は十月十日(新大陸先住民は十月と数える)で胎から出でるを知れ...など小言らしきを曰う。二人を「預言者」とした、神の言葉を伝えるが預言で予言と異なる。
一神教の故地から遠く離れた新大陸でかような機能を持つ人に出会うのは驚きだが、これ以上踏み込めない。いずれなんとか「新大陸預言者」の起源を掴みたい。

レヴィストロース若かりし頃。



追記:Finale については一旦終了、しかし「構造主義」については未了です。しばらく書を漁り(といっても2~3冊)構造人類学をまとめてみたい。乞うご期待。
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神話学裸の男フィナーレ終楽章について 6

2020年05月20日 | 小説
モンマネキ神話については部族民通信ホームサイトWWW.tribesman.asiaにて紹介されている(2019年9月30日、食事作法の起源1)。この頁に接近するにはトップ(検索)ページからサイト内検索ボタン(左上)をクリック、Googleカスタム窓でモンマネキを入力する。あるいは2019年頁に入って上記頁を選ぶ。より簡便な方法、モンマネキ神話でGoogle検索すると当ホームサイトの頁が一番目からぞろと並びます。お試しを。

多くのブログ読者様にはサイト閲覧の時間余裕がないかと。粗筋を以下に述べます。
モンマネキの冒険(神話M354Tukuna族の伝承)
大洪水で村人は死に絶えた。モンマネキと老母だけが生き残り、孤立した生活を営む。モンマネキは狩りの道具、老母は竈の火を所有している。(火と狩り、肉は文化に必需である。M1鳥の巣あらし神話では村が洪水に流され、バイトゴゴと祖母が生き残ったと伝える。モンマネキはまさに生き残ったバイトゴゴである)
夙にモンマネキは狩りに出る。道すがらカエルを見つけ悪戯心で棲む穴に尿を引っかけた。翌朝「お前がイバリを掛けたから妾(ワラワ)は子を身ごもった」カエルが迫った。モンマネキにしても同盟構築を心がけていたから、渡りに船、カエルを嫁にした。破局はすぐにやってきた。カエル嫁が用意する食事はムカデ、ゲジのかき集め。姑が「こんな食事が文化に昇華する訳がない」(=食事作法の起源)。異種同盟(動物との婚姻同盟)が4例続いて、全て食事作法に合致しないから姑に破談とされてしまう。5例目の人間の女(妙な言い回しを許せ)は漁労に長けている。身体を上下に分割できる。岸辺に下半身を置いて血を垂れ流す(経血、この頃はまだ月毎のさわりではない。月中に垂れ流しか一滴も出さない、不定期だった)。血におびき出され寄り来る魚を川面に浮かんだ上半身がすくい取る。普通の上下一体式の女がこれをやったら、水中の下半身が魚(ピラニア)に食われてしまう。嫁は水面下に下半身を持たないから安心してすくい取れる。
漁獲された魚食材は姑に否定される。(経血でおびき出す)漁獲法が規定外である(規定は魚が密集する溜まりに毒を流す)。より悪いは経血を吸収した魚は食せない(姑が働きの悪い婿を毒殺するために経血をふりまきの食を供した。別の神話)。二分割式の嫁は追い出された。
婚姻同盟を希求したモンマネキの努力は老母の「食事作法に合致するか否か」の検証で否定され、すべてが破談に至った。

対比される月の嫁神話は北米アラパホ族の伝承。
ホームサイトでの掲載は「食事作法の起源を読む」続き1(2019年10月15日)。当ページへの入り方は前述通りです。粗筋を以下に;
月の嫁(M425、北米プレーンズに居住していたArapaho族伝承)

アラパホ娘、ネットから採取

月を眺めあこがれる娘。姉妹二人と採取に出た。月の神(月に住む孤立家族の次男)は人の娘を娶らんと地に下りた。 野にて出会ったのが娘。神はヤマアラシに変身して「おいでおいで」のそぶりを見せた。娘は木に登ってヤマアラシを落とそうと棒を振るが、神はヒョイと逃げる。とうとう巨木の樹頂に至って、抱え込まれて月に下りた。太陽神(兄)はカエルを伴侶と選んだ。カエルとアラパホ娘、いずれが月の家の嫁にふさわしいか、食べ比べで選ぶ手はずとなった。食材はバイソンの乾燥肝臓。これがどのような硬度かは分からないが、日本人として「お煎餅」を思い起こして欲しい。
何が始まるのか、不安におののく嫁候補、月はテントに忍び込み娘を励ます。
「キミ、噛むときにポリポリ音を立てられるかな」月の世界の食事作法は「ポリポリ」の音立てだった。
「それって、アラパホ村での作法よ」娘は作法が同じなら人情も同じねと心したら一安心。月の世界で生きていけそう、食べ比べ出場の覚悟を決めた。太陽だってカエルに同じく示唆した。でもこっちは「ポリ音が好まれるのか」驚いた。カエルの作法はモグモグ、音立ては御法度なのだから。カエルは「なんとヤバンな所なんだ」意気がすっかりそがれた。
舅姑の臨席を仰いで娘とカエルの食べ比べが始まった。カエルは食材を口にするけどクネゴチャと舐めるだけ。ポリ音が一向に出てこないうえ真っ黒な脂汁の垂れ流しまでしでかした。アラパホ娘「ニバン~サ~ン」が登壇を促される。給された乾燥肝臓を手にとって「さあ、やるからね~」一気に全塊を大口に入れ、前歯に挟んで奥歯が噛みつく。ポリポリ音は平素のしつけの賜物、盛大に立てまくった。
舅らにはポリポリの豪快さがことさら優しかった。「イチバン~、アラパホ娘」

