不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 9

2019年01月31日 | 小説
(1月31日)
本書前半の基準神話「狩人モンマネキの冒険」(M354)はアマゾン上流に今も居住するTukuna族が伝承する。同名主人公は幾度か婚姻を試みすべてが未成立の果て、「理想の伴侶」探しにカヌー(piroque)で川(Solimaesアマゾンの支流)を下った。
同支流は(今は大都市)マナウスでアマゾンに合流する。舟足急ぐも川旅は下り、流れに舳先を任せれば舵取りオール漕ぎが楽ちん、艫に一人の戻りなしも苦にならぬ。辿った村々、村長部民めらに己の来し方を語り「同盟が大事」と悟らせたりしたから、今も(1930年当時)彼の語りの節々が村の伝承とつながった。それらがモンマネキの派生神話だとして民族学者がメシの種に今も再利用している。
しかし、モンマネキの果敢な冒険ぶりと民族誌学者の成果でこそ、カヌー冒険の旅程も解明できるというものだ。


写真:アマゾンとオレノコの下流域に大陸海洋にまたがる居住域を持つ部族が記録されている。カリブもその一族。

アマゾン下流に居住する有力部族Arawakには、モンマネキ神話の派生とおぼしき(M420a月と太陽の起源)が口伝されている。また、彼の化身とおぼしき叔父(Okoni)と甥の美青年(Waiamari)がカヌーで川下り冒険の途中、とある停泊村でアサワコ嬢に出会った経緯がArawakに隣接するWarrau族に伝わる(M406麗しきAssawako、本書111頁、投稿子はホメロス・オッデッセイのカリプソの段と比較した。2018年11月2日投稿の食事作法の起源4回目に詳細)。ArawakもWarrauも、またそれらの居住に隣接するCaribにしても、南米のみならずカリブ海、アンチーユ諸島をへてフロリダに進出していた。
南端とはいえ北米大陸に足がかりをつかめば、見渡す視界のその先は平原と草原。ミシシッピーの穏やか流れを遡りミズーリに至る舟のりにしても、モンマネキだったら一気呵成に行き着く。カエル結婚を断念した我らの英雄はなんとアンデスを出発してカナダに足を伸ばしていた。
(以上は、尊師レヴィストロースが本書において力説する南米神話北上説の紹介です。なお、途上のアンチーユ列島弧、カリブ海諸島、プレーリ南部(アラバマ、ミシシッピ、テキサスなど)での神話が残されていると聞かない。このミッシングリンクが残された背景には、先住民族の衰退の速さ、民族学者の活躍以前に絶えた、と関係があるのか。投稿子には門外なのでこれ以上は言及できない)

前回前々回(1月25日、28日)投稿に添付した「新大陸文化創造パラダイム」をご参照あれ。右の3は北米神話(M425,426星々の嫁Arapaho族、170~172頁)の主題である周期性の確立をsyntagmeに取り上げている。星々(astres)とは太陽と月を特定していて、太陽はカエルを嫁に選び、月は人(Arapaho族)の娘を選んだ。周期性とのつながる下りは表の赤線にあります。
太陽と月は兄弟、狩人。それぞれが不定の地で不規則に狩りにでていた、すなわち地上にも周期性が無かった。二人が生家で出会う機もが少ないながら、ある頃、獲物を持ち帰る日が重なった。二人は「そろそろ身を固めよう」と決めて父母に申し出た。これが文中の嫁を迎え規則性を…の下線。月が選んだ人の娘は、雌カエルとの食べ方比べに勝ち、天上家屋の正妻の座を得る。そこで家事、月経、出産など、女の規則、すなわち月に支配される周期性を獲得した。その段がArapaho娘の下線。
地上にこれらの周期性を移転する契機とは太陽の横恋慕、近親姦を嫌ったArapaho妻は逃避を試み、その途中で墜落死する。
一方、太陽はカエル妻には目もくれないうえ、妻選びに失敗した原因が「しかめ面」にあると逆恨みして、周期性(年の)を人に与えるものの過酷さ、乾燥と不作、飢饉と天変地異で仕返しを繰り返す(下端の赤線)

Bororo族の英雄Baitogogoは火と狩猟をジャガーから伝授された。村に戻って近親姦はびこる母系社会を洪水で滅ぼした。その承継者なるモンマネキは、周りには人が消えてしまった世なので、カエルなどと苦心惨憺するも同盟を結成できず、アマゾンを下り北米に到着した。狩人の腕は確かなモンマネキは月に変身してArapaho娘一人の別嬪を理想の妻と見とれ、ヤマアラシに変身して木上に誘う(Bororo神話でBaitogogoが木の上に放逐された経緯の意匠返し)。両の新大陸をつなぐ文明創造、ヒーローの名こそ変われ、死と転生の繰り返しに中、文明の新大陸規範を形成したのだ。それ故我ら(先住民)はカエル混血でもないし、この世がカエル王国でもないのだ。

パラダイム表でのsyntagmeとは「共時性の因果」と申しました(1月25日投稿)。ギリシャ神話は「火」(プロメテウス)が文明の濫觴とし、旧約聖書では「アダムの知恵」こそ源としています。近世でのそれは「デカルトのCogito」であるかもしれません。いずれも単成のsyntagmeであると言える。一方、南米北米の先住民、アメランディアンは文化創造の提題にたいし「分断」「同盟」「周期」を共時因果と答える。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 9の了
(次回2月3日予定)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 4

2019年01月30日 | 小説
(2019年1月30日投稿)
初めに;
2018年3月からの表題投稿を読み直すと誤りに気づいた。この投稿には来訪者が多く誤り放置は小筆として心苦しい。書き換え、再投稿に踏み切った。今回投稿との関わりが雑多となるので18年投稿は22日に削除した。

(以下から第4回)
後の数行に<<未開を植民地に取り込む環境に闘争があった。一方で、未開社会を自然な「無垢な、穢れ知らない人」ともてあそんだとある。
未開社会の植民化、反動として自然人として賞賛する。移り変わりの様がもてあそびそのもので、これをacharnement攻撃を「換喩」と表現した。未開と文明の立ち位置は、あい交わらない断絶した橋(pont demoli)との表現をとった。しかしサルトルが、一方は究極に向かい、片方は同様の経緯を繰り返すも、いずれも「弁証法の真理」のもとで歴史をたどるのだと「こっそり狡猾に」、壊れた橋を修理した(つもりになった)。
引用にある entre< l’homme et la nature>は隠喩metaphore(複雑語をして単純な事柄の言い換え)となります。すなわち「人と自然」の対句で、文明社会文明人のあり方を、「未開社会自然人」を対局に置いて、過去、モンテーニュ、ルソーらが取り上げ、モラリストなど文人が加わり、幾度か繰り返された議論を示す。「生まれ損ないの社会」という差別意識を、幾重もの言い回しと、レヴィストロースならではの知見ので震いにかけて(サルトルへの)批判を修辞(比喩)に昇華させた名文です。

そしてレヴィストロースは;
<<前略la richesse et la diversite des moeurs, des croyanaces et des coutumes=中略=des milliers de societes qui ont coexiste sur la terre, ou qui se sont succede depuis que l’homme y a fait son apparition (同296頁)=後略。
訳;人がこの世界に現れて以来、精神、信仰、風習のとてつもない豊かさ、多様さを共有する幾千もの社会がこの大地に共存し、それら社会がおのおのの存続していた。
サルトルが「畸形」と片付けた社会を民族学の成果を持って高く評価する。


写真:Academie(フランス翰林院)に選出されたレヴィストロス1973年、69歳、生涯の栄誉と誇りに思った。

<<Qui commence par s’installer dans les pretendues evidences du moi n’en sort plus. La connaissance des hommes semble parfois facile a ceux qui se laissent prendre au siege de l’identite personnelle.(La pensee sauvage297頁)
訳;自我(le moi)があるとの主張から始まる者はそこから抜け出られない。個人に凝り固まっている者には、時として、人間社会の解明は易しいと思える(semmble)。
動詞semblerは「そのように見える」で、外貌あるいは内実が事実であるとの担保を与えない。
<<Ils se ferment ainsi la porte de la connnaissance de l’homme.かくして、 彼らは自ら、人間性への理解に至る門を閉めている。(個人精神に固まれば外界の理解は難しい。前文と重ね、実存主義を否定している)

