蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

農協パラダイムの終焉8

2018年02月26日 | 小説
(2018年2月26日)
野生の思考(la pensee sauvage)最終章Histoire et dialectique=歴史と弁証法にて著者レヴィストロースはサルトル批判を展開しています。その趣旨を一言で述べれば「歴史とは弁証法と主張するサルトルはその歴史を分析法で解説している」に尽きます。すなわちdialectique弁証法はそれ自体が公理(axiome)であるからには、(サルトル及びその一派が蔑む)分析手法など必要ないだろうと切り捨てているのです。これら内容と投稿子の解析は3月から投稿するが、この文脈の中で意表をつく、そして諧謔的に愉快なのはサルトルの用語を借りてサルトル批判をレヴィストロースが延々と述べている点です。冒頭の一文で>nous nous somme permis de faire quelques emprunts au vocabulaire de Jean-Paul Sartre<(幾つかの用語をサルトルから借りると決めた)借用を宣言していますサルトルの用語、その本来の意を探り基本概念のdialectique=公理との乖離を指摘している。投稿子はこれを諧謔としたわけです。
totalisation(総括化)interioriser(内照=内を見て反省する)exterioriser(外観=外を見る)等の用語が取り上げられている。(上記訳語は投稿子の用法なので竹内芳郎など専門家の訳と一致しない)
レヴィストロースはparadigmeについてこれをdialectiqueと語らない。しかし、時間の流れの中で分断されて変遷してゆくparadigme様態を前にすれば、dialectiqueと近似系を創造してしまう。そして実は上記のサルトル語は構造主義のdialectiqueに使えると判断した。ならば農協パラダイムに用いよう。
そして、余暇のparadigmeはおおむね前回(2月23日)に述べたので、移動というsyntagmeをサルトル用語で語ろう。
農協の発足間もない頃(1950年代)は農民は大八車を引いてそして押していた。日野市南平居住の木暮氏(昭和20年生まれ)は小学校に入っても毎日は通学できず、日よりの良い朝は父親愛車の大八車の荷台に寝そべり、野良に向かった。平地であれば大人一人で悠々と向かえる畑は平山(当時の大字)、路の半ばは黒川の、行く手にはだかるあの急坂が難所。寝転がっていた木暮少年は「ボーズ、後ろから押せ」と父親に急かされた。少年ながら寝ているのと押すのでは力差は顕著、二人がかりで何とかその坂をしのげば後は平ら、後に多摩平と命名されるが、このころは泉塚。そこいら一帯は畑地、工業団地として開発されたのは1960年代。伝来の畑ながら水理に恵まれず「遠い、せいぜい大根くらいしか」で木暮家は売却に応じた。その地に今、赤煉瓦の高層ビルが幾棟かが落ち着いた佇まいを見せる。テージン研究所であるとか。「あの棟の真下が大根畑、引っこ抜いては荷台に載せて」と木暮氏は60年昔を懐かしむ。木暮家では大八車を放免して木暮少年の野良への移動手伝いもついでに終了した。少年の大喜びの理由は。「これで毎日学校に行ける」
移動にホンダカブを購入してさらにカローラを求めた。その理由は単に「四輪のほうが見てくれが良いから」父親としては世間体、平良寺澤高橋など他系統との見比べが作用したに違いない。このころには帝都線の駅前開発が始まり、木暮家にも用地の提供交渉が舞い込んだ。結局は伝来の水田を売却することになったのだが、それでも父親は「全部売るわけではないし、畑は残る」と農協員として居続ける姿勢に拘った。青年団の以来40年の在郷農民開放活動への執着であろう。
そして突然、カローラもカブも売り払ってベンツE300とスズキ軽トラに切り替えた。これが1980年代の初頭。

在郷運動から農協へ、農協パラダイムとはまさに中世の惣村自治体の復活なのだ。余暇と移動を連続性のsyntagmeとし分断をparadigmeとするパラダイムのスキーム(図式的世界観、カントの用語)にレビストロースとサルトルを振りかけたらこの図になった、本邦初公開です!

さて場所が変わって千葉県。多恵子夫人は夫唐沢治一郎と共に、北柏のかつてのK氏宅を訪れたのが1980年6月。明るい居間は手賀沼を一望にする。広々としたその緑景色に見とれていると、近景の田んぼの畔に大型のベンツが停まってススーと扉が開いた。あれだけの車から出るのはさぞかしの紳士と思いきや、麦わら帽に半袖シャツ長靴の日焼け農夫だった。ベンツで野良仕事とは、その頃すでに都市伝説として巷間にもてはやされていたが、その実例を初めて目の前にして多恵子夫人は笑い転げたそうな。そのは白金の出、ならば平素からベンツは目にしているし、それを運転する夫、助手席の夫人、後部座席の家族にはそれなりの定型があるとの先入観を持つのだが、全くそれが打ち壊された。これが思わずの笑いであろうとK氏はしたり顔で注釈した。
さて、リアカーからベンツに隠れる弁証法とは。
カブを購入した木暮氏、しかし落ち着きがない。カブなど安物だと決めつける周囲の風潮が気になって仕方がない。これがサルトルが教えるexterioriserの精神活動である、そして「我が本当に必要とする移動はカブなのか」と反省を自身に突きつけた。これは同じくサルトルが語るinterioriserに他ならない。じゃあどうするのか、金がかかるなと逡巡する行程はprogressive-regressive=行ったり来たりである。そしてやっと出たのがtotalisation=総括、すなわち弁証法での止揚、そしてこれがベンツだった。こうした行程こそがレヴィストロースがサルトルに突きつけた「理屈」で語る弁証法です。

農協パラダイムの終焉8の了
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農協パラダイムの終焉7

2018年02月23日 | 小説
(2018年2月23日)

農協の発足は1948年(昭和23年)に遡る。
その組織に、それまでの農村改革運動(農民会などの在郷活動)が結集したと投稿子は見ている。それら活動精神の支柱には賀川豊彦らの農村開放運動があげられよう。すると農協とは作物の共同販売、肥料の購買のみの単なる協業組合を超えて啓蒙、精神の運動であろう。中世から続く土(農民)一揆の活動こそ農協の根底として良かろう。
脇に外れるが、中世以来、自治権を持つ村落を惣村と呼称していた。惣の意味を字源に尋ぬれば「たばねる、すべて」とある。百姓全員が参加し意見を束ねる村落の自治体であろう。そこでは協業だけでなく警察司法、葬祭、暦に立脚する共同作業、例えば田植え、まで村単位で決定している。惣村の内実を知るに、水利権の確保や養生地の取り合いなど緊迫した記述の連続で「看聞御記」(伏見宮貞成親王著、応仁の乱で郷に避難した親王日記、岩波文庫にある)は、筆頭であろう。惣村あるいは郷一揆の制度は形態を変えても、関東にも江戸期を通して綿々と継続していた。しかしそれが維新の地租改正(明治6年)で打ち破られた。色川大吉氏の著作には、多摩地区において農村が金融資本(高利貸し)に蚕食される過程が詳しい。惣村の崩壊過程と投稿子は読んだ。
すると農協とは惣村復活運動なのか。それまでの農村改革、在郷の自治運動などを統合した自治獲得の旗頭なのかも知れない。
すると、これ農協はとは神話である。農協パラダイムを現代の神話として探ると;