娘がポリポリの噛み音を立てなかったら、カエルが太陽の嫁になっていた。カエル優勢、人劣勢の構図が定着し、パリで人の脚を食う成金カエルが出現する。人類の恩人である。

乾き煎餅の噛み音が耳に快い日本人に、娘大口のポリポリ快挙は理解できる。
かくして娘が月の嫁になった。生活に慣れて十月十日、子を産みおとした。後に母となったアラパホ娘は子と共に月から脱出する。
この神話とモンマネキ神話を比較すると;神話自体(あら筋)は逆立し、意味(スキーム)は同一であるとレヴィストロースが教えた。一体、何の事なのか。
この辺りを哲人は語らないから、(勝手)解釈すると;
あら筋における逆立;
1 同盟の希求。獣(女ながら不完全を含め)の伴侶を人が求めるに対し、人(女)が(神に)求められる。
2 もうけた子。一方は獣側に属する(カエル、鳥など子を抱いて離れる)、人の祖先にはならない。これに対し子は月から地上に降り、アラパホ族民の始祖となる。
神話が「意味するところ」において同一とは;
いずれの神話とも文化の黎明期において、行いの基準を探りつつ、人と人社会にそれを適応する「意味」を語っている。モンマネキ神話では「食事作法」を探り、獣嫁の食事慣習は文化(食事作法)に適合しないと姑が判定を下し、モンマネキの婚姻は破断した。姑の決断から文化が獣性に汚染されず、人としての基準を範にする方向性を確保した。ムカデ食と経血魚捕りは前述したが、頼めばすぐに出てくる樹液酒、一茎の穂で1年分の酒を造る鳥の「秘伝」、草を刈るに根っこを食害し枯らすイモムシの技、これらが否定された。
月の嫁神話では「食事作法」が確立されていた。次の文化要素としての周期性の模索に移る。その始まりは兄の太陽と弟月の行動の周期性。天空での気儘な徘徊を止め、太陽は一日を作り月は一月を示す。これとあわせて女の周期性(月経と妊娠期間)も確立した。いずれも天空の神(父親)の指図だった。続く
(邦訳本の本書題名は「食卓作法...」原題のtableテーブルをそのまま訳した。しかし日本語の食卓作法の意は原義tebleと異なり、箸の持ちかた、椀のすすり方など狭視野の作法範囲に限定される。一方、新大陸先住民には食材の取得の由来、加工手順など、食卓作法を越えた広い視野で制約が課せられる。イスラムでは獣肉は一定の屠る決まり(ハラール)を経て肉以外は食べない。これも食事作法である)
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神話学裸の男フィナーレ終楽章について 5

2020年05月19日 | 小説
(2020年5月19日)
イシス神話に立ち戻ろう。ホームサイトで「裸の男」神話学第4巻を読む(2019年11月15日掲載)にて粗筋を紹介しているのでご参照を(検索Index頁から部族民サイト内検索のボタンを押すとGoogleEnhanced頁に入ります)。
レヴィストロースは神話(M529)紹介の後M1神話との共通性を解説している(本書30頁)。
1 近親姦が発端
2 バイトゴゴ、イシスともに「きらびやかな偉丈夫」の意味
3 岩壁に孤立(イシスは巨木に取り残され)
4 ハゲワシに一旦殺される(イシスは死の直前まで衰弱)
5 ジャガーに助けられる(イシスは蝶姉妹に)
6 村に戻り父と母を殺す(新たな世界の創造)、一方イシスも村に戻り義父を殺すが世界創造譚には結びつかない。

イシス神話を講義するレヴィストロース、コレージュドフランスの公開講座(1970年代初頭)ネットから採取

これら共通性を個々に見ると違いも散見する。それらを(...)として注を入れた。また1の近親姦ではM1は実母とバイトゴゴ、対してM529ではイシス嫁と義父(地霊神)かつ4世代の繰り返しとして語られる。この筋立ての複雑化は「神話から読み物Du Mythe au Roman」の一典型として理解できるからイシス嫁と義父の相姦が皮切りとなって冒険譚が始まると読める。
これらの共通性をしてレヴィストロースは「イシス神話はバイトゴゴ神話の再生reproduction」としている。この言をIdentique同一と捉える。同一であるとは神話の構成となる(1~6)。要素と筋立てにおいてidentique、同一性を持つとする意味である。レヴィストロースは第一巻(生と料理)最初に「序曲ouverture」を載せているが「神話とはarmature構成とscheme全体思想の対峙である」と説明している。するとarmatureにおいて同一であり、inverse逆立するはsignification意味合いで、それはschemeスキームとなる。
小筆は上1~6で見逃せない差異を取り出したい。それらが神話意味の逆立につながるはずだ。
発端の近親姦は両者で異なる。