<<En fait, Sartre devient captif de son Cogito, celui de Descartes permettait d’acceder a l’universel, mais a la condition de rester psychologique et individuel ; en sociologisant le Cogito, Sartre seulement change de prison. Desormais, le groupe et l’epoque de chaque sujet lui tiendront lieu de conscience intemporelle. Aussi la visee que prend Sartre sur le monde et sur l’homme offre cette etroiteness par quoi on se plait traditionellement a reconaitre les societes closes.(297頁) 
訳;(個を主張する)サルトルは自身のCogitoの捕囚に成り果てた。デカルトのCogitoはあくまで個の枠内に留まるが、森羅万象に肉薄する。サルトルは個Cogitoを社会化したが、単に(己が住み込む)牢獄を替えただけ。以来、思考を巡らす主題の集合にしても、時期にしても、時間など超越した個の「意識」にしまい込まれる。同じく人と社会に向けるサルトルの視野は狭量に閉じこめられ、彼の視野を通して人は「閉ざされた社会」を(昔ながらの)伝統的な視点で再認識してしまい、心やすむ(気がする)のである。

Cogito知でのサルトル、デカルトの対比をこれほどの短節でかくも明瞭に語るのはさすが修辞の大家。デカルトも知は個に宿るとするが、源泉は神からの授かり。故に森羅万象に背接近できる。なお、神は人類のすべてに知を与えた訳ではない。「解析幾何学なる金字塔を建てたほどの「我」は、きっと神に祝福されたに違いない」の自負を持っていただろう。
prison牢獄について;
かの地フランスでは思想を建物に喩える。上記デカルトであれば建造物はedifice(大建築物)に値する。サルトルは「牢獄」に住むらしい。蛇足:スピノザの部屋には「窓がない」と揶揄される。

10 Cogitoの捕囚

サルトルにおける歴史、弁証法の論理展開の様をたどると;

思考を形成する主体は<個>にとどまる。個にとどまる限り思考は(歴史=dialectique)進展の機動には参画できない。悟ったサルトルは、個を社会に敷延した。sociologir=社会化する=なる動詞を用いたが、これはフランス語にはない、レヴィストロースの造語。思考を社会化して思考が集団化する(serialiteなど)を証明したから集団、社会を、実存主義の切り口でもって論ずる事ができる。以上がサルトルのたくらみ。しかし;
<<Sartre, qui pretend fonder une anthropologie, coupe sa societe des autres societes. Retranche dans l’individualisme et l’empirisme, -un Cogito- qui se perd dans les impasses de la psycologie sociale.(298頁)
訳;サルトルは一種の人類学を創造すると主張する。そして、彼の社会をほかのすべて社会から切り離した。さらに、個人主義と経験論(実存主義のこと)の海でCogito思考を守るとした。しかし思考は社会心理学の行き止まりに迷い消えた。

sa societe=彼の社会。彼が求める弁証法真理が進行している筈の社会。その社会は「個人経験主義=実存主義」のくびきから抜け出ていない訳だから、Cogitoは発展できぬまま、袋小路に停滞した。Retrancherは1分離する 2引き離して固守する の2義がある。2では(重要地点)を防御する意味合いが強い。ここでは2をとる。

<< il est frappant que les situations a partir desquelles Sartre cherche a degager les conditions formelles de la realite sociale : greve, combat de boxe, match de football. queue a un arret d’autobus, soient toutes des incidences secondaires de la vie en societe ; elles ne peuvent donc servir a degager ses fondements.(同)
訳; サルトルは(弁証法成立するために)現実社会でどのような形態があるかの説明で、ストライキ、ボクシング試合、サッカー、バス停の待ち列などを例証とするが、あまりにも衝撃的だ。これらはいずれも生活の二義的な事象である。それらから(弁証法が成り立つ)基礎条件は見つけられない。

解説;本来は個人段階での思想活動であるべき実存主義を、社会化してpratico-inerte(実践的惰性)、totalisation(総括、止揚)、interioriser(内包)、exterioriser(外延)など用語を編みだし、同時にそれらをして歴史展開の起爆材に化粧直しした。
例えば;
バス待ち集団は地域も目的も均等なのでserie=つながり=とされるが、すぐには革命を起こそうなどとは行動しない。それをpratico-inerte(惰性性向)とした。ソ連における共産社会への移行停滞も同じくpratico-inerte。個人の性行である「惰性」を集団化している。精神活動でしかない観念を歴史の必然に取り込むサルトルの論理とは、真理(dialectique)を(絶対神から知性を授けられない筈の)人の分析で説明する愚かな試みと、レヴィストロースが批判した。
レヴィストロースにとっては、歴史は出来事anecdotesを積み上げ、歴史家が、己が持つとある思想を元に、それらを解析する。歴史にしても本質は思想と事象との相互性reciprociteにあるとする、構造主義の立場。

<<Le role de la raison dialectique est de mettre les sciences humaines en possession d’une realite qu’elle seule capables de leur fournir, mais l’effort proprement scientifuque consiste a decomposer, puis a recomposer suivant un autre plan.(298頁)
訳;弁証法の役割とやらは人間科学を「とある一つの“現実”」に閉じこめることにある。その現実を提供するのは弁証法のみという(空回りの絡繰りが)ある。一方、正しく科学的とはまず分解し、別の手順により再構築するところにある。
続いて(以下の原文は略);
サルトル弁証法により社会化された(集団の)思考は、今、生きる時代をinterioser,exterioser(作用反作用)し、総括(totalisation)止揚する。止揚した暁に構成要素(存在、モノ)も、1段階を踏破したからに、属性attribuが変化するとサルトルは言う。このように考えてはならない。上記、複数の引用文でサルトルが開陳するdialectiqueの仕組みにレヴィストロースの反論が、論理的に綴られている。さらに;
<<Ce n’est pas tout>>それだけではない;

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 4の了
次回(最終回)は2月1日予定
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 8

2019年01月28日 | 小説
(1月28日)
前回(1月25日)発表した図は投稿子オリジナルです。その趣旨は3の基準となる神話の特性を分析し、それらが神話精神を一の方向に導いている創造性を明らかにした(つもり)。そのパラダイム図を再掲載します。黄ばみが取れて見やすくなっていれば投稿子もありがたい。
今回は中央列、モンマネキ神話(M354 Tukana族)の解説です。
原文はmereのみで「老」はありません。直系の上流神話M1(M7)で父と複数の妻、村人全員は濁流に流されたが、魔女(sorciere)である祖母とヒーロー(名はBaitogogo)が生き残った。Tukana族への伝播経路で祖母が母に入れ替わったのだが、母を犯した近親姦の印象が残ってしまうから、投稿子は(勝手ながら)老母とした。(2018年10月26日~投稿の「神話学第3巻食事作法の起源」にあらすじ等、紹介が詳しい)。

図の説明:Tukuna族の居住域はアマゾン上流、コロンビアペルーと国境を接するあたり。図の左端にあたります。

ここでのテーマは同盟の再結成、模索です。大洪水の生き残りはモンマネキと老母、しかし村にも周辺にも人は絶えた。猟の道すがらであったカエルと婚姻、同盟話が進んだが老母の介入で破局。カエルは子を抱きかかえて池に戻った。このあと3の異種同盟を模索するが、いずれも同盟維持には至らない。破局の原因は礼儀作法の違反。
カエルの食事作法とは取り置きの毛虫芋虫を壷からだしてムシャと食する。そのような嫁を迎えられない、唐辛子を食わせて老母は追い出す。広い意味での食事作法の違反、姿形の異形さ、鳴き声などを嫌った訳ではない。鳥との結婚は異形で破局した。見目麗しい嫁を前にして老母は、今度こそはと期待したが、上から下の格好をつぶさにしたらびっくり。剥き出し脚に3本爪の鳥脚だった。これは服飾作法の違反「人間社会との同盟は無理だ」老母は追い出した。
写真:文化創造パラダイム。投稿子の完全オリジナルです。25日に投稿したのは黄ばみが強かったので再投稿。


