(2025年8月19日、投稿は20世紀初頭のある事件を綴る。著者の聴きまとめによるので一次資料はネットなどに見あたらないが、部族民の創作は「殆んど」交じらない。場所はブラジルマトグロッソ)
キリスト宣教団「サレヂオ会」は永くブラジル奥地に住む先住民に布教を続けていた。マトグロッソ(中央高地)の雄と目されるボロロ族には「この族民が改宗になったら、高地全域のキリスト教化が臨める」として特に力を入れた。しかし成果は上がらなかった。キリスト教の奇蹟マリアの懐胎、イエスの復活、更には三位一体などを教えても、族民はありがたみなど一向に示さない。
こんなエピソードが教団内に伝わる;族民は午後遅くに沐浴をとる、これを日課としている。宣教師エンリケ・ロドリーゴは知恵者として知られる。その習慣を聞いて「イイコト思いついた」。彼の計画は沐浴の場で「洗礼を実施する」。翌日の午後、洗礼道具の桶、柄杓、改宗者に与えるロザリオ100環を担いでケサラ川に向かった。
川の流れでは人々が腰まで浸かり、時には深みに入って首だけ出して沐浴を楽しんでいた。川原では素っ裸の子どもたちが水掛け走っこで遊んでいた。これがいつもの光景。「しめしめ、満員じゃ、全員に洗礼を施し、キリスト者とするぞ」川の流れに突撃した。ヒャー、キャー、フギャーは甲高い女悲鳴。エンリケが改めて見渡すと、周囲、川の中は女だらけ。「まずった、女はメじゃない。男、それも成人の働き盛りを改宗させるつもりだった」「それでも良いか」思い直して「汝、女よ洗礼を授けるぞ、ほれ」と腕を取り引き寄せた。洗礼の手順は被技者の背を抱いて、川に浸ける。腕を引き寄せるはその第一歩。しかしこの行動がとてつもない拒否反応を誘った。「キィィグ~」女は失神してしまった。ボロロ女には夫以外の男に触れられるなどもってのほかなのだ。
時ならぬ悲鳴を聞きつけた男どもが男屋から跳び出した。流れに女に迫るエンリケ見つけ、指差し罵りにも聞こえる怒り声。拳を振り上げている。通訳のバイトゴゴが河岸の男たちに混じっている。ポルトガル語で「手を離し川からすぐに出たほうが良い」と一言。川原に戻ったエンリケ、礼拝服も頭も水濡れ。それでも男たちは罵り小突き続けた。
木陰でエンリケとバイトゴゴは話し合った。「なぜ、男たちはあれほどに怒ったのか」「あの時間は女の水浴び。男は入ってはならない」女風呂に男が入ってくるのと同じだとエンリケは納得する。彼は日本を任地とする同僚から「男湯女湯が厳格に守られている。うっかり女湯に入って悲鳴をあげられた」との顛末を思い出した。「ボロロと日本人は似通うのかね」
「あのでかい家から男たちが跳び出したんだが、あれは一体何だ」
「男の家、baitemannageです」
「昼間にあれほどの人数の男が内部にいた、何をしているのか」
バイトゴゴは眉を幾分潜ませた。話したくないとの気分が見て取れた。エンリケは「すべてを話すとの約束だったよね」うまく進んだら契約金100エスクードに上乗せする話はとどめたが。バイトゴゴにしても、そのあたりは気にしている。そこでゆっくりと重重しく、しかし熱意が感じとれる口調、淀みなく話し始めた。
「男屋とは工房、クラブ、寝室そして休み場、結局、寺院である。祭儀の踊り手は訓練に余念がない。女性は入ってこられないから、一定の祭りはこの場で執り行われる。そして「rhombe」の作成と(ぶん回しての)演奏」(このあたりはレヴィストロースの解説に酷似している)
「我らボロロ男の男屋での仕事は、本来そこに求められる仕事の様との相互性が、認められない俗性の混入がどうしても紛れ込んでしまう。結果、その雑多ぶりは、西欧人には醜穢と思えてしまうかもしれない。でもボロロ族ほど敬虔な民族は探せず、我らほど信仰体系の形而上性をここまで念入りに仕組んだ民族はブラジル中探しても他にいない...」(同上)

マトグロッソの玄関口クイアバ、レヴィストロースが調査団を整えるために訪問した1935年は馬喰、馬子、仲買だけの寒村だった

90年後、近代都市に変貌した(写真はマトグロッソ観光協会から)
バイトゴゴの説明はさらに熱を帯びる。族民の信仰に占める男屋の位置。半族と支族に分断される社会に男屋が君臨する価値。もし男屋をボロロ族が失えばボロロとしての独自性アイデンティティを失うとまで言い切った。
エンリケ、始めはフムと聞いていたが、「ボロロの独自性」で目を輝かせた。口には出さず考えついた「男屋を破壊すれば全てが解決するのだ」
ボロロ族、夫婦別姓に泣く1 了 (8月19日)