蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

本朝たはけ2000年3

2021年01月29日 | 小説
(2021年1月29日)皇子死の結末に2通りが語られる。
1 皇子は伊予で自害した
2 皇子と軽大郎女は伊予で心中した
古事記を読むもどっちか分からない、独自(勘違い)解釈を開陳する。最期の一節は;

♪(前略)吾が思ふ妹 鏡なす 吾が思ふ妻 ありといわばこそ 家にもいかめ 國をも偲ばめ♪とうたひたまいき。かく歌ひて、「すなわち共に」自ら死にたまいき(299頁)。
「愛しい妹、鏡に映ってくれ、思う妻がそこに居るとすればこそ、家をおもいだす、國も偲べるのだから」と歌って「すなわち共に」死んだ。この「共に」が心中伝説(軽大郎女も伊予に流された)の源となる。本書ではこの語に頭注をかけない。
歌の前段で河の瀬に杭を打ち鏡を掛けたとある。鏡は魔術効果があるので、軽大郎女を呼び寄せる卜い神事に用いられたのだ。「すなわち」の意味とは皇子の一念で軽大郎女が鏡に依り憑いた、そこで「すなわち鏡の中の軽大郎女を抱いて」「共に」自死したとする。
これが部族民の解釈だが、皆様のご批判を乞う。

たはけに戻る;
皇子の父、19代允恭天皇は実在した天皇とされる、在位は前述、5世紀前半。主人公木梨皇子も実在した。この婚(たはけ)顛末は実際の出来事である。古事記編纂の250年ほどの前ながら、これほどに生々しく語られる理由は、その顛末が帝紀旧辞(古事記のもと本)に記載されていたかもしれず、稗田阿礼のみならず、人々に語り継がれていたからであろうと思う(部族民)。

同書の補注、
伊勢物語「昔、男、妹のいとをかしげなるを見居りて、うら若み寝ゆげにみゆる…」。源氏物語「匂宮が妹、女一宮に恋情を告げる」などは軽皇子悲恋が知られていた事情を説明している(補注143、358頁)
伊勢物語の成立は900年ころ(Wikipedia)。源氏物語はその後さらに100年余。古事記編纂から2~300年弱の経過。経時的には業平、紫式部が古事記を知りたはけ顛末に接したともいえる。しかし逆に、この事実をして話の実在性は強まる。古代人にあってもイザナギイザナミなど神代の物語を「事実かどうかには疑問」と否定はできるし合理的である。しかし朝廷、日嗣御子の禁忌破りの醜聞には実際感を抱くだろうし、まして阿礼が「創作」する必要はない。
兄と妹狂いの語られ様、その衝撃の強さが大波津波なれば引きつけられ、語り継ごうと業平らの心を奮い起こした。文に力があるから「こんな恋があったのだ」「こうした愛があってもてもいいのだ」と。その勢いを後生が引き継いだ。

穢れに戻る。顛末は何を語りかけるのか。
軽皇子には「罪に問われ、己がそれと自覚した」風情の記述はない。あまりに堂々と日継ぎに臨むとして、
「百官および天の下の人ども軽太子にそむいて「穴穂の御子(弟)によりき」。日継ぎをはずされ謀反を企てるも鎮圧され流され、自害した」
罪を問う側にしても罰を下していない。日継ぎ位を失ったのは罰であるとの指摘に「罰ではない、流れ」と答えたい。皇子は祓いを受けた、流刑された。処払いと書くが、処祓いである。罪穢を帯びる皇子の身を宮中から遠ざけるための流刑である。近親婚に罪はない、穢れが発生するのみ。近親婚に罰はない、付着する穢が祓われただけ。「犯した罪が穢れ、祓うのだ」これが本朝神道の教義である。

ここで本朝での「罪、穢れ、禊ぎ、祓え」の概念を再考しよう;


大祓祝詞(河内一宮枚岡神社、ネットから採取)を掲載します。「国中に成り出む天の益人らが過犯シケム種々の罪ごとは天津罪国津罪許許太久の罪....」と読める。延喜式にあった「...上婚下婚、牛婚、尿戸....」など具体名は外されている。明治維新になって諸外国にバレたらカッコ悪いとの判断が維新高官にあったと聞く。しかしこの文言が祝詞の価値、レヴィストロースが説くところの「自然から文化」の古代文書資料です。


「婚(たはけ)にあれば罪穢である」(同書頭注から)。
婚姻が成り立たない男女が密通を続ける。これは罪である。この「罪」は個人が負うタテマエはあるのだが、当の罪者には直接の責が及ばない。罪は「穢れ」なる状態に一般化し、外気に浮遊する。副作用をもたらす。イナゴバッタの跳梁、長雨、飢餓などは清められない穢れが原因だ。祟りなる意味合いとは罪穢の運命責任論であり、かつての日本人は共同体とそれを取り巻く宇宙の関係をカク信じていた。それが国のヌサ、大祓の起源、理論根拠である。
蝗害(バッタ)でコメが取れない。農民らは「スケベ太郎が上下婚したせいだ」と、己の水平婚を棚に上げて憤る。先住民的感覚で情勢をすぐさま整理する能力、別の言い方で「事象をモノとして、モノ同士を瞬に紐つける知性=魔術」には、小筆の単純頭のセイもあるが、「野生の思考」(レヴィストロース著)を読んだことで、より理解が速まった。
図式は;
1 個人が犯す「罪」、共同空間に溜まる「穢れ」、祟りが仕打ち
2 個人は「禊ぎ」を試みる(滝口で打たれるなど)、神主さんの祓え(ヌサをバシバッシ振られる)で穢れを放逐する。
3 お騒がせの元兇=「たはけ」が「祓われ」清めにめでたし昇華した
本朝2000年となるには近世にもその実話を求めねばならない。
(2021年1月29日)本朝たはけ2000年 3の了
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本朝たはけ2000年 2