これらの作法違反の中には「周期性の不徹底」が内包されます。
婚姻第3も例、伴侶は剥き出し脚のインコ。<<Elle(老母) demanda a sa bru de preparer de la bierre pendant qu’elle meme irait aux champs. Un seul epi suffit a la jeune femme pour remplir cinq grandes jarres> 訳;姑は野良に出る前に、嫁にビール作りを命じる。求めに応じインコ嫁はモロコシ穂先一本でたらふく飲める量(5の大瓶分)を、姑が野良から帰る前に醸成させてしまう。帰った老母はそれなりの分の束を屋根裏からおろしたのに、たった1本の穂が抜き取られただけだから、使い残されたモロコシの束を見て、何も準備していないと嫁を叱責する。次にはすっかりできあがった大瓶ビールに驚いて(水浴び中の嫁を)さらに叱責する。老母には大量かつ速成の芸当が気に入らなかったのだ。それは「周期性への反逆」と老母は反発した。
モロコシの収穫は年に一回(南米でも、きっと、そうでしょう)。半年を汗水たらして100の束にして屋根裏に仕舞う。もっぱら食とするが、文明でも未開でも男は酒を飲みたい。喰うか飲むかの塩梅で残りの半年を何とか持たせる。労働、収穫、消費と時に飢え、モロコシの周期性です。この枠の中にしがみつく生身の人間に対し、茎穂一本で夫一人が飲む1年分を作れたら、それが正しいか間違いかの問題に、人が突き当たる。正しいとするなら飛んで歌って遊んでいる鳥族の不定期性の受け入れることになる。すると人間界は鳥族の不定期性に支配される。
しかし老母は、毛虫喰いのカエルを否定した同じ判断でそんな生き様も拒否した。鳥との同盟とは周期性を忘れる、人の世界ではしかし、この部分の忘却はあってはならない。言外に神話M354は人社会の基本は周期性だと定義している。

最後の人間妻と周期性については;
ようやく巡り会った女は経血垂れ流しで、月経の周期を獲得していない。漁にでて、血をコマセにして大漁で毎夕、籠を一杯にして帰る。この漁は毒流し漁のアナロジ(類似)です。こちらの取り決めは特定の場所、乾期、年に一回、流す毒(木肌)の採取は男が月日をかける、当日は村人総出、男が毒を流し女が浮き上がった魚をすくう、収穫は皆で分配する。漁の技法に社会の行動規範と周期性が結びついています。モンマネキ嫁のやり方との差異は一人(社会性がない)、経血とは魚に餌で人に毒、毎日できる(経血は垂れ流しの時代だった)。ここに周期性違反が強く語られます。

 周期性追求は本巻後半の北米神話に引き継がれるのですから、モンマネキ神話はM1ボロロ族とM428のArapaho族などの神話群との


レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 8の了
(次回投稿予定は30日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 7

2019年01月25日 | 小説
(1月25日)
前回(23日)「モツの煮込みMandan族風味付け、同書250頁」で南米Timbaraと北米Arapaho族神話の関連を紹介した。sequenceの進展に沿いながら、両神話の流れを同一と反転の相似の重なりで比較しております。投稿子はこれにモンマネキ神話(M354狩人モンマネキ妻問い冒険、Tukuna族)を組み入れ、3神話鼎立のパラダイム表にまとめました。前回堤示した血なまぐさい結末ともう一方の(比較的)穏和な推移の差をはかるとします。
さて、同神話の基準神話として第一巻「L’origine des manières de table」の冒頭に引用されている。あらすじを紹介する;
<<洪水の生き残りは老母と二人。モンマネキは日々、狩りに精を出すだけ。ひょんなことから雌カエルと所帯を持つ。嫁の料理を母親が確かめると壷の中身は毛虫、芋虫。こんな料理は「人間界に」ふさわしくない。豆の唐辛子煮込みにこっそり入れ替えた。知らずに口に入れた辛子にむせて、カエルは池に逃げ帰った。
姑の「メガネ」に適わない嫁は地虫、2種の鳥と続く。いずれも同盟(結婚)は破談する、その原因は「食物取得」の規範逸脱。雌カエルを含め4例。別の一例は剥き出しの「鳥の脚」の醜さ、これは服飾規範の逸脱になるから、非文化。姑は気に入らないから追い出す。最後の人間妻の毎日が大漁は助かるけれど、姑が盗み見すると岸辺で経血を垂れ流し、血の臭いをピラニア寄せのコマセにしていた。これも食材取得の規範違反、広い意味での食事作法破り。即座に追い出だされた(別神話、経血おびき寄せのピラニアを食わせた姑は、婿に殺された)。
人間妻の垂れ流し理由は「月の周期性が確定してない時期」だったから。
(モンマネキ神話の解説は食事作法の起源(2018年10月22日~11月13日)に詳しいのでご参照を)

写真の手書き表をご覧あれ。


左の1に連続と分断とあります。2の中央には同盟の模索、3は周期性の確立。これらをsyntagme連辞に取ります。「連続分断」をthemeに語るのはM1~M10(Bororo族などマットグロッソ、アマゾン下流)神話とその派生で、神話学第一巻Le cru et le cuit「生と調理」のテーマです。モンマネキ神話は本書の前半(主として南米部族)神話が語り継ぐ(継いでいた)内容の基準です。そしてArapaho族の月の嫁神話が後半の「周期性」の基準となります。
Syntagma* を同時性因果と捉えるとそこから展開する事象の、すなわち経時性因果によりを流れの性格を規定することになる。レヴィストロースの用いるexigeancesなる表現を「思想の同時性制約」、また、contraintesを「経時性制約」と理解すればsyntagme/paradigmeとの繋がりが認められる。
さて、1連続と分断。これは人間社会の創造です。かつての社会は連続性に支配され混沌から抜け出せない自然社会。ここに幾度かの分断を差し挟み、文化、人間社会を創造したとの思想をBororo族、および周辺の先住民が持ちます。

M1、この世の始まりは母系集団です。男児を母系から隔離する通過儀礼の決まりは出来ていない。性徴を経ても男児は母系にとどまる。M1主人公は母を犯しても罪の意識にとらわれず、母にしても息子の(個人を特定する羽根飾り)を堂々と腰ひもに絡める。この事件をして、近親姦の猖獗と図に書きました。食事作法では「毒流し漁」の獲物が女の籠にあふれんばかりだったが、帰り道、生のまま一人で平らげた。この漁は集団で行う。獲物独り占めは、広い意味での食事作法違反です。
ヒーローは母と父に罪を犯し、放逐される。
母への罪は前述、父への罪とは;
金剛インコの尾羽は地位の誇示で父親に必要だが、子には使いようがない。鳥の巣に登ってもインコ雛を投げない子は服飾規定を守らない、父への反逆である。追放と死は子への懲罰で分断、赤の下線を入れた。さらにヒーローの死という分断が発生します。
そして何とか生き返ったヒーローはジャガーから譲られた弓矢でその妻を殺します。そもそもジャガーは文化を人に渡して自然に戻る宿命があった。火、弓矢を譲り、妻をなくしてジャングルに戻った。ここに分断があります。
ヒーローは地に戻って、父母を殺戮します(連続の自然社会の破壊、分断)。大洪水が村を襲い村人全員が流された。ヒーローと祖母、そして祖母が守っていた(ジャガー譲りの)竈火だけが残った。
M1神話とは母系社会の連続性を破壊して、同盟を基盤とする社会に移るまでの叙事詩です。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 7の了
(次回投稿予定は27日)

*syntagme、paradigmeの定義は構造言語学のde saussureに依ります。syntagmeとは「文章内で一つの意味合いを形成する語句」とあります。投稿子はこれを「同時的」に一つの「思想」を表現すると解釈します。S’il fait beau, je sort au dehors.(天気が良ければ外出する)はsaussureの引用になるsyntagme例ですが、天気とsortir(出る)には共時性の因果が内包されます。同時発生の事象です。Syntagmeとは思想、同時因果であると投稿子は考えます。
paradigme範列はleGRの定義では<Emsenble des termes qui peuvent figurer en un point de chaine parlee, axe de substitutions (serie),訳は:話す流れの一点で言い換える軸を形成するいくつかの言葉とある、シリーズと同じとあります。
投稿子は、経時性の因果による事象の展開、こう理解します。例、S’il fait beau, il deviendra faire chaud.(天気が良ければいずれ暖かくなる)は経時による展開である、beau temps良い天気の「思想」の敷衍し発展させたといえる。もう一文をAkiko Shimada, je l’adorais et je l’amais(私はシマダアキコを崇敬し愛した)はparadigmeです。崇敬と愛に時系列因果が存在するからです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 6

