蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 2

2024年08月25日 | 小説
(2024年8月25日)この解釈(悟性の不能、8月23日投稿)を含んで次節の一文を読む; « toute l 'entreprise de gagner à la conscience ce qui est en soi par la médiation de la connaissance est dans son concept un contre-sens, et qu’il y a entre la connaissance et l'absolu une ligne de démarcation très nette. » (同)瞑想し自身が本来持つ性状を掴む悟性の、あらゆる、企ては、認識の概念とは反対方向を目指す。認識と絶対の間には明瞭な識別線が引かれるのだから。
部族民:悟性(conscience)が登場する。後文で悟性の機能は弁証法と絡めて、かくかく説明される。認識(connaissance)は真理に向かうべく現象を野に映す。それを悟性が検査する、そして悟性は認識が抱いている概念とは「反対contre-sens」に向かう。故に真理にはたどり着かない。前文の「外部を理解せむとする悟性ながら、それは不能」に対応する。認識にはすでに(現象に関わる時点で)、絶対との明瞭な境界が存在する。なぜ境界線が明瞭なのか。絶対はモノが所有する、モノは認識外部に存在する。認識の野に動めくモノらしきは、絶対を反映するだけの現象でしかないから、この境界線は絶対と現象の差、ここが明瞭ーと読みたい。
蛇足; ヘーゲル全集(岩波、金子訳)では絶対を「絶対者」としている。この語は神を表す。しかし西洋哲学は思考から神を引き剥がすのを目的とするから(デカルトパスカルしかり、カントも)、ヘーゲルに「神」が登場するのは違和を感じる。神であれば « Absolu » 冠詞を被せず大文字で始まるを常とするから(仏語)、表現の上でも神はありえない。なおl’absolu絶対は本書を通じて、実質essence、真理véritéと併用して用いられる。存在するモノにしかそれら絶対は付与されない、この用語法は明確です。

ヒトの精神の略図(既出)


« si la crainte de tomber dans l’erreur introduit une méfiance dans la science, science qui sans ces scrupules se met d'elle-même à l'œuvre et connait effectivement, on ne voit pas pourquoi, inversement, on ne doit pas introduire une méfiance à l’égard de cette méfiance, pourquoi on ne doit pas craindre que cette crainte de se tromper ne soit déjà l’erreur même.
En fait, cette crainte présuppose quelque chose, elle présuppose même beaucoup comme vérité, et elle fait reposer ses scrupules et ses déductions sur cette base qu'il faudrait d'abord elle-même examiner pour savoir si elle est la vérité. » (66頁)
訳:誤謬に嵌る怖れは理性scienceに不信を芽生えさせる。しかしながら理性は平然と、己をして活動に入り、しっかりとそれを理解している。ヒト(理性の言い換え)はなぜこの怖れに気づかないのか。これと反対を考えよう、不信があったとしてもそれを理由として、不信を芽生えさせてはならない。間違いを犯してしまう怖れ、それを感じているその時が、すでに誤りに陥っている訳だが、なぜその事態をヒトは怖れないのか。
この怖れは、何かを前提とする、それは多くを真実としてしまう事だ。それ故、躊躇いもこじつけも、一旦、理性の土台に置こう。そこで、こうした怖れの、それ自体が真理であるかを検証するのだ。
« Elle présuppose précisément des représentations de la connaissance comme d'un instrument et d 'tin milieu, elle présuppose aussi une différence entre nous-même et cette connaissance ; surtout, elle présuppose que l’absolu se trouve d’un côté, et elle présuppose que la connaissance se trouvant d’un autre côté, pour soi et séparée de l 'absolu, est pourtant quelque chose de réel. En d’autres termes, elle présuppose que la connaissance, laquelle étant en dehors de l'absolu, est certainement aussi en dehors de la vérité, est pourtant encore véridique, admission par laquelle ce qui se nomme crainte de l'erreur se fait plutôt soi-même connaître comme crainte de la vérité » (67頁)
怖れは明確に、認識が時に道具(動き)として時に場として(影)の現象表現を採るのを前提にしている。我々自身(理性と理解)と認識との差異を予測している。怖れは、絶対はこちらに位置し、認識はあちら、覚自である故に絶対と離されていると知るし、「それなり」に実質である。別の説明と採ろう、怖れは、認識とは、絶対の外側にあるから、真理の外側であると知る。それでも認識はなおvéridique真実(らしき)である。それをして、誤りの怖れとは真理の怖れと分かる。
部族民:鍵語は « crainte» 怖れ。これは個人の感情「憂慮」ではない。認識に感情が入り込む文脈は考えられない。あり得る間違い、陥穽、リスクと考えたい。動詞devoir (活用でdoit)は「なすべき」ではなく「あり得る」とする。「真実véridique」の正確な意味は「dit vérité真実とされる 、辞書Robertなど」なので本当の真実 vérité とは異なる。
ヒトの精神活動、真理追求に潜むその不能を、精神の仕組から掘り起こしている。活動の根底には理性(science)が控える。しかし理性とて真理ではないからモノの真理にたどり着かない。かく、認識の仕組は不完全を抱える。我々(=理性)はそれに気づいていないから、思い違いが発生するなどとの用心を心得ていない。最終行の「真理の怖れcrainte de la vérité」は読み替えて、真理に「たどり着いたと錯覚する陥穽」となる。
引用文の伝えかけの真理追求に伴う怖れ(陥穽、起こり得る間違い)をまとめる:
1誤りに陥る 2理性はそれに気づかない 3誤りにはまると気付いた理性はすでに誤り 4多くを真理としてしまう 5戸惑いこじつけを休ませてこの前提(怖れ)は真実かを検証しなければ(でもしない) 6認識は道具でもあり現象の舞台でもある(前提) 7理性と認識に乖離 8認識は絶対の外 9現象を検査しても真理にたどり着かない 10真理にたどり着いたと勘違い、これも陥穽。


