蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

構造主義者のチテキ生活 蜜月の過ごし方

2018年03月26日 | 小説

(2018年3月26日)
先年の投稿「猿でも分かる構造主義」(2017年4月5日に初投稿)の続きとしてご高覧あれ。レヴィストロース氏の神話学第2刊、Du miel aux cendres(蜜から灰へ、1965年6月に脱稿)の第3章Aout en careme(8月の大斎)、caremeとは(耶蘇の古い習慣、肉断ち、イスラムのラマダンと比される)その一節から;

241~242頁の幾行かを引用するが、その前の半ページほどを抄訳すると;
(女婿に蜂蜜を採取して義母に供する労務を課すブラジル原住民の習慣)を前提として、狐は「女たらし」だが嫁を取れない。なぜなら彼は蜂蜜を採取する技能を持たないから。一方、蜜狂いの娘(太陽神の娘)は(肉体的魅力が横溢するかに描かれている)夫を捜すに苦労はないが、捜した夫にしても女婿の地位を保てない(女系社会ではこれが重要)。
何故かというと、蜜狂いの妻は夫が手に入れた蜜を(母に渡す前に)貪り喰うから。すなわち、この妻は自然が生成する食物(蜂蜜)をして社会的機能(夫が女婿の地位をモノにして姻戚allience地位を確立)を全うする事態を許さず、夫をひたすら自然のままの関係(妻の肉欲および食欲に依存=captrice libidineuse)に押しとどめるとする体制反逆女である。

この章題が8月の大斎の意味と絡めると、「一年かけて蜜を待って、ようやく採取できる時点にまでなった。部族全員で蜜祭りを祝い、順位に沿って消費する」これが大斎の決め事であるが、それを蜜狂い娘が無視してしまった。それもすべてが蜜の魅力、蜜の月(lune de miel)であるからだ。ブラジル原住民、たとえばボロロ語での蜜月の意味がこの意味。
レヴィストロースは脱線気味に文を続けるを時折の慣習とする。続く行に蜜月考を開陳するのである;

Il y a pourtant une difference. Dans notre langue figuree, la <<lune de miel>>designe la courte periode durant laquelle nous permettons aux epoux de se consacrer exclusivement
l’un a l’autre(241~242頁)
拙訳;(蜜月に関して)我々の言葉(フランス語)の意味と違いがある。Lune de mielとは新婚夫婦の互いが互いを、排他的に、貢献しあうのを、我らが許す短い期間を意味する。
なるほどと呻らせる名句ながら、幾つかの疑問が残る;
1 短い期間(la courte periode)にはlaが付くので、その長さは決まっているのだろうが一月ではない、1週くらいか。
2 互いが互いを貢献し合うとは何事か。次行を引用するとその貢献が分かるか;

La soiree et une partie de la nuit soient consacrees aux plaisirs; et le jour un mari repete les serments d’un amour eternel,
拙訳;夕方(soiree)と夜の一部は喜びに費やされる。そして昼にさえ一部の夫(un mari)はとある永遠の愛のためのあらゆる誓約を繰り返す。
こちらも漠然とながらに同感するが、けれど確認したい;
1 夕方は日の落ちかけ、くれなずみに始まり夜になるまで、その間中は片時も休まないが定冠詞laの必須の意味。夜には一部(une partie)のみで許されて、宵の口あるいは帳には一時を休める。何をするかは互いが互いに貢献すると決まっている。

これは新婚の蜜月の生態なのだから、どうやら、貢献とは愛情を交わすらしい。すると前引用の喜び(plaisirs)は愛の喜び。夕方、夜とか、たまにはとある一人の夫なら昼にだってするのは、それが好きなのだからとの意味で、これで2のコード(時間と行動)の意味合いが解決した。すべて夫(les maris)が昼にもすると伝えない理由は、レヴィストロースの、ひたすら構造的なまでの奥ゆかしさであろう。
しかしles serments(誓約)が分からない、複数なのでありとあらゆる誓約。これが奇妙、誓約とは重要地位への就任や裁判の証言などの前に一回、一項目(正しさ)を公言するので、単数の定冠詞leを被る。スタンダード辞典でも引用例は単数のみ。あらゆる複数の誓約とはなにか。それを解く鍵は;

写真はネットから。往事のソフィアとマルチェロをご覧ください。このような空間に閉じこめられてひたすら貢献し合うのが大戦前の蜜月でした。期間は12日とも、夕べも夜も昼さえも。

前段で蜜狂いの娘をとおしてsens figure対sens propore(比喩対本来意味)を論じていた。誓約とは比喩である。その比喩はレヴィストロースの好む換喩(metonimie)としよう。これは簡単な言葉で複雑系を喩えるとすれば分かり易い(正しくは物体で思想を言い換える)。あらゆる誓約には「ある一つの永遠の愛un amour eternel」が掛かる。すると「やることは一つ」なのだが、それを表現する「思想」にあらゆるとの複数定冠詞lesが取り付く。やることをやるまでの手順protocolには色々あるではないか。例えば...
それらすべてを昼間からやるのですと誓約が換喩として慎ましやかに表現している。
以上はLune de mielの「構造主義」的解釈、お粗末さま。

蛇足:映画ひまわり(イタリア、1970年公開ソフィアローレン、マルチェロマストロヤンニ)では二人の新婚生活が描かれている。村の外れの別荘風一軒家に閉じ込められて、村人が精の付く食料を運ぶ。仕舞いに二人は「排他的な双方の貢献」に厭きてしまい、ゆで卵の山盛りにはうんざりしてしまう。映画は2次大戦前の頃、レヴィストロースがブラジルから帰国した時期とも重なる。
ハネムーンは日本では新婚旅行とも訳される、でも昔の人は旅行など出ずにひたすら貢献しまくっていた。(了)
2018年3月26日
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構造神話学 農協パラダイムの終焉 9 最終回

