蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

カギロヒ(玉蜻、陽炎)を見ました

2009年03月21日 | 小説
カギロヒとはカゲロウ(陽炎)のことです。ここでは春の日なた水たまりなどで見える「逃げ水」現象ではありません。古くからのカゲロウとは、諸説あるのですが朝、太陽が昇る前に東の空にみえる「丸いオレンジ色の玉」とする説が有力。晴れていればいつでも見えると限らないようで、空気(清澄であること)湿度(幾分水蒸気分が含まれる)雲の有無(当然曇りではみえない)、風向き強さなどが気象条件絡んで最適になったとき、年に幾度か見えるとのことです。
有名なのは柿本人麻呂の
東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
(ネット壷斎閑話から引用、万葉集では東野炎立所見而返見為者月西渡と書かれている)

このカギロヒを先日目撃することが出来ました。2009年3月20日の春分、真西に沈む太陽を拝まむと欲し、ある場所を目指しました。私は東京多摩地区に居住しておりますが、西に景色の開けた場所を見つけました。背後が東にあたり多摩丘陵の雑木で掩われ、西側真向かいは八王子の市街がほぼ真下に見下ろせます。八王子市街とは浅川の扇状地だと鳥観的に見下ろせます。その先に陣馬山(827㍍)その一峰の奥に権現山(1312㍍)が展望できます。
20日には日没開始を17時30分頃と検討つけて、市街地ながら急な坂道を急ぎました。その場所は周囲から隔絶されて立ったまましばらく居ても目立たないという場所です。到着した時はオレンジの太陽が権現山の左峰に入り始める頃合いでした。
まぶしく、見続けるのはつらい明るい太陽。その外観が少しづつ山に削られ、半球までに削られた時にはまぶしさが弱まり、凝視できるまでになりました。わずかな円弧が残されるまでになったとき、私は自分の目を疑いました。別の太陽が西空に昇ったのです。
「これは幻覚だ、犬が猫を生んでも西から太陽が昇るわけがない」と頬を強く叩くと、それは太陽の影、分身が昇るように湧き上がったのでありました。
分身は沈み行く太陽の3倍ほどの直径がありしかも白い。白い円の外辺は青と紫がかすかに見える。さらにその外周に太陽の5倍くらいの直径のオレンジがあり、またその外辺には大きな虹が見えました。沈み行く間際の太陽が、白とオレンジの影分身と2重の虹で彩られたという奇妙な現象を目撃したのです。
太陽本体が沈みきってもその位置で継続し、ほぼ5分間目撃できました。すべてが終わるオレンジの夕焼け、彩りは美しいものの白い半円も2重の虹も見えない平坦な夕焼けとなっていました。始まりが17時35分終わりの時は17時45分。
いわば虹に彩られた太陽の影、この現象が人麻呂の謡ったカギロヒだと思います。

しかし一般に膾炙されている現象との差があります。
1 真冬、雪のあとなどに出る
2 しかも朝方
が大きな差です。そこで当日の多摩地区の気象を振り返ると、朝に豪雨が降った、午後に雨があけると西風がふいた。その風の強さは真冬並でした。さらに祝日なので生産活動がなかった。空気が清澄(雨と祝日)、湿り気(雪の代わり朝の雨)、冬らしい西風などで1を満足させています。そして夕方にカギロヒが出るはずがないという疑問には
>玉蜻(かぎろひ)の 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に旗すすき しぬに押しなべ 草枕 旅宿りせ< (ネット壷斎閑話から引用)
とあります。これは例の短歌(東の野に…)の元になる長歌です。朝のカギロヒが炎、夕べのカギロヒが玉蜻と使い分けたのではないでしょうか。

カギロヒは朝も夕も瑞兆です、でなければ人麻呂が皇太子軽皇子(後の文武天皇)の安騎(あき)の野の狩で2度も読み出すはずはありません。その瑞兆の様の不思議な彩りと形状を知ることで、人麻呂の歌の雄大さを一層理解できるのでないでしょうか。