精神神動は「絶対」に届かないを10にまとめたが、次の文がこの10を言い表す « Cette conclusion résulte du fait que l'absolu seul est vrai ou que le vrai seul est absolu » (67頁)結論は 絶対は真理であり、真理は絶対である。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 2 了 (8月25日)
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 1

2024年08月23日 | 小説
La Phénoménologie de l’Esprit Hegel Traduction Jean Hyppolite
INTRODUCTION 導入の章
(2024年8月23日)本章のあらまし:理性(science)が精神の基盤となる。悟性 (conscience) は理解活動を担い、知(savoir)が持ち込む対象(objet)を検証する。両者の一連活動は「真理に近づく」精神作用、その弁証法が現象となって展開する舞台は認識(conscience)の野。
対象、検査など認識活動は現象の影として発現する。しかしこの理解過程には深刻な陥穽が潜む。外部から取り入れるモノ、対象は現象と化した途端、本来(持っていたはず)の真理を失う。故に悟性が検証しようと、真理には絶対に近づけない。悟性が弁証法の工程(expérience)経ながら、あらゆる外観を脱ぎ捨て、いつに日にか真理を捉えるであろうと本章は締めくくられる。外観とはen-soi律自と覚自pour-soiの自我の属性、本来の自身に戻るためにはこれらを捨てる。絶対を掴む過程である。

本書の表表紙


原典について:本書はAubier社モンテーニュ刊(1939年パリ)。Hyppolite著は他に « Genèse et structure de la Phénoménologie de l’esprit » 精神現象学の生成と構造が刊行されている(ガリマール社1957年刊)。似ている書題であるが、刊行された経緯は、原本が「難しすぎる」の声が上がり、Hyppolite自らが解説を書きいれた別の本です(岩波刊、市倉訳)。ヘーゲル全集(金子訳)には本書も掲載されるがドイツ語原本からの訳です。本稿の元本の(Genèse…の付かない仏語版)Hyppolite書は日本に紹介されていない。導入章ではヘーゲル弁証法の(初期の)思想、真髄が説明されている。
本稿で引用する文は章の全体(12頁)の五分の1ほど。ヘーゲル思考の展開に沿い文を選択したつもりですが、説明至らない部分もあるかと反省します。皆様にヘーゲルの思想が伝われば幸いです。(部族民蕃神)


1 概論、真理への道のり、陥穽と精神の不能

章頭の一文;
« Il est naturel de supposer qu'avant d 'affronter en philosophie la chose même, c'est-à-dire la connaissance effectivement réelle de ce qui est en vérité, on doit préalablement s 'entendre sur la connaissance qu’on considère comme l 'instrument à l 'aide duquel on s'empare de l 'absolu ou comme le moyen grâce auquel on l'aperçoit * »
「モノそのもの」を哲学観点から理解する、これは真理の追求に欠かせない。その前にある理論の取りまとめ準備が必要である。それは認識の意味の確定、真理に対して「実効的réelle」とはいかなる状況かを確定する。認識は絶対を掴み取る道具である、あるいはそれを知覚する方法である。この2点を前提として決めておきたい。
Hyppoliteの脚注:*Ces deux hypothèses paraissent correspondre, l’une à un entendement actif, autre à une sensibilité passive. 2の仮説は相応するようだ。1は理解する力の能動(認識を道具として)、2は感覚の受動(精神の現象として)―としている。
部族民の感想:ヘーゲルは2の思想を提示した。1は脚注にある通り。現象活動としての2通りの解析手法。現象の2の様態(道具と場)には、本章を通し幾度か、立ち戻っている。もう一方は認識の意味、「実際的réelle」connaissance effectivement réelleとはどのような状態かを追う。実質(絶対、真理とも)であるモノに対して非実質の精神が、現象を通していかに真理に接近するのか。認識が実際(実質)に向かう道のりcheminは、現象作用のからくりで真理に到達しない。現象として外部を理解する悟性の不能を主題としている。