2018年03月03日 | 小説
(2018年3月3日投稿)

昭和57年10月15日発行の練馬新報の裏面に地元(東京都練馬区)在住のアパート経営の成田重郎さんのインタビューがあった。その年8月にヨーロッパに旅行した印象を語っている。
「到着したその夜に立派なレストランに連れられて、おそるおそる入っていくと」
テーブルは大入り満員、シャンデリアの明るさ、人々の話し声の行き交いと笑い声、ボーイは料理皿を満載したトレイを肩に、足早さらに足も繁くテーブルに配膳している。こんな盛況ぶりに目が奪われたとか。レストランの名前は覚えられなかったが鴨を一匹丸のままでテーブルに出して取り分け、骨をプレス機で押し潰しソースにした。そこはトゥールダルジャンのことか。
重郎氏の自慢話は続く。
「昼に案内されたのはテラス風食堂、座って注文している内になんと」
天井が開いて夏のパリ、青空が見えてきたのだとか。するとこちらは開閉屋根が名高いラセールだろう。パック旅行とはいえパリレストランの大看板2店を回ったとは、さぞかし料金の方も張ったはずの質問には、はぐらかして答えていない。税務署が怖いのか。
成田重郎さんは私鉄の某駅近辺に畑地を所有していた。農地解放以降、大根の栽培に力を入れた。今はこそ名のみ残すこれが大名物「練馬大根」。春から秋までの3期作、冬になったら軒先にすだれと干して、伝来の大樽に糠と塩をまぶして引っかき回して沢庵を漬ける。小樽に分けた浅漬けをリアカーにのせて「ネリマータクアン」の呼び声で池袋まで売りに出て年越しの金を稼いだ(同誌の記事から)
成田氏が大根農民からアパート経営に転身し、その間に蓄財も重ねた事情は省くけれど、この年を西暦で数えれば1982年、戦後37年が経過している。その時点での成田氏の身辺状況を探れば、余暇は豪華トゥールダルジャン鴨料理付きのパリ旅行、移動はベンツEタイプの排気量4リットル。奥さんが所属する城北農協練馬婦人部で季毎に開催する料理教室は、もはや芋の煮ッコロガシなんかは取り上げず、この秋はプライムリブロース3ボーンのこんがりローストにアップグレイドしている。
しかしここで、paradigmeが天井をうった。
先に紹介した2DKパラダイムでの電化製品、冷蔵庫は6ドア500リットルに至ってその先がなかった。2キロリットルウォークイン冷蔵庫は2DKパラダイムでの選択肢から疎外されてしまった。同じ疎外現象が農協パラダイムの余暇で発生したのだ。

成田氏がスズキ軽トラの買い換えに一時は考えたハマー。中古車販売店に足を運びまでしたけれど、このデカサではtotalisation出来なかった。

成田氏はインタビューの前後に、パリ旅行を自照化(interioriser)したに違いない。しかし次のステップと外部状況を総括するはずのtotalisationが浮かび上がらない。パリの次には船旅クルーズに行き着くかも知れない。レヴィストロース風に語ればパリをやロンドンなどのparadigmeをdiscontinuにして、カリブ海でのんびりするこそparadigmeの発展に他ならないのだが、成田氏はそこに踏み込めない。ベンツがそろそろ車検なので、買い換える予定、こちらでもinterioriser/exterioriserしているし、選択はブガッティベイロンとハマーの組み合わせしか思いあたらない。成田氏はもともとが大根栽培者、ベイロンなんて腰が引けるし、スズキ軽トラをハマーにしたら目立ちすぎ。ここでもtotalisation出来ないままである。そう言えばと思い出した「カミさんがこの次はトマホークステーキだってさ、でもあんな化け物ステーキ誰が喰うのか、あたしゃ沢庵で茶漬けが好きなのに」と愚痴をこぼしていた。
さらに、一人娘が属している農協娘子隊では化粧のテクニックの講習の場を設けているが、前回の講師は顔を「真っ黒にする」革新的化粧法を紹介したとか。渋谷に住むならまだしも、練馬の駅前で「ガングロにはなりたくない」と娘は泣いていた。かく、すべてのsyntagmeが停滞したままだ。
農協のparadigmeはtotalisationを探せないままprogressive/regressive行ったり来たりと止揚を展開できない。まさに2DKパラダイムの状況と酷似するが停滞がここでも発生したのだ。
2DKも農協もセレビーにしてもそのスキーム(scheme)とは継続と発展。その連続がベンツと6ドア冷蔵庫の呪縛を解けず、再生力と想像力を失った結果、弁証法的発展につながらないのである。これは「戦後」の挫折、敗北である。
社会が発展しない限り、経済も政治も活力を失う。その不活性が今の世相と言えないだろうか。日本経済は供給力が需要を大きく上回るとか。その背景に戦後のスキーム、継続パラダイムの無力化がある。プリウスは一時、確かにパラダイムを創造した。しかし小型乗用車という範囲に限られていたから、波及は小規模だった。経済全体を覆い尽くす新しいパラダイムが望まれるが、それには戦後スキームを乗り越える技術が必要だ。AIなのかIoTか。

構造神話学 農協パラダイムの終焉 了

投稿子は現在、レヴィストロースのサルトル批判(野生の思考最終章)について鋭意作成中です。近日投稿あり。第一回は3月5日、お待ちください。
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