写真黒板上に「Aishisyuイシス」が原板で読めるがブログ上の再掲では見にくい

イシス嫁と義父の姦淫は「近親姦」ではない。地霊神とイシスの関係がそもそも義父と養子である。ゆえにイシス嫁と義父の関係は血縁ではない。二人は制度としての婚姻を保っていた。イシスは実の兄妹の夫婦から生まれたけれど、その彼らにしても「密通」などしていない。制度として(共同ぢて生活する)婚姻関係を築いていた。一方、バイトゴゴと実母の姦淫は「密通」、ふとした過ち、出来心である。制度として共生する意志はそこになかった。
前者は制度として禁じられている、Prohibition(禁止)がその言葉である。後者の密通にprohibitionなる語は適用されない。禁忌tabooのviolation(犯し)が適正であろう。一方は制度を破り、片方は禁忌犯し。近親姦を巡る逆立と言えないだろうか。
両者とも「偉丈夫」とされる。その由来が逆立している。バイトゴゴは裸のまま(通過儀礼前なので服飾の着しはできない)放逐され死ぬ。生まれ変わって復讐してのち偉丈夫となる。イシスは成長し、偉丈夫となる。立派な服装を脱いで裸になれと義父が命じ、彼は巨木に取り残される。服飾の様(先住民はこれを人の格付けとする)が逆である。
バイトゴゴは火と狩りの技術(弓矢)を盗み人に与え、水を創造した。自身も偉丈夫に成長し、服飾コード(金剛インコの頭飾りなど)を編み出した。文化を創造したヒーローである。イシスは狩りに立派な腕前を持ち、服飾の様にも秀でていた(5人の嫁を持つから手の込んだ服を着せる)。裸に戻って遺棄され蝶姉妹に助け出された。快復の途上、ヤマアラシを生け捕り、その棘毛を用いて新たな服飾コードを生みだした。前から知る狩りの技術も蝶の村に伝えたが、己の村に戻っては養父を殺しただけで、その後に放浪する(別神話)。その村に文化を与えなかった。文化創造の逆立と言える。
神話北上説、もう一つの傍証は「神話が逆立し、意味合いは同一」の例。これをモンマネキ神話(南米Tucuna族)と月の嫁神話(北米アラパホ族)の相関を探しながら検証しよう。 続く
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神話学裸の男フィナーレ終楽章について 4

2020年05月18日 | 小説
(2020年5月18日)
フィナーレ最終楽章の3の投稿は5月8日、この間に「親族の基本構造」を取り上げ、10日ぶりの復帰となります。新大陸神話の北上説の紹介を数回に渡り。


「新大陸神話の北上」説について
レヴィストロースが第3巻「食事作法の起源」で提案した説です。部族民サイトWWW.tribesman.asia 2019年の頁に移り11月30日掲載の「裸の男l’hommenu神話学第4巻を読む」に接近できます。あるいはサイト内のGoogle検索機能を用い「神話北上」を検索すれば数頁がヒットします。
11月の掲載では「どの様な伝播メカニズム」を経緯したのかを取り上げています。マトグロッソから北アメリカへの伝播。その遠距離伝播のエンジンなど。
ホームサイトへ訪問できない(時間的に)方には以下のまとめを;

1 比較的伝播距離の短い例、南米アマゾニアとされる水域のTucana族アマゾン上流とArawak族同下流では伝達的な伝播は予想される。しかし南米から北米への移動において伝達では心許ない。「伝言ゲーム」では数人のリレーを経て各チームがバリアント(変異)を形成してしまう。
2 遠距離を旅しても基本の変容が見られない理由として神話のschemeをsyncronie とdiachronieに分解し、syncroniqueは定性(因果)、diachroniqueは時性(因果)とする。この横縦の因果関係を神話同士で共有すれば、いくらかの変異(特に縦方向、時性)が検知されるが、varianteの範囲である。神話これは部族民蕃神の発明などではなくレヴィストロースの思考(Finale566頁、langue, paroleの機能分担を定性と時性とに分けて伝播の源泉とした)をモトにしている。基づいてPDF(Bororo・Klamath族神話比較の試み)を作製した。

マトグロッソ、アマゾニア、カリブ海を経て北米に伝播したと推察するがカリブ海、ミシシッピ域の神話は今もって採取されていない。

各論から総論に入る。

1 南北大陸の神話叢は似通う。似ているとは筋立て(armature)と伝達内容(schemeスキーム)において同一(identique)、時には逆立(inverse)の関係が認められるから。これを突き詰めると神話学全4巻に収録された総数813の神話は全て、基準神話M1(ブラジル・マトグロッソに居住する(していた)ボロロ族の「鳥の巣あらし」神話)との直接、間接に関連があるとの主張につながる。
2 北上説の間接ながらの証明とは、神話の「筋の流れにおいて」南北の差違が顕著であるものの、伝達内容は大いに近似すると認められるから。
北米神話の構成は複雑かつ精緻、登場者の数も多い。筋の「複雑化」は同様の事象を繰り返すからである。例として近親姦を挙げるとM1神話では一回で天地創造に至るが北米神話(イシスの冒険譚)では数次にかさなる(PDFを作製、イシスの冒険に読む罪と罰の第3頁、2019年11月15日掲載、サイト内Google検索で頁とPDFに接近できる)。遠方に伝播するほどこうした事象はかさなるから、複雑の度合いは増える。第3巻の「神話から物語りへ」(2019年10月31日掲載、Index頁から2019年頁に移る、ないしサイト内検索で訪問)でレヴィストロースはこの仕組みを「神話の新聞連載小説化」と明かしている。

3 北上説への批判は「そもそも南北大陸先住民はベーリング海峡を渡って南下分布した歴史事実があるのだから、似通いは当然。民族の流れ(北から南)に沿って神話も伝播したとする考え方は無理がない」(アメリカの人類学会おおかたの意見)。これに対してレヴィストロースは「似通いを論じているのではない、差違が大事なのだ」と一蹴する。

何故に差違が重要かと言えば、もし民族移動と神話の流れが平行するなら差違(逆立)は少ないはずだ。しかしそれぞれの地域での基準神話が総体の基準神話(M1)と少なからず差違を見せる。その事実は民族移動と神話伝播の方向が逆である証左である。歴史神話学(フィンランド学派)は同一性を探した。これとは逆の指向である。