レヴィストロースの言葉を借りると神話の全体像はスキーム(scheme)、これはカントの図式的世界観を発展させています。サンタグム(syntagme)は連辞でこれはソシュール(スイスの言語学者)の定義、投稿子は同列とします。パラディグム(paradigme)は同じく範疇、これを投稿では変移とします。(2017年12月22日投稿に記載)
農協においてのsyntagmeは何かと推理を巡らせるに、余暇・移動・生活・再生産があげらる。2DKパラダイム、セレビーパラダイムを取り上げているが、比較して似たり寄ったりである。それは日本人戦後の心理、深層の底流には地域、職業の分別を超えて、いずれにも同じ精神理由が潜むからだ。在郷民団地族サラリーマン、ありとあらゆる日本人に共通する戦後の意識とは、連続と上昇です。
日本人皆が理想を抱き、近づこうともがいていた。これがsyntagme似通いの根源である。
では筆頭syntagme余暇なるparadigmeを探ると;
1952年(昭和27年)館林近郊の在郷民は梅雨の直前に町中に繰り出し、銭湯で身体を休めた。連雀商人の末裔を自負する明治生まれ婦人はこの状景を「ザイゴノーカンキ」と子に伝えた。在郷民の銭湯行きはしばらく続いたが、昭和30年代に入ると彼らの心になにがしかの不安、疑問と言えよう、が頭をもたげ始めた。疑問とは「銭湯は一向に楽しくない」。
この精神作用をレヴィストロースはinterioriser内面化とする。「野生の思考」9章dialectique et histoire弁証法と歴史に詳しい。
ここに来て銭湯での余暇は分断された。余暇は連続するというスキームを在郷民は捨てない、他にも連続スキームのsyntagmeが控えているから。そこで別の形態に発展する=totalisation全体化=が必要になってきた。この語totalisationはサルトルが使う用語であるがレヴィストロースにしてこの語を同じ用法で用いている(あくまでも上記の9章だけでの使用)
syntagmeは連続上昇の精神、しかしparadigmeは内面化の分断作用の中で、前進し停滞しながら発展する(これをサルトルはprogressive-regressiveとも伝える)。すなわちparadigmeはdialectique弁証法なのである。レヴィストロースにおいて弁証法とは内面化から全体化に移行する時に、すなわち止揚アウフヘーベンする段階で、目的意識が一切ない。ここがヘーゲル、マルクス、さらにサルトルの弁証法と大きく異なる。この差異こそサルトルレヴィストロース論争(1962年)の基底なのだが、この農協パラダイム投稿のあとに載せる。


群馬の在郷民の内面化停滞を破ったのがJALパック。写真は1960年代初頭の女子搭乗員。今にして眺めればやや野暮ったさが浮かぶけれど在郷にはこれで停滞を打破できるとハイカラと受けたのだろう。写真はネットから

さて在郷民の停滞はなかなか解消に至らなかった。銭湯遊行をinterioriser内面化してもtotalisation止揚に至る事がなかったのである。群馬の在郷民であれば、法師伊香保草津あたりの温泉に繰り出せば、それなりに余暇の時間が持てるはずだ。それら温泉に在郷民らしきが来湯したとの報告は特に聞いていないが、昭和30年代は温泉での息抜きは盛んだったので、在郷者も湯治には出たろう。しかしparadigmeを形成するまでの勢いはなかったであろう。
そして昭和40年の春3月、JALパックの幟が農協の前にはためいた。
JALパックとは日本航空が企画する海外団体旅行である。1964年(昭和39年)に渡航制限が廃止され、手軽に海外に旅行できる下地が形成され、同社としては満を持しての40年の発足となった。「銭湯も温泉もやめた、海外に行くベ」が在郷民のスローガンとなった。

農協パラダイムの終焉7の了 
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農協パラダイムの終焉 6 

2018年02月19日 | 小説

(2018年2月19日)

私事となりますが投稿子の経験から幾行か。
投稿子は子供の頃に館林(群馬県)に住んでいました。背景は母がその地の出で、実家なるは町中「連雀町」、地名の通りの連雀商人の商店が軒を並べていました。(中世に発達した連雀商人には立ち入りません、網野善彦氏(2004年没)の著作にその実態が詳しい)
小学校入学の前なので5歳か、すると65年の前、昭和27年です。季節は春の終わり、ある夕、兄達に連れられて銭湯に湯を浴びに行くと、見た目も異様な集団が湯船に入っていました。幾人かは洗い場にてタワシごしごしと垢を擦っていた。その顔たるや輪郭は四角で頬額は異常に黒く、腕はそれにも劣らず漆黒、手足はなんともごつく指先はなお太い。飛び交う言葉が私には聞き取れなかった。帰って驚きを母に伝えると、
「ザイゴ、ノーカンキ」と一言、驚きも見せなかった。
5歳幼児にはザイゴの意が掴めないながら、頭の中で「ああいう人がザイゴノーカンキ」と一人回りしていた。のちに調べると在郷でした。この語は今となっては使われない、せいぜい在郷軍人が残っているが、今の日本には軍人がいないからいずれ消える。ごくまれに「アメリカ在郷軍人会が大統領候補を推薦」の記事に出会うだけです。
ザイゴの意味とは任務を終えた人が故郷に戻っている状態であり、故郷は「田舎」が多いのでその人は田舎に住んでいる。その状態と田舎居住者に含意が発展している。在郷の語感は中立ですが「ザイゴ」はペジョラティブ(侮蔑)です。
続いた「ノーカンキ」とは農作業のカンキ=閑期で、農閑期となります。閑とは「有閑(ユーカン)マダム」なる言葉が昭和40年代に流行ったが、本来は忙しい地位に立つ人に一時の「ゆとり」が発生する意味です。農民は忙しいから「閑」は分かる。そして40年代のマダムは忙しかったと推測できるが、これは怪しい。ユウカ(有暇)マダムが正しかったはずだ。暇とはもともと「ゆとり」ある状況、地位、人です。そしてマダムとは大体においてヒマですから、ユウカです。
母の一言返事の意味を精緻に探れば、「田植えが終わった時期だから忙しい農民達に時間のゆとりが生じ、町中に来て銭湯遊行している」
この意味に時間要素を加えると「昭和20年代、農民の余暇活動は、ザイゴから町中に繰り出して、銭湯に入って(きっと幾分かは)ソバとかウドンに散財して満足して帰農すると解釈できよう。これを「余暇」サンタグム(syntagme)として農協パラダイムのはしりと出来ないだろうか。