2021年01月27日 | 小説
(2021年1月27日)本朝たはけ2000年 2
古事記に戻る、
崩御を確かめ宿禰は「国のヌサ」をとり殯宮に鎮座する神に向かい、息途絶えたスメラギ死骸を下に見てヌサを大振いして穢れを祓った。天皇に結集して死に至らしめた国の罪穢がヌサ祓いで清められた。これこそ「祓い」の原点、本朝の黎明期なれば神事始めの礼拝と、ヌサ祓いの儀式がかくと制定された。
国のヌサには規定があって「高天原の堅木を採って、高天原の苧麻をしごいて....延喜式」神主さんが祝詞で用いる今様ヌサの原型です。国の穢れとは、
上引用の「…上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類の種々…」であり、それのみである(生き剥ぎ…は後述)。本朝この世(4世紀)には野に山に、罪穢を跋扈のままに許す汚れまくりの国土だったのだ。こんな名誉ではない結論に走ってしまう…。待て、(たはけまくり民族)なる結論は短絡にすぎるとの反論もあるだろう。

武内宿禰「キヨソーネ画、ネットから)天皇5代に仕え330歳を全うしたと伝わる



問題は近親お試しの頻度とか耽溺常習者の多寡ではない。わずかな例であろうと穢れを清めず、放たれるを許すと瘴気が野山を漂泊し、ひいては里に落に惨禍をもたらす。作上げ不順に苦しむ百姓らの恨みが山に籠もる…。清め祓いは為政者の勤めでもあった。いうなれば未然防御、太古の公衆衛生との解釈も無理ではない。
神道原点は「穢れと祓い」だから神の末裔、国の統帥たる天皇は、少数の不届きモノがまき散らす汚悪を封じ込めん、臣雑民には平安あれと日夜、気にかけている。その原点が宿禰祝詞にあるとの見方は自然である。
国祓えは大祓えと名称が変更され、6月と12月の晦日に行われることとなった(同書229頁)。古事記と変わることなく祝詞は「….上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、…罪の類の種々(くさぐさ)まぎて…」。これを神の前にこれを吟じ、明治維新まで(宮中行事として)継続した。

古事記たはけ、実例、
允恭天皇記(同じく日本古典文学大系古事記、岩波)から、
木梨軽皇子と衣通王(そとおり姫)の水平婚(あにいもたはけ)。顛末は罪、残すは穢であるが、人には「悲恋」として口に上る。レヴィストロースが日本古書からとして「親族の基本構造」に引用した。

木梨軽皇子、日継ぎ知らしめますに定まるを、未だ位に即(つ)きたまはざりし間に、その伊呂妹(いろも、同腹の妹、同書注から)軽大郎女、亦の名は衣通郎女(そとほしのいつらめ)に姧けて歌ひたまひく、
♪あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下といに 我がとふ妹を下泣きに 我が泣く妻を 昨夜(こぞ)こそは 安く肌触れ♪(同書293頁)
「山田を耕しその高みから(人目をはばからず)、埋め樋を通しその樋から(人目を忍び)我が訪ねる妹を、忍びに泣く妻を、昨夜やっと優しく抱いたのだ」
もう一首
♪笹葉に打つや霰の たしだしに 率(い)ねてむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるわし)と さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の乱れば乱れ さ寝しさ寝てば♪(同293頁)
「霰が笹の葉を打つ音のようにしっかりと、とも寝に明けた後ならば、離れたとても愛(うるわし)狂わし、乱れば乱れ、寝たし寝たのだ」(同)
(歌の解釈は頭注を参考にした、パソコン変換出来なかった漢字も多)

歌を詠むとは心を公にする社会行為である。
当時(5世紀前半Wikipedia)にも「歌会」の宮中社交は機能していたから(知らないけど)、諸臣百官の集まりで前引用2句、同腹の妹との交合を仄めかす、生々しい歌を軽皇子は朗々と詠じた。同腹、同じ系統filiationでの婚たはけ、これは武内宿禰が半世紀ほど前に祝詞に託し宣言した「近親婚の禁止」に触れる。
皇子は己身に穢れが籠もると堂々と告白したのだ。

日継ぎといえ人心は離れる。
百官及び天下の人々、軽皇子に背きて穴穂御子(第2子)に帰(よ)りき。爾(つい)に軽皇子かしこみて大前小前宿禰の大臣の家に逃げ入りて…(293頁)
皇子は武器を取り権力奪回を計るが、多勢に無勢、大前小前宿禰に裏切られて召し取られ、伊予の湯(道後温泉)に流される。

このたはけについてレヴィストロースは;
「同腹でも姉と弟であれば許された、多目に見られた(はず)。近親婚を実行していた世界各地の王族階級でも「姉と弟」は認められ、「兄と妹」は同腹異腹にかかわらず、禁止していた((古エジプト、ハワイ、オセアニアなど)。理由は年少の女子は男(父か兄)にとって「交換財の目玉」。それを手につけるは「女交換サイクル」を破壊する行為そのものである。
<les ancian textes japonais decrivent l’inceste comme une union avec la soeur cadette>(12頁)日本の古い書は「近親婚」を妹との婚姻と規定している(姉との婚姻なら許される)。

もう一つの指摘は、
「貴顕階層は幼少には母方の父の住まいで養育される(本朝でもその決まりがあった)。異腹であれば住まいは別、すると別の系統filtlationとの意識が当事者、さらに周囲にあった。別の系列filiationとなれば婚姻を結べる相手となるが、この規定が異腹兄弟姉妹にも適用された」
そうした実例は古代天皇家に限っても幾例かが拾い出される。用明天皇と穴穂部間人皇女(聖徳太子の父母)は異母兄妹であった。

(2021年1月27日)本朝たはけ2000年 2 了
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本朝たはけ2000年 1

2021年01月25日 | 小説
本朝たはけ2000年 1
(2021年1月25日)親族の基本構造(レヴィストロース著1963年第二版刊)に古事記木梨軽皇子の悲恋物語が引用されている。原典に(岩波、古典文学体系)にあたり、レヴィストロースの指摘の妥当を探るに、出典を延喜式に漁りして、本文にてそれら課程で得た所感をまとめるに至った。(親族の基本構造は中休み、蕃神)

婚(たはけ)の由来を遡れば古事記に至る。
仲哀天皇の段、
后(神功皇后)が神がかりし「西方に金銀豊かな国がある、そちらを攻めるべし」の神託がくだされた。天皇は「西を見ても海があるだけ」従わなかった。武内宿禰の願いで琴を引き寄せ奏でるが、音が消えた。宿禰が灯りをともして見ると、天皇は「崩(カムアガリ)たまひぬ」。
殯宮に安置し、宿禰が「国のヌサ」を取り大祓を為(し)た。その祝詞が
「生き剥ぎ、逆剥ぎ、阿離(あはなち)、溝埋、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類の種々(くさぐさ)まぎて」国の大祓えをした。(古事記祝詞、日本古典文学大系1、岩波229頁、引用は同書から)