2019年01月23日 | 小説
(1月23日)
M428神話は北米の大平原プレーンズ中域に居住する(していた)Arapaho族の文化の獲得と社会確立をテーマとしています。レヴィストロースはbororo族(ブラジルマトグロッソに居住していた)伝承のM1(denicheur d’oiseu鳥の巣あらし)との連関の説明に入ります。章名は「モツの煮込みMandan族風味付け」250頁。
取り上げているのはM10(Timbara族、アマゾン下流域に居住)。理由はM1の派生であるは明確なうえに、M1には伝承されていない食事作法のsequence(シーケンス)が残っているため。その部分;
<<La femme du jaguar est enceinte et qu’elle ne peut supporter le moindre bruit ; aussi se met-elle en rage, quand le heros mastique bruyamment la viande grillee que lui donne son pere adoptif. Mais il a beau faire , la viande est trop croustillante , il ne peut rester silencieux>>(M10火の起源 神話学第一巻 Lecru et le cuit79頁)
訳;ジャガーの妻は妊娠中、いかに微かであろうと音に耐えられなかった。養父(ジャガー)に給された肉片の焼き加減は堅く、ヒーローは音を立てずには噛みくだけなかった。そして、しっかりと、音をたててしまった。
(この後、ジャガーの妻の怒り、やむを得ずヒーローは彼女を殺害し、火と弓矢を抱えて逃避する)

enceinteイタリック体は原文通り、注意喚起の意味合いがある。それは; 幾つかの引用の神話と比べて(妊娠中だから騒音を立ててならない)はある意味、こじつけで、食事中の音立ては常に無礼が南米では一般的とする。すなわち妊娠への気遣いではなく、そもそもの食事作法であるとの確認のためです。

この食事作法の異なり方(音立てか無音か)にレヴィストロースは注目した。
M10とM428のarmature=骨組みを比較したのが250~251頁です。写真に載せたが読みにくいとの配慮で訳します。文の平文がM10、括弧は(M428)版です。


通過儀礼前の少年(月経の訪れない少女)が夫婦(父母子供の家庭)の賓客となった。彼らは地上に(天上に)住んでいた。金剛インコの尾羽を(ヤマアラシのトゲ毛を)採取するためだった。それらは服飾を彩る貴重な材料で、父へ(姻族へ)渡すものだった。ヒーローは降りる(少女は昇る)。受け入れ側は焼き肉を(モツ煮込みを)供する。前もって言いつけられていないが、食事の決まりは音を立てない(音をたてる)で、少年は決まりを守れず(少女は決まり通りポリポリ)。ヒーローはかまどの火と狩猟の弓矢、男の道具を(家事の取り決めと耕作棒、女の道具を)取得できた。
平文と括弧内は正逆です。レヴィストロースは神話の伝播には、同一identique、あるいは正逆inversementが(多く)認められると主張しますが。M10とM428はまさにその例となります。
identiqueには未成年、賓客、貴重な服飾、食事を給され作法を験される、正しい作法は教えられてない。文化創造の基盤を持ち帰る。
inversementには男と女、通過儀礼前の少年と成熟女(少女としたが、月がその美に心奪われた事実=M428からして、成熟した娘は確かである。しかし地上娘に月経が未だ訪れない頃なので少女となる)。材料を父へに対して姻族へ。作法は無音か音立て、決まりを守らず対決まりにかなって、おとこの道具を女の道具を手にいれた。


写真:食事作法の期限 251頁。

250頁にその記述はないが、少年は規則破りを2度犯した。一度目はインコ巣で雛を認めたにもかかわらず「これが雛だ」と父に飛礫を見舞わせた。2度目はジャガー妻の前で堂々と音を立てて食事した。近代的思考の我々は一度目について行動が恣意的で責任は本人と決め、2度目は抗力できない状況だから本人無責としがちだが、結果を最優先する思考を持つのが部族民なので、両とも少年が責任を負う。
一方、Arapaho娘は反逆行為を一切していない。ヤマアラシを樹上に追うのは母のため、煮込みモツの小片をとったのはそのように礼儀をしつけられているから。一方、カエルが飛びついたのは大片、それが習性なので致し方ないが、ここでも作法に叶った少女の勝ち。

もう一点、受け入れ先のジャガー夫婦と老人の家庭の差異。
養子として住み込んだヒーローとジャガー妻は折り合いが悪い。妻は少年に食事を与えず、それを知ったジャガーが焼き肉片を与えた。少年は養父に「あなたの妻を殺してもかまわないか」と尋ねると、ジャガーは弓矢を出して与え「その必要があれば使ってよろしい」(M7神話Kayapo族)
しかし、Arapaho娘を嫁に選んだ老人一家にはこのような血なまぐさい結末は無かった。これらの差はどこから来るのだろうか。レヴィストロースの解説を敷延し、(モンマネキ神話を加えた)3の神話のパラダイム解析で解が見つかるだろうか?
次回(25日)にご再訪を願う。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 6の了
(次回投稿予定は25日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 3

2019年01月22日 | 小説
(2019年1月22日投稿)
初めに;
昨年(2018年)3月からの表題投稿を読み直すと誤りの幾つかに気づいた。月日は隔たるが、この投稿には来訪者が多く誤り放置は小筆として心苦しい。書き換え、再投稿に踏み切った。
本日をもって昨年投稿を削除します。

以下、今回(3)の投稿-
哲学的省察を前回(20日)に1~4書き留めた。今は4の途中です。
サルトルは弁証法をモノと規定し、歴史に閉じこめた。
サルトル的弁証法とはマルクス歴史観そのもの。「歴史は一方向に収斂する」。弁証法が自律に発展収斂するのなら、それは存在するモノetreとなる。木が天に向かい伸びると同じ仕組みだ。しかし、弁証法=モノと決めつける(サルトルは)大間違いを犯している(=ここまでレヴィストロースは言及していないがそう言いたいと読める)
一方、(歴史発展のないとする未開社会の)野生の思考はdialectiqueであるし総括(totalisation)もする。しかし、サルトルが主張する次の範疇(categorie)へ止揚し、(サルトルの言い分だけれど)そのモノが属性attributを変換し、前段階からは断絶する仕組みなどない。
弁証法こそが歴史の真理だとし、事象の時間的位置は「弁証法的発展の一段階」に固定させられ、止揚したあとには前段階と断絶する。この歴史の(共産社会への)収斂は真理なのだ、この言い分を敷延させて(サルトルは)歴史真理に個人として参列し、行動をお起こさなければならない、こう(サルトルが)宣う。それができない輩の本性は pratico-inerte(実践怠惰性) に蚕食されているのだ!
この教条に対してレヴィストロースの批判が向けられる、「歴史は思想」とサルトル弁証法を否定する。

写真:1965年の来日の際のボーボワールとの2ショット。珍しく笑っている。しかし視線は交差していない。笑いの対象が異なっているのか、スナップのタイミングなのか。

5 絶対神の弁証法

続く文節ではサルトル批判がより明確です。
<<l’auteur(Satreを指す) hesite entre deux conceptions de la raison dialectique. Tantot il oppose la raison analytique et la raison dialectique comme l’erreur et la verite、sinon meme comme le diable et le bon Dieu >(292頁)
解説:Critique de la raison dialectique(弁証法理性批判=サルトルによるレヴィストロース批判の書名)の著者は弁証法について2の定義をちらつかせるなど、戸惑いを見せている。まずは、分析的理性と弁証法理性とを「誤り」と「真実」に対比させている。さらに悪魔と神の対比まで比喩を昂進させている。(大文字Dieu神にle bonなる定冠詞と形容詞がついているにご留意)
神とまで比定される真理ならば、人(神にはとうてい劣る思考)による解説など必要ない。「歴史は弁証法とかたづけて」誤りとの批判を浴びたら「真理だ!」と言い返せば、その言葉一つで真理の説明がつく。弁証法の氏素性、由来縁起など講釈は必要ない。しかし形容詞(bon=人がよい、あるいは寛容な)をつけた神とは何者なのだ。レヴィストロース一流の皮肉です。

戸惑いを覚えるサルトルの分析的説明。
<les deux raisons apparaissent complementaires>(292頁)訳;2の理論、弁証法と分析的理性は相互に補完的と見える。続けて、
<outre que’elle(弁証法を真理とする解釈)aboutit meme a suggerer l’impossibilite d’une science biologique, elle recele un paradox ; car il (Sartre訳注) difinit, distingue, classe et oppose. Ce traite philosophique n’est pas d’autre nature que les ouvrages qu’il discute、meme si c’est pour le condamner>(293頁)
拙訳:(弁証法が真理とする考え方)は生化学(一般の科学)の不能性を示唆することとなる。その言い方自体が矛盾を隠匿しているのだ。なぜならサルトルは「規定し分類しそして対立させる」手順をとっている。この過程とは彼が批判し有罪宣告している「分析的思考」その物ではないか。