« Une telle préoccupation semble justifiée, en partie, parce qu'il pourrait y avoir diverses espèces de connaissances, et que dans le nombre l'une pourrait être mieux adaptée que l 'autre pour atteindre ce but final, justifiée donc aussi par la possibilité d 'un choix erroné parmi elles, en partie aussi parce que la connaissance étant une faculté d 'une espèce et d 'une portée déterminée, sans détermination plus précise de sa nature et de ses limites, on peut rencontrer les nuées de l 'erreur au lieu d 'atteindre le ciel de la vérité. » ( 65頁 )
こうした前準備は正当化されよう。なぜなら多様な認識が(人々に)取り沙汰されている。しかしその中の一つのみが、他を凌いで、最終目的に到達できる。選択に誤りを犯してしまう事態は避けねばならぬ。さらに認識は活動域、到達範囲に限界を帯びるのだから、その能力を特定しないと誤りに陥いる。「真実の天に達する途上で偽りの雲」に紛れることになる。
部族民:認識Connaissanceはヒト精神Espritに宿る。思考であるからに、真理(に到達できる)と見なすは誤り。諦めるが妥当であろう。しかしその能力と限界をあからさまにして最終目的、真理の天空に到達できるとヘーゲルは(本章の最後行で)語る。精神に取り込んだモノは実際のモノから遊離しているけれど、幾度もの検査と経験(ヘーゲル弁証法)を通して絶対に到達する。本書の主題である。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 1 了 (8月23日)
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ヘーゲル精神現象学 仏語版 解説投稿 予告 下

2024年08月14日 | 小説
(2024年8月14日)表題についてのTextは用意していません。動画配信するさいに資料をパワーポイントに落とします。そのスライドを4葉ここに掲載します。









ヘーゲル予告の了

Youtube動画は今月末を予定します。
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ヘーゲル精神現象学 仏語版 解説投稿 予告 上

2024年08月12日 | 小説
(2024年8月12日)本ブログに接近していただく皆様に深く感謝いたすとともに、残暑お見舞い申し上げます(ペコリの部族民通信一同、画像なし)。

ヘーゲルの「精神現象学」の仏語書 La phénoménologie de l’Esprit (全2巻)、その導入部Introduction紹介に挑戦します。哲学者にして教育家Hyppolite(Jean、1907~1968年フランス、高等師範学校長、フランス学院哲学教授など歴任)訳を原本に用います(出版は1939年、写真)。本書でヘーゲルはヒトが「絶対知=Savoir absolu」(原本が仏語なので用語は以下、仏語となります。なお部族民渡来部はドイツ語を知らない)を獲得する過程を精神作用として追求した。精神(頭脳)に舞台を置いたその活動の有り様を「現象」として書き綴った作品となります。
2巻の全ページ700超の紹介は不可能ながら、導入Introductionはページ数にして12、コレは可能かと思い込み、数回に分けて動画投稿する予定です。
ここでヘーゲルなど全くの門外漢の部族民(蕃神ハカミ)が、無謀にも、解説を投稿するに至る裏を―。前回投稿は「仏語哲学書の読み方」、鍵語を色分けして、語義を確定して解釈にたどり着く―だった(蕃神はSNS露出を避けるのでYoutubeでの解説は渡来部)。友人から「レヴィストロースはやはり人類学者、純粋な(形而上学の)哲学ではない。正統哲学書に鍵語色分けの手法をガチ展開してくれ」半ば脅迫がメールの依頼で寄せられた。思い出したのが蔵書のヘーゲル本。さらに頃は夏、猛暑に外出する機会から疎外される我が身ならば、本でも読もうかと投稿に進んだ次第です。

最終文節に結論(おそらく本書全体の結語)がまとまっているので、まずはこの部を以下に引用;
C'est pourquoi les moments du tout sont des figures de la conscience. En se poussant vers son existence vraie, la conscience atteindra un point où elle se libérera de l’apparence, l’apparence d'être entachée de quelque chose d'étranger qui est seulement pour elle et comme un autre; elle atteindra ainsi le point où le phénomène devient égal à l'essence, où, en conséquence, la présentation de l'expérience coïncide avec la science authentique de l'esprit; finalement, quand la conscience saisira cette essence qui lui est propre, elle désignera la nature du savoir absolu lui-même. (page77)

(前文に精神作用の節目(Moment)には悟性(Conscience)が湧き上がる現象)について、なぜその様になるのか。それら節目節目が、悟性の形態化(Figures)となるからです。己存在の真実を勝ちとるため悟性は、それらの節目を通して、ある一点に到達できる。その点とは、不要の外部要素に滲みこんでいる自身の表層、それは自身のためでもあり他者に向かうものでもあるが、悟性はそれを脱ぎ捨てるに至る。現象が実質(Essence)に同等となる到達点である。この流れにおいて(弁証法の)経緯(Expérience)は精神の正統なる理性(Science)一致する。最終的に悟性はこの、そもそも彼にふさわしい実質を具有するとなり、そこで知の絶対savoir absoluを悟性が取り込む事となる。

解説 : 精神の現象で主役を務めるのが悟性、悟性にはそもそもの基準が自身に具わる。精神舞台に知(Savoir)によってもたらされる対象(実在する外部のモノ)の真実を捉えんと、検査Examenに入る。しかし真実は捉えられない、なぜなら対象を舞台に持ち込む知はそれ自身の基準を持つから、知の基準が対象に投影されるから、悟性が対象の真実を捉えるとは限らない。検査の節目に異なる基準同士がすり合わされ反作用を生む(Expérience経験として表される、訳者HyppoliteはExpérience=Dialectique弁証法と解説する)。幾節かの反作用をへて、絶対知を悟性が獲得する。
この12ページの要約における悟性、理性、知など個別を700ページ渡って詳細記述した力作が本書です。Hyppolite版についてフランス知識界隈の評価は;
Il faut se rendre compte de notre chance : cela ne fait que quelques dizaines d’années que le texte de la Phénoménologie de l’esprit peut être lu en français. Il a fallu attendre plus de cent trente ans pour que la première traduction voie le jour : c’est celle de Jean Hyppolite, en 1939-1941, qui a eu le courage de s’attaquer à ce monument. Jusqu’alors, en France on ne connaissait surtout Hegel que par l’Encyclopédie des sciences philosophiques(ネットサイトLes Philosophes.frから引用)我々(フランス人)の幸運に気付いてください。本書がフランス語で読めるようになったのは幾十年かの前からです。本書原典が刊行されて130年を経て、Jean Hyppoliteの最初の訳本は1939~41年にが出版された。まさに渾身の記念碑とも言える。それまではフランス人はヘーゲルを哲学百科事典から知るのみだった。
部族民所有の本原典(写真);


本書表付け、表題の下にHyppoliteが記される


2巻、革はセーム、


赤革の装丁の豪華本。ローマ数字を解読すると出版は1939年となる。1939年は二次大戦戦争が勃発した年で、40年にはフランスは降伏した。ナチスのフランス進駐などの混乱からこの初版は絶版となり、47年に復刻本が出版された(題名に生成と構造Genèse et structureが加わり、難しい限りの初版に専門家の解説が加わった。故に復刻ではなく別本の出版と扱われる)。
この個体は稀覯書であり貴重である。ネット(アマゾンなど)で調べても、この初版本は出てこない。世界の図書館情報を開けるとパリ国立図書館、マルセイユエックス大学図書館など数か所が蔵書するのみ。

部族民入手の経緯;
2016年前半、友人から「ある方が終活で貴重蔵書を手放す。コレを買ってくれないか」と打診がきた。それがこの本。古くの格言は「奇貨おくべし」を教えるから、いつ読むかわからないが買っておくと決めた。ある方の名は分からずじまい、しかしこれだけの書を持ちかつ愛読(ママ)していた方ならそれほどの人物かと想像する。諭吉先生一枚の価格。今にして思う「奇貨おくべし」は奏功したノダ。上の了(8月12日)

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神話学第4巻「裸の男」7仏語哲学書の読み方Youtube投稿

2024年07月20日 | 小説
理解じゃないよ解釈
(2024年7月20日) 神話学Mythologiques「裸の男L’Homme Nu」の紹介を続けています。今回投稿7回目となります。
本書51~51頁には歴史神話学の批判を展開しています。結構、難しい文脈に出会いました。一読で分からないのは致し方ないけど、十通り読み重ねても文言行句の理解に至らない。こうしたときには原点に戻る。原点とは構造主義。構造主義とは「モノ」対「思想」です。そこでレヴィストロースの構造神話学とは調査の対象(神話の筋道、挿話など)のモノに思想を織り込んでいるのだと「決めつけ」相手の歴史神話学は「モノはモノ」としている。形而上はレヴィストロース、形而下は歴史神話学なのだ!として読み返して、ようやく部族民解釈にこぎつけた。ぜひ部族民Youtubeに接近してください、アドレスは下に。

本動画に接近なさるお方には部族民ならではの解釈の道筋を受け止めてくだされ。鍵は「理解ではない解釈です」哲学書に目を落とす際の王道です。


動画のサムネイル


動画リンク
https://youtu.be/Q07NLzCJlI4

なお神話学の過去動画リンクは https://youtu.be/3mfMMYr2FPY
第二回 歴史神話学批判 https://youtu.be/fyzi5pPmeXg
第三回 北米神話の共通分母 https://youtu.be/hg9tgW9nDdQ
第四回 2の基準神話を構造神話学から分析  https://youtu.be/gxZVjKElc6E
第五回 反文化の象徴アビ水鳥 https://youtu.be/cZYvkCLbxD8
第六回 神話の肉付け https://youtu.be/Ru-QNeW8y4A


部族民通信のホームサイト WWW.tribesman.net に動画プレゼンテーションのポワーポイント資料が(神話学の頁)に掲載されています。

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L’Homme nu裸の男に読む構造神話学と哲学修辞 下

