蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

野生の思考LaPenseeSauvageを読む 6

2020年06月30日 | 小説
(2020年6月30日)
congruenceなる語の意味を探る;
レヴィストロース著神話学の全4巻でcongruenceは頻繁に引用されている。その意味を彼が語ることは無いが小筆は「2の異なる形状で表出しているモノながら本質は同一」と理解する。神話主人公の本質は世界創造者です。火を発見した主人公もいれば狩りの技法を盗んだ者もいる。それらの形式は異なるしかしながらcongruenceとして同一である。この同一追求の「知性」が先住民の医術、その論理背景を解く鍵でもある。
ではcongru...の思考作用はどのように働くのか。構造主義家元からの説明は無いから部族民が想像をまじえ、説明する;
異なる2の物は形状の違いは認めるものの、幾分かの似通いが感知される場合はあるだろう。例えば重なる現象、消失と出現の経時的連続性などに類似analogieを(先住民が)働かせるとも推察する。こうしたある程度の類型を捜し、因果を設定し2のモノを紐つける。これをして具体科学の「知的」の規範となります。この知性を働かせてキツツキの嘴と人の歯痛を結びつける共通の本質を探った。熊の屎と頭痛にも同様にcongru..が、その過程を取り上げる能はないが、認められた筈だ。

身近なcongru..の2例を挙げる。西欧中世のマンダラゴラ伝説。
根が二股に分かれ形状は人、特に男に似る。言い伝えで横死した男の精が地に育ったと信じられていた。薬効は強壮。ここでは形態近似で類推による共時因果を想定している。
西洋中世にて人の化身とされたマンダラゴラ根っこ、ネットから

日本、菅原道真などの「死に様伝説」。怨みを残して死ぬと祟る。道真の死後まもなく天候不順、落雷が京を脅かした。憤死と飢饉には連続性があった、これをして経時因果があったと人々が類推した。死と飢饉の2の形には恨みが根底に潜む。よってcongru..が認められる。日本語はこれを「祟り」と教える。
一方でこのような「科学」の因果関係は証明されていない、迷信であり治療には役立たないとの指摘は強い。対してレヴィストロースは答える。
>Mais precisement son premier objet n’est pas d’ordre pratique . Elle repond a des exigences intellectuelles au lieu de satisfaire a des besoins.(21頁)訳;しかしながら厳格にいえばその(治療するという行為)目的は現実的効果(治癒)を狙う為ではない。 その行為は知的圧力に応えるのであって、治癒の求めを満たす為ではない。

強壮の効能があると信じられるが、煎じ飲んで効果がでなくても、それによって横死男の化けとのcongruenceが否定されるわけではない。

医療行為ではない、世界を表現する必要性(exigences intellectuelles知的圧力)に駆られた結果だとしている。知的圧力とはなにか。
キツツキの嘴で歯痛を治す行為は>faire aller ensemble le bec de pic et la dent de l’homme<歯と嘴を共に去らしめる行為と(民族誌の記述からして)尊師は規定した。未開医術の根底には具体科学の知性が働く(前述)証拠として> dont la formule therareutique ne constitue qu’une application hypothetique , parmi d’autres<その治療の手法は色々ある中でこの組み合わせしかないとの事実をあげた。
キツツキ嘴の効能は歯痛にしか効かない。頭痛の訴えには熊の屎を投じる、決してタヌキの屎ではない。一の医用素材は一の症例にのみ有効である。なぜか、congru..、本質での一致がなせる為である、としている。近代医学では薬は症状に効果をもたらす。症状が「痛み」であれば神経の炎症が原因となり、炎症を和らげる薬を処方する。同じ薬なれど頭痛にも歯痛にも効能を保つ。一薬多症は西洋医学の知性である。とは言え頭痛の訴えにオータ胃酸を処方する医師に出会ったら、通院を控える決断が長生きの秘訣となる。
先住民がこの土俗医療の技法を用いるのは痛みや震え、不妊を治すのではなく、彼らの思考が作り上げたモノ世界の正統性を確認するため(と先住民は思考している、レヴィストロースがかく分析した)。知的圧力とは世界観の正統性を確認する願望なのだ。

具体科学はモノの有様を巡る知性体系で、PenseeSauvageなる思考の根源となる。ここでその知性の廻り具合をおさらいしよう;
どのようにして世界観を形成するのか、イヌとタヌキを例にとる。
四つ足がたくさんいる。それらの姿formeが似ている。類推analogieによる統合integrationが働いて、こいつ等をまとめて同じ種とし、イヌと名付けよう。しかし良く観察すると異なる点も多い。未開人ならではの知性の鋭さが観察を深め、各部位の分析を始める。尻尾巻きと尻尾垂れ、デカとチビ。それぞれにアキタ、シェパード、シバと名づける(morphologie)。これらイヌ軍団にどのようにanalogie、morphologieを駆使しても属しない個体がまぎれている。面倒だからそれタヌキとしよう。山に登ったらタヌキに幾度も出会った。かくして敷延(globalisation)なる知的作業をへて宇宙というモノ世界にイヌ、タヌキが組み込まれた。イヌとタヌキという思想がモノ世界を裁断(decoupage)した瞬間である。
具体科学が向かう先とは何か;
>Par le moyen de ces groupements de choses et d’etres, d’introduire un debut d’ordre dans l’univers<(21頁)これらのモノと存在の集合化(上の文で述べている知的作業のコト)をとおして宇宙に秩序の先駆けを導入することなのだとある。
続く
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野生の思考LaPenseeSauvageを読む 5