最後にこの歌の解釈はいろいろですが、
賀茂真淵が「炎」をカギロヒと読みくだし以来、この自然現象で一致しつつあります。今でもこれを「朝飯用意の火と煙」なんて解釈するセンセイもいると聞きますが、そういうお方に巡りあわないよう祈ります。そのカギロイを若い軽皇子に、西に傾く月(一七夜であったとは後年の研究)を父(先に死んだ)草壁皇子を模していると私=部族民は解釈します。一部では月を持統天皇(軽皇子の祖母)とする向きがありますが、月=死者のイメージが強い古代では生きる人を月に喩えることはなかった。
壬申の乱をへて天武天皇の国作り、草壁皇子の死、持統天皇から文武天皇への交代という怒濤の流れを「カギロヒ」で叙景に叙事に歌い上げた歌聖人麻呂の着想にはただ脱帽。
こんな歌を1300年前に詠まれてしまって、日本人は幸せなのですか不幸せなのですか。部族民個人としては人麻呂を読むたびに自身の不才さ加減に落涙しちゃいます。

後記:3月20日夕べのカギロヒ(玉蜻)が瑞兆なら何かよいことがあるはず。本ブログを読む皆様には良きこと到来を祈ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮沢賢治、心の震え 永訣の朝の原稿を前に 2

2009年03月14日 | 小説
前回投稿から1月も経過してようやくですが「賢治の心の震え」の続編を書き込みます。
賢治を宗教(法華経)との関わりから論評している梅原猛氏は「永訣の朝」を特に注目しています。この詩に修羅(生きる罪)と清潔(浄土)の対比と、修羅に震える賢治の心を読み取りました。梅原猛著作集4地獄の思想P188には、
「菩薩的心の持ち主のとし子が天に生まれ変わらぬはずがない。賢治は堅く信じるけれど、妹の幸福を祝福することが出来ないのだ。それは賢治が「青ぐらい修羅」を歩いているからだ。清潔な妹の天への生まれ変わりを祝福できないのは賢治の青くらさのためだ。信仰として「天に生まれ変われ」とは言える、しかしその一言を言えない賢治。とし子も「ああ悲しいことにとし子も賢治の心を、修羅を歩いている賢治の心を知って賢治から目を背けるのである」(原文)
死に行くとし子に兄がなすべき唯一の行為は「死を祝福する」だが、それを言い出す資格すらない。とし子すら兄の資格のなさを忌避している。梅原氏が永訣の朝の異常な描写を読み、賢治の心の葛藤の源を考察した内容は、死を前にして兄妹が離れてしまうという、まさに辛い別れです。
梅原氏は「隠された十字架=聖徳太子の新解釈」「水底の歌=柿本人麻呂刑死説」など歴史暗部を鋭く抉る評論で、部族民たる私の尊敬する「部族偉人」なのですが、個々の解釈では部族民の理解を遙かに超え、哲学者らしく厳格です。この詩にそれだけの絶望性を読み取る説得力には脱帽です。
私が前回(宮沢賢治、心の震え 永訣の朝2月9日)で指摘したのは梅原氏解釈とも近いのですが、少し甘い。
「浄土、死に行く先の光景がもう外に現れている。兄さん外は浄土だ、と妹が兄を慰める。霙をとっておくれ、その兄妹の心の交じわり、心の共振がこの詩の底流です」と部族民は兄妹の最後の交歓の詩として読みました。しかしそれにしても読み取れる「心の震え」、震えの源は「天への生まれ変わり」を信仰では理解するものの、実際に起きる時、しかも一番の近親に起こる時の戸惑い。若くして死ぬ不条理、別れの哀しみを捨てきれないためです。それらは信仰からは雑念、欲望などとされているが、その欲望を捨てきれない自身が葛藤する様が「心の震え」として読み取れたのです。
そしてとし子は死を達観している、霙なのに変に明るい朝は浄土の予兆でしかない、とし子は全てを諦め、受け入れ死にいく心の用意を終えている。そして一椀の霙をほしがる。
永訣の朝を読み、悲しいテーマながら清涼な読後を感じるのは救いがあるからで、それはとし子が死を受け入れている事と兄妹の心の共振があるためです。

この時賢治は28歳、その7年後に「雨ニモマケズ」を校了しました。雨ニモマケズと永訣の朝には賢治の精神が大きくかわっています、その遍歴を次回に述べます。
さて個人経験ですが
先週の3月4日は多摩地区は霙で暗い一日でした。霙の明るい朝は確かにあるのでしょう、遠くに旅立つ方に空の明るさは希望となる。だが、明るい霙の朝など気象学的に絶対にないのでとし子が旅たった朝(1922年11月27日)こそ、明るい霙で、天がとし子にはなむけたのでしょう。詩人賢治の感性がそこに浄土を予兆したのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする