(2020年4月10日)
始めに。本投稿は部族民通信ホームサイト(WWW.tribesman.asia)に掲載されています。Blogの紙面では全文(nousの用法、Piaget批判)掲載が難しいので本日、一部を投稿します。追って全文をBlogに投稿します。おそらく1~6ほどになるかと。
レヴィストロース神話学第4巻「裸の男L’homme nu」の終りはFinale「フィナーレ終楽章」となる。第一巻「生と料理」において前文は楽曲に基づく命名「Ouverture序曲」とされ命名での対比を覚えるが、内容においても終は初と対応している。「序曲」では神話の形式、表現の特徴を解説している。筋立ての「3分節論」は音楽、言語とも共通する形式を踏む。人の表現の普遍性が神話にも認められる。
神話の汎人類性を伝えている訳で、これがレヴィストロース神話学の根底でもある。本4巻では新大陸に限定されるが、世界中の神話には「人が共有する精神」、民族部族の風習、歴史を乗り越える「神話の自律性」があると全4巻で主張している。
本書フィナーレの章題頁、Hugoのアイスランドのハン前文が引用されている。下は拡大
「終楽章」が歌い上げる曲想とは;
神話学4巻締めくくりとして著者が渾身にまとめた60頁余(本書559~621頁)。
理論「構造神話学」と思想「構造主義」の文脈がその全頁を埋める。序曲に耳を傾け途中2000頁余をすっとばし、終楽章に立ち寄り主題メロディ変容の様と通奏低音の響きを耳にしたら、神話学全4巻の神髄を「キセル乗車」的に理解してしまう裏ワザもある。
(若い方はこの通行技法を知らない。キセルは火受けと吸い口が金(カネ)、途中は竹で出来ている。乗り込み一区間と降車一区間だけの切符(定期券)で払う乗車法式は、途中の長距離をタダで乗る裏技である。そして違法、窃盗罪である。昨今は首都はパスモにスイカ、大阪イコカ、愛知マンナカと聞く。カードは乗車駅情報を記録しているから不可能。)
Finale自体に目次がない、項目を付ける;
人称nousについての考察
ピアジェ(発達心理学)との論争
自ら語る構造主義、神話を構造主義で分析する
新大陸の神話伝播と民族移動の逆行性
神話伝播における逆転現象(inversement)
幾つかの批判への反論
批判の例:1巻で潤沢に用意されていた図式が、以降減少している
哲学からの批判―など
悲しき熱帯の「夕日考」自らの解説
神話の自律性
全4巻を閉じるにあたっての感慨
なお;
楽曲においてのフィナーレは簡潔を旨とする。
最後が長いと聴衆は疲れる。それ故になおさら、レヴィストロースは、読者意欲の減退など意に介せず、一気に書き上げたのか、文脈重なりのなめらかさと相変わらずの回りくどさ(修辞と書くべきだった)、行と句の連りの華麗、分節流れと筋の繋がりの平準が、含蓄の深みすら気付かせない巧妙文体で、その主張を密かながらに際だたせる。
行間に醸し出される文言の謎の説く、絶対の解を探す呻吟、文意を掴めぬ四苦八苦。取りかかるは60頁、不解とつまずき未来を思い浮かべて、気おくれが生ずる。
これら(上記)を一つずつ取り上げていこうと思う。「自ら語る構造主義」「神話伝播と民族移動」および「悲しき熱帯夕日考」の3項については過去Blog投稿、ホームサイト掲載しているので見直した上で簡単に紹介するつもりである。
さっそく始める。
人称「nous私達」についての考察;
Au long de ces pages, le nous dont l’auteur n’a pas voulu se departir n’etait pas seulement <<de modestie>>(本書559頁、以下同じ)。これら頁を通して作者は「nous私達」の用法を捨て去るなどは望まなかったのだ。これを遣う意志を保っていた事は慎みのみではない。
注:nous遣いを排除するを望まなかった。こんな言い回しの裏には、それを排除し続けた実際がある。「nous私達」を用いるが適切かと疑う文脈であるから、排除を望まなかったのだが、結局はnousを排除していた。
しかし、とある条件でnousを排除しなかった。こう読みたい。
望まなかったn’a pas vouluは複合過去で一回のみの行為。しかしこの(長き4巻)全頁を通して=au long de ces pagesの意味合いには、それを反復していた事実があった筈である。ならば半過去(繰り返す過去の行為)ne voulait pasとするのが正しい訳だが、「とある条件」では望まなかった(nousを用いた)としている。そのとある条件が現在にも関連を持つ(複合過去の用法)、それ故に複合過去を用いたー複合過去の用法の一つには現在との繋がりがある。その用法の極端な例と理解した。
nousとするとある条件に小筆は思い当たる節がある。哲学の絡みである。己をle philosophe(哲学者)とは表現しなかった反照とも言える。その辺りは後述に。
某氏のある日の脳みそ透視画像。構造主義で思考がカオス化している。
始めに。本投稿は部族民通信ホームサイト(WWW.tribesman.asia)に掲載されています。Blogの紙面では全文(nousの用法、Piaget批判)掲載が難しいので本日、一部を投稿します。追って全文をBlogに投稿します。おそらく1~6ほどになるかと。
レヴィストロース神話学第4巻「裸の男L’homme nu」の終りはFinale「フィナーレ終楽章」となる。第一巻「生と料理」において前文は楽曲に基づく命名「Ouverture序曲」とされ命名での対比を覚えるが、内容においても終は初と対応している。「序曲」では神話の形式、表現の特徴を解説している。筋立ての「3分節論」は音楽、言語とも共通する形式を踏む。人の表現の普遍性が神話にも認められる。
神話の汎人類性を伝えている訳で、これがレヴィストロース神話学の根底でもある。本4巻では新大陸に限定されるが、世界中の神話には「人が共有する精神」、民族部族の風習、歴史を乗り越える「神話の自律性」があると全4巻で主張している。
本書フィナーレの章題頁、Hugoのアイスランドのハン前文が引用されている。下は拡大
「終楽章」が歌い上げる曲想とは;
神話学4巻締めくくりとして著者が渾身にまとめた60頁余(本書559~621頁)。
理論「構造神話学」と思想「構造主義」の文脈がその全頁を埋める。序曲に耳を傾け途中2000頁余をすっとばし、終楽章に立ち寄り主題メロディ変容の様と通奏低音の響きを耳にしたら、神話学全4巻の神髄を「キセル乗車」的に理解してしまう裏ワザもある。
(若い方はこの通行技法を知らない。キセルは火受けと吸い口が金(カネ)、途中は竹で出来ている。乗り込み一区間と降車一区間だけの切符(定期券)で払う乗車法式は、途中の長距離をタダで乗る裏技である。そして違法、窃盗罪である。昨今は首都はパスモにスイカ、大阪イコカ、愛知マンナカと聞く。カードは乗車駅情報を記録しているから不可能。)
Finale自体に目次がない、項目を付ける;
人称nousについての考察
ピアジェ(発達心理学)との論争
自ら語る構造主義、神話を構造主義で分析する
新大陸の神話伝播と民族移動の逆行性
神話伝播における逆転現象(inversement)
幾つかの批判への反論
批判の例:1巻で潤沢に用意されていた図式が、以降減少している
哲学からの批判―など
悲しき熱帯の「夕日考」自らの解説
神話の自律性
全4巻を閉じるにあたっての感慨
なお;
楽曲においてのフィナーレは簡潔を旨とする。
最後が長いと聴衆は疲れる。それ故になおさら、レヴィストロースは、読者意欲の減退など意に介せず、一気に書き上げたのか、文脈重なりのなめらかさと相変わらずの回りくどさ(修辞と書くべきだった)、行と句の連りの華麗、分節流れと筋の繋がりの平準が、含蓄の深みすら気付かせない巧妙文体で、その主張を密かながらに際だたせる。
行間に醸し出される文言の謎の説く、絶対の解を探す呻吟、文意を掴めぬ四苦八苦。取りかかるは60頁、不解とつまずき未来を思い浮かべて、気おくれが生ずる。
これら(上記)を一つずつ取り上げていこうと思う。「自ら語る構造主義」「神話伝播と民族移動」および「悲しき熱帯夕日考」の3項については過去Blog投稿、ホームサイト掲載しているので見直した上で簡単に紹介するつもりである。
さっそく始める。
人称「nous私達」についての考察;
Au long de ces pages, le nous dont l’auteur n’a pas voulu se departir n’etait pas seulement <<de modestie>>(本書559頁、以下同じ)。これら頁を通して作者は「nous私達」の用法を捨て去るなどは望まなかったのだ。これを遣う意志を保っていた事は慎みのみではない。
注:nous遣いを排除するを望まなかった。こんな言い回しの裏には、それを排除し続けた実際がある。「nous私達」を用いるが適切かと疑う文脈であるから、排除を望まなかったのだが、結局はnousを排除していた。
しかし、とある条件でnousを排除しなかった。こう読みたい。
望まなかったn’a pas vouluは複合過去で一回のみの行為。しかしこの(長き4巻)全頁を通して=au long de ces pagesの意味合いには、それを反復していた事実があった筈である。ならば半過去(繰り返す過去の行為)ne voulait pasとするのが正しい訳だが、「とある条件」では望まなかった(nousを用いた)としている。そのとある条件が現在にも関連を持つ(複合過去の用法)、それ故に複合過去を用いたー複合過去の用法の一つには現在との繋がりがある。その用法の極端な例と理解した。
nousとするとある条件に小筆は思い当たる節がある。哲学の絡みである。己をle philosophe(哲学者)とは表現しなかった反照とも言える。その辺りは後述に。
某氏のある日の脳みそ透視画像。構造主義で思考がカオス化している。