2020年06月29日 | 小説
(2020年6月29日)先週表題を4回に分けて投稿しました。(22~25日)。今週も同じペースで取りかかります。よろしく御訪問を。

本投稿向けに限定製作したPDF用語欄にmorphologie(形態学)が見られます。(PDFの小図を載せます。明快な図はホームサイトにPDFとして掲載しています。WWW.tribesman.asia)。その左にはforme(形)。

具体科学のモノ世界展開の図。

両者の差とはformeは全体の形、木であれば高さと枝振りで外貌、すなわち姿が決まる、その形がformeです。形態(学)と訳されるmorphologieは;
Etude de la configuration, et de la structure exterieure d’un etre vivant.生物の外貌の構成、構造を調べる学。とあります。とある一の形の見極められる仕組みを見る。イヌという形formeをよくよく分解すると首、胴体、尻尾四つ足などで構成されていると気付いたら、すでにmorphologie形態学に踏み入っている。
>Ce savoir et les moyens linquistiques dont il dispose s’etendenet aussi a la morphologie. La langue tewa utilise des termes distincts pour chaque partie ou presque du corp des oiseaux et des mammiferes. La dicription morphologique des feuilles d’arbre ou de plantes comporte 40 termes, et il y a 15 termes distincts correspondant aux differentes parties d’un plant mais. (本書19頁、Conklin著Hanundo Plant Worldからの引用)
訳;(筆者はTewa族(オセアニア先住民)の案内者と徒の旅に出て、途上森林域を横切る、案内者の植物に関する知識の深さと語彙の豊かさに舌を巻いたーこれが引用文の前段)知る努力そして言葉を通じての適切な説明、こうした知識は外貌のみの観察を越えて<形態学>にむかう。tewa語には鳥類、ほ乳類の全ての構成部位に名が与えられている。木々、草類の葉の外貌からの識別(morphologique形態学)には40の用語が用意され、モロコシの一種にですら葉の形態に15の用語が備わる。
比較するに本邦の例をあげる。


牧野富太郎博士(1862~1957年)「日本の植物学の父」、多数の新種を発見し命名も。近代植物分類学の権威である。研究成果は50万点もの標本や観察記録、『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作」(Wikiから)
氏の著作「原色日本植物図鑑」(北隆館発行)を開けると、葉の形体による分類が説明されている。葉脈を種別すると網上脈など4種。形による葉の分類は6頁に渡る。そこでは糸形、針形など76種の葉の形を類別している。植物の形態学である。Tewa語ではその分類が40、とすれと「世界の牧野」には及ばない。しかし彼は「学」としての分類である、日本人が76種の葉形を区別しているなどは考えられない。小筆の知識では針葉、広葉、広葉でもカエデとイチョウは別種とわけると、あわせて5の葉形を識別する(カエデを掌状深裂、イチョウは叉状と分類されるとこの度に知った)。
牧野博士の76分別は例外で平均日本人は5、Tewa人は40。これをして日本人はTewa族に比べ形態分離能(morphologique)で劣るとは決めつけられない。生活を取りまく植物相Faunaの深さ、樹木をいかに資源として用いるかの文化の差が語彙表現」にあらわれていると解釈すべきです。

同書の挿入図から。形態学の分析手法となります。

本文に戻る、
続いて植物のles parties constitutives et les proprietes des vegetaux(主要な部位とそれに関連する性質(用途、効能など)に150の用語が用意されている。彼らの形態学の狙いとは用途を特定する為であった。続く文に;彼ら同士で(特定する為に)色々話し合っている、それらは多くが医療用途、そして食物になるかどうかだった。形態と用途の繋がりをレヴィストロースはcongruenceと規定する。聞き慣れない語の説明は後に回して、形態と用途の繋がりの多くが医療として収束するとある。
シベリア先住民の生物の部位を特定の(医療)用途に結びつける例を並べる(20頁)。例をあげると特定のクモは不妊治療。黒いフンコロガシ(狂水症)、赤イモムシ(リューマチ)、石ころを含んだ冬眠熊のクソ(おそらく頭痛)など。この種の先住民の記録を幾例か羅列しての後、以下の文で土俗療法の成り立ちを締めくくる。
>De tels exemples qu’on pourrait emprunter a toutes les regions du monde, on infererait que les especes animale et vegetales ne sont pas connues pour autant qu’elle sont utiles : elles sont decretees utiles parce qu’elles sont d’abord connues.<(21頁)
訳;世界中からこのような実践例を拾うことができよう。そこで次のように推察できる、それら動物植物が有用であると見なされてから知識に組み込まれたのではない。それらが知られていたから、有用と見なされたのである。
文の解釈に必須なるは「知られていたから有用」この論理である。
レヴィストロースはこれまで「有用であるから名を付ける」(南米Nambikwara族の毒草知識)と述べていた。有用性が先に認められて命名されたと理解される。その正反、「知られて後に有用と認められる」をここで主張している。これは混乱を催す。この正反対の謎を解くカギに「世界中」と「知る」の関連が潜む。
民族学者としてかつ哲学者として、人が知性を働かせる行為は「世界中、どの民族でも変わらない」なぜなら「人間だから」。これが出発点である。そして「こうした実践例が」世界中の現象であれば、それは歴史偶発性、地域性などを乗り越えた「知性」の動きに他ならない。クモを不妊症に熊のクソを頭痛になどの土俗療法には、それらの物質を治療に結びつける人間の「知性」がはたらくからだ、と彼は指摘している。
その知性が具体科学の華congruenceである。続く
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野生の思考を読む ホームサイト掲載(案内)