2024年07月16日 | 小説
(2024年7月16日)Il s'interdit même d'expliquer des dénominateurs communs à plusieurs version, en commençant par celui qu'on a choisi pour identifier le mythe tant il semblait constant et important, à savoir la transformation de la sœur incestueuse en oiseau plongeon. Mais ce qui est plus grave, ce parti pris oblige à même temps à introduire dans le mythe des présuppositions gratuites, ainsi que le salut « de la famille et de la collectivité exige qu'on réussisse à dissimuler le bel enfant ». Nous montrons que la solution du problème l’enfant caché est beaucoup plus simple, à condition qu'on aille la chercher dans la matière des mythes et non dans l'esprit du mythographe en mal d’interprétation : un garçon chéri de ses parents et dissimulé par eux dans une fosse souterraine au milieu de la cabane familiale, offre une image symétrique avec celle d'un garçon haï par son allié, et isolé par lui dans la brousse en haut d’ un arbre : l'enfant caché est donc l'inverse du dénicheur d'oiseaux.
そこ(歴史神話学)では複数の伝播神話に共通する「分母」語ることを自ら封じ込めている。一方で、一の神話を原型と特定し、近親姦の姉がアビに変身するとなど(一見して)重要かつ共通する挿話を(ただ一つの)共通項目とする。この進め方はより深刻な瑕疵を含む。なぜなら原型挿話を選ぶ過程が「自由な=勝手な=前提に」汚染されるからである。子を匿うとは「家族と集団の救済のために」と彼ら(歴史神話学)は語るが、より簡単に説明できる。但し神話記学の誤り解釈に執着せず、神話の中身に入りこまなければならない。愛でられ地下の穴蔵に匿われる少年は、父親に忌避され巨木の頂に捨てられる少年と対称を見せるのである。穴蔵の少年は(南米ボロロ族の)木に遺棄された少年の、逆転伝播といえる。

文言、語の解説(鍵語に網を入れている)4 ;
レヴィストロース主張する共通分母 « dénominateurs communs » がこの引用文にしてようやく出てきた。歴史神話学においての共通分母(らしき)と比較をしている。あちら側は重要神話を特定する際に、共通かつ重要性 « constant et important» の一点のみを見極める。アビ神話群で共通なのは「近親姦姉のアビ変身」という一の分母(引用文での « celui » は複数形のdenominateurs受けるが、単数としての関係代名詞、たった一つの分母)となる。この要素をして、神話群を取り纏める外円として客体化する(歴史神話学の同心円を思い出してください、最大円を神話群の原型とします)。外円内側に同心円として位置する小径要素を選ぶ際に « présuppositions gratuites » 勝手な前提が入り込むのを許してしまう。これは具体的に、月の嫁神話でのヤマアラシが「月に変身する」「太陽に変身する」などの挿話をして小円に閉じ込める。それら選択の基準には「理論背景」はない。自由選択、この自由は「気まま勝手」との意が籠もる―レヴィストロースはかく論難を仕掛ける。
« mythographe en mal d’interprétation » 誤り解釈の神話記学、歴史神話学をです。「愛でられる少年」「忌避される少年」を歴史神話学が説明するとすれば、それらは別々の小円に表せられ数値化の度合いで円の径がさだまる。そのような解釈を否定して、ボロロ族鳥の巣あらし(忌避される少年)の「逆転」伝播と、簡明な持論を述べる。
この逆転事情を考察するに、母と近親婚を犯した少年は忌避される、姉に迫られる少年が匿われる。既遂は忌避され未遂は匿われる。人の心情、道理が反映されている。いずれにも「少年英雄と近親姦」を結ぶ動機motivationが二の要素をつなげている。

神話伝播とは族から民へ、伝達の経路は時間も距離も長い。順列あるいは逆転の法則の元に伝播するという事情とは、送る側受ける側に思考による「動機の遵守、あるいは修正」が入り込むを意味するかと思う。先住民はヒトなれば伝播は「人の思考」に支配され、表のまま、あるいは裏に返すなりの方向性が入り込む。順行と逆転が見られるとすれば、それは分析理性と弁証法の表現です。我々(私だけ)愚衆にレヴィストロースが問いかけた「動機づけと共通分母」の作動原理はカント « entendement » 考える行為に戻れ、ここに「構造神話学」の教義が認められる。了(7月16日)


日野市の散歩カメラ、夕方の京王線、平山近辺


後記;Avant d'en arriver là et de pouvoir faire la preuve de cette équivalence, nous aurons une longue route à parcourir pour connecter entre elles les étapes de la transformation. Nous commençons par exposer l'économie de la distribution du mythe de la dame Plongeon, en nous aidant de la version syncrétique établie par Demetracopoulou.
この相似姓(2の少年の逆転対称)を証明するに変身の長い道のりを辿らなければならない。ここでDewmetra…の統合した業績、それは確立しているから、を採り入れる。
彼女への讃辞で締めくくられます。付表:言葉と意味をまとめた。

(BlogTextは原文は表、を反映しなかった。読みづらさにはご容赦) 
神話は主体 レヴィストロース
Dame aussi présent
aussiやはりここにもーの意味 前の挿話との関連
motivé 動機づけ
dénominateurs communs 共通分母

神話は客体Demetracoloupou
arbitrairement 気ままな定義付け
énoncé empirique 経験からくる主張
objet réel 実体として見える客体
inverse 少年の立場が逆転するも、英雄と近親姦の関連が共通する
groupe 同心円で表される神話群
critères subjectifs 研究者の主観による基準
morcelée 神話の要素を(モノとして)細分する
caprice 語り手の気ままさ
dépourvus de propriétés 登場者には性状が無い
une不定冠詞の連続使用 不定冠詞とは実体、由来が不確か
énoncé simpliste échapper 単純すぎる主張で実質を見逃す
présupposition gratuite 自由な=勝手な=前提
en mal d'interprétation 解釈の至らなさ

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神話学第4巻「裸の男」6神話を充実させる肉質、Youtube投稿