神のお告げは西の国の征伐、神功皇后は天皇をせかすのだが、

のちに古事記が伝える「朝鮮征伐」である。広開土王の碑(高句麗、西暦399年の建立)碑文との関連が指摘されている。

国の大祓とは「国中の穢れを祓う」宮中の儀礼。この儀礼確立を古事記の成立(712年)前後とすると、8世紀前半である。一方、宿禰の祓えの舞台は仲哀天皇神功皇后の世、古事記がその頃の神儀を再現しているとすれば、同天皇統治の正確な暦年は不明だけれど、歴史資料から4世紀後半390年前後としたい。すると祝詞で伝える穢れ「婚たはけ」は今からそのころから神道祓えの古式拝礼に取り上げられていたと言える。
仲哀天皇を4世紀終盤とした理由は倭の朝鮮侵攻(西暦399年、広開土王の碑)に依る。これを神功皇后の三韓征伐と同定する。今の史学の主流もそのように傾いていると聞く。これを持って同天皇の統治におおよその見当はつく。

すでに古代には「婚たはけ」を罪(穢れ)と規定し、穢れを清める神主さん、その先祖形が祝詞を唱えヌサを振るって活躍していたと推察する。もちろん宿禰の祝詞や祓い儀礼の一切は、古事記成立当時の式次第であるとの反論はあるだろう。ここで本書「古事記祝詞、岩波日本古典文学大系」を注意深く読んで欲しい。描写される情景は「沙庭の灯りを全て消し天皇(大王)が琴を取り寄せ自ら奏で、神託を得る」。こうした手順は古事記のかなりの以前、太古のものとの頭注が読める。倭人伝の卑弥呼にも読める「鬼道につかえ衆を惑わす」、古には祭儀を鬼道(神道であろう)の長が司っていたと知れる。天皇自らの神託請け(闇の沙庭を前にして琴を奏でる)は太古の儀礼式であろう。
ならば祝詞も太古に求める。するとたはけは本朝1600年の長きにわたり嗜なまれ、ひたすら実践されていたのだ。祓わねば穢れが国土に蔓延する。宿禰が始めた祝詞の文脈、そこに警告される罪なるは、かっぱらいでもオレオレ詐欺でもなく生の乱脈、これがたはけ、それしかなかった。祝詞にその実態を取り上げた宿禰の英断にはそしりも非難もなく、皆にもただ納得がいくはず。

牛とか馬とか豚とかは無視して、人と人の「婚たはけ」に焦点を絞るろう。
その範疇は;
1 上下(おやこ)婚たはけ。子と母、娘と父。
2 水平(兄弟姉妹)婚たはけ。兄弟と姉妹。古事記に事例がある(後述)けれど、忌避されるは同腹の兄弟と姉妹。異腹兄弟姉妹の淫は大目にみられ、特段に干渉されず夫婦に結ばれた。
3 娘と母、ないし母と娘とのたはけ(頭注に母と子、子と母を犯す...)。これは己の姑と、あるいは義理娘との淫であろう。
(延喜式祝詞からとった。同式が古事記内容をより詳細に分解したとの判断、延喜式は補遺にて取りあげる)

ここで祝詞のたはけと親族の基本構造が論じている「近親婚禁止」と比較したい;

レヴィストロースの主張では「…禁止」は「同系統の男女の婚」に限定される。血縁が近くても別系統であれば婚は許される。上、祝詞での1(上下婚)と2(姉妹婚)は彼が伝えるとおりの同系統での禁止。
3はどうだろうか。彼はこうした規定(3)を文化の規則に入れるから、これも1,2の流れとしている。ボルネオ先住民の例では姑、義理姉妹との婚たはけは実の関係より厳しく禁止されていると報告を挙げている。
もう一つの彼の主張は「…禁止」は社会制度としてである。観念情緒、あるいは倫理からの禁止、これは禁忌となるが、そうした仕組みではない。すると彼の説「…禁止」の概念は、それを「穢れ」として宗教教義に組み込み、対処方式(祓い)を規定した。これも社会の制度である。
古代日本の神式にレヴィストロースの説がすっかり当てはまっている。そして古文書資料として残されていた。
本朝たはけ2000年 1 了

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2021年、部族民通信ホームサイト案内

2021年01月24日 | 小説
(2021年1月24日)ホームサイト(部族民通信.WWW.tribesman.net)を2021版に更新しました。投稿している演題は「親族の基本構造」1,2です。本年はじめ(1月5日)から本ブログに投稿(1~7回)した文の加筆(訂正も)し、増補を加え2回に分けています。


親族の基本構造と悲しき熱帯、野生の思考。


レヴィストロースは「うぬぼれている」のだそうです(邦訳本の訳者福井和美氏のあとがきから、ギアツのの評として)。レヴィストロースがこれら著作で展開しているのは実証ではありません。信念、思い込み、辛口批評では勘違い、を堂々と押し出している。民族学、人類学など社会科学は「実態」を検分してその様を「実証」する、おおよそこれに行き着きます。しかしレヴィストロースは先に結論を出しており、それに見合う実態をあちこちから都合よく引き出す。言うなれば哲学の手法をとっています。そのあたりが(英米系の)実証主義の社会学徒には気障りなのでしょう。
ホームサイト加筆文では「まず結論ありき」で説明しています。よろしくご訪問ください。
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親族の基本構造7 近親婚の問題の3(近親婚の了)

2021年01月22日 | 小説
第2章「Le probléme de l’inceste近親婚の問題」の3(2021年1月22日)
<レヴィストロースが得意とする「そもそも」論の神髄とも言える指摘>が前回の最後。
誰もが知る事実、あるいは当然として推定する事象。これらをそもそもの出発点として理性から推論する、さらには公理を導く。この思弁法をして小筆(蕃神)は「哲学的」と申すのですが、別の観点で学を進める論者、とくに実証主義からの批判を浴びる。
動植物の改良の手口(かけ合わせ間引き)と人の遺伝を較べ論ずるは不合理…なんて批判がヒューム主義から出てきそうだ。(アングロサクソン系実証主義の学徒からの批判をレヴィストロースは「受け流す」を常としている)