2020年06月26日 | 小説
表題ブログは6月22~25日に4回投稿しました。本日部族民通信ホームサイト(tribesman.asia)に1,2,3として投稿した案内です。ブログと同じ内容ですがパワーポイントの図式をPDFに変換して、より鮮明な図がご覧になれます。よろしくご訪問を。左コラムのHPから、Googleからは部族民通信ないしtribesman.asiaで検索を。

アジサイ、今が盛り。
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野生の思考LaPenseeSauvageを読む 4

2020年06月25日 | 小説
前回の投稿で同じく抽象語の「哀れさ」と「植物」の含意の広さ狭さを比較するのは意味がないとしたが「樹木」と「杉」の比較はあり得る。杉は樹木の一含意なので樹木がより広い意味をもつ。20世紀前半の人類学では「より広い範囲の抽象語を持つ言語はそれを持たない言語(未開人言語など)に比べ抽象性(思考力)が勝る」との論が風靡していた(小筆は人類学専攻ではない、本書「野生の思考」の記述内容から書き起こしている)。本書13頁に;
>les mots chene, hetre, bouleau , etc., ne sont pas moins « des mots abstraits que le mot arbre, et, de deux langues dont l’une possederait seulement ce dernier terme, et dont l’autre l’ignorerait tandis que’elle en aurait plusieurs dizaines ou certaines affectes aux especes , c’est la seconde , non la premiere, qui serait , de ce point de vue , la plus riche en concepts<
訳;柏、ブナ、柳、その他...これらが樹木なる抽象語よりも小さいとは言えない。2 の言語で一方は後者(樹木)のみを持ち、他方はその語を持たないがいくつ(幾ダース、幾百)もの種の名を有するとしたら、後者が言葉の概念として豊かである。

写真は自然をタグにしてネットから拾った。

最も豊かな言語は種を統合する概念を頂点として持ち、配下にいくつもの(幾百もの)種別の語を有する言語である。しかしそれは「学」としての分類、整理の範疇であり、族民らは(文明人も同様に)関心を寄せない範疇には「鳥」「雑草」など大まかな概念語しか与えない、前回投稿のTkingit族は好例。こうした例、decoupageの有様は民族誌に多く記載されている。
>Dans les deux cas , l’univers est objet de pensee, au moins autant que moyen de satisfaire des besoins.(13頁)。訳;これら2の場合(具体科学と近代科学)ともに宇宙(森羅万象)は思考の対象であり、少なくとも同様に必要とするところを満たすモノだった。
ここでは具体科学も近代科学も概念の展開とでは同じ土俵に立っているとしている。これを受けて;
>Chaque civilisation a tendance a surestimer l’orientation objective de sa pensee, c’est donc qu’elle n’est jamais absente. Qunad nous commettons l’erreur de croire le sauvage exclusivement gouverne par ses besoins organique ou economiques, nous ne prenons pas garde qu’il nous adresse le meme reproche, et qu’a lui son propre desir de savoir parait mieux equilibre que le notre ;(同)
訳;あらゆる文明は己の思考がその対象に向かう状況を過大評価する傾向を持つ。我々が「未開人」は食物を獲得の要あるいは経済事情にのみ執り仕切られているとの誤解をおおっぴらにするなら、彼(未開人)が我々に同じ非難を向けてきても、反論できない。彼にとり、自然を知る欲望は我々が持つそれよりより良く均衡が取れていると感じているのだから。

滝、滝口、がけ、草、木々が見える。小筆の自然裁断はこの程度、木々、草に立ち入っても種など判別できない。


続いてHandy等のハワイ先住民の民族誌(ポリネシア社会)を引用して、現代社会の農業形体を>exploite sens merci les produit qui pour le moment procurent un avantage financier detruisant souvent tout le reste<自然への感謝も見せず、一時のちょっとした経済利益を得るために、他の全てを破壊して幾ばくかの作物を追求しているだけだ。続いて;>L’uitlisation des ressources naturelles dont disposaient les indigenes hawaiiens etait completes<ハワイ先住民の自然資源の利用は完璧であった。とHandyは結んでいる。19世紀後半からハワイには白人(米国人)が進出し、パイナップルなどのプランテーションを活発に展開した。経済利益を生む単作物栽培と土着の土壌利用を比較し、文明批判した一文と思う。 続く

追:昭和期、人々に膾炙された挿話。侍従長「お上、雑草が繁茂しております、そろそろ刈り払うつもりであります」昭和天皇「汝、雑草なる草はおらぬ。カタビラ、アレチノギク、カヤツリグサなどと全ては名を持つのだ」侍従長「はっはぁ~畏れいりまして」
(天皇は臣下を汝とは言わない(らしい)、名前を呼ぶのだが入江氏であったかに確信は無いし、この挿話自体が創作かも知れないので汝とした。学の人、昭和天皇ならばあり得るとして人々が語り合った。自然の裁断の仕方(decoupage conceptuel)は臣下、庶民とは比べるべくもなく緻密であったであろう)
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野生の思考LaPenseeSauvageを読む 3