さて、昭和初期には農村の精神向上活動、あるいは解放運動が活発だった。
銭湯遊行していた者達の年格好はおおむね青年、中年も混じるが壮丁といえる。館林の近郊ならば板倉大泉千代田などの在郷地名が挙げられるから、彼らは例えば「板倉在郷青年団」の会員だったろう。
他にも在郷壮士団、在郷婦人会、在郷少年隊、在郷幼年部などが組織化されていた。「在郷オバコ倶楽部」は秋田県限定で、館林近郊など群馬県一帯では「在郷娘子(ジョウシ)隊」の看板を揚げていた。これらの名称のばらつきはあるものの各地で同類の組織が設立、運営されていた。在郷軍人会は活発で、政治団体として「軍人恩給」の交付金値上げ活動を全国で展開していた。
こうした団体が農協の発足にともない、農協組織に組み入れられた。この歴史にまず注目したい。
例えば在郷壮丁団壮士団は「農協青年部、あるいは老年団」と進化した。秋田県角館近郊の「在郷オバコ倶楽部」が「農協少女グループ」に、少年隊は農協少年野球団として組み入れられている。

農村文化活動の一こま、在郷少年消防団の式典入場風景。画像はネットから


投稿子の母が昭和27年にフト漏らした「ザイゴノーカンキ」の意味の深さ、ザイゴと片づけた背景に農村解放運動の名残りが続き、引き継いだ農協の文化開放のきらめき、それはまさに農協文化大革命であり、農協パラダイムその物がそこに潜んでいた。
農民歴史のparadigme流れ、蕩々とした変遷のsyntagme道筋に思いを馳せ、改めてノーカンキの意味に戦慄したのだ。

農協パラダイムの終焉6の了 
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農協パラダイムの終焉 5

2018年02月13日 | 小説
(2018年2月18日投稿)
主題プロットを組みあぐねている最中(1月4日頃)にボロロ族の遺構が浅川畔で発見されたやらテポドン襲来から逃げ迷ったやらのつまらん話に時間を割かれてしまった。発信元はK氏ながら、テポドン戻りの居間で構造主義的年齢と顔の分析を開陳したら、細君に相当痛めつけられたようだ(K氏の悲しきには前回のテポドンテンコテンコを回覧あれ)。時間こそ取られたが何事にも生半可は避けねばならないとの誡め機会を投稿子に与えてくれた。これには感謝。
ようやく2月に入ってパラダイムを考える余裕が出てきた。
レヴィストロースはサンタグム(syntagme)/パラディグム(paradigme)について解説に行数を当てていない。しかし同じ思考系と言えるサンクロニ(syncronie=共時態)とディアクロニ(diacronie=通時態)については丁寧な説明を<Du miel aux cendres="蜜から灰へ、神話学第二巻)に用意しています。
同書65頁で南米に棲息するオウム属は大きさの順からマイタカ(maitaca)、ペロケ(perroquet)、アラ(ara)、ペルーシュ(perruche)に分けられる。4種は同時に存在しているのでsyncronieとしてオウム属に認識されるが、活動は年間を通して均等ではなく前2種は乾燥、さらにマイタカは熱気(真夏)、ペロケはサバンナ(雨期が近づく)と分解されている。後2種は湿潤に結びつけられ、それぞれに活動区域と時期が当てはめられている。原住民(おもにマトグロッソを居住圏とするジェ語族民)はオウム属に対してかくsyncronie/diacronieで形体、棲息と活動を理解している。
<img" src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/5b/22fcad0937ad7ab7e5829fa88f422e58.jpg" border="0">