2024年07月14日 | 小説
(2024年7月14日) 神話学Mythologiques「裸の男L’Homme Nu」の紹介を続けています。今回投稿は6回目となります。歴史神話学の批判の文脈でレヴィストロースは「イシス神話群を、単に近親姦と世界の破滅(歴史神話学の解釈)と受け止めてはならない。筋道を豊かにする肉質 « substance » が豊富に認められる」と伝えている。神話の動機づけ(motivation)の仕組みを動的に説明しようとする試みかと感じ入ります。同時に歴史神話学に顕著な「神話要素を個別に摘出し数値化」する、これが客体化の実態ですが、この手法は神話を凝固させるだけ、その批判の続きです。
レヴィストロースは神話学第一巻生と調理、序章において神話の3分節を解説しました。第一分節に登場物(者)protagoniste、第二分節は符丁code、最終分節はスキームschème。音楽表現は神話と同じく3分節で聞かせる、それは音符、メロディ、曲。神話と音楽の類似はひと頃大きく採り上げられた。


近親姦を回避する努力、英雄の沈黙を肉質とした


本動画リンク https://youtu.be/Ru-QNeW8y4A

なお神話学の過去動画リンクは
https://youtu.be/3mfMMYr2FPY 第二回 歴史神話学批判 https://youtu.be/fyzi5pPmeXg 第三回 北米神話の共通分母 https://youtu.be/hg9tgW9nDdQ 第四回 2の基準神話を構造神話学から分析 
https://youtu.be/gxZVjKElc6E 第五回 反文化の象徴アビ水鳥

https://youtu.be/cZYvkCLbxD8 部族民通信のホームサイト WWW.tribesman.net に動画プレゼンテーションのポワーポイント資料が(神話学の頁)に掲載されています。


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L’Homme nu裸の男に読む構造神話学と哲学修辞 中 

2024年07月12日 | 小説
(2024年7月12日)De sorte que l'objet réel sur quoi porte l'analyse se situe au niveau du groupe, et non de telle ou telle de ces propriétés. D'autre part, ce mythe, déjà découpé selon des critères subjectifs dans l'ensemble dont il est pourtant solidaire et dont l'existence n’est même pas soupçonnée, se trouve à son tour morcelé en incident, éléments ou motifs qu'on ne définit pas de façon rigoureuse et qu'on laisse voyager au gré de caprice ou d’oublis qu'il est commode d'imputer aux conteurs : « perdus par une version, récupérés par une autre cédée ou empruntés à différents systèmes mythiques, et toujours dépourvus de propriétés intrinsèques qui pourrait expliquer leur coalescence en vue d'un arrangement déterminé qui donnerait naissance à un mythe » (Demetracopoulou).
(神話要素とは歴史神話学で)具体的な客体であり分析対象に採り上げられ、その客体は集団の中に位置する性格付けのみを受ける。要素が具有する固有性状から分析するなどは決して無い。更に(Demetre..が定義する)神話とは、その集合体を通して確固としているかもしれないが、すでに主観に導かれる判断基準で出来事、構成、目的などに細断されている。その細分仕方も厳格な基準で扱われているとは言えない。辻褄が合わなければ先住民語り手の気まま、忘却に押し付けられる。「一の語りでは失われていて、別の語りに復活している。別の神話群では押し込められたり引き出されたりして、いずれにしても本来の性状は、それがあれば神話が生まれた状況が判明するのだが、すでに失われている」(Demetra...)

文言、語の解説(鍵語に網を入れている)2 ;
対象とする要素をl'objet réel具体的客体と定義する。Réelの語義は実際そこにある、見えるモノとの意が浮きでる。そのモノは特定の神話群groupeでのみ取り沙汰され、神話群が離れると意味をなさない、なぜなら客体だから。Propriétés はレヴィストロースの用語でも神話の登場物(者)にあらかじめ定められている性状です。性格行動基準が定められている、よって自立する主体と言える。Demetra..は、主観的判断基準Critères subjectifsを持ち込み、対象をモノsubjectifと捉える。上記の自律する性状が、神話進展に結びつく仕組みを無視する。
神話をmorcelé en incident細分化しても、その神話の理解に繋がらない。辻褄が合わない事情は語り手の気ままcapricesに責任を帰す。dépourvus de propriétés intrinsèques本来内包する性状、が見えないとするが、その原因は要素を細分しているところに起因する。動機づけを導入し、筋道に法則性を説くレヴィストロースとは正反と言える。
Dans ces conditions, si le mythe soumis à l’enquête offre une unité, celle-ci ne pourrait lui venir que d’une idée directrice qui, pour prendre une forme sensible, doit prélever dans une tradition au demeurant amorphe les images et les incidents les mieux propres à servir à son dessein. Selon notre auteur, cette idée serait celle d'un d'inceste catastrophique qui menace l’ordre du monde, et dont les victimes cherchent à se venger. Mais outre que cet énoncé simpliste laisse échapper toute la substance concrète du mythe―alors que chaque détail, nous le verrons, est rigoureusement motivé―
神話を出来事などで細分化すると、その神話はともかく一つの纏まりを残すだろうが、神話の理解にもたらす成果は強圧的な示唆と化す。ともかく認識できるように(歴史神話学に特有の)進め方で視覚像、逸話などを不整合のまま放置して、神話の意思を探り抜き取る。著者(Demetra …)によればこの意思とは「惨禍をもたらす近親姦であり、被害者の世界秩序への挑戦」であるとする。この単純過ぎる解釈が神話の肉付けを見逃している以上に、それぞれの細目が厳密に動機づけられている神話事情も語られない。