2020年06月24日 | 小説
前回(6月23日)投稿のパワーポイント図の説明。
野生の思考とは具体科学の一形態である。具体科学は現実、すなわちモノを解析する科学である。それは形状formeへの肉薄に他ならない。思考を巡らせ言葉を用いて彼らなりのモノ世界を敷延する。彼らと申したがそれは未開人であるし、近代人でもある。後者にしてもモノ敷延の思考は保っている。

本章で取り上げられるTlingit族、カナダ北西部に居住。写真はネットから。

パワーポイント図、具体科学の説明

3列目用語には本著に用いられ、モノを展開し敷延する事を表現する用語を書き入れた。
例としてassimilation(同一化)なる思考はどんな展開を示すのか。歯痛にキツツキのくちばしを患部に当てる。おそらくほじくるのだろう。ヒトの歯とキツツキの頑丈なくちばしを同一化し、歯よくちばしになれで痛みを霧散させる「論理」がここに見られる。
先に先住民は「抽象」能力に欠けるとした風説を紹介した。レヴィストロースはここに切り込む。
>pretendue inaptitude des ‘primitifs’ a la pensee abstraite =中略=la richesse en mots abstraits n’est pas l’apanage des seules langues civilisees<(本書11頁)訳;未開人には抽象思考が無いと言われているわけだが、抽象表現を用いるのは文明化した国の言語の領分とは限らない。
例としてChinook族の言い回し、Boasの報告「こうした言い回しは私の言語でも用いるのだが」を引用する。「意地悪な男が貧しいなか、(己の)子を殺した」これを彼らは>La mechancete de l’homme a tue la pauverete de l’enfant(同)>男の意地悪が子の不幸を殺したと伝える。そして「おおよそ全ての言語は...」以下原文に;
>le discours et la syntaxe fournissent les resources indispensables pour suppleer aux lacunes du vocabulaires.>語り口と文構成とは、語彙のみでは言い切れない含蓄を追加するに必須なのだ...
ここまでは理解に至る。
それに続く文節が難しい>Le caractere tandancieux de l’argument evoque au paragraphe precedent est bien mis en evidenace , quand on note que la situation inverse : celle ou les termes tres generaux l’emportent sur le appellation specifiques , a ete aussi exploitee pour affirmaer l’indigence intellectuelle des sauvages (同)
訳;先の文でカッコ内(Boasのこうした言い回し...)は以下の議論を誘導するに為にある。それは状況が逆になったとしたら、すなわち非常に広い意義を持つ語に対し、その範囲が納める語彙が多くなる場合を仮定すると、先住民の知的(抽象)能力は貧しい(indigence)と結論せざるを得ない。
レヴィストロースは度々Boas(Franz、アメリカ、1858~1942年出身はドイツ)を好意的に引用する。今回も「先住民の言語抽象能力」を評価したと受け止めた。しかるにその言にtendancieux(底意の見える、誘導する)なる形容を被せた。となると;
Chinook族の言語力は意地悪、貧しさ程度の「狭い範囲」の抽象には対応できる。そして「意地悪男が不幸な子を...」の言い回しでは殺人の背景を説明しきれないからChinook族民は「男の意地悪さが...」と文構成を練り上げ、正しく状況を表した。しかしここまでである。
彼らは植物、動物といった広範な抽象語を持たない。植物の中では(薬草)あるいは毒草などといった生活に用いる種のみに名を与えている。故に先住民の抽象力は範囲の狭い語に限られ、限界を見せているーこの議論を引き出していると小筆は解釈した。
「貧しさ」なる概念が「植物」のそれに較べて狭いとの指摘(Boas)には正否の判断を小筆はできない。おそらく当時(20世紀初頭)の生物分類の図式(界、門、綱と大から小へとつながる分類)に影響を受けたかと思われる。構造主義的意味論(前回6月23日投稿のパワーポイント図)に立ち戻れば、語はいずれも思想をなす。それなら「質」の範囲であるから、狭いなり広いを議論しても始まらない。
さて本文に戻ると;
>Je me souviens de l’hilarite provoquee chez mes amis des Marquises...(12頁)<今でも思い出すがマルケサス諸島人々の大嗤い<なぜ報告者(Handy)が嗤われたかというと雑草の名を尋ねたから。レヴィストロースが毒草でない(役に立たない)草の名を尋ねた時のNambikwara 族と全く同じ反応があったわけだ。(Handyは1921年の報告、レヴィストロースのNambi.報告は1936年)。この例をして報告者達(Handy他)は抽象力の欠損と決めつけた。この後に本投稿第一回に引用した
>le decoupage conceptuel varie avec chaque langue<(本書12頁)
が出てくる。
「概念による裁断は言語によって異なる」この解釈は前回通りです。「言葉の概念が外的世界を裁断する、この様態が言語を理解する要となる」。西欧言語では「植物」「動物」で大きく「裁断」し、それらの小項目に杉、とねりこ、楊などに細分していく。一方で、自然に密着している先住民には「植物」の大項目は不要である。