マイタカ、インコの一種、灼熱の高原で飛翔する。蜂蜜の採取時期を教える。

ここから理論説明が入ります。
レヴィストロースはsyncronieを構造(structure)、絶対属性(proprietes absolues),本質 (essence),連続発展(continuite et developpement)としている。これに対してdiacronieは出来事(evenements)、相対的属性(proprietes relatives),機能、不連続とアンチテーゼ(discontinuite et de l’antithese)と規定しています。ここで絶対属性と相対属性の解釈は難しいが、これを前述のマイタカのオウムとしての<鳥、尻尾が長いなどの>固有性状を絶対として、乾燥期に高空を悠々と飛翔する(この行動が蜜の採取時期を教える)行動を相対属性と捉えれば、syncronie/diacronieと辻褄が合う。
となるとsyncronie=ideologie(思想)、diacronie=etre(存在)と考えればよいしsyntagmeとparadigmeとが連続するので構造主義思考の継続性と納得する。diacronie/paradigmeの差は前者が時間の断絶性が強く、後者は時間のと継続性に重点を置いていると理解する。
本投稿の第一回目(昨年12月22日)で投稿子(蕃神ハガミ)は「サンタグムsyntagmeは思想の同列、パラダイム(paradigme)は思想を具現する形体の変移」と解釈したが、この後に本頁(du miel aux cenrdes,65頁)に接し、寸時、おおいなる満足を覚えた(今風にこれを伝えれば>ドヤ顔<)。

上記2の思考形態は時間の流れを意識している。croniはcronometre(時計)にあるとおり時間の意を持つ。レヴィストロースにおいて思想と時間を結びつけ始めたのが神話学においてである。「親族の基本構造」「悲しき熱帯」では「時間」に対して彼はsensibilite敏感さを発揮していなかった。神話学第一巻Le cru et le cuitにして幾分か「時間」が出てきたが2巻目Du miel aux cendresにして相当にsensitiveさを発揮している。これの背景はサルトルとの論争の影があると投稿子は信じる。
構造主義における歴史性の欠如を批判していた実存主義者、弁証法的歴史信奉者、あるいは共産主義賛同の一派(これらをサルトルと追随一群とする)。レヴィストロース、サルトルの論争の経緯はここでは省くとするも、サルトルらの「構造主義の分析による社会とは結晶化して動きのない世界」の批判にはレヴィストロースも耳を傾けた(筈だ)。レヴィストロースの反論の手始めが「悲しき熱帯」の最終章(1962年)。神話学第一巻は1963年6月に校了し、続く2巻目は1967年の刊行。特にこの2巻目で、批判への解答として満を持してparadigme(diacronie)を盛り込んだかと投稿子は推理している。

サルトルレヴィストロース論争の落とし子、その庶子にして最後の継嗣たる農協パラダイムとは何か。
その濫觴を探るに余はこれぞ1964年の海外渡航制限解除(海外渡航するにも10万円しか所持できなかったなど)に遡れるとし、さらには1965年のJalパック第一弾を嚆矢と断定するに吝かではない(尊敬する今はなき小室直樹氏の文体を拝借した)
なぜ農協の海外旅行がパラダイムなのか、次回をお待ちくだされ。

農協パラダイムの終焉5の了
(2018年2月13日)
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テポドンテンコテンコ 4(最終回)