Comment surtout, si l’homme primitif avait été sensible à des considérations de cet ordre, comprendre qu’il se soit arrêté à des interdictions, et n’ait point passé aux prescriptions, dont le résultat expérimental eut - au moins dans certains cas – montre les effets bénéfices?(同)
もし原始的人類がこの秩序(近親婚による人遺伝の劣化)を知りその禁止を計っていたとしたら、そして経験で知っていた良い結果をもたらした近親交配技法(栽培種など)の取り決めに踏み出さなかったとしたら…(新石器革命は起こらなかった)
(近親交配は遺伝劣化をもたらさないと知っていたから品種改良を実践していた。近親婚を実行しても、遺伝劣化に陥らない事を知っていた。しかしそれを禁止している事実は、遺伝とは別の背景がここにあるから)
この文は仮定法過去(過去にあり得なかった仮定を設定する)を用いて、その説を否定するの逆説指摘です。

Les prescriptions positives que nous rencontrons le plus fréquemment dans les sociétés primitives sont celle des unions cousins croisés(同)
多くの未開社会で(近親婚を認めることに)肯定的な取り決めが報告されている。それは交差いとこ婚である。
この文の後に「並行いとこ婚」(父の兄弟の子、あるいは母の姉妹の子)の婚姻は近親婚とみなされると続く。レヴィストロースの疑問は「血の繋がりでは同じ濃さ、しかし一方は推奨されもう一方は近親婚として禁止される」この点をもってして「近親婚...」は生物学的配慮ではなく、社会の取り決め、すなわち文化の発生とする。

続いて遺伝学の説明に入る。(部族民)はこの分野を理解する者ではない。しかし上記の1近親婚は遺伝劣化をもたらすか?と絡むから、一句だけを引用し、つたない訳を貼り付ける。
Les mariages consanguins ne font qu’assortir des gènes du même type , alors qu’un système où l’union des sexes serait déterminé par la seule loi des probabilités (panmixie de Dahlberg) les mélangelerait au hazard. Mais la nature des gènes et leurs caractéristiques individuelles restent les mêmes dans les deux cas. Il suffit que les unions consanguines s’intérompent pour que la composision générales de la population se rétablisse telle qu’on pouvait le prévoir sur une base de panmixie.(17頁)
Dahlbergが言うところのpanmixa(配偶を任意に選ぶ)では両性の遺伝子(gènes)は偶然性によって混ざり合う。一方で近い血縁の者同士の遺伝子は、同型の遺伝子の混ざり合いとなる。しかし、遺伝子の特性とその個人性を鑑みると、両者は同類とも言える。近親配偶での遺伝子混合が、母体人口がpanmixia(任意配偶が継続されて蓄積した遺伝子の組成)状態に近づけば同類であるから。

引用文の前に<si l’humanité avait été endogame depuis l’origine>もし人間社会が発生期以来、族内婚を実行していたのならを記している。これはあり得る。

本書刊行の後、人類の祖先を遡る「出アフリカ」論が発表され、もてはやされた(ストリンガー、2001年に邦訳刊)。レヴィストロースが仮定として前置きした「族内婚時代」はこの論でも取りざたされている。旧世界人は風貌、言語、社会など多様な民族の集体と思えるが、遺伝子的には大変、接近している。アフリカを除く人間の遺伝子の相違は、どれほど遠隔(たとえば東アジアと西ヨーロッパ)にあっても、アフリカで近接する(出アフリカしていない)部族間の差異よりも小さい。これは遺伝子学徒から1990年代に聞いた。学会で主流になっていると聞く。
(アフリカ人は、他のどの集団と比較しても大きな遺伝距離をもっている。これとは対照的に、東アジアの五集団は、それぞれの集団間の遺伝距離が非常に小さい=宝来聰著「DNA人類進化学」から)
出アフリカの原因に気候の変動と人口の激減(ボトルネック)が発生したとの解説もある。少数構成ながら規則を設けた「族内婚」で存続を乗り切ったのであろう。

レヴィストロースが近親婚は劣化をもたらさない証左にpanmixiaと族内婚を想定したが、その後20年を経て、形質人類学側からその証拠が出てきたという流れとして理解する。
近親婚での遺伝子混交も任意配偶のそれも、次世代への遺伝子効果には変わりがない。
(遺伝学に全くの素人の戯れ文としてこの一段を笑って読んでください)
この後hétérozygote, homozygote(異型結合、同型結合と訳すか?)なる専門用語を駆使し近親婚による遺伝劣化を否定するが、これら語は辞書にも出ていない。分からないから説明できない。(邦訳本では克明に解説を入れている。訳者福井和美氏の渾身作業が伺える)

「近親婚....」生物学からの説明、最初の行に戻ろう、
「生物学からの説明は比較的新しい、16世紀以前には誰も語っていなかったとの前置きのあと、Lewis Morgan(1818~81年アメリカ、白人至上主義)の説を紹介」を入れた。
改めてこの句「比較的新しい」と「白人至上主義」を取り出した意味を問うと;
16世紀にはイエズス会など宣教師集団からの先住民観察が報告され始めた。当然、彼らの婚姻形態、いとこ婚や叔父姪、叔母甥婚も報告された。先住民の「未開性」を近親婚による「知能劣化」と結びつけた説が、比較的新しい時期に出現した。


ミノタウルスは古代の怪物伝説。頭が雄牛、体は人。クレタ島の迷宮神殿の奥に住む。若き乙女を要求する。

ピカソ画部分(ネットから採取)

さらにこの説には2の骨子があって
1 未開人多くに怪物伝説が語られ、理由に近親婚による結果としている。彼らも近親婚の弊害には気づいていた。
2 しかるに、多くの未開人はイトコ婚など近親婚を制度としている。故に彼らの知性は劣等な水準にとどまっている。
1,2は撞着している。総体としてこの遺伝劣化説は矛盾している。

第2章 Le problème de l’inceste近親婚の問題最終の了
親族の基本構造は続く 来週の予定は=本朝婚たはけ2000年=4~5回となる(蕃神)
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親族の基本構造6 近親婚の問題2