>Parmi les plantes et les animaux, l’Indien ne nomme que les especes utiles ou nuisibles ;
les autre sont classees indistinctement comme oiseau, mauvaise herbe, etc.<(The Tlingit Indian Kraus著、本書11頁)訳;あらゆる植物、動物のなかからTlingit 族は有用なそして毒のある種にしか名を与えない。それら以外は無関心に「鳥」、「雑草」とだけ呼ばれる。
「植物」の大項目に替わり「毒草」「可食草」を置いて外界切り取っている。もう一例;>Les faccultes aiguisees des indigenes leur permettaient de noter exactement les caracteres generiques de toutes les especes vivantes, terrestres et marines ainsi que les changements les plus sutils de phenomenes naturels tels que les vents...(The Polinesian Family System、Handy著、本書14頁)<訳;原住民はそのとぎすまされた感知能力から、地上性にしても海洋のあらゆる生物の系統を言い当てられるし、いかなる些細な自然の変化、風...も言い当てる。
ここでは>toutes les<あらゆる、を当てているがこれは生物学的、気象学的な「あらゆる」とは異なり、彼らが関心を寄せる外界の「あらゆる」種、現象と理解する。ここでもdecpoupages conceptuels(概念の裁断)は関心、利害が先に立つ。先住民は抽象能力が欠けるとの指摘は誤りである。続く
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野生の思考LaPenseeSauvageを読む 2

2020年06月23日 | 小説
(2020年6月23日)
イヌを巡る意味論における言語学と構造主義の差を述べたが(6月22日投稿)、ここでの留意点は;ソシュール意味論では実体を持つイヌなる動物が先に存在しているから(主体)、それをイヌとして指さすと説いた。レヴィストロースにおいては思想のイヌ(言語学で意味するもの)がまず人の頭に形成されて、そちらが主体に昇格する。個体のイヌ(意味される)は単なる客体。言語学での主客をレヴィストロースはかく逆転している。人が認めない限りイヌはイヌとして存在しない。これが構造主義としての意味論となります。レヴィストロースは南米Nambikwara族の毒草の豊富な語彙を調べ「毒草でない無用な草には名がない」を突き詰めた。毒草以外の草を思想化する作業を放逐したから、思想を持たない。故に指し示す語は存在しない。
>le decoupage conceptuel varie avec chaque langue<(本書12頁)
この句の直訳は「概念的裁断は言語によって異なる」。こんな訳文に満足し放置したらクセジュ文庫の二の舞になってしまう。この一句に解釈を構造主義の意味論により展開すると;
「言葉が自然を概念(思想)として細分化する様、これが語を形に対峙させる仕組みなのだが、その様は言語によって変わる」となる。より分かりやすい説明は動物界をイヌネコブタなどに裁断し、それぞれに対し思想(あるいは表象)を人が持つ。これがdecoupageなる作業。裁断する境目は言語によりずれるとの指摘である。日本語のイヌと英語のdogはずれている。(古)日本語ではオオカミをイヌと言った(ヤマイヌ)。英語はdogとwolfを分けている。サルに至っては全くかみ合わない。日本語にはモンキーの思想はあるがエイプを持たない。
すこし高尚に「自由」は言語が変われば、それが意味する範囲(形式、客体)にずれがでる。フランス語のliberteと日本語の自由は、それが意味するところの思想が正反なので、客体の意味される形が全く異なる。カツ丼が喰いたいからカツ丼を食う、この行動を日本語は自由とする。仏語、特にカルテジアン(デカルト信奉者)は「コヤツは食欲の虜になっている、不自由な輩だ」と蔑む。この辺りはホームサイト2019年11月30日のカツ丼の自由はアリサの勝手でしょ全回4回に掲載している。ブログにては同年11月25日)


第一章の書き出しScienceDuConcretが読める

野生の思考に入る。
第一章「具体科学」Science du concretの訳。名詞concret具体とは、辞書Robertの知恵を借りる;第2義(philo)qui exprime qc de reel sans que l’on en isole une notion de qualite.第3義qui peut etre percu par les sens ou imagine訳せば2義:質をそれから離すことなく実体を表現する 3義:感覚で捉えられる、あるいは想像するモノ。2+3義がレヴィストロースの伝えるconcretに近い。世界森羅万象をreelとして、思想でも本質でもない「モノ」に託して思考する科学である。
モノに託すとは取り巻く世界を思考するにあたりモノの集体としてそれを見る。それらを統合(integration)かつ敷延(globalisation)し、分割して(morphologie)、モノ同士の関連についてanalogie(類推)assimilation(同一化)congruence(本質は同等、形体が異なる)inverse(対立)identique(本質と形体が同一)を判断する。この思考のこの流れを整合する世界観に他ならない。
具体科学は「未開」とされる先住民が多く実践する科学である。一時代前(20世紀初頭)の哲学者、人類学者は先住民が思考、言葉でモノに執着する傾向を見て取り、モノから質に昇華できない、具体論だけで抽象化する思考に欠ける。故に「未開primitive」とした。レヴィストロースはその語を用いない。しいてpremiere(最初の)科学としている。これと比較する「進歩した」科学とは西洋科学の全般となるかについて、単純に決めつけていない。生物分類の祖リンネは形態学の極点と言える(本文にscience du concretとの類型を指摘している)。ダーウインにしても形態変化を証拠に進化があったとしている。