2018年02月08日 | 小説

2018年2月8日

弾道弾の飛行とは、斜めに上昇して頂点で円を描くように経て、緩やかに落ちる。起点と終点が円弧を倣うかの軌道でつながるのが普通だ。もし弾を垂直に発射すると、高く勢いよく上昇し頂点に達したら急なカーブで急激に落ちる。飛距離は稼げない分、どこに落ちるかの予測ができない。これがロフテッド。今回のテポドン、一旦は「弾の道」、緩やか円弧を描いたが、5分後にはロフテッドに早変わりした。おかげで弾着が10分伸びた。「この10分で何とか生き延びられる」K氏は胸をなで下ろした。
アルプス信号が青に替わって、飛び出すかに北野街道を横切って八百屋横の小道を左に折れてドンドン進むとナンペィ駅の脇、踏切は幸い遮断機が上。さっさと突っ切って10歩を走れば浅川の土手。その土手道に足を下ろせば「タカハタまでまっしぐら」、K氏はここで一息つけた。
しかし残り5キロで15分はやはり気がかりなのでスマホから情報収集を始めた。もちろんテンコテンコの足並みは崩さない。
「比較するにもゲブラシラシエやワイナイナでは格が違いすぎる、手軽なところで」と探りを入れたのが日本選手、現役とベテランの二人。ググッた記録は「スッゲー速い!」の一言。いずれも13分代、これにはウーンと頸をひねったが逆に励みでもあった。
「俺だって一匹の日本人、そんなら13分でタカハタにつける」奇妙な論理を根拠にして自信を持った。
「2分は足休みが出来る」ベンチに腰を下ろした。ベンチが2脚、その小さな踊り場から桜並木が始まるのだが、今は冬、葉を全て落した枝木が幾つにも、分かれてくねってのたうって、夜空を不気味に覆おっていた。自身がかくも慌てている、その背景ににK氏は推理を巡らせていた。
「それは2の対立だからだ」と構造主義らしい分析に冬の桜下のベンチで気付いた。その筋道とは;
「広く云われているのだがテポドンの弾着性能は悪い、これもまた言われているが軍基地を狙うとする。これらを前提とした場合、横田、厚木、座間、そして立川がココイラにまとまっている。いずれかを狙うにしても10~20キロのズレが生じて、そしたら日野に飛んで来る」ここまでは一般人の推測。「儂は構造主義だから、テポドンの弾着性能は優秀という対立する概念を導入する」
K氏は愕然とした。やはり日野が危ない、ナンペィが最悪だ~の結論に辿り着いた。
「先に挙げた基地の数々、これらを一網打尽に一発で攻撃するとしたら、それら円弧が描く同心円の真ん中を狙うが必定、日野市がそのアイソセンターの真下、それがナンペィの真上だ」
不正確で正確でも己の頭上にテポドンが飛来するとの分析を、構造主義の手法で解析したからには「逃げねばならぬ」。
ベンチ休みを30秒で打ち切ったら、残ったやる事は一つ。「もっと速く逃げる」走りを足に託し、5キロ13分のスピードに命をかけた。土手道の周囲に聞き漏れるK氏、走りながらの掛け声にこの心境が集約されている。それは;
「逃げろテポドンテンコテンコ、地下街避難でテンコテンコ、足元フラフラ命からがら、それでも止めないテポドンテンコテンコ」
あわてふためきだが、真摯な心情が伺える。己の命をまず守る、人としての本能が聞こえるではないか。命の灯火と生活の連なりを二本足先に賭け、そのうえ超絶なスピードに挑む使命感が「テンコテンコ」に溢れている、それが土手に響いた。

13分30秒の後、タカハタ駅に到着したが、あわてふためく人々の姿など見えない。テポドンのロフテッドなる日野市の攻撃に、人々が気付いている駅風景ではない。

一時は好機到来と喜んだが何かがおかしい。K氏(ハンチングの先だけ見えている)とタカハタ駅前

「チャンスだ、今すぐ逃げ込んで、地下街のど中央にあぐら掻いて陣取って、身を低くして着弾を待てば安全だ。シメシメ」
地下街を捜したが無かった。タカハタには地下街は無いのである。
さて、日野市の駅は12を数える、しかしタカハタを除き駅ビルはない。たとえばJRには2の駅、いずれも平屋建ての駅舎、券売機を置いてトイレを囲うだけの20世紀的代物だ。5駅あるモノレールに逃げ込んだら駅舎は吹きさらし、ホームも風の抜けホーダイ。テポドン逃げ込みには最悪の結果となる。
避難警報に接してすぐにタカハタを目指すとしたK氏の心情には駅ビルがあったからだ。その駅ビルがテポドン未対策の不備駅に過ぎなかった。駅前に立ちつくすK氏(前回にも写真を投稿した)。しかし時間は無慈悲に経過する。携帯が激しく振動した。到着の最終案内だろう「引導渡しの警報と後々、語り継がれるな」
指の震えを抑えスクリーンを開けると、
「テポドン襲来の”疑似”警報はこれで終了します」
と読めた。