裸の男に先立つ11年前、レヴィストロースは構造人類学でギリシャ神話「エディプス」を解析している。破線矢印が古代ギリシャ人が信心としている動機と肉付け。本図は同書の説明に則り部族民が作成した。


文言、語の解説3 ;
前半はDemetra...の神話解析方法論。不定冠詞 « une » が続く。Une unité, une forme, une idéeなどと4の名詞にかぶさる。不定冠詞とは「とある一つの」の意味で、uniteに冠すると「とあるなにかの」一体。その一体が素性、有り様などで明確に定義できればlaを冠するはずだが、そのように文を作らない。得体のしれない何やらの「一体」。極め付きは « une tradition » とある一つの慣習。この語が歴史神話学の分析手法を「とある」で切り捨てている。
これらの調査はDemetra が手掛け、歴史神話学の規範に沿った信頼おける結果が得らているはず。が、その手法をレヴィストロースが認めないと不定冠詞で表現している。
« toute la substance » は「文脈に内包される全て」が直訳だが、肉付けと訳した。肉付けが果たす役割が « rigoureusement motivé » 厳密な動機づけ、その接合材。神話要素に内含する肉付けの概念も、動機付けの仕組みも説明しない歴史神話学の手法は、この筋立てを支配する機構=構造=を見逃す。反文化の化身アビが、兄弟双子の活躍を導く動機 « motivation » の役割を当てられ、そのつながりは(北米神話では)厳密。アビにも兄弟双子にも、主体性が具わり自律歩調で活動する機構がこの状況に覗える。

部族民は別投稿で「活動から沈黙」の動機づけを述べた。兄弟双子もアビ退治の活動の後に、空に上って星に化身して春の訪れを告げる(M539悪霊退治の双子の星)。

L’Homme nu裸の男に読む構造神話学と哲学修辞 中 了 (7月12日)

追:原文はOffice Wordで作成している、鍵語に網目をかけているのだが、Blog画面では消える。読者各位にはご不便をかけているが、ホームサイトに
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L’Homme nu裸の男に読む構造神話学と哲学修辞 上

2024年07月10日 | 小説
(2024年7月10日)仏語の哲学書はこのように解釈する。汝は「主体か客体か」色分けして解釈にこぎつけた(ガチ構造主義だが読んでくれ)
前文 : レヴィストロース人類学は調査対象の事象、行動などを客体と見ておらず、主体とする。当然、先住民の思考、信仰、社会規則なども主体である。理由はそれらに人の智が宿る。形態に宿る思考、これは構造主義の原点となります。例えば親族とは人の智です。親族と親族外の範囲、婚姻できる親族、できない親族の範囲。それができない親族は系統で、婚姻できる親族と同盟関係を築く。社会基盤をいかに形成するか、人の智慧が親族の思想です。

参考に部族民がかつて作成した言語学意味論の考察のスライドを引用する。

ソシュール意味論の主体客体をひっくり返した「構造主義」意味論

そこいらをうろつく四つ足は人がイヌなる語を与えてイヌになる。イヌが猿でも豚でもない形而上的からくり

一方、行動、慣習などは社会機能の一環とする説、マリノフスキーなど英米系学究が主唱してきた。機能社会学と俗に伝わる。この理論は対象をモノ化している、「機能のみが付帯する客体である」とレヴィストロースは批判する。要素の客体化は構造主義と相容れない。これ故に、批判舌鋒はかくも鋭角的かと―(部族民は)感嘆するのです。
レヴィストロースは神話学全4巻で「構造神話学」を掲げた。彼自身この語を用いないが、本書で開陳される趣旨、理論を読み込むにつけ、この冠語がまさにふさわしいと感じ入る。そしてその矛先は「歴史神話学」に向けられる。機能社会学への批判に展開された思想風景、両論の乖離がここにも覗える。
彼らの理論は神話の要素を固定化する、固定された要素には思考がとりつかないし自律運動を見せるべくもない、ただ数値化される「モノ」である。以下に引用する文列は本書52~53頁から。視線を本に落とし文の列を追えば、満天の星のごとく哲学的修辞が(部族民の)脳みそに煌めきます。
難しいから構造主義の規範を採り入れ、この文脈は「主体か?客体か?」に色分けし読み込み、解釈にこぎつけました。皆様からの批判を仰ぎたくここに投稿します。
以下本文(鍵語に網を入れている)

Chaque fois qu'il apparaît, on peut donc inférer que le mythe de la dame plongeon est aussi présent, que ce soit sous forme directe ou modifiée. L'étude de Démetracopoulou rend de tels services qu'on ne saurait lui faire grief, aucune autre méthode n'étant alors disponible, des insuffisances de celle que cet auteur applique en inspirant des principes de l'école historique. Nous les avons déjà réfutés. D'une part, on définit arbitrairement le mythe, sans envisager un instant qu'il pourrait n’être pas un discours isolé que son énoncé empirique suffit à caractériser, mais un état local ou momentané, d'une transformation qui engendre plusieurs autres, toute régie par une même nécessité ;