1の似通い、同一と逆立について。
>On est alle dans le troisième volume de l’Amerique du sud a l’Amerique du nord , grâce a des mythes inverses dont la signification était identique
訳;第3巻において南アメリカから北アメリカに舞台を写す事ができたのは、 (基準神話)と比べ意味するところは同一ながら(形態)は逆立している幾つかの神話のおかげである。
続いて;
>Dans le quatrième volume, on revenu d’Amerique du nord en Amérique du sud grâce a des mythes identiques (M529-531 reproduisent M1,M7-12) dont la signification était inversee<
訳;第4巻では北アメリカ神話を取り上げ、南アメリカにも回帰できた。その理由は神話そのものが同型ながら意味するところが逆立している幾つかの(M529-531)神話を認められたからだ。

神話(そのもの)とその意味(signification)が同一と逆立の関係を見せている。これは何を語るのであろうか。この分析を始めるに神話番号が記載されている後者から始めよう。すなわち
神話(そのもの)は両者(M1 bororo族神話)と(M529 Klamath族)は同一
それらの意味が逆立

M529(イシスの冒険神話)はホームサイトで紹介されている(裸の男神話学第4巻を読む2、2019年11月15日掲載)。引用する。

>嫁ぎ先に戻る姉に弟が供をすることになった。太陽は中空にかかる、今出立して夕前には到着する行程であるから、母は同行を許した。しかし何故か日がとても早く暮れてしまった(別バージョンでは太陽に早く沈めと姉が脅す)。野の窪みに二人は宿る。寝入った弟の脇に姉が滑り込む。<La femme vint se glisser pres de son frere endormi. Il s’eveilla et fut choque de la trouver contre lui ((Quleelfole ! Vouloir devenir l’epouse de son propre frere !))>
<女は身をすべらし弟は目覚めた。姉を己の上に見て、ただならぬ衝撃を受けた。なんと愚かな行い、血を分けた汝の弟の妻になろうとはと非難した。姉は寝入り、太い幹を身代わりに置き弟は逃げ出した。村に戻るやつぶさに出来事を語る息子、その一部始終を聞く母は大惨事を予兆しおののく。姉の目覚めは昼下がりとなった(早く隠れろと命じた分、翌日にも太陽周期は速まっていた。太陽周期律を乱した罪のしっぺ返し)。
その後:姉は猛り狂い火をに落とし、部族民を皆殺しにして、己はアヒ(水鳥、奇怪な声で鳴く)に変身する。生き残った兄妹は夫婦の契りを結び世界創造の英雄イシスをもうける。

鳥の巣あらし。挿絵は神話学第2巻「蜜から灰へ」から転写。

M1神話を紹介する。通過儀礼(成人になる)を直前に控えた若者(バイトゴゴ)が母を犯す。バイトゴゴの腰ひも飾り(個人を特定できる)をみよがしに母が身につける。父はバイトゴゴに試練(通過儀礼)を与え、最後に巨木(断崖)に置き去りにされる。ジャガーに救われ、火と狩猟用具を盗んで村に戻る。(ホームサイト2019年頁、神話学第一巻生と調理、その3、6月30日掲載)
M529神話とM1神話は「神話そのもの」で同一、「意味」で逆立するのであると尊師が曰う。
神話、意味、同一、逆立の意味を正しく定めないと理解につながらない。 続く
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ピアジェ批判の続き、親族の基本構造を読むサイト掲載の案内

2020年05月14日 | 小説
5月11,12,13日にピアジェ批判の続き、親族の基本構造を読む1,2,3を投稿した。部族民通信ホームサイトWWW.tribesman.asiaに上下にまとめ、本日掲載しました。よろしくご訪問を。(中味は大して変わっていませんが、Vygotskyの引用文は大きく訳文を変更しています。

新型コロナの流行は下火に向かっているようです。ブログ訪問の皆様にあられ、一層のご健勝を祈念します。
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ピアジェ批判の続き、親族の基本構造を読む 3 最終回

2020年05月13日 | 小説
未開人の幼児は西欧の幼児よりも劣るか?

レヴィストロースは少々手のこんだ策に入る。

>Toute tentative hasardeuse d’assimilation se heurterait, en effet, a la contestation très simple qu’il n’existe pas seulement des enfants, des primitifs et des allienes, mais aussi , et simultanement, des enfants primitifs , et des primitifs allienes< (103頁)
訳;向こう見ずの同一化の試みは単純な問題にぶつかる。子供、未開人、気の触れた者だけを(同じ発達レベル)として比定するだけでは事足りない、未開人の子供、未開人の気の触れた者も発達理論に組み込まなければならない。
注;向こう見ず...はこの文節の直前に「あらゆる発達の変異を統合する理論がいずれ構築される」との予言に対しての返答。assimilation同一はピアジェの学説総体の換喩と解釈できる。

続いて
>Cette objection vaut d’abord , contre les etudes récentes consacrees aux entants dits ‘primitifs’, non parce qu’ils appartiennent a des sociétés différentes a la notre, mais parce qu’ils manifestent un incapacite d’accomplir certaines operations logiques. Ces travaux font d’alleus apparaitre une difference, et non une ressemblance, entre les anomalies de la pensee infantiles et la pensee primitive normaqles.<(同)
訳;この (ピアジェに対する) 反論は、「未開人」の子供性状は(彼自身の予測と)研究結果とが異なっていた。なぜならば(その差違が)未開社会に由来するのではなく、(「未開」とされる子)彼らの論理遂行能力に欠陥があるからとしている。その意味で価値がある。