拡大写真

対抗する科学にsciences moderenes近代科学を当てている。この意味がよく分からない。ヒントとして文中の「新石器革命、8000年前とされる」を取り上げると、この時期に農耕、栽培、土器、絵画などが草創され、それらを支えた思索活動をしてscience du concret(science premiere)を人が編み出したと理解する。まさに初元premierの科学となる。新石器革命以来、premier scienceは連綿とヒトの思考を「モノとの連関」に閉じこめていた(これを新石器革命パラドックスと教える)。
sciences moderenesはモノの科学から離れた科学となる。
形態を見えるとおりに分割し統合し同一化する科学を否定し、見える形の裏側にある本質を演繹する科学をsciences moderenes近代科学とする、と小筆は規定する。コペルニスク(「天体の回転」の出版は死後の1543年)、ガリレオ(異端裁判は1630年)、ニュートン(プリンキピアの出版1687年)らが見えている太陽の動き=モノを見えるままに説明する手法(カソリックの教条でもある)は誤謬を招いているとした。天動説は近代科学の魁である。哲学側からはデカルト(方法序説の出版1637年)カント(理性批判の出版1788年)らの貢献も語られる。
「未開」民族を新大陸の先住民、大洋の孤立民族、アフリカ先住民などとすると、彼らはコペルニスクやデカルトを生み出さなかった。彼らの科学は新石器以来のモノを解析する段階にとどまっている。これをして彼らの知性はLa pensee sauvage野生の思考と逆説的にレヴィストロースが規定した。逆説とはモノにとどまり世界を解析する手法は西洋社会においても生物学、地層学、考古学などで連綿として継続していたからである。
民間においては信条、仕来りなどで受け継がれている。エンブレムにライオンを選び、戦闘機にシャークマウス描く思想はライオンや鮫など強者との同一性assimilationを願うからである。決して先住民にだけ特有な思考ではない故に逆接とした。
本書に使われている用語をscience du concretとsciences moderenesにわけたパワーポイント図を下に掲載する。 続く

図の説明は次回に

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野生の思考LaPenseeSauvageを読む 1

2020年06月22日 | 小説
(2020年6月22日)
野生の思考La pensee sauvageを取り上げる。本日は前準備、前文として:
神話学第4巻「裸の男」の最終章(フィナーレ)にてレヴィストロースは自身の著述歴を親族の基本構造(第一刷1947年)、悲しき熱帯(1956年)、野生の思考(1961年)と神話学4巻(初巻1962年、最終巻の脱稿は1970年9月)の4作としている。23年間の思索活動はすべてこれらに反映されていると伝えたかったのだろう。4作以外にも作品は数えられるが、それらは活動それぞれの一断面であると自ら規定している訳であり、読む側からしても同様の判断を感じとれる。
全て著作の内容をたどればいずれも4作に行き着く、そして4作の内容も一つの思考に収斂する。そう伝えているかも知れない。
4作に絞りそこに認められる共通性、すなわち彼が追求した思想とは何か。この追求にあたり4作それぞれの主題をここに記すと;
親族の基本構造では「未開」と呼ばれる先住民達がいかにして高度な社会組織を形成したかに尽きる。(本ブログではPiaget批判の項のみを投稿)
次作の悲しき熱帯で南米先住民の社会と精神の有様を明らかにしている。
3作目、野生の思考で人はどの様に外界を理解し、どの様に表現するかを解いている。すなわち人の理性を語っている。
神話4部作は人と自然の関係、文化の発生と維持、人間社会の常なる危機を先住民の語り口を通して説明している。4作に共通する主題とは自然と文化の抗争、混乱から秩序へのはい上がり、突き詰めると人間社会形成への自然と人の葛藤の様となる。そして人間側の動機の根底に知性をおく。
三作目、野生の思考を特に取り上げる理由は、知性が自然に対抗し、それを解析しそこから離脱する原動力であるとしているのならば、この作こそレヴィストロースの思索活動の基点であったと言えるからである。

若干ながら個人事情を、
小筆は直近の投稿において裸の男フィナーレを取り上げている(2020年3月9日から6月10日まで、およそ20回)。最終章の最終の行が>c’est-à-dire rien、that means nothing<言ってみればそれは無。虚無感が響くこの句を挙げて神話学紹介の最終とした。その後(6月半ば以降)に野生の思考を再読した。初めてこれを手にしたのは3年ほどの前である。つまみ読み後の印象は「理解できなかった」。理由として民族誌調の記述が多く、アフリカ何々族、大洋の孤族何々などと紹介されてもなじみが無かったからと勝手に思った。しかし振り返り彼が用いる語、一つ一つの「真」の意味に理解に追いつかなかったからだと考えを改めた。3年をかけて神話学を読み込み、幾分かはレヴィストロースの思考に近づいた筈だから、今はそれなりに、わずかばかりだけれど読めるのかもしれない。