6 歴史は思想

レヴィストロースにとっての歴史とは何か、長くなるが一節を引用する;
<<Ce qui rend l’hisotoire possible, c’est qu’un sous-ensemble d’evenements se trouve, pour une periode donnee, avoir approxivement la meme signification pour un contingent d’individus qui n’ont pas necessairement vecu ces evenements, et qui peuvent meme les considerer a plusieurs ciecles de distance>(La pensee sauvage、第9章 307頁)
訳:歴史を歴史たらしめるには、幾つかの事象、ある時期に現れ、おおよそ共通の意味を持ち、まとまりも持たない(contingent)幾人かに共有される事から始まる。

個人とはその場に生きた人々に限らず、幾世紀かの隔たりを超えてもそれらの出来事を考えられる人(すなわち、歴史認識とは参画engagementではない、実体(一連の出来事)と思想(それら出来事を対照させる人の思考)の対比である)
一文は構造主義の歴史観を表す。

さらに;
<<L’histoire biographique et anecdotique, qui est tout en bas de l’echelle, est une histoire fable, qui ne contient pas en elle-meme sa propre intelligibilite, laqulle lui vient seulement quand on la transporte en bloc au sein d’une histoire plus forte qu’elle; et celle-ci entretient le meme rapport avec une classe plus eleve.(同311頁)
訳:伝記的、逸話的歴史はいわばハシゴの最下段、「弱い」歴史である。それ自体に解釈可能な特有性はない。弱い歴史をより強い歴史に組み込んで特有性を集体化することでのみ、解釈する意味合いが見えてくる。より強い歴史はさらにその上位の強い歴史と、同様にしての関連を持つ訳である。
伝記的とは出来事の発生を年代日付で記し、逸話的とは誰が何をしたのかの記述史である。これだけでは「思想」を形成できないので「弱い」。それら出来事の関連づけで歴史は意味を掴める。歴史は思想であるとレヴィストロースの教え。歴史は弁証法、自律で進展する実体(モノ)であるとの教条を押しつける実存主義者の歴史観に反論している。

余談ながら;前引用を読みながら小筆はユーゴーLes miserablesの一節、1832年6月のパリ騒動を思い起こした。
>アンジョルラスに率いられ、パリの学生と貧民層により組織され、ラマルク将軍の死亡前夜に暴動を謀議する秘密結社ABCは実在する。=中略=多くの者が斃れるのである<(Wikiからの引用)
銃弾に倒れるガブロッシュ、身を投じマリウスを守ったエポニーヌ。ユーゴーは一連の流れを逸話として語る。創作である。しかし類する悲劇が語り継がれていたのだろう。流れをより強い歴史に合体すれば、共和派の王制への反乱であり、大革命で勝ち取った自由民権への復帰であろう。ユーゴーロマンティシズムに感染しているようだ。

7 お化粧師

サルトルへの反論をLa pensee sauvage第9章から取り上げています。
<<Dans le vocabulaire de Sartre, nous nous definisons comme materialiste transcendantal et comme esthete.(294頁)
拙訳;サルトルに言わせれば我々(レヴィストロースのこと)は「先験的唯物論者」であり「お飾り文章屋」である。
先験的唯物論とはサルトルの造語ながら奇妙な組み合わせである。裏を推察するにレヴィストロースは、無神論者としても(神が授けてくれなかった)思考を持てるのは、カントが言うところのtaranscendantal(先験的、すなわち経験を経ずにも人は思考、判断が出来る)を信奉すると述べていた。この先験が人間の思考、科学、人類学、物理、生物学などの基礎であるとも語っている。来日した折に「私は構造主義者などではない、カントの先験を思考の基礎に置く近代人だ」と己を語った(月の裏側、川田訳)
一方、サルトル実存主義によれば人はそもそも思考を持たない、存在と対峙するなかで思考を獲得するとカントの先験主義を否定している。無神論者の二人ながら「思考の起源」を巡り差異を峻別する論争=実はこの差異が論争の主題であるが=に注目してほしい。この論争とはカント主義と実存主義の争いでもあるとも見なせる。

もう一つのmaterialisteについて;
唯物論者(マテリアリスト)と決めつけたのは、人は構造に規定されるとサルトルが構造主義を誤解したからである。読書人論者の多くが構造主義とは「構造が本質」と納得しまた説明もしているが、これは誤解。その考え方はいわば「構造機能論」である。この誤解を示唆する言い回しをサルトルの文中(materialiste)に見てレヴィストロースは、「彼は(なにも)理解していない」感を強くしたに違いない。
拙投稿(Gooブログ)「猿でも分かる構造主義」=2017年4月以来、幾度か語ったが、構造主義とは思想(ideologie)と存在(forme d’existance)を対峙させそる相互性(reciprocite)に本質があるとする哲学である。たとえば中根チエは「社会とは構造化され人の思考はどの位置を占めるかで規定される」と構造機能を論じ、日本は「縦社会」なので上意下達の文化と決めつけた。展開しているのは「論」である。
レヴィストロースに戻すと、彼は自らを構造主義者と標榜した事実はない。御大は哲学者なので書いた内容がすべて。解説やら注釈など、言うなれば「攻略本」には一切、行句を連ねていない。対抗者の読み足りなさを感じ取るも、相手はそれを大上段に振り回したのだから「理解の程度はこの薄さか」と諦めず、反論した。

次に<comme esthete=お化粧師みたい>なる文言。
辞書を引くとestheteに哲学用語の意味合いはない。「美観を気にしずぎる人」などの侮蔑意をくむ。よって「お飾り文章屋」と訳した。
raison analytiqueの実行者をお飾り文章屋としたサルトルの理由は「弁証法という歴史公理が存在するからには、ちょこまかした分析、解説は人をアリ(fourmis)として研究する程度でしかない」との悪口を(引用文の前段で)垂らしているからです。
レヴィストロースは「アリをバカにするのでないぞ、立派な社会組織を造っている」といなし反撃に移る;
<<Nous acceptons le qualificatif d’esthete, pour autant que nous croyaons que le but dernier des sciences humaines n’est pas de consitituer l’homme, mais de le dissoudre.(294頁)
拙訳:(我々が)エステートであるなる形容を認めよう。しかしながら、科学の最終目的は人を構築させる(=お飾りする)ではなく人を分解する(=dissoudreすなわち分析する)との考えを変えはしないが。
<<cette attitude nous parrait etre celle de tout homme de science du moment qu’il est agnostique(La pensee sauvage 294頁) =後略
拙訳;この(シロアリに喩えるサルトルの)態度は、全く科学的人間だけれど「不可知論者」となっている時点での態度を思い起こさせる。

科学の人(homme de science)と不可知論者は両立する仕組みがない。その人サルトルは科学者ながら不可知論を信奉するのか、不可知論者ながら己は科学的と勘違いしているのか。そもそもサルトルとは不可知論者か?
この提題を解く鍵は別の小論文にある。以下は(Le role du philosophe, le regard de Claude Levi-Strauss, 哲学の役割レヴィストロースの視点、Le magazine litterature dec/1985より引用)
<<Malgre tout le respect et l’administrattion que j’avait pour Sartre, j’ai adopte une attitude polemique vis-avis de ses conceptions (=l’existentialisme) parce que j’estimais que’elles etaient une maniere de poser les problemes qui trounait trop radialement le dos a la pensee scientifique .
訳:サルトルに対して多大の尊敬にもかかわらず私は、彼の考え(実存主義)に否定的姿勢を貫いた。なぜならそれら(サルトルの考え)が科学思考に対して確信的に背を向けていると感じるところがあるからである。(サルトルにMonsieur等の尊称をかぶせないのは彼は他界していた)
レヴィストロースはサルトルの政治・社会活動としてのアンガジュマンでも共産主義志向でもなく、思考の根源にある実存主義を「反科学」として否定している。弁証法への取り組み方にしても、そもそも謬りである実存主義の派生として定義づけるので、否定する。サルトルは不可知論者なのだ。