「彼自身」とは訳注で、その「彼」は後文に出てくる。

それにしても上の2の引用は唐突感が強い。訳を試みながら具体性が弱い、前述、前々述の意味する処との絡みに理解が回らなかった。続く文で種明かしが出てくる。

>A la difference de la pensee magique de l’homme primitif, ou la connection entre les idées est prise pour une connection entre les phénomènes, les enfants etudies prennent la connection entre les phenomenes pour une connection entre les idées<(同)
訳;未開人成人が持つ魔術に対する考え方は、あらゆる思考を結ぶ体系は事象を結びつける為にあるが、研究対象とした(未開の子とされる)子達は思考を結ぶ体系のために事象の結びつきを見つける。

Vygotski(発達心理学のもう一方の雄)の引用(The problem of the cultural development of child 425頁 1929年)です。この一文を導入する為に上記2文節を唐突にも差し挟んだ。

写真はネットからヴィゴツキー

この引用を理解する為に小筆はある例を思い出した;

1 幼児の理解「雪かき車は雪を食べて生きている」(NHKの読者投稿番組の聞き留め)。幼児が雪を「食べる」事象を目撃し、生きるために食べる「思考」に結びつけた。
2 魔術の考え方「不幸な死は祟る」との思想が先に立ち、天変地異に結びつける(崇徳天皇、菅原道真などの例)。飢饉は道真の死霊が祟っているのだと。

ここにピアジェとヴィゴツキーが並んだ。しかし発達心理学の深みには部族民蕃神は入り込めない。ネット情報と若干のコメントを入れる。

>子どもは内言(独り言)を習得していくことで、ことばを思考の道具として使いこなせるようになり、黙読できるようになります。小学校低学年ではほぼ内言を使いこなすことはできないものの、小学校3~4年生以降くらいには内言が完成し、自分の頭のなかで思考することができるようになります<(ネットサイト3分で読めるヴィゴツキーから)

ピアジェは発達段階を外容と内実に分け「構造化」し、外界刺激で構造そのものが変態するという、いわば機械論を展開した(蕃神)、ヴィゴツキーは外界に言語、教育などを当て、内実の発展を説いた、目的論と言える。(レヴィストロースが指摘する)ピアジェ説の欠陥の構造体の変遷とハイパーコンバージェンスはヴィゴツキーで解消されている。
言語、教育を文化(神話、通過儀礼)に置き換えれば「未開」人の発達様態は文明人のそれと変わらないと言い切れる。

この後には、未開人の社会での成人と子供の差異、世代間の葛藤など民族誌学の観察を紹介に入る。世代差異は、文明社会でも同じく観察できる。これらが意味する処は、文明と未開の系統発生、それら着地点の優劣、その結果の「未開人」の演繹思考の欠如説は誤りを導くに他ならない。

未開人の幼児も西欧の幼児も同じ立ち位置を占める。

傍証として幾人かの心理学者の見解が紹介される。

>Il ne faut pas croire a je ne sais quelle misterieuse necessite interne qui ferait repasser l’evolution individuelle par tous le chemains tortueux de histoire....La ’repetition’ ontogenerique n’est qu’une fausse histoire : elle est plus tot une selection de modeles offerts par la langauage...<(105頁)(P.Guillaume)
訳;私にはとても理解できない仕組みなのだが、何らかの神秘的な必要性が精神の内側に存在しそれが個の進化を、遅々として長き(系統の)歴史を用いて、再発生させる、こんな戯言を信じてはならない。個体発達が繰り返されるとは「偽り」の話しでしかない。それは言語体系が提供する種々の選択肢からある一つを選ぶ作業である。
(少々強い訳である。それは’je ne sais quelle’(知るものか)、ferait(faire起こす動詞の条件法だからあり得ない事象)、fausse偽り...など文全体で否定の強さを見せる点に留意したから)
Paul Guillaume(1878~1962年)ゲシュタルト心理学(それ以上の解説はネットで見られない。著作は多い)

>La culture la plus primitive est toujours une culture adulte, et par cela meme imcompatible avec les manifestation infantiles qu’on peut observer dans la civilisation la plus elevee.(107頁)S.IsaacsのIntellectual growth in young childrenからの引用
Susan Isaacs(1885~1948年イギリス)幼児教育
訳;最も「未開」とされる文化でも「成人」の文化です。それは最も進化している文明の子供が現す言行とは一致しない。

写真はSusanIsaacsネットから

両氏の引用をヴィゴツキーの引用文と併せ読むと理解が早い。ピアジェ発達説の否定と受け止められる。最後にレヴィストロースの言葉を;

>La ‘regression’ apparente n’est donc pas un retour a un stade archaique de l’evolution intellectuelle de l’individu ou de l’espece : c’est la reconstition d’une situation analogue a celle qui preside aux debuts de la pensee individuelle seulement<
訳;(未開とされる社会に)際だつ後退とは系統、あるいは個体の知的進化の古典段階への逆転現象ではない。人の思想に宿る進化過程の原初に位置する思考を再現しているだけである。

意味の深い一言です。部族民蕃神の解釈は動詞のpreside(現在形)を注視するから過去に個人を仕切っていた状態ではない。その場合はpresida(単純過去)を用いる。すると個人が先験として持つ智を再現したのだとなる。ここでカントに行ってしまうが、常に平凡さ(banalite)に陥る悪癖のなせる処だから、読者諸氏に解釈を譲ります。了

最後に;
レヴィストロースが批判するピアジェの論点は「未開」社会を幼児的社会とした進め方にあります。未開人の個体発達の起点は文明人のそれよりも劣位にあるとした、系統発達と個体発達を組み合わせの様(向こう見ずな同一化)を批判している。実学としての発達心理学、それが今も教育現場で応用されている実情を批判している訳ではありません。
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ピアジェ批判の続き、親族の基本構造を読む 2

