(2018年2月26日)
野生の思考(la pensee sauvage)最終章Histoire et dialectique=歴史と弁証法にて著者レヴィストロースはサルトル批判を展開しています。その趣旨を一言で述べれば「歴史とは弁証法と主張するサルトルはその歴史を分析法で解説している」に尽きます。すなわちdialectique弁証法はそれ自体が公理(axiome)であるからには、(サルトル及びその一派が蔑む)分析手法など必要ないだろうと切り捨てているのです。これら内容と投稿子の解析は3月から投稿するが、この文脈の中で意表をつく、そして諧謔的に愉快なのはサルトルの用語を借りてサルトル批判をレヴィストロースが延々と述べている点です。冒頭の一文で>nous nous somme permis de faire quelques emprunts au vocabulaire de Jean-Paul Sartre<(幾つかの用語をサルトルから借りると決めた)借用を宣言していますサルトルの用語、その本来の意を探り基本概念のdialectique=公理との乖離を指摘している。投稿子はこれを諧謔としたわけです。
totalisation(総括化)interioriser(内照=内を見て反省する)exterioriser(外観=外を見る)等の用語が取り上げられている。(上記訳語は投稿子の用法なので竹内芳郎など専門家の訳と一致しない)
レヴィストロースはparadigmeについてこれをdialectiqueと語らない。しかし、時間の流れの中で分断されて変遷してゆくparadigme様態を前にすれば、dialectiqueと近似系を創造してしまう。そして実は上記のサルトル語は構造主義のdialectiqueに使えると判断した。ならば農協パラダイムに用いよう。
そして、余暇のparadigmeはおおむね前回(2月23日)に述べたので、移動というsyntagmeをサルトル用語で語ろう。
農協の発足間もない頃(1950年代)は農民は大八車を引いてそして押していた。日野市南平居住の木暮氏(昭和20年生まれ)は小学校に入っても毎日は通学できず、日よりの良い朝は父親愛車の大八車の荷台に寝そべり、野良に向かった。平地であれば大人一人で悠々と向かえる畑は平山(当時の大字)、路の半ばは黒川の、行く手にはだかるあの急坂が難所。寝転がっていた木暮少年は「ボーズ、後ろから押せ」と父親に急かされた。少年ながら寝ているのと押すのでは力差は顕著、二人がかりで何とかその坂をしのげば後は平ら、後に多摩平と命名されるが、このころは泉塚。そこいら一帯は畑地、工業団地として開発されたのは1960年代。伝来の畑ながら水理に恵まれず「遠い、せいぜい大根くらいしか」で木暮家は売却に応じた。その地に今、赤煉瓦の高層ビルが幾棟かが落ち着いた佇まいを見せる。テージン研究所であるとか。「あの棟の真下が大根畑、引っこ抜いては荷台に載せて」と木暮氏は60年昔を懐かしむ。木暮家では大八車を放免して木暮少年の野良への移動手伝いもついでに終了した。少年の大喜びの理由は。「これで毎日学校に行ける」
移動にホンダカブを購入してさらにカローラを求めた。その理由は単に「四輪のほうが見てくれが良いから」父親としては世間体、平良寺澤高橋など他系統との見比べが作用したに違いない。このころには帝都線の駅前開発が始まり、木暮家にも用地の提供交渉が舞い込んだ。結局は伝来の水田を売却することになったのだが、それでも父親は「全部売るわけではないし、畑は残る」と農協員として居続ける姿勢に拘った。青年団の以来40年の在郷農民開放活動への執着であろう。
そして突然、カローラもカブも売り払ってベンツE300とスズキ軽トラに切り替えた。これが1980年代の初頭。
在郷運動から農協へ、農協パラダイムとはまさに中世の惣村自治体の復活なのだ。余暇と移動を連続性のsyntagmeとし分断をparadigmeとするパラダイムのスキーム(図式的世界観、カントの用語)にレビストロースとサルトルを振りかけたらこの図になった、本邦初公開です!
さて場所が変わって千葉県。多恵子夫人は夫唐沢治一郎と共に、北柏のかつてのK氏宅を訪れたのが1980年6月。明るい居間は手賀沼を一望にする。広々としたその緑景色に見とれていると、近景の田んぼの畔に大型のベンツが停まってススーと扉が開いた。あれだけの車から出るのはさぞかしの紳士と思いきや、麦わら帽に半袖シャツ長靴の日焼け農夫だった。ベンツで野良仕事とは、その頃すでに都市伝説として巷間にもてはやされていたが、その実例を初めて目の前にして多恵子夫人は笑い転げたそうな。そのは白金の出、ならば平素からベンツは目にしているし、それを運転する夫、助手席の夫人、後部座席の家族にはそれなりの定型があるとの先入観を持つのだが、全くそれが打ち壊された。これが思わずの笑いであろうとK氏はしたり顔で注釈した。
さて、リアカーからベンツに隠れる弁証法とは。
カブを購入した木暮氏、しかし落ち着きがない。カブなど安物だと決めつける周囲の風潮が気になって仕方がない。これがサルトルが教えるexterioriserの精神活動である、そして「我が本当に必要とする移動はカブなのか」と反省を自身に突きつけた。これは同じくサルトルが語るinterioriserに他ならない。じゃあどうするのか、金がかかるなと逡巡する行程はprogressive-regressive=行ったり来たりである。そしてやっと出たのがtotalisation=総括、すなわち弁証法での止揚、そしてこれがベンツだった。こうした行程こそがレヴィストロースがサルトルに突きつけた「理屈」で語る弁証法です。
農協パラダイムの終焉8の了
野生の思考(la pensee sauvage)最終章Histoire et dialectique=歴史と弁証法にて著者レヴィストロースはサルトル批判を展開しています。その趣旨を一言で述べれば「歴史とは弁証法と主張するサルトルはその歴史を分析法で解説している」に尽きます。すなわちdialectique弁証法はそれ自体が公理(axiome)であるからには、(サルトル及びその一派が蔑む)分析手法など必要ないだろうと切り捨てているのです。これら内容と投稿子の解析は3月から投稿するが、この文脈の中で意表をつく、そして諧謔的に愉快なのはサルトルの用語を借りてサルトル批判をレヴィストロースが延々と述べている点です。冒頭の一文で>nous nous somme permis de faire quelques emprunts au vocabulaire de Jean-Paul Sartre<(幾つかの用語をサルトルから借りると決めた)借用を宣言していますサルトルの用語、その本来の意を探り基本概念のdialectique=公理との乖離を指摘している。投稿子はこれを諧謔としたわけです。
totalisation(総括化)interioriser(内照=内を見て反省する)exterioriser(外観=外を見る)等の用語が取り上げられている。(上記訳語は投稿子の用法なので竹内芳郎など専門家の訳と一致しない)
レヴィストロースはparadigmeについてこれをdialectiqueと語らない。しかし、時間の流れの中で分断されて変遷してゆくparadigme様態を前にすれば、dialectiqueと近似系を創造してしまう。そして実は上記のサルトル語は構造主義のdialectiqueに使えると判断した。ならば農協パラダイムに用いよう。
そして、余暇のparadigmeはおおむね前回(2月23日)に述べたので、移動というsyntagmeをサルトル用語で語ろう。
農協の発足間もない頃(1950年代)は農民は大八車を引いてそして押していた。日野市南平居住の木暮氏(昭和20年生まれ)は小学校に入っても毎日は通学できず、日よりの良い朝は父親愛車の大八車の荷台に寝そべり、野良に向かった。平地であれば大人一人で悠々と向かえる畑は平山(当時の大字)、路の半ばは黒川の、行く手にはだかるあの急坂が難所。寝転がっていた木暮少年は「ボーズ、後ろから押せ」と父親に急かされた。少年ながら寝ているのと押すのでは力差は顕著、二人がかりで何とかその坂をしのげば後は平ら、後に多摩平と命名されるが、このころは泉塚。そこいら一帯は畑地、工業団地として開発されたのは1960年代。伝来の畑ながら水理に恵まれず「遠い、せいぜい大根くらいしか」で木暮家は売却に応じた。その地に今、赤煉瓦の高層ビルが幾棟かが落ち着いた佇まいを見せる。テージン研究所であるとか。「あの棟の真下が大根畑、引っこ抜いては荷台に載せて」と木暮氏は60年昔を懐かしむ。木暮家では大八車を放免して木暮少年の野良への移動手伝いもついでに終了した。少年の大喜びの理由は。「これで毎日学校に行ける」
移動にホンダカブを購入してさらにカローラを求めた。その理由は単に「四輪のほうが見てくれが良いから」父親としては世間体、平良寺澤高橋など他系統との見比べが作用したに違いない。このころには帝都線の駅前開発が始まり、木暮家にも用地の提供交渉が舞い込んだ。結局は伝来の水田を売却することになったのだが、それでも父親は「全部売るわけではないし、畑は残る」と農協員として居続ける姿勢に拘った。青年団の以来40年の在郷農民開放活動への執着であろう。
そして突然、カローラもカブも売り払ってベンツE300とスズキ軽トラに切り替えた。これが1980年代の初頭。
在郷運動から農協へ、農協パラダイムとはまさに中世の惣村自治体の復活なのだ。余暇と移動を連続性のsyntagmeとし分断をparadigmeとするパラダイムのスキーム(図式的世界観、カントの用語)にレビストロースとサルトルを振りかけたらこの図になった、本邦初公開です!
さて場所が変わって千葉県。多恵子夫人は夫唐沢治一郎と共に、北柏のかつてのK氏宅を訪れたのが1980年6月。明るい居間は手賀沼を一望にする。広々としたその緑景色に見とれていると、近景の田んぼの畔に大型のベンツが停まってススーと扉が開いた。あれだけの車から出るのはさぞかしの紳士と思いきや、麦わら帽に半袖シャツ長靴の日焼け農夫だった。ベンツで野良仕事とは、その頃すでに都市伝説として巷間にもてはやされていたが、その実例を初めて目の前にして多恵子夫人は笑い転げたそうな。そのは白金の出、ならば平素からベンツは目にしているし、それを運転する夫、助手席の夫人、後部座席の家族にはそれなりの定型があるとの先入観を持つのだが、全くそれが打ち壊された。これが思わずの笑いであろうとK氏はしたり顔で注釈した。
さて、リアカーからベンツに隠れる弁証法とは。
カブを購入した木暮氏、しかし落ち着きがない。カブなど安物だと決めつける周囲の風潮が気になって仕方がない。これがサルトルが教えるexterioriserの精神活動である、そして「我が本当に必要とする移動はカブなのか」と反省を自身に突きつけた。これは同じくサルトルが語るinterioriserに他ならない。じゃあどうするのか、金がかかるなと逡巡する行程はprogressive-regressive=行ったり来たりである。そしてやっと出たのがtotalisation=総括、すなわち弁証法での止揚、そしてこれがベンツだった。こうした行程こそがレヴィストロースがサルトルに突きつけた「理屈」で語る弁証法です。
農協パラダイムの終焉8の了