8 ペーパーナイフも弁証法も不可知

不可知論って何。GrandRobertにその義を求める。
<<Doctorine qui considere que l’absolut est inaccessible a notre connaissance.でした。絶対(l’absolut)は人の知では知り得ないとなります。この絶対を=神、神が創った諸々、宇宙の真理に置き換えて良いし、connaissanceをCogitoと解釈しても間違いではない。するとデカルト以来の哲学の本流、Cogitoをサルトルはぶちこわすのか。Cogitoしても無駄だよと言うのか。
筆者なりにサルトル不可知論を単純な構図に述べると;
<<実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想であるとされる。本質をないがしろにするような思想的なものから、本質はこうだが現実はこうであり、本質優位を積極的に肯定せずに、現在の現実をもってそれをどう解決していくべきなのかを思索的に考えたもの。本質を積極的に認めない傾向があるため、もしくは即物的になり本質がみえなくなってしまう極端な思想も生まれる土壌にもなる>>(Wikipedia実存主義サルトル項より引用、一部改編)。
引用末尾;個人の偶然経験を思考の根源とする実存主義。それは本質がみえなくなってしまう極端な思想を<必然として導く>と書き換えたい、すると不可知論となる。
もし、本質がこの世にあるとすれば、(どの哲学者も同意見だが)それは人が作成した物でない。さらに、神のごとき絶対的思考を持たない人は、ペーパーナイフにすら経験できない。ペーパーナイフを手にとって「紙を切るモノ」の本質を理解できようか、個人の偶然経験にはそれを可能にする仕組みがない。紙切りに使うのは隣の人がそれを実践していただけで「本質からはずれた使い方」かもしれない。「いたずら猫を叩く道具かもしれぬ」と人は疑う。「己の存在を知りみずからの本質(思考)を編み出す運命に人は課せられている」とサルトルは教える。しかしそうした思考はいかなる外部(存在、本質)も個人に還元するから、ペーパーナイフに限らずいかなる事象の本質にたどり着かない(こう筋道を立てれば不可知論に至る);
人は弁証法を「手に取り目にする」事はできるが次の段階へ止揚する本質(=サルトルの言い分を借りた)は経験ではきない。なぜなら止揚は人の知覚を超えたところにあるから。しかるにサルトルは分析思考を取り入れ、人の精神活動の中に(pratico-inerie, totalisation、interio...などと)さらにserialiteとされる不気味な物体運動も編み出して、弁証法の仕組みを解説し、本質は止揚を開陳せんと努力するが、その真理を経験していないヒトの一人のサルトルが説明するのは誤りだ。弁証法を歴史の真理とし、歴史に弁証法を閉じこめ、不能な己が可能と勘違いするは科学精神の放擲である。
「教条」をレヴィストロースが不可知論と形容した。
お飾り文章屋に対して不可知論者、売り言葉に買い言葉の論争に入ってきました。続くパラグラフでルソーを引用します。含蓄深いので孫引きします;
<<Quand on veut etudier les hommes, il faut regarder pres de soi; mais pour etudier l’homme, il faut apprendre a porter la vue au loin; il faut observer les differences pour decouvrir les proprietes.(同294頁、ルソーのEssai sur l’origine des languesから)
訳;人々を学ぶには自身の近くを見なさい、しかし個としての人を学ぶには視線を遠方に投げなさい。あらゆる変異を観察する事で人の特性を発見できる。

訳通りの意味なので難しくはないが、定冠詞複数のles hommesと単数のl’hommeを対比させている。複数が社会を、単数が「人性、人間性」を表していると小筆は理解する。しかし、そこに違和を覚えるのは蕃神だけではないだろう。個の人を観察するなら近づくに限る。なぜルソーは逆を教えるのか?
引用の立ち位置を前後の文脈の流れで探れば真意も分かりそうだ。数行の前、
<<La valeur emminente d’ethnologie est de correspondre a la premiere etape d’une demarche qui en comporte d’autres : par-dela la diversite empirique des societes humaines, l’analyse ethnographique veut attendre des variantes=後略 (同294頁)
訳;民族学の突出した価値とは研究の初段階につながることである。一歩進む先がそこに内包されているから、2歩3歩が続く。人社会の多様性を読み取り、その成果を通して、民族誌学的分析が社会の変異に迫るのである。
複数人間は近くから眺めよとルソーが教える。それは共通性を探すためだ。民族学は人間社会をvariantes(変異)としさらに底流の共通項を追求するから近づいて見るのだ。ルソーが進めるetudier les hommesを実行している。アリを研究しているお飾り屋ではない、レヴィストロースは自慢げに語る。(今風口語の言い方でドヤ顔で)

295頁に入るとreduire(縮小する)及びreduction(左記の名詞形、縮小還元の意味)、それにdissoudre(個体を液体に溶かす)が出現する。サルトル批判を彼の用語を借りてレヴィストロースが論述しているので、サルトルがこの語をLa critique de la raison dialectique で使用している筈。analyser(分析する)の言い換えとして低い語感、作用のみのDissoudreにおとしめるのがサルトルのねらいと推察する。レヴィストロースが、あえてその語を取り込み、dissoudreからreduireのプロセス解説に半ページを費やし;
<<Elle offre aussi, souvent, un efficace de les mettre en reserve, pour les recuperer au besoin et pour miex etudier leurs proprietes(295頁)
訳; Elleは前文の(solution、液体に溶かす)を受け、溶解する手順は有効で、それら(les、molecules=分子=、要素のことサルトル用語)をまとめて取り置きできるし、必要に応じ取り出して、より効果的に解析できるというものだ。(用語でおとしめたやり口を、レヴィストロースが逆さにふってやり返した)続いて
<<L’explication scientifique ne consiste pas dans le passage de la complexite a la simplicite, mais dans la substitution d’une complexite miex intelligible a une autre qui l’etait moins.(295頁)
訳;複雑系を単純系に移し換えるのは科学ではない。科学とは複雑な事象を、単純に近づけてより易しく理解できる置換(la substitution)にあるのだと定義しています。
皆様、おわかりかと。>複雑系を単純系に移し換える<が歴史を弁証法に還元してステレオタイプに説明するサルトルやり方。>易しく理解できる置換<resoudre、analyserの分析的理性であります。頁は移る、批判は拡がる。

9 生まれ損ない畸形

めくる紙葉のその指を止めた頁の数は296。浮かぶセリフのおぞましさ、物議かもす=rabougri et difforme=生まれ損ない畸形(サルトル表現のママ)に出くわした。
前後の文の流れは;
<<Parfois Satre semble tente de distinguer deux dialectiques : la <<vraie>> qui serait celle des societes historiques et une dialectique repetitive a court terme=後略。引用の冒頭tenteはtenterのparticipe passeでavoir tente(原文eにのせられるアクサンが無いはお許し)と理解してください。
訳;サルトルは2の弁証法を使い分けているかに思える。1は正しい弁証で社会が歴史を経てきた弁証法。もう一方に短い間隔で幾度も繰り返す。そんな弁証法社会を二重に想定している。
続く文で<繰り返す弁証法は未開社会に帰せられる。それは=tres pres de la biologie=生物に近いと批判する。拙説を交え;
dialectiqueマルクス主義弁証法は、原始社会から(途中を省略)資本主義を経ての「究極」が共産経済であると教える。西洋社会の今が、共産経済に行き着く寸前、大争乱に明け暮れるけれど「未開社会」は未だ、「未開」のままに取り残されている。この「停滞」が弁証法論者に気にいらない。そこでサルトルが「彼らの弁証法とは繰り返す発展ながら間隔は短い」未開的弁証法だと大見得を切った(La critique~に述べた)。
繰り返すとは元に戻ることである、短いとは発展はできない。西洋社会が継続発展してきた歴史事実と異なる。発展したくも出来ない「畸形」が未開社会であるとサルトルは定義した。民族学者からの反発を食らった。

レヴィストロースからの反論は;
<<Il expose ainsi tout son systme, par le biais de l’ethnographie qui est une science humaine, le pont demoli avec tant d’acharnement entre l’homme et la nature se trouverait subrepticement retabli(同296頁)
exposerは露出する、含意として(隠していたかったモノ)を曝す。biaisは英語のバイアスと同語で斜め線、ここでは狡猾な手段とする(=moyen artificieux et detourne de trouver une solution(お気に入りの)解決策を探すため不自然なこじつけ手段、leGRから)。systemeはやり方全体、ここではson systemeだから彼のやり口。le pont demoliは粉砕された橋、subrepticementはこっそり、陰に隠れて、感心しない方法である。se trouveraitは(存在する)であるが、条件法なので実現していない。
訳;己のやり口を彼はこのように暴露してしまった。民族誌学は一つの人間科学であるのだが、それを斜め見しただけで、狡猾にも人と自然の過酷な闘争の末に粉砕されてしまった橋を、隠れてこっそり修理し、直ったはずと錯覚した。