2020年05月12日 | 小説
>発達の行程はphylogenese(系統発達)とontogenese(個体発達)に分かれ<が前回(5月11日)の最終行。


wikiから引用>GézaRóheim(1891~1953年)はハンガリーの精神分析医および人類学者でした。 ある人から最も重要な人類学者であり精神分析者であると考えられており、彼はしばしば精神分析人類学の分野を創設したと信じられています。精神分析的に訓練された最初の人類学者であり、フィールド調査を<

phylogeneseは>L’evolution de l’espese, s’oppose a l’evolition de l’individu ontogenese (引用はDictionaire de philosophie, Nahan)。系統、集団、種、属などの発達(phylogenese)と個体がみせる発達(ontogenese)に分かれる。性衝動リピドーは人の「発達」過程に出現する。ではその過程とは系統発達なのか個体発達の結果なのか。
フロイトは答えていない。
弟子筋にあたるRoheim(Geza, 1981~1953ドイツ)は;
>Freud a montre que les theories sexuelles des enfants representent un heritage phylogenerique<
訳;フロイトは子供が顕わにする性衝動は系統発達を引き継ぐ。

口愛期から性愛に発達するリビドーの原動力は系統発生によるとなった。新たな疑問が湧く。系統発生であれば生物学の範疇である。すると人の性衝動の特異(段階性)は、同じく系統発生である人の身体、臓器、例えば睾丸やら子宮の形状、性能に支配されているとならないか。精神分析とは実は人の肉体形状を調べる学である、こんな極論につながる。

Roheimが系統発達とした背景はフロイト自身が「種としての人の発達過程を、個が再生する」(人の胎児が魚、は虫類などの形状を経時的になぞり、最終に人の子として産まれる説。後に否定されている)に関心を持っていた事実。しかしそれにまして、個体発達では自説を展開しきれない陥穽が潜むとフロイトは明確にしなかった。これを知るからである。


発達理論の陥穽とは;

精神の内部作用の発達様式が段階化され、あらゆる人がその段階を踏み、(誰彼の区別など無く同一の)目的点に到着する。この規格仕組みに合致しない人は、発達が阻害されて例外とされる。もしこの様態が個体発達であるならば、人が幾10億人いようと、これほどにも同一を目指す原動力、その根源は何処にあるのだろうか。目的点は同一、もし個体発達であれば、これほど強力な収斂(convergence)などあり得るのか。
これらを鑑みてRoheimはphylogeneriqueとせざるを得なかった。


ピアジェは「発達」をフロイトから取り込んだ。それをontogeneseと規定した。Phylogeneseだとすれば心理学の範囲から逸脱するからである。そしてこの極端な収斂性に独自の解釈を試みた。

>Piaget a eu , a cet egard, une attitude plus nuancee, mais qui manque souvent de clarte. Il retrouve dans la pensee enfantiles la magie, l’animismes et les mythes et, a propos du scrifice, il remarque qu’a chaque pas, on peut s’attendre a rencontrer des analogies entre la pensee de l’enfant et celle du primitif.(103頁)
注 ;nuanceニュアンスの勝る。ニュアンスとは一の色調の中での濃淡。赤で暗いが紫には入らない、赤の中での濃い薄いがニュアンス。これが原義の用法で二義的に「定義付けしていない」「曖昧」否定的意味合いが強い。
sacrificeを犠牲としたが具体的には「神に捧げる動物(屠る)」である。宗教、信心に伴う「屠り」習慣としても捉えられる。

上引用の訳; この点(未開と子供の心理を比較する問題)についてのピアジェの態度は濃淡、微妙さに勝り、明確に欠けていた。彼は子供の思考に魔術、霊魂、神話を認めた。そして犠牲の習慣について、彼の論調には、論を進める度に、子と未開人とを同類とする主張が展開し、読者にその論調は明らかとなる。

未開人の精神風土とは魔術、霊魂、神話そして犠牲(動物屠り)で充満している。文明人はそんな(非合理)をすっかり忘れているが、(発達途上の)子供にはそんな精神がわだかまる。ピアジェの主張である。

この下りに対してレヴィストロースの指摘は;
>il admet ‘ un certain parallelisme entre ontogenese et phylogenese’ , mais ‘ jamais nous n’avons songe a voir dans le contenue de la pensee de l’enfant un produit hereditaire de la mentalite primitive’, car ‘ ontogenese explique la phylogenese autant que l’inverse’.<
訳;彼は個体発達と系統発達にはある種の平行性が認められるとしている。しかし(西洋の)子供精神の中味が未開人精神を引き継いでいるとしているわけではない。なぜなら個体発達は系統発達を説明するし、その逆も言えるからである。

最後の句「個体発達は系統のそれを説明する」の下りを前の句と整合させ引用文を解説する;

1 ピアジェは西欧人と未開人を同一の「人」に括らず、別の系統としている。系統から個体へとつながる発達の様態は(生物学の法則から)同じと見ている。
2 系統発達に個体発達が平行する図式とは、種としての発達段階の終盤に個体発達が昂進する。それ以降は系統と個体が並列に発達し、種として個体として完成体を獲得する。

3 西欧人の系統発達の最終段は抽象概念と演繹思考の獲得まで進む、一方未開人は魔術と神話信仰(西欧人では低段階の個体発達)で終わる。この終段階は西欧では幼児期にあたる。
4 未開人の系統発達の最終点は「未完成な思考」なので、そこを起点とする個別発達の最終点は演繹思考を獲得できない(個別は系統を説明する;ピアジェ主張の意味)。西欧での個別発達の起点(未開人とは系統が異なる故に別の過程であるが)は幼児の未発達精神であり、その様態は感覚運動、行動してもその表象が掴めないである。