2021年01月20日 | 小説
(2021年1月20日)
第2章「Le problème de l’inceste近親婚の問題」の2
自然から文化へ;
<la prohibition de l’inceste est à la fois au seuil de la culture , dans la culture, et en un sens la culture elle-même>(14頁)
「近親婚…」は文化との関連では、文化に入り込む敷居であり、かつ文化そのものである。

上引用のseuilは敷居。日本語の感覚で敷居は玄関の「内側」、フランス語の感覚では「境界線上」まだ玄関の内ではない。よって「その始まりはまだ文化ではない」と訳したいが、それが正統との根拠はあるのか。Petit Robertではその意味は概ね境界線上だが、一つこんな用法を見つけた「sol autours de la porte d’entré」玄関戸の周りの土とある。ならば外側にも使える。これがスタンダード辞典の「一歩手前」とも整合する。すると新石器革命以前を前社会として未だ文化には一歩手前であるけれど、文化範疇でもある「…禁止」は実施していた。そのような雰囲気としてとらえたい。(冷や汗タラリ~)
文化の一歩手前を「前社会」としてレヴィストロースは「自然」の範囲内とする。

文化の「外か内か」になぜ拘るかというと、「…禁止」のuniversalité(汎人類性、世界のどの民族もそれを規則として持つ、前回)の説明に「自然状態の時期」から禁止していたからと説明するから、ここを文化を囲む自然、外枠として捉えたい。

続く文、
<Leurs tentatives peuvent se ramener à trois types principaux, que nous bornerons ici à caractériser et à discuter dans leurs traits essentiels>(同)
彼ら(前文の過去の社会学者達を受ける)の意図は3に分けられる、それら学説をここに定形化して内容を確認しよう。3通りの説明とは;
1 生物学 2 心理 3歴史の残滓

1の説明;
生物学観点からの説明は比較的新しい、16世紀以前には誰も語っていなかったとの前置きのあと、LewisMorgan(1818~81年アメリカ、白人至上主義、先住民は未開人説を展開した)説の紹介にはいる、
<La proposition de l’inceste seraitt une mesure de protection visant à mettre l’espèce à l’abri des resultas néfastes des mariages consanguins>(15頁)
「近親婚...」は血族結婚を重ねる生じる不吉な(遺伝的)結末から種族を守るための手段であるかもしれない。(動詞のseraitはetre(be)の条件法で断定していない「かも知れない」が訳)

多くの部族で近親婚の結末として「子は化け物(monstre)」が伝えられる。しかしそれら先住民は近い血族(曽叔父と姪、オーストラリア)でも「近親婚ではない」として婚姻が許される。その結合による子は化け物にならない。<tels châtiments sont communément prévus par la tradition primitive pour tous ceux qui transgressent les règles, et ne sont nullement réservés au domaine particulier de la reproduction>(15頁)このような懲罰(子が化け物)は多くは社会の「(いろいろな」規則破り」で出現する、原因は近親婚での再生産に限っていない。

続いてJochelson(Waldemar、1937年没シベリア民族の研究)の報告にある「Yakut族はいとこ婚で生まれた子は早死するし、子の両親も長生きはしない」伝承を取り上げ、こうした(先住民信心の)報告をどのように解釈したら良いかと自問する。しかし答えはすぐに出る。次の文節;
<Voilà pour les sanctions naturelles. Quant aux sanctions sociales , ells sont si peu fondées sur des conditions physiologiques que….>(16頁)
これらは自然(生物学的)からの裁定である。しかるに社会として裁定が控えるのだが、それは生物(生理)学の視点など持たない。

ボルネオ・Kenyah族の「近親婚...」の制度と罰則を取り上げている。
母、姉妹、娘...などとの婚姻を禁止し、さらに姻戚の母(義母)などにも適用され、「この違反は罰則が更に重い」。義母、義姉妹、義娘(妻の連れ子)は婚姻を経た「社会の制度」で定義されるわけで、「生物的つながり」を持つ血族ではない。にもかかわらず罰則を設ける背景は「遺伝的虚弱化」を彼らが念頭におく訳ではない。社会の決まりとしての罰、すなわち禁止が文化に由来する証明でもある。
民族学の先学に報告され、畸形を生む原因などの言い伝えを残すYakut族など先住民。それ故に禁止とした解釈にレヴィストロースは;
「まず規則がある、規則破りへの予告的戒め」との解釈も、あわせ評価しなければ片手落ちと指摘する。
(日本でもこの規則、近親姻戚との婚たはけの禁止、は古代からあった。古事記ではそれをも罪(穢れ)と、近親血族と同列にして禁止する。「本朝たはけ考」を後に投稿する)


「近親婚の禁止」の生物学的説への批判は続く。2点を上げる。
1 近親婚が遺伝劣化を引き起こす、この主張は正しいか
2 近親体を掛け合わせて優秀な個体(栽培種、飼育種)を人は作っていたではないか。

牛は1万年前、野生種(オーロックス)を飼育種に改良したものとされる。体躯の小型化、従順性格を「かけ合わせ」で引き出した。ヨーロッパでは飼育種を抜粋してオーロックスを再現する試みがある。写真はその一頭。形体はともかく、体躯大型化はまだたどり着いていない。それは新石器人が躯体の小さい野生種をかけた事を説明している。種牛が体重1tを越す事は少ないが。オーロックス雄は1.5tあったとされる(写真はネットから)


2について;
<On ne doit d’ailleurs pas perdre de vue que, depuis la fin du paléolithique, l’homme utilise des procédés de reporoductions endogamiques qui ont amené les espèces cultivées ou domestiqués vers un degré croissant de perfection. Comment donc, à supposer que l’homme eut été conscient des résultas de tells méthodes 、et qu’il eut jugé, en la matière de façon rationelle , expliquer qu’il ait abouti dans le domaine des relations humaines à des conclusions opposées à celles que son expérience…後略(16頁)
しかしながら学に関わる者(on人)たるは視線の基準点を失ってはならぬのだ!旧石器時代の終焉時期から人々は近親交配(reproductions endogamiques)の手法を用いて栽培種(小麦など)、飼育種(牛豚…)の育成を手がけ、完璧なまでに育種の生産性水準を高めたではないか。その事実を持ってして、人間の遺伝分野(domaine des relations humaines)にのみ、それら結果とは真逆とも言える思考判断を、どのようにして人が取るのか。