「何だって」K氏を聞き続けていた投稿子は気勢をそがれた。尋ねる口調ながらK氏に、
「疑似警報とは耳慣れないな、でも、要するに訓練か、すっかり担がれちゃった。いっぱい喰わされた」
「担がれたのは儂だ、家族仲まで悪くなった。あれ以来、ルミコはお茶すら…」憤りの荒い鼻息がK氏にひとしきり続いた。
最初の通報の冒頭にあったはずの「疑似」を見逃した迂闊さが全ての元凶だった。それだけの話で終わったのだが、
その後K氏は京王線各駅停車で帰宅した。車中ではドリフターズのコントの「遅刻して早退けしない」と家に帰れない茶少年を思い出すコトしきり。「あんな田舎に住んでいればテポドンに狙われることなどなかったのに」田舎うらやみの田舎ボーイにすっかり変心した。

さて、戻ったK氏宅の茶の間ではドリフターズが続いている。殿様と腰元のコントで、アラフォーとしか見えない腰元が「手前、15歳です」とあからさまな詐称で殿様を怒らせた。テレビかじりつきの細君とご母堂は
「サバの読み過ぎだよ、ウソだってすぐにバレる」「せめて33とかにしとけば、バカ殿が刀に手をかける段取りには行かないのに」「腰元ってのは22~3が上限なのでは」「15歳は願望だね」「ワッハッハ」
大口笑いを継続していた。
K氏はコタツの隅にちょこんと座って、二人の口の開き加減に波長を合わせて、
「年齢とは思想なのだ。歳の思想とはすなわち知識、記憶、出来事、諦め、絶望など過去の全てなのだ。顔そして表情という存在に滲みでてくるのは、それらの思想が潜ませる疲れと諦めの一端なのだ。歳を隠せない唯一の理由は過去を消せないという宿命を人が抱え込んでいるからなのだ。犬猫や猿とは多いに異なる」
構造主義による年齢考、レヴィストロースがきっとどこかで、「年齢の思想」を語ったかもしれない。ふと、ポロリとドリフの居間でそれを漏らした。すると細君がゆっくり振り向いた。
「おや、私を階段で果てろと蹴飛ばして一人で逃げた奴が帰ってきている。そのうえ、構造主義風のご意見だなんて。読みかじりを聞くのも鬱陶しいわ」母親が「サオリが老けているだけなんだよ」追随した。
そしてギロリと光らせた細君の、横目の眼光の冷たさに震え上がったK氏はルミコ夫人に「テポドンは来ない、3匹亀で階段のぼりは今夜は無い、ドリフをこのまま見ててくれ」やおら立ち上がって「二階に行くから」脱兎のごとく居間を抜け出し階段をはいずった。「テポドンテンコテンコ、ボクは田舎の小学生」。

テポドンテンコテンコの了

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テポドンテンコテンコ 3

2018年02月04日 | 小説
(2018年2月4日)