あわせてサイバー空間にて先達各氏の論評、書評なども探した。しかしまともに紹介している文叢は見つけられなかった。断片的、聞きかじり読み盗み程度の書評しか探せなかった(bricolageなる語への執着はその一例)。私なりの理解をブログ(続いてホームサイト)にて紹介し、訪問者様各位の批判を受けるとした理由でもある。
取り上げるのは第1章「具体科学」 第2章「トーテム的分類の論理」であります。全巻9章となりますが、これだけに限定した理由は1,2章が人の思索の様態、進展の分析としての一貫性が読めるためです。以降はその分析の応用編、民族誌記述はより頻繁に交じるから、人類学指向の方向け。さらに全章の紹介に立ち入ったら、小筆の能力の貧弱様を超えてしまう。始まっても終わらない悲惨に踏みいるはたやすく予想できる。なお最終章の「歴史と弁証法」は過去「サルトル批判」としてブログ、ホームサイトに投稿している(2019年5月30日投稿、ホームサイトWWW.tribesman.asiaにアクセスしてホームページから2019年頁に飛ぶ)、時間に余裕のある方は訪問してください。

LaPenseeSauvage、ポケット版、表紙図柄の三色スミレはパンジー、仏語でpenseeとなる。野生種のスミレと意味を掛け合わせている。

人が外界を理解する様、それは何か。
外界とは自然、森羅万象、宇宙である。人が生まれたときに宇宙は存在していた。死ぬ時にも宇宙はそこにあるだろう(レヴィストロースの名言、「宇宙が生まれたときに人はいなかった、終わるときに彼は存在しない」の逆もじり、お粗末を許せ)。サルトルを借りると「人は宇宙を思考する運命に呪われている」。
思考とは言葉であり、言葉とは外界理解の出発である。
レヴィストロースは思考と言葉の相関をソシュール言語学にヒントを得たとされる。小筆は幾度かブログ(およびホームサイト)において、ソシュールの意味論と構造主義の関連を「イヌ」の例を挙げて語っている。「野生の思考」を正しく読むにこの理解は必須なので、改めて述べる。
人がイヌを見てイヌと指さす。実体のイヌはsignifie(意味される)、言葉のイヌがsifnifiant(意味する)。言葉を通じて意味する意味される、この相互の関連を「signe意味」とソシュール言語学が教える。言語学としては誠に正しい。

バルザックの一文を冒頭にかかげる。訳を試みる;人には野蛮人しかいない。農民、それに田舎の人々は己に関する何事も学ぼうとする。彼らが思考を通じて事実に気付くのなら、あなた方よ物事を全体として見つめられたと言ってやろう。

レヴィストロースは哲学者にしてかつ人類学者なのでより深い部分から考え直した。イヌを見て人はイヌと言う、なぜそんな芸当が可能なのか。
人がイヌの思想を頭に持つ。概ね四つ足、しっぽ、鼻面のワンワン吠えがイヌの思想である。その思想に限りなく接近した個体が前を過ぎる。人は思想と実体を比較し「あの個体はイヌ思想に組み込める」さらには「ネコでもブタでもない」決めつけてイヌと叫んだ。構造主義としての意味論です。
続く
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ハムレットの1,2,3をホームサイトに投稿

2020年06月12日 | 小説
6月8,9,10にわけてGooBlogに投稿した「レヴィストロースとハムレット」を部族民通信ホームサイト(WWW.tribesman.asia)に投稿した報告です。校正、訂正以外に加筆などありませんが、悲しき熱帯の「世界は人無しで始まった....」を挿入しています。よろしくご訪問を。

悲しき熱帯ポケット版495頁 世界は....は下拡大写真で読める。
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レヴィストロースとハムレット3 存在証明は無 (最終)

2020年06月10日 | 小説
裸の男、最終章の最後の文節となります。長いのですが一気に;

>mais en meme temps, realite du non-etre dont l’intuition accompagne indissolubement l’autre puisqu’il incombe a l’homme de vivre et lutter, penser et croire, garder surtout courage, sans que jamais quitte la certitude adverse, qu’il n’etais pas present autrefois sur la terre et qu’il ne le sera pas toujours, et qu’avec sa disparition ineluctable de la surface d’une planete elle aussi vouee a la mort, ses labeurs, ses peines, ses joies, ses espoirs et ses oeuvres deviendrons comme s’ils n’avaient pas existe, nulle conscience n’etant plus la pour preserver fut-ce le souvenir de ces mouvements ephemeres sauf, par quelque traits vite effaces d’un monde au visage desormais impassible, …(下に続く)

100歳を迎えたレヴィストロース(2009年に撮影、遺影)、お孫さんらと。

訳を試みる前にいくつかの用法を;
réalité du non-etreにはもう一つのrealite de l’etreともに冠詞がつきません。思弁的名詞には冠詞をつけない慣用です(on omet l’article parfois devant des noms exprimant une expression générale de l’esprit. 文法書Le bon usageより)。冠詞を省きrealiteを強調する効果をレヴィストロースは狙っている。
Il incombeの動詞incomberは三人称のみ用いるから、ilの主語はない。
qu’il n’était pas…とqueが続く、このqueは前のsans queと連携しかつpuisque(なぜなら)の省略形と解釈する(苦しい解釈ながら、この文脈のみ意味が通じるので)。またsans queの後には虚辞のneをつける場合と省く場合があり、省く言い回しが主流。本訳は虚辞があるかに試みる。

訳:次に存在しない現実を語ろう。それはもう一方(存在する現実)に、たとえそちら側の確実性が視界の果てに消え去らないとしても、人(存在しない現実に生きる)は生き、戦い、考え、信じ、勇気を保持したいのだから、直感としてもう一方に寄り添うのだ。人はかつて存在しなかったし、未来に消える。ある一つの天体からその大地がなくなってしまう時には、彼にしても死すべき運命だから、労働も、苦しみ、楽しみ、希望、仕事の成果もあたかもそんなものは存在しなかったと消え果てる。その時はもはや、カゲロウの如きそれら活動の記憶らしきをとどめるいかなる意識も無い。人の足跡はそこに残るまもなくすぐに消し去られる。ただ以前(生存していた時)には覚知できなかったモノ….