レヴィストロースが得意とする「そもそも」論の神髄とも言える指摘です。
第2章「Le problème de l’inceste近親婚の問題」の2 了(2021年1月20日)

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親族の基本構造5 近親婚の問題1

2021年01月18日 | 小説
(2021年1月18日)
2 第2章Le problème de l’inceste近親婚の問題の1
レヴィストロースの著作「親族の基本構造Les Structures élémentaires de la parenté」の紹介を続けています。
第2章Le probléme de l’inceste近親婚の問題では「近親婚の禁止」(以下「近親婚…」)の2面性を指摘する。章頭の文は;

<Le problème de la prohibition de l’inceste se presente à la reflextion avec toute l’ambiguité qui, sur un plan différent , rend compte du caractère sacré de la prohibition elle-même.
Cette règle, sociale par sa nature de règle et en même temps pré-sociale à un double titre : d’abord, par son université, ensuite, par le type de relations auxquelles elle impose sa norme.>(14頁)
「近親婚…」の問題を解こうとするにもそれは曖昧なまま立ちはだかる。しかし別の取り組み方をすれば、禁止自体が神聖さ(sacre)を隠れ蓑としている故にと見当がつく。この規則(regle)は、規則である故に社会的であり、同時に前社会的(pré-sociales)でもあるのだ。その理由はまず汎人類性が挙げられる。次に、禁止が適応される(男女)関係には部族、社会ごとの多彩さが認められる。
「規則」は文化の範疇である。一方、「前社会的」とは自然を意味する。両の相反する性格がこの制度「近親婚…」に認められるとの指摘である。人が文化を獲得する以前にこの制度が生まれ、文化を持って族民社会が、決め事としてそれぞれの制度で確立した。ここが本章の伝えかけ(メッセージ)である。

一方、
取り組みは曖昧さを貫き、解決にいたらない。「神聖sacré」故にとレヴィストロースは気遣うが、先達の研究は人の性状や心理を「制度」と分離せずに議論していただけ。すなわち自然性と社会性を混同していたからと言外に指摘する。

本章本論に入る、
これまでの学説を3の典型(生物学、心理、歴史から説明する)に挙げて、いずれも否定する。そして自身の解析、引用文では「ある一つの別の取り組み方sur un plan différent」と謙遜しながらも、これが決め手と言いたげであり、章後半にそれ(社会制度とする)を開陳する。「近親婚…」は、前社会 (自然)からの遺構を孕むものの、確固とした社会性格を持つ。これまでの説明の主流であった「心理、欲望」などは、規則制度にはなじまない。「禁止」こそが神聖と祭り上げている要素を分離しなければ、「近親婚…」の理解に至らない。

文中のuniversiteを汎人類とした。
族民であれ文明人にしても、いかなる人間社会にも「近親婚…」は存在する。これをして汎人類とする(誰とでも婚姻できる制度を持つ社会はない、の反論として)。

しかるに禁止する(男女関係の)範囲は社会ごとに差が激しい。例を挙げると;イトコ婚に関して交差いとこを推奨(あるいは強制)する民族が多いが、その中でも父系交差、母系交差の待遇さは峻別である。また民族によっては血縁が近いとして禁止している。姪と叔父、甥と叔母は同じく(日本などで)禁止されるが、これを特定の関係であれば認める社会もある。
どの社会も「近親婚…」の概念を持ち、それを規則と制度で定めている。
汎人類性かつ生物学的由来を持つ「近親婚…」の概念、前社会でそれが形成されたとレヴィストロースは主張する。それはどのように存在していたか;

「新石器革命」を人類の大転換期としてレヴィストロースは取り上げている。本書でも諸々の社会制度=文化は新石器以降とする記述が見られる。
すると前社会性とは、
旧石器の生活は家畜持たない、栽培小麦なしオデンなんかを煮込むに土器がない。土地の生産性は新石器期と比べ低い。1~2家族5~10人程度の群がバンドの一単位、この家族バンドと取り巻く環境を「前社会」と想定しよう。

(旧石器期のバンド構成などは考古学の分野である、その方面の知識を小筆は持たない。「悲しき熱帯」で報告される半定住のNambikwara族の生活、彼らが旧石器人と主張などするものではないが、土地生産性ではそれに近いと見て、彼らのバンド構成を参考にした。悲しき熱帯では「数家族20人ほど」のバンドとしている)

Nambikvara族の親子

雨期には定住し耕作、乾期に移動生活に入り採取と狩猟の「原始的」生活をおくる。

このような前社会でもfiliationの概念は確立していたとレヴィストロースが伝える。家族内で「世代再生産」に励んでいた訳では決してない。少なくとも上下婚(=親子たわけ)禁止の規則はあった(はずだ)。これをして「近親婚…」の自然由来と(部族民通信は)解釈する。ここまでは前章(nature et culture自然と文化)の繰り返しとなります。1,2章とのつながりを強調していると理解する。
第2章Le probléme de l’inceste近親婚の問題の1の了
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親族の基本構造4 不等価交換、独身論、女狩人 

2021年01月14日 | 小説
(2021年1月14日)3回続けた前文、その補遺として

1 等価交換VS不等価交換
もし、
先住民が市場に出て、年頃の娘、姉妹をお立ち台に登らせて「クネクネ踊らせ」競りにかけ、落札された値段に見合った価額で息子に嫁を買い取る。こうした制度があるとすればそれは、売って買ってそれで終わり。等価のやりとりで後を引かない。これをして世間はtransaction市場取引と呼ぶ。人身売買とも伝えるであろう。こうした市場を先住民が形成しているとは聞かない。女を交換財として扱うは家畜、穀物の売り買いと大きく異なる。その交換は相手先が限定される、共時的不均衡を鉄則とする(この形態を尊師レヴィストロースは「限定交換échange restraint」と教える)。
女のやりとりが社会構成の基盤を形成する、これが部族民の世界である。

2 不均衡の棄却
女交換ではないがもう一例;
アラスカ、カナダ北西部先住民の習俗「ポトラッチ」について。
ある部族が近接部族に贈り物を届ける。受け取った部族はその財になにがしかを付加し財価を引き上げ、別の隣部族に贈る(おおよそ倍贈りとなるらしい)。贈り行為を繰り返すうちに財貨に託された不均衡がふくれあがる。そして贈り物一式は破棄される。これ以上は無理(無駄?)と判断した部族が、海に捨てるという果敢を決行する。