このあと、その語が出現する。
<<Sartre se resigne a ranger du cote de l’homme une humanite <rabougie et difforme>サルトルは人間の脇に、<生まれ損ない....>のもう一つの人間界を侍らせ、安心している。le pont demoli破砕された橋、acharnementしつこい攻撃。表現はいずれも換喩(metonymie=簡単な語で複雑系を比喩する)。何やらの複雑な事態が「壊れた橋」「過酷な闘争」を含意する。では何をレヴィストロースは伝えようとしたか。
続く数行;
<<non sans insunuer que son etre a l’humanite ne lui appartient pas en propre et qu’il est fonction de sa prise en charge par l’humanite historique (生まれ損ない)社会が(定冠詞のつく)正統な人間界にとって同質ではないと、かつそれが歴史の観点から重荷になっている事態を(サルトルが)ほのめかしているではないか。

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 3
(次回は1月25日投稿予定)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 5

2019年01月21日 | 小説
(1月21日)

前回投稿で紹介したM428(太陽と月の嫁、Arapaho族)が本書「L’Origine des manierres de table, 食事作法の起源」後半の基準神話となります。Sequence(筋の流れ、場、シーケンス)は
1 太陽、月兄弟の地上の女評定
2 月の嫁探し、地上へ降臨
3 ヤマアラシに変身して(人の)娘を天に誘う。太陽はカエルを連れて帰った
4 カエルと娘の食べ比べ。娘は噛み音(ポリポリ)を立てて勝つ。
5 娘が出産する(妊娠期間は十月十日の決まりが出来る)
6 太陽と月の棲み分け。日夜、年の周期性の確率
レヴィストロースはいくつかの同類神話を引用する。それらいずれも輪郭は相似するが、M428ほどの内容の豊かさをもたない。一貫性が基準の理由である。

これら筋の流れに取り混ぜられ、逸話がいくつか語られる。
1 太陽は人の娘ではなくカエルを伴侶になぜ選んだのか。
女評定での太陽の言い分は;<<les humains sont laids, et vilains de figure: quand ils me regardent, ils clignent des paupieres. Leur visage me repugne>> 人は醜い、奴らを見る度に不愉快になる。彼らは私を見る度に瞬きししかめ面を見せる。私を嫌う証拠だ。(以下引用は略)<水棲の娘は綺麗だ、目が丸く大きくてしかめ面など見せない>と続けた。水棲娘とは雌のカエル。
2 月の言い分は
<Arapaho娘はしかめ面など見せない。夜の木陰からうっとりの眼差しを私に投げかける。彼女たちが最上だ>評価が割れる。
太陽に向かう人の瞬きは嫌うからではなく、眩しいから。ある日誰かがふと太陽を見て、眩しいから顔をしかめた。不注意の結果なのだが、その表情がすべて。しかめ面が太陽いらだたせ、人を憎んだ。
3 音を立てなかったらカエル王国
太陽月の父親はいずれが「正しい嫁か」を判定するため、二人に内臓煮込みを供した、食事作法の洗練度を比べたのだ。「くちゃくちゃ」と粘着音しか上げられなかったカエルに比べて、おおらかな噛みしめ具合で小気味よいポリポリ音をたてたArapaho娘の勝ち。娘は天上に残り家事料理など文化を吸収した。カエルは仕返しに月に取り憑き、斑と化した。
しかし危うい一瞬だった。もし娘が肉の一噛みを「グチャ」としくじったら、文化はカエルに伝承され、地上はカエル王国となっていた。

写真:<pretty nose>と呼ばれたArapahoの女性。彼女(の祖先)の機転がなかったら地上はカエル王国に果てていた。ネットから。

妻と選んだカエルは人の娘に軽蔑され、面目をすっかり失った太陽には人への憎しみが残った。
4 北米先住民は太陽を人食い「cannibale」と表現する。プレーンズ、荒々しい夏、乾燥と熱が猖獗する。作物は枯れ、人は消耗する。原因は嫁取りに失敗した太陽の怒り、人への敵愾である。不用意な者の「しかめ面」が原因だから、我々は祈らねばならぬ。悔い改めを見せてなだめて、太陽との交流を計ろう。「太陽の祭り、サンダンス」は融和を祈願する祭りである。
5 人は太陽を直視してはならない、月経中の娘は昼に外に出てはならないなどの禁忌は今でも(神話の採取時期の1930年代現在)生きている。
 
M428神話の系列にはヤマアラシが登場する。
理由はトゲ毛を生やすから。Arapaho族を含めプレーンズのインディアンは、衣服飾り付けにその毛を用いる。希少なうえ神聖な場(部族祭り)に欠かせないから、織り手であれば、見せつけられたトゲ毛の色合いに抵抗は出来なかった。しかし、Arapahoが住むプレーンズにはヤマアラシは棲息していない(生息域とプレーンズは重ならない、本投稿第一回を御高覧いただきたい)。それでも、ここでなぜ、重要な狂言回しに、樹上棲息の齧歯類が出てくるのか。
その登場と役割を説明するに、レヴィストロースは南米の神話を引き合いに出す。ボロロ族神話(M1鳥の巣あらし)では金剛インコの巣に少年を登らせる。地上で見張る父を少年は「巣は空っぽ、ひな鳥など見えない」騙す。北米では娘が「騙される」。南北神話の2系統はいずれも服飾にまつわる絡繰りが起因している。
目当ての品(尾羽、トゲ毛)は手に入らず、遠くに追いやられ(あるいは誘われ)、冒険試練の先に天上に行き着く。天上には文化があった。

彼らの出発点地上と比べてみる。そこでは未だ文化は創造されていなかった。
ボロロ神話で地上は母系社会の世界。
統制規則などないから、近親相姦の蔓延、食事の規則破り(捕れた魚すべてを女一人が平らげてしまうなど)の横行。実はこの無秩序が自然の元々の形態だった。自然とは連続性、分断されないから混乱が猖獗する世界である。Arapaho村では天の周期性の不整(太陽と月の不調和)に悩む。
対する天上、担い手がしっかり文化を維持していた。ジャガー(ボロロ神話)、彼と妻が狩猟具とかまど火を管理していた。Arapaho神話では、天上では家庭生活が営まれ食事作法は確立していた。噛みしめに心地よい音、ポリポリをたてる、給された肉片は「小さい」ほうから選ぶなど。ちなみにカエルは大きな片を取って、モグモグするしかなかった。
服の飾り物は手に出来なかったけれど、より重要な文化を取得する。火と狩猟(ボロロ)、家事と女の周期性(月経と出産)。これで社会の創造が可能となった。

天への昇りと地上戻りの過程を見ると;
二人を天上に導いた金剛インコとヤマアラシは、自然を文化に引きつけるmediateur仲介として働いた。文化を伝授させるに選ばれた者、ヒーローヒロインは、試練を経て地上に戻る。ボロロ神話ではヒーローはハゲワシについばまれ一端、死ぬ。Arapaho妻は夫の月が留守中に、義兄太陽に云い寄られて天上界を脱出する。垂らした紐の長さが足りない、地に叩きつけられ死ぬ。「パリパリ音立て喰い方作法」など食事作法の秘伝は息子に引き継がれ、人の世に行き渡った。
ボロロとArapaho, Takunaのモンマネキ神話を入れて、新大陸の南北を結ぶ3の神話、それらの相似性とは、食事作法の起源は天上にあったに尽きる。レヴィストロースがはたと気づいた。皆様の次回来訪を願う。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 5の了
(次回投稿予定は23日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 2

2019年01月20日 | 小説
(2019年1月20日)
始めに:投稿子は昨年(2018年)3月5日から表題のブログ投稿を重ねた(全11回)。読み直すと誤り、至らなさの幾つかに気づいた。初投稿からの月日は隔たるが、この投稿には来訪者が多く誤り放置は小筆として心苦しくここに書き換え、再投稿に踏み切った。(蕃神)

前回(1月19日)の引用文で以下の対立が見えてきた。
サルトルは弁証法の檻に歴史を閉じこめた。
サルトル的弁証法とはマルクス歴史観そのものなので「歴史は一方向に収斂する」を教える。
自律して独自に発展するのならそれは存在、モノetreとなる。木が天に向かい伸びると同じ仕組みだ。しかし、弁証法=モノと決めつけとは、(サルトルは)大間違いを犯している(=ここまでは言及していないがそう言いたいはず)
2 野生の思考はdialectique弁証法的であるし、総括(totalisation)する思考過程も観察される。しかし、サルトルが主張するような「次の範疇(categorie)へ止揚する」属性attributの変換、あるいは断絶はない。
弁証法こそが歴史の真理だとしてあらゆる事象を「発展の一段階」とし、止揚して後は前段階と断絶するというサルトルの考え。共産社会への歴史収斂は真理なのだから、思想も行動も真理に参加しなくてはいけないとも彼は云う。
これは教条でしかない、レヴィストロースの批判はこの非科学性に向けられる。

5 弁証法は絶対神

続く文節に移り批判はより明確です。
<<l’auteur(Satreを指す) hesite entre deux conceptions de la raison dialectique. Tantot il oppose la raison analytique et la raison dialectique comme l’erreur et la verite、sinon meme comme le diable et le bon Dieu >(292頁)
解説:Critique de la raison dialectique(弁証法理性批判=サルトルによるレヴィストロース批判の書名)の著者は弁証法について2の定義をちらつかせるなど、戸惑いを見せている。まずは、分析的理性と弁証法理性とを「誤り」と「真実」に対比させている。さらに悪魔と神の対比まで比喩を昂進させている。(大文字Dieu神にle bonなる定冠詞と形容詞がついているにご留意)
神とまで比喩する弁証法ならそれは真理となる。(神に劣る知性)人による解説など必要ない。「歴史は弁証法」とかたづけても「それは誤り」との批判を浴びたら真理だ!と言い返せば説明がつく。真理は神と同じ、絶対であるから。弁証法が神なら氏素性の説明など必要ない。しかし形容詞(bon=人がよい、あるいは寛容な)をつけた神とは何者なのだ。
レヴィストロース一流の皮肉です。

サルトルが(絶対の説明に)分析的手法を取り入れているが、これには戸惑いを覚える。
<les deux raisons apparaissent complementaires>(292頁)2の理論(弁証法と分析的理性は相互に補完的と見える。
<outre que’elle(弁証法を真理とする解釈)aboutit meme a suggerer l’impossibilite d’une science biologique, elle recele un paradox ; car il (Sartre訳注) difinit, distingue, classe et oppose. Ce traite philosophique n’est pas d’autre nature que les ouvrages qu’il discute、meme si c’est pour le condamner>(293頁)
拙訳:(弁証法が真理とする考え方)は生化学は不可能と宣言する事に行き着くが、それに加え、この論理立ての仕組み自体が矛盾を隠しているの。なぜならここでサルトルは「規定し分類しそして対立させる」手順をとっている。この過程はまさに、彼が批判し有罪宣告している「分析的思考」その物ではないか。

6 歴史は思想

レヴィストロースにとっての歴史とは何か、長くなるが一節を引用する;
<<Ce qui rend l’hisotoire possible, c’est qu’un sous-ensemble d’evenements se trouve, pour une periode donnee, avoir approxivement la meme signification pour un contingent d’individus qui n’ont pas necessairement vecu ces evenements, et qui peuvent meme les considerer a plusieurs ciecles de distance>(La pensee sauvage、第9章 307頁)
訳:歴史を歴史たらしめるには、幾つかの事象、ある時期に現れ、おおよそ共通の意味を持ち、まとまりも持たない(contingent)幾人かに共有される事から始まる。

解説;個人とはその場に生きた人々に限らず、幾世紀かの隔たりを超えてもそれらの出来事を考えられる人(現場で参画engagementできない人も含め)が認識を固めていく中で、その認識(思想)を実体(一連の出来事)に対比させる過程で生まれる。
構造主義の歴史観を表す。

さらに;
<<L’histoire biographique et anecdotique, qui est tout en bas de l’echelle, est une histoire fable, qui ne contient pas en elle-meme sa propre intelligibilite, laqulle lui vient seulement quand on la transporte en bloc au sein d’une histoire plus forte qu’elle; et celle-ci entretient le meme rapport avec une classe plus eleve.(同311頁)
訳:伝記的、逸話的歴史はいわばハシゴの最下段、「弱い」歴史である。それ自体に解釈可能な特有性はない。弱い歴史をより強い歴史に組み込んで特有性を集体化することでのみ、解釈する意味合いが見えてくる。より強い歴史はさらにその上位の強い歴史と、同様にしての関連を持つ訳である。
伝記的とは出来事の発生を年代日付で記し、逸話的とは誰が何をしたのかの記述史である。これだけでは「思想」を形成できないので「弱い」。それら出来事の関連づけで歴史は意味を掴める。歴史は思想であるとレヴィストロースの教え。歴史は弁証法、自律で進展する実体(モノ)であるとの教条を押しつける実存主義者の歴史観に反論している。

余談ながら;前引用を読みながら小筆はユーゴーLes miserablesの一節、1832年6月のパリ騒動を思い起こした。
>アンジョルラスに率いられ、パリの学生と貧民層により組織され、ラマルク将軍の死亡前夜に暴動を謀議する秘密結社ABCは実在する。=中略=多くの者が斃れるのである<(Wikiからの引用)
銃弾に倒れる少年兵ガブロッシュ、身を投じマリウスを守ったエポニーヌ。ユーゴーは一連の流れを逸話として語る。創作である。類する悲劇が語り継がれていたのだろう。事件の流れをより強い歴史に合体すれば、共和派の王制への反乱が浮き出て、さらには大革命で勝ち取った自由民権への復帰を願う人々の意志が彷彿とする。これは歴史だろうか。
ユーゴーロマンティシズムに感染しているようだ。

7 お化粧屋

サルトルへの反論をLa pensee sauvage第9章から取り上げています。
<<Dans le vocabulaire de Sartre, nous nous definisons comme materialiste transcendantal et comme esthete.(294頁)
拙訳;サルトルに言わせれば我々(レヴィストロース)は「先験的唯物論者」であり「お飾り文章屋」である。
先験的唯物論とは、サルトルの造語ながら奇妙な組み合わせである。裏を推察するに、当時からレヴィストロースは、無神論者として(神が授けてくれなかった)思考を持てるのは、カントが言うところのtaranscendantal(先験的、経験を経ずにも人は思考、判断が出来る)を述べていた。この先験が人間の思考、科学、人類学、物理、生物学などの基礎であるとも語っている。来日した折にも「私は構造主義者などではない、カントの先験を思考の基礎に置く近代人だ」と己を語った(月の裏側、川田訳)
一方、サルトル実存主義によれば人はそもそも思考を持たない、存在と対峙するなかで思考を獲得する。カントの先験主義を否定している。無神論者の二人ながら「思考の起源」を巡り差異を峻別する論争=実はこの差異が論争の主題であるが=に注目してほしい。この論争とはカント主義と実存主義の争いでもあるとも見なせる。

さてもう一つのmateriaristeについて;
唯物論者(マテリアリスト)と決めつけたのは、人は構造に規定されるとサルトルが構造主義を理解したからである。さて、多くの方々が構造主義とは「構造に本質が」と説明するが大きな誤解。この解釈は「構造機能論」である。この誤解を示唆する言い回しをサルトルの文中に見てレヴィストロースは「理解していない」感を強くしたに違いない。

拙投稿(Gooブログ)「猿でも分かる構造主義」=2017年4月以来、幾度も語っているが、構造主義とは思想(ideologie)と存在(forme d’existance)を対峙させそる相互性(reciprocite)に本質があるとする哲学である。一方で、機能論の「社会(思想)は構造に規定される」とは、たとえば中根チエ「タテ社会の日本」などで展開されているが、展開しているのはあくまでも「論」である。ideologie「主義」とはscience qui a pour l’objet d’etudier des idees (consciences)思考の仕組みを究明する科学である。

レヴィストロースに戻る。
彼は自らを構造主義者と標榜してない。故に、彼からの「構造主義とは何か」なる“攻略本”は発刊されていない。彼は哲学者なので本雑誌に書いた内容がすべてである。そレヴィストロースら行句から、構造主義なる思考を推し量る事となる。故に、読み足りなさ、誤解を振り回されたら「彼の理解はこの程度か」と諦める。時に反論する。

<comme esthete=お化粧師みたい>なる文言について。
辞書を引くとestheteには哲学用語としての意味合いはない。「美観を気にする人」侮蔑の意をくむ。「お飾り文章屋」と訳した。
raison analytiqueの実行者をお飾り文章屋としたサルトルの理由付けは「弁証法という歴史公理が存在するからには、分析・説明などは末梢の小細工、アリ(fourmis)を研究する程度でしかない」との悪口を(前段で)引用しているからです。
レヴィストロースは「アリをバカにするのでないぞ、立派な社会組織を造っている」と軽くいなし、反撃に移る;
<<Nous acceptons le qualificatif d’esthete, pour autant que nous croyaons que le but dernier des sciences humaines n’est pas de consitituer l’homme, mais de le dissoudre.(294頁)
拙訳:(我々が)エステートであるなる形容を