>…le constat abroge qu’ils eurent lieu c’est-a-dire rien.(裸の男621頁、最終行 )
残るのはかつて活動があったという「廃止公正証書」、すなわち「無」が残る。


存在しない現実とは人が持つ思想であり、それは存在する現実を確認し再構成しているだけ。存在する現実とは宇宙であり、存在し続けるが、人はいずれ死に果てる。人がかつてそこに住み活動していた証明は「rien無」である。了
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レヴィストロースとハムレット 2

2020年06月09日 | 小説
>Un effort mental consubstantial a son histoire et qui ne cessera qu’avec son effacement de la scene de l’univers , lui impose d’assumer les deux evidences contradictoires dont le heurt met sa pensée en branle et , pour neutralizer leur opposition, engendre une serie illimitee d’autre distinction binaires…<

突然出てきたun effort mental,一体何だ !
直訳すればある一つの精神的努力。しかしこれでは理解不能。mentalをqui a rapport aux fonctions intellectuelles(Robert)思考的とする。すると「一つの思考努力」となる。少しは分かり易くなった。これがその歴史と同質であるのだ、この句をさらに理解するに前節(未引用)のhumanite人間社会を引っ張り出す。前節では人間社会が自然(nature)の一部として発展もすると説かれていた。この考えを進めて、humanite=histoireとして、人類歴史のなかで数多くの人々の知性活動のおかげで科学、技術が発展していった。数多くの努力の様を怜悧に、あるいは一緒くたにしてun effort mentalと規定した(metonymie換喩として形容した)。

訳;(人類の)歴史とは思考努力の賜であり、それは宇宙歴史の一シーンでもある。しかしいずれかき消される。一の思索努力が人間歴史を形成している、それは宇宙に対して必ず2の対立する状況を引き受けさせる。対立の衝撃により歴史思想は揺れ動き、この対立を中和させるため2元分別の事象が際限なく発生することになる。

写真:レヴィストロースの部屋(コレージュドフランス内)雑誌L'Hommeから。

宇宙に対立を引き受けさせるとは書き方であって、人の思考活動(effort mental)が森羅万象を2元で見ているから。この様態とは思想と形式の対峙であり、これをして構造主義となす、レヴィストロースの主張そのものです。そして彼の歴史観は「弁証法的理性批判」(サルトルへの反論、野生の思考の最終章)に詳しい。部族民通信ホームサイトでは7月31日に「弁証法的….」の表題で取り上げている。ここでサルトルの歴史観、すなわちマルクス歴史弁証法を批判して「歴史はモノではない、思想である」と述べている。それと同一線上にあると理解すれば納得がいく。
この一節でまさに彼は、構造主義による人類史観を要約した。

>…sans jamais resoudre cette antinomie premiere , ne font, a des echelles de plus en plus reduites , que la reproduire et la perpetuer : realite de l’etre que l’homme eprouve au plus profond de lui-meme comme seule capable de donner la raison et sens a ses gestes quotidiens, a sa vie morale et sentimentale, a ses choix politiques a son angagement dans le monde social et naturel, a ses conquetes scientifiques ; mais en meme temps , realite de non etre....<

引用中の fontは動詞faire行う、成すの三人称複数形。主語は前引用のr les deux evidences contradictoiresである。


訳;そもそもの矛盾(前の引用の2の対立状況)を解決せずに、スケールを縮小しながらも(対立を)再生産し、恒久的に育てる。すなわちそれが存在する(to beおよびl’etre)の実体であり、この実体は存在の奥底から、唯一の可能者として、日常の仕草や精神と感情に、また政治判断、社会野自然への参画、科学上の成果などに理由と意味づけをしている。
そしてnot to be, le non etreの世界とは....

注:to beの世界の実体。行動、選択など見知できる形式を上げ、それらに意味づけする能力がdeux evidences contradictoires 2の対立状況に潜むとした。

この語の意味するところを理解するに、もう一度構造主義の原点に戻る。
ソシュール言語学の意味論から着想を得たと膾炙されている。ソシュールは意味論にて「意味する」「意味される」の2元論を展開した。イヌを例に取ると、言葉のイヌと実体のイヌがあり、言葉のイヌは「意味する」、実体のイヌが「意味される」となる。
言語学ではこの2分で十分であるが、レヴィストロースはこれを哲学として「形式」と「思想」に分けた。
イヌの思想とは人が頭に抱くイヌで、個体としてのイヌを形式のイヌとする。イヌに限らずネコにも思想があり、社会、自由、信仰などにも形式と思想が対峙している。この対峙が構造主義である。イヌの思想を個体のイヌに紐付けする作業は思考であり、先験とカントが語る(2019年8月31日にホームサイトに自ら語る構造主義にて解説した)
続く
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