この課程を不均衡、均衡の交換原理で解釈すると;
贈る行為には不均等が顕在する。贈る側の優位、受ける側が劣勢に設定される。受け側は価額を倍加して第3の部族に贈り、優位を取り戻す。ポトラッチ一式には優位と劣勢の部族社会循環が念じ込められているのだ。それが海に放擲されることで、参加した部族の優位劣勢の不均衡が財と共に消え去る(この解釈は部族民通信)。
部族間の緊張が解け、つかの間の平安が訪れる。

(ポトラッチ、そしてクラ=ポリネシア諸島での贈与制度=の報告では、財貨と女を絡めた交換の記録は聞かない。レヴィストロースは交換とは「女も財貨も」包括するとしているのだから、その可能性は高い。当時の民族学の傾向は機能主義=マリノフスキーなど。事象を他から分離し、機能抽出。こうした手法を踏襲していたからか)

そもそもその交換は不均衡
交換される物品のなかで筆頭として貴重な財が「女」である。荷台満載の食物よりも家畜の幾10頭よりも、女一人がなぜ重要なのか。族民も現代人にも差異なくて、
3 人が生きる課題は畢竟;

1 世代の維持
2 世代の再生産

女を得るとはこの1と2を解決する唯一の手段です。再生産について、当たり前だから説明時間を煩わす要はない。現世代の維持を取り上げる。南米先住民を実地調査したレヴィストロースが見つけた異形は;

一人の痩せた男。みすぼらしさの窮状ぶりの理由を問うと村民らは「独身だからさ」と笑った。
狩猟採取の経済では狩猟は男、採取と小規模農耕は女が担うと決まっている。男が何らかの事情で狩り技術を体得出来なければ、肉を取れない、女を養う能力を持たない。魅力的と映らない。
狩りに出て村に戻る手順。
獲物なしのボウズでは無音で、すごすごともどる。獲物ありでは帰り路の遠方から太鼓をドンコドンコ鳴らす。女は驚喜して火を熾し、入り口越して迎え入れる。女の喜び、意気揚々とした男の様が見て取れる(悲しき熱帯の記述から)。
このカッコ良を誇示できる男でないと嫁を取れない。男困窮の大原因である。
狩りができなければ採取に力を入れ、肉断ち辛抱でタロイモなんかを食いつなげば、糧は凌げると勘違いするのが近代人の狭量である。男は採取、小規模農耕ができないのだ(前回述)。狩りで得るタンパク質から見放され、嫁が持ち込むはずの日常食すら食むを得ず、痩せてもなおさら蔑まされる。嫁もてないは半人前、それ以下かもしれない。

4 女狩人は存在しない

月の女神ディアナは狩猟の女神アルテミスと同体である。この女狩人姿は神話の世界です(ルーブル所蔵の像)


そもそも男子は兵、狩人として育てられる。採取耕作にあたろうにも技量、道具、土地利用の権利も持たない。それらを知識として蓄え、諸々に権利を所有する母から譲り受けられない。母がそれらを直伝するは娘なのだ。この反対給付として女は狩りに従事できない、してはならない。
(小筆は女狩人が存在しない訳を「アラカルト」にて部族民通信ホームサイトに投稿した=2019年5月18日。関心ある方はtribesman.netに入ってサイト内検索で「チャリア」を探してください。グーグルで「女狩人 なぜいない」でも筆頭に出てくる)

親族の基本構造、前文の補遺 の 了(2021年1月14日)
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親族の基本構造3 婚姻できる範疇、交換の原理 

2021年01月11日 | 小説
2021年1月11日(親族の基本構造 3 婚姻できる範疇、交換の原理 2021年1月11日)

理由は、
もし私egoが勝手な好みで、規則に反して母方交差イトコを避け父方イトコを嫁にしたら、これがallience規定(限定交換)違反。私は満足しても、嫁側のfiliationは交換の目玉にした女を与えられず、それ当てにしていたfiliationの男はワリを食う、嫁を得られない。だから彼は私の属するfiliationの頭越しで、私が貰うはずだった娘を嫁にする。すると私のfiliationは部族の婚姻サイクルから孤立する。(シミレーション図を作成した、部族民通信)


先住民が女のやり取りする相手は限定される、それをレヴィストロースは限定交換なる概念で規定する。作成した図では男はは必ず「母の兄弟の娘、母型の交差いとこと」すを嫁にするとシミレーションした。
1図は規定道理の交換サイクル。


2図で私Egoは規則を破って父の姉妹の娘を嫁にした。きっとその娘が若尾あや子様似だったのだ。


3図。すると部族の婚姻サイクルが崩れる。私が属する系統と嫁のそれ(filiations)が孤立する。


結論、色香に迷う情念を抑えつけないと若気の至りで終わらない、村八分にあう。


禁止制度をまとめる;
婚姻できない女の範疇を決める(filiationの設定)
できる女の範疇を決める(allienceの特定)

族民における婚姻制度はボードビル結婚笑劇に似通う。いずれも三角関係を隠している、ボードビルの三番目は間男だけれど、近親婚禁止の三角関係は「いつでも、どこでも、厳格に」適用される(本文から)。三角はレヴィストロースの洒脱(修辞)です。(なお、邦訳本では「大真面目に」間男探しを展開している。訳者の性格の生真面目さからかと思う)

交換の公理;
婚姻規則のみでは社会は回らない。レヴィストロースは「女も含めた財」を循環させる交換が社会を活性化する原理であるとしている。
そして交換とは必ず;

1 不等価、不均衡である。取引(transaction)と異なる点は財の移動に伴う価値の移行が不均等であるにつきる。貨幣経済は取引に絶対値を介在させる。財には値段が付加されるから、仮想であるにしても取引は対等である(財と価額)。これを市場経済とすると、先住民の経済は財を不等価、不均衡をもってする交換であって、この当事者の経済的不足をもってして、社会の循環をはかる仕組みでもある(受け取る以上に与える、与える以上に受け取る=本文から=とレヴィストロースは規定する)
2 交換は共時行動である。共時には不均衡が生じ、それを経時に補償する。共時での等価交換は見受けられる。それは等価不等価に目的を置くのではない、価額については無関心の財を交換する仕組みである。