石段のきつい上りに堪えきれず母と妻を落としたK氏の背を震わせる、「タスケテー」「オイテカナイデー」。命の懇願を振り切りつつ、一瞬だけ、振り向いた。これが今生の別れか、目の下の庭の二人、その無情無様に転げる姿を拝むかに、しっかと手をあわせ、これ聞こえよと幾分か大きく呟いた。
「親亀子亀孫亀の三位一体、連帯友愛共栄などのうわつき逃避では一人とて助からぬ、ならば一家は全滅。かくも突如、襲いかかる魔の災厄には、てんでんばらばらに逃避するこそ、生きる者の生き続ける義務、その鉄則なのじゃ。許せ、ルミコー、フミー」と引導を渡した。ルミコー以下は細君とご母堂の名前。
二人からの「オヤフコー」「ハクジョーオット」の罵りには涙を落としたが、かろうじて耳を閉じ「行くぞー」K氏は一気に門を蹴破った。一人身ならば足先軽い、幾重にくねる下り坂をテンコテンコと駆け下りた。
K氏宅の地理を述べる。多摩丘陵とされる小高い丘、浅川から河岸段丘が幾重か層をなしてせり上がり、中段あたりからは急峻な斜面をなす。その斜面の奥は平坦な台地を形成していて、昔は山の畑、すなわち桑畑。昭和の代から多摩動物園を成している。K氏宅は斜面が急峻にさしかかったあたりに位置する。すなわち後ろには動物園、前には浅川。その浅川までは下りである。K氏が目指すのは浅川畔のタカハタ。
タカハタは不動尊を中心にして商店、食堂が参道に並び、銀行は軒を連ねる。駅には日野市の他のどの駅にもない駅ビルが威容を構える。威容としたが、日野市的スケールでの形容詞なので、実はたかが4階建て、しかも商店は2階まで。それでも唯一の駅ビルである。
「駅ビルには必ず地下街がある。立川とか八王子の例であるが、これがゴールドスタンダードとされるのだ」
タカハタにだってその黄金規範は通じる、ハズさ。では何故、彼は地下街を目指すのか。これは安部首相がテポドンが飛来するときには地下街にと明言している。菅長官だって幾度も教えてくれた。あれほどの人物の言説に偽りなどあるものか。逃避先には地下街、これがK氏の思考回路にすりこまれてしまっていた。
さて、
K氏が走り抜けんとする急坂は、古くは江戸期天明から七生七曲がりと伝わるつづらに折れる難所。なれど、下りゆえK氏は楽ちん。二曲がりが歴史のはざまに消えたので五曲がり。その最後のヘアピンを曲がりきったら、まっすぐに伸びる緩やかな坂。これも一気に駆け下りて旧街道。無人の野菜販売所のインゲン包みを横目に逃して右折して、すぐに四つ角。
「ここが意外と危ない、右から、ブレーキかけずに高校生自転車が飛んでくるんだ」
かっとび自転車を用心しながら角を左に取ってアルプス前の歩行者信号。右にも左にも車は見えないが赤は止まれ。こんな時の赤ほど非情な色は他にない。
「もし他にあるとしたら、あの時の緑だな」
示し合わせて降り立った湯沢高原カグラゲレンデ、彼女とK氏の前に立ちはだかる山が緑。スキーなのに滑れる色ではない。三十年前の暖冬は非情の緑色だった。
「悲しかった、しかし今、この赤信号を無視し突っ切れば、こうした時に限って、急発進の車なんかに引っかかってしまう。パタンとぶつかりドンと撥ねられる。パタンドンでくたばったらテポドンどころじゃあない」
テンコテンコの走りを止めてパタンドンこそ免れたが、時間はそれでも逃げてゆく。待つや赤の四十五秒、腕のカシオを読むと警報から5分が経過していた。


必死で逃げ込んだタカハタ駅、そこに駅ビルはあるが地下街はない。対テポドン未改修の駅ビルを前に困惑するK氏

「二人への説得、負ぶって脱出の無駄な試みなどに時間を取られたからだ。警報を目にした途端、ドリフにうつつを抜かしていたあの奴らなど放って、脱出すればよかった」
これが後悔先に立たず。後にも立たない。なぜなら、
10分でテポドンが到着するなら残りは5分、そしてタカハタはまだ5キロ。5キロと5分を考えるにこれは相当難しい。日野市に在住した者のなかで長距離最速男とはあの「ワイナイナ」であるとはいかなる御仁からも反論は出ないだろう。ケニア出身、コニカミノルタ陸上部で脚を鍛え、シドニーオリンピック銀メダルなど数多くの好成績をあげている。かれの5キロ成績は14分4秒。ちなみに長距離の皇帝ことゲブレシラシエは5キロ12分40秒。
と言うことは警報が発せられてワイナイナがコニカ合宿部から飛び出したところで5キロの道のりだったら14分。ゲブレシラシエにしたところで、俊足テポドンの10分にはかなわない。

その上、K氏の持ち時間はたった5分、これは無理だ。途方にくれるK氏、信号が青に変わってもテンコテンコと飛び出そうともしない。諦めたか、階段で振り向いて見届けたあのうろたえ姿が今生の別れだったのか。
この時、ポケットの携帯が第2の警戒発令を報せた。
「テポドンはロフテッド軌道に変わったので到着は10分遅れる」
K氏は素早く計算した。
「5+10は15分、そしてワイナイナ5キロ14分、それに1分を足して15分、5キロなら何とか儂にも出来そうだ」

テポドンテンコテンコ 3の了

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