それ(兄弟双子が活躍する挿話、前文を受ける)が神話に現れるたびに、アビ婦人も語られる。この連結の流れは否定できない。言い回しは直接的であるし、変化を見せながらの場合も認められる。一方、Demetracopoulouの研究は誰も成果を引き継げないし、いかなる異なる進め方とも両立できないことからして、歴史神話学の教義に着想を受けたその手法は、幾つもの不満足性を抱えたまま残る。その理由を以下に語ろう。
実は、我々(レヴィストロース個人)は歴史神話学をこれまでの書で否定している、(不満足な)論点の実態とはその学派の学究(on=一般的人となるがDemetracopoulou)は、自ら感じ入る所信で、神話なるものを規定する。いかなる神話物語にしても単独孤立していないはずだが、そう思いとどまる瞬時もないし、それと覗える形態をただ経験から決めつけるのみ、それで十分であるとの思い込みに閉ざされている。その上、一の神話はその場とその時系列に位置しているだけで、伝播系統で幾つもの偏移神話を生み出し、それが一の必然性に支配される。この起動原理のもとでの地域的瞬間的な存在であるとする。

文の使えかけとは? 1 ; 
活躍する兄弟双子:北米神話では悪霊退治に双子が登場する。M539では山野に跋扈する悪霊を退治し星に昇天する。夜な夜な叫ぶアビを退治するのは双子漁師。双子とアビには筋立で関連が認められる。レヴィストロースの伝える « motivé » 動機づけである。歴史神話学はこの筋道の有機結合を語らない。
« définit arbitrairement le mythe » 自ら感じ入る所信としたが、意味がわからない訳となった。直接法で言うと「勝手気まま」。アビが語られるからこれらをアビ神話群とするが、この断定はおおよそ根拠のない「気まま」な顕れ。次文の « un discours isolé que son énoncé empirique suffit à caractériser » 孤立した語り口など無いと(思いとどまらず)、sonその者の(前文のonを受け継ぐ、Demetracopoulouのこと)経験からくるだけの「決めつけ」で終止する。

L’Homme nu裸の男に読む構造神話学と哲学修辞 上 了 (7月10日)

追記:他説を批判するレヴィストロースの文は難しい。平易な文で批判すると反論される、そして再批判。その煩瑣を避けるためと勘ぐる。有名なのは「野生の思考」第九章サルトル批判。あのサルトルさえ「解釈」出来なかった(らしい)。
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Youtube投稿神話学第4巻「裸の男」5アビ(水鳥)は反文化の象徴

2024年07月09日 | 小説
(2024年7月9日) 神話学Mythologiques「裸の男L’Homme Nu」の5回目、Youtube投稿の報せです。


動画のサムネイル


歴史神話学の批判の文脈でレヴィストロースは「神話とは筋道に動機づけ、それぞれの神話に共通する主題(分母と呼ぶ)の構造を持つ」と思弁的哲学的に主張しています。神話を構造主義の視点からの解析となります。この思想方向を(部族民として)理解し、2の基準神話(M1ボロロ族とKlamaht族)を比較解析しました。今回、アビ(水鳥)神話を採り上げます。 アビは「夜中に奇怪な声を張り上げる」「首筋の奇妙な紋様」などで(北米先住民に)反文化の象徴とされます。彼女は水平婚(姉弟たわけ)に耽溺し村落に火を放ち、焼け死んだ兄弟の遺骸から心臓を取り出し、首飾りに仕上げます。結局は兄弟双子(北米神話の重要登場者の二重の神)に殺害されます。 アビの死を通して婚姻の手続き(婿の役務、Prestation)が取りまとめられ、系統対同盟の対立が、取り決めと制度確立で解消される文化発展が語られます。前回に採り上げたM1が火と水の創造、儀礼の創造。またM538 (イシスの冒険)では山野と水の創造、系統同盟間の対立解消の預言―で文化形成を説明する流れを、アビ神話は、共にしている。 構造分析(動機づけと共通分母)ならではの神話の理解かと思います。 皆様には動画ご高覧を賜り、辛辣なコメントをいただければ有り難い。 なお神話学第4巻「裸の男」これまでのYoutubeリンクは

第一回https://youtu.be/3mfMMYr2FPY
第二回 歴史神話学批判 https://youtu.be/fyzi5pPmeXg
第三回 北米神話の共通分母 https://youtu.be/hg9tgW9nDdQ
第四回 2の基準神話を構造神話学から分析 https://youtu.be/cZYvkCLbxD8

部族民通信のホームサイト WWW.tribesman.net に動画プレゼンテーションのポワーポイント資料が(神話学の頁)に掲載されています。 なお本動画作成にはマイクロソフト・オフィス365のパワーポイントの新機能(2024年3月から交付された)「動画記録」を用いている。スライドが動画化され、口頭説明(ナレーション)と演者が右下に張り付いています。 チャンネル登録を願います。部族民通信の過去動画(60以上)に容易に訪問できます
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