女交換の不均等;
先住民の過程は己が嫁に差し出せる女(娘、姉妹)を保持していて、相手側に嫁を求める男がいる場合に女を相手に贈与する。相手男は婿の賦役(prestation)を負うことが多いから家畜、食材などを受け取る例は多い。しかし女は家畜とは等価ではない。女を与える不均衡は与えた娘が後に生んだ女子を息子の嫁に貰う。すると今度は、相手側には娘を与えた不等価が生じる。この繰り返しで族民社会が廻る。

実際はこうした2極のみでの女のやりとりは例が少ない(らしい)。嫁にやった娘の取り返し分は、部族内の支族を順繰りに巡って幾世代か後となる制度が報告される(オーストラリアMurngin族)。己が嫁を他支族に与えなければ、息子は嫁を娶れない制度となっている。共時の不均衡を経時の均衡で補う。

(親族の基本構造 3 婚姻できる範疇、交換の原理 了 蕃神義男 2021年1月11日)

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近親婚の禁止が文化の始まり、親族の基本構造2

2021年01月08日 | 小説
2021年1月8日
「親族の基本構造」主題について
いかにして人が社会、文化を形成したかを書き綴ります。用いられる主要な概念はrègle ,ordre、inceste、filiation-allience、échange,(規則、制度、近親婚(の禁止)、系統と同盟、交換)など。文化形成とはこれら概念を人が獲得し、制度に取り込み展開しています。文化への第一歩は近親婚の禁止=prohibition de l’inceste;

1 規則(règle)と制度(ordre)、第一歩が「近親婚の禁止」
2 婚姻制度に女の交換をからめ、社会(文化)を維持してきた

交換する女を確保するには、家族内で女を消費してはならない。ここに「近親婚の禁止」規則が生まれ、制度として社会に定着する。これが文化への第一歩であり必須の過程である。では近親婚禁止とは何か。

Prohibitionの訳語に「禁止」を取る。

Incesteインセストの意は日本語、近親(相)姦そのものです。密通、隠しとおす姦淫、こんな語感で受け止める。情念の過ちゆえに忌み嫌われる、忌避される。「禁忌」なる語で表現してきた。prohibition de l’incesteは「近親相姦の禁忌」が正しい。邦訳本(青弓社)もincesteを近親相姦としprohibitionを「禁忌」としている。語感に準じた訳である。
しかし「禁忌」とすると解釈が進まないし、その語を持って訳とすると著者の訴えかけ(メッセージ)から離れる。
小筆はprohibition de ….に「近親婚の禁止」を訳に当てる。

精神分析者はそれをオイデプスコンプレックスと類型し、研究課題に取り上げた。しかし情念の世界を人類学者レヴィストロースは取り上げない。なぜなら、

「近親と姦淫を犯す人はいるし隠されるけれど実例は多いだろう」との表現が本書に見えるが、それ以上の追求はない。心情、情念を彼は語らないのだ。尽くす論は制度、決まり事、しきたりに限られる。規則からはみ出し、制度の枠にもはまらない情念事情などは「自然から文化」という大通りの脇に転がる小石であると無視している。(本人に聞いたことがないけど)。
incesteを近親「姦」とせずに近親「婚」と訳す理由はそれを制度として禁止するからである。私通密通の隠れ姦淫をウンヌンするは社会科学の主題ではない。

姦を婚にした。幾分ねじ曲げ解釈に根拠は見いだされるか。困った時の辞書頼み。GrandRobertにincesteを当たる;
relations sexuelles entre un homme et une femme parents ou alliés à un degre qui entraine la prohibition du mariage.婚姻が許されない親族あるいは姻戚の男女の(幾たびか繰り返す)性的関係―とある。小筆はmariageに付く “prohibition”に注目する。mariageは制度である、するとprohibitionは制度上の禁止を意味する。この語に「禁止」を当てても見当違いではない。同じくrobert….
用例にprohibition de l’inceste が載せられている。その意味は「règle fondamentale gouvernant l’échange des femmes」女の交換の基本的規則とあった。これってまさにレヴィストロースの学説を引用しているんじゃ(彼の名の引用はない)。prohibition…が規則règle則る決まり事としている。
勝手決めつけの感があった「prohibition de l’incesteを近親婚の禁止」は、正訳であり本書理解への直通バイパスだった。

本投稿とprohibition de l’incesteを「近親相姦の禁忌」とする訳本(青弓社)との差異は、文言の異なりに留まらない。incesteを近親「婚」、prohibitionを禁忌でなく「禁止」と訳さないと本書は理解できない。

邦訳本青弓社、福井和美訳
微妙なところをどのように解釈するかで、当訳本のお世話になった。


近親婚禁止が文化の始まり;

家族内で通婚していてはどの家族も孤立する。その禁止を持って家族が成り立ち、女を交換する単位が設定される。社会の始まりです。後にはより大きな単位、バンド、村落、族社会に発展してゆく。
では如何にしてそれを禁止するか、どこまで禁止かどこからは許されるのか。

先住民たちは親族(parenté)定義をfiliation(系統)とallience(婚姻同盟)に分けた。
Filiationは同じ系統、集団、族統に属する人々である。男系を系統原理とすれば「私ego」の母は父とは別の系統filiationから嫁にきて(allience)、生まれた私と兄弟姉妹は父の系統に入る。これに「兄弟姉妹」の語を当てる。
兄弟と姉妹は婚姻できない。この決まりがそれらにも適用され、平行イトコ同士の通婚の禁止が制度として多くの先住民社会で確立している。

母は別のfiliationから父に嫁にきた。母の兄弟はその別filiationに属し、その子らをして交差イトコとする。多くの先住民で交差イトコには「兄弟姉妹」以外の語を用いる。その女子と婚姻は可能。父が母を嫁に迎えたと同じく、母の系統に属する子女と「私ego」は結婚できるし、推奨あるいは義務づけされる。

交差イトコのもう一系統、父の姉妹の娘と通婚できるか。
男系系統を前提として、父の姉妹の子女らの処分権(どこに降嫁させるか)は彼女らの父に属し、彼は規定に則り特定の系統に娘を渡す。その系統は私egoのそれではない。交差イトコを婚姻相手に選ぶ際に「母方女系」か「父方男系」かの分別は重要で、いずれかを選択すればもう一方はかならず忌避される。

(親族の基本構造 2 の了 2021年1月8日)

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