未開人の個体発達の最終期とこれが対比できる。

レヴィストロースが発起する問題とは;
「系統発達での劣位点から出発する未開人幼児は、上位点から出発する文明人幼児と比べ、未開と文明の成人同士の比較で思考力の優劣が「認められた」と同様に、出発点思考に遅れがあるのだろうか」

感覚運動期(幼児段階、5月7日投稿)の下位は「未開部族」の研究で発見できるのだろうか。続く

(上1~4はピアジェの原文に接せず、レヴィストロース批判を読んだ上での部族民蕃神の「一方的」解釈です。発達心理学に詳しい方からの反論、学会の内部での見解は蕃神と異なる解釈であるならご指摘を乞うtribesman*tribesman.asia *を@半角に変換)
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ピアジェ批判の続き、親族の基本構造を読む 1

2020年05月11日 | 小説
(2020年5月11日)
5月7,8日にピアジェ批判を取り上げた。「裸の男フィナーレ」抜粋である。

ピアジェ批判は神話学第4巻「裸の男」最終章に、突如取り上げられた感を与えるが1947年刊行の「親族の基本構造」Les structures elemetaires de la parante第7章「古代という幻想」L’illusion archaique(98~113頁)で子細にかつ徹底して論じられていた。裸の男の脱稿は1970年、23年を経ての再批判となる。ピアジェの論旨に危惧、あるいは忌避感を感覚えたよほどさがあったと推察してしまう。

親族の基本構造、表紙

そこで「裸の男フィナーレ」を一旦離れ、「親族の...」でのレヴィストロースのピアジェ批判1947年版の骨子をここで紹介する。過去投稿(2020年5月7,8,9日)で取り上げた展開と重なる言い回しが一部に認められるが、その点をご容赦。

(以下は雑なる一節;新型コロナ禍に巻き込まれ高熱を発し(9日投稿)、さらに焼き鳥店「南平ヨッチャン」のバイトを飲み屋不況で解かれたから、4月はもっぱら「読む楽しみ」(徳永恂氏一生の名言)にふけった。書庫(と称する段ボール)から「親族の...」を引っ張り出して再読したら、ピアジェ批判にぶつかった。「裸の…フィナーレ」を先に読んでいたから、両の筋立てを照らし合わせた。理解の深まりもより一層と、勘違いしながら思った)


レヴィストロースからの批判の骨子
1 ピアジェは「未開社会住民の精神構造は文明社会の幼児のそれにあたる」。「未開」なる差別語を容認しない人類学者としての反論である。それにしても、ピアジェ説は読み流しにするも今にして、奇妙きわまりのない説である。
2 レヴィストロース論点の基準としてgenese=発達、発生の否定である。ピアジェの心理学は幼児期から青年期までを4段階に分け、精神の成熟を説く。その原動力にgeneseが位置する。論の基本理念を否定する訳だから、彼の理論、論旨と仕掛け様々の全否定につながる。
3 「構造」へのピアジェの思考の曖昧さ、その不確かに立脚したレヴィストロース批判への反論も読み応えは重い。


内表紙。前付けで当該個体は第2版の第2刷、初版1947年、本刷は1968年。フランスでは刷あたり8~9000部を発刊する。ここまでで3万部弱が売れた(刷った)事を表し、学術書としては大ヒット。

98頁から数頁は前項のおさらい、省略して102頁に入る。

<Le probleme des rapports entre pensee primitive et pensee enfantine n’est pas nouveau>
訳;未開人と幼児を比較する問題は目新しくはない。
Le problemeは<そうした問題>、すなわち比較の進め方を追求する論理手順の「問題」ではない。比較する事自体に問題があるとしている。
<Il a ete pose dans des termes a peu pres immuables par des auteurs aussi eloignes ailleurs que les psychanalystes et certains psycholoques comme Blondel et Piaget>

>termes a peu pres immuablesのimmuablesは不変、継続したの意味。本意は両者(精神分析と心理学)にこの判断の影響を与えた思考があったと示唆している。

訳;この問題は精神分析家と心理学者というそれなりに離れている、例えばブロンデルとピアジェの関係だが、場合においても、ほとんど同類の表現手法で論ぜられた。

Blondel(Charles、1876~1939年、フランス)は精神分析家らしい。明治に当てれば9年生まれとなる、ピアジェは1886年の生1980年没。比較の意味で西田幾多郎は1870年(明治3年)生、1945年没。レヴィストロースは世紀が変わって1908年生、2009没。上の2名は生まれ死もレヴィストロースの一世代の前である。

当事者らの生年に拘泥した理由は、19世紀後半20世紀前半、一次大戦勃発まで欧州一部に不穏な思想が跳梁していた。そして上の2者は生年からしてそうした思想に感化されたはずと(蕃神は)勝手解釈しているからである。

シャルル・ブロンデル(ネットから)ソルボンヌの心理学教授職をDumaに譲り、そのDumaがレヴィストロースの指導教官だった。一世代前としたが、2世代前が正しいかもしれぬ。

産業革命と植民地支配で西欧が潤っていた時期、白人至上が西欧に猖獗していた。以下の文節は私感にすぎないが、この時期に教育を受け言論を展開し、施政していた者らには西欧優位を思想の漂いが底流に感じとれる。政治の分野でその典型例として、日本人を「サル」と呼び朝鮮を併合するとして日露戦争を起こしたロシア皇帝ニコライ2世があげられる。
学術界ではその風潮の先駆けとして人類学者にレヴィ-ブリュールLevy-Bruhl(1857年生)の名が思い浮かぶ。

ブロンデルもピアジェもこの時代の風潮に蚕食されていた。
それなりに(用語、思考判断で)離反しているはずの精神分析と心理学においてでも、その差異を乗り越える西洋至上の時代風潮に影響を受けているから、同じ用語を用い未開人と幼児の精神を重ねていた。

ここがピアジェ批判の出発点である。なおレヴィストロースのレヴィ-ブリュール批判は前の投稿で取り上げている。一世代遅れの生を受けたレヴィストロースは「西欧至上」を批判している、

親族の基本構造に戻る。続く分節でフロイトを取り上げる。

性衝動(リビドー)において口愛期、肛門愛期...などと発達し性愛に向かう。性愛は禽獣には見られない人に特有な情緒である。いわば人精神の極点に位置する。このフロイト説における「発達」の仕組みがピアジェの「心理発達」につながる。

発達はgeneseである。大文字Geneseはバイブルが語る「天地創造」を意味する。小文字で始まる普通名詞の意義は>le procesus qui commande le devenir d’une chose <Dictionaire de philosophie, Nahan出版>ある物の(始めから決定されている)未来に向かう行程。

この行程がphylogenese(系統発達)とontogenese(個体発達)に分かれている。

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新型コロナ騒動巻き込まれ

2020年05月09日 | 小説
(2020年5月9日。以下は7,8日に投稿の文末に添付していた私事を1回にまとめた一文です。構造主義も神話学も取りざたしていません。ヒマな御仁に向け、したためた)
3月の末、陽気が良かったのでロード自転車を駆って多摩川サイクル道路(正しい名称は多摩川「遊歩道」、主人公はあくまで歩行者)に乗り入れた。府中のグラウンド脇ベンチで休んでいると、二人連れ妙齢のご婦人に声を掛けられた。話を聞くにつれ、いつの間にか人々の暮らす森羅万象、言うなれば「宇宙」に話しがさりげなく誘導された。お若い方がスマホを拡げ、指先で一操作。すると画面に蝶の羽がきらびやかに浮き出た。南米原種の蝶であろうか、指先をこすると羽が見る見ると拡大され「鱗粉」の構造が暴き出された。格子模様の緻密な様に目は驚く。

表情をうかがいながらか、彼女らは私に向かい、

「これほどに綺麗に揃う微細構造は決して適者生存のまやかしでは説明できませんわ」一風変わった進化の講釈を垂れた。かくしてしばらくはこの論を聞く事になってしまった。フムフム肯き加減の私に先方は「関心をお持ちかしら、集会に来ませんの」誘いをのせた。

種明かしすると彼女等が語る論は「インテリジェントデザイン、デザイン進化論」です。
「適者生存では複雑形への進化を説明しきれない。原初に知性ある者(神)のデザインが方向性を定めた」とする反ダーウィン論です。その例証に人の目玉を挙げることが多いとも聞くが、多摩川の土手先では蝶の鱗粉であった。
集会参加は丁寧にお断り申して、これまでとチャリのペダルに足先をのせると、若い方がチャリ前に立った。

その位置はチャリの真ん前、まさに「すぐには出ないで」主張する位置を保ちつつ、

「また会えませんか」目配せした。


不謹慎とされようが相手が目の前に移動してきたから、堂々と正面からその方を眺めても良かろう。ジロジロ目線が飛ぶ先のお相手はお歳の頃、40歳前半か。ならば若年増、額から頬の流れる線のあだなふくよかさ、ここは文子(ワカオ)様似だ。目付きときたら潤むまぶたをフト落とす、そのなまめかしさが良子(サクマ)を彷彿とさせた。比較した対象女性の若かりし頃の印象を語ったから、現在進行形ではありません、過去形となっている点にはご容赦を。
とっても美形なので残る心が累々と、年増色白の顔の影に写るのだけれどここが正念、こんな時こそ出すとその機を待っていた文句が口からでた。

「♪恋しくば尋ね来て見よネットなるサイバー森はウラミ部族民通信♪」
(浄瑠璃蘆屋道満大内鑑(あしやどうまん おおうち かがみ)、葛の葉と童子丸別れの場面のモジリ)

大ミエをきりペダルを一踏み、女の脇をかすめた愛車はスルルと走った。それでもなぜか、彼女は絶対に部族民通信のサイトに尋ね来ない、確信の揺るぎは覚えず愛チャリをひたすら駆った。

グエルチオッテイ社製のカンガルー

翌朝、頭の痛さに飛び起きた。頭蓋内が割れるかにガンガン唸る、体熱も36.8度に上昇、腕を上げるも足先を踏むも億劫。新型コロナの感染を疑うが、保健所の検査指針37.5度4日続きにまだ遠い。不要不急の病で医者に尋ねてはならぬとの政府指針ものしかかるから、拙宅に籠もりジキニン呑んでついでに気付けスダチ酎ハイも平素を越す数の杯をあおって、塩梅を自ら検分する10日が続いて何とか快癒した。新型コロナでもインフルでなくタダの風邪だったのでしょう。あだな若年増との濃厚接触の愛着因果(向かい合って会話しただけですがこのように伝える令和2年の流行です)もなかったと思います。

しかし心は落ち着かずコロナに彷徨い、感染やら治癒やらの話題をネットに拾って安心していた。そして、精神状態の様変わりを自覚した。「書く苦しみ」を耐えるにも受け容れられず、「読むよろこび」にただ浸っていた(2句の「...」は徳永恂氏の名言)。

書くを忘れたサイト管理者は裏山小藪に棄てられる。

漸く、本日(5月7日)にしてパソコンキーボードに向かえました。

追;この日(2020年5月9日)全国新規感染者数は95人、東京は23人とピーク時(250人ほど)と比べ落ち着きを見せている。累計で1万5千人、退院者数は当日で760人との厚生労働省報告に接する。減衰傾向がこのまま続き、新型コロナの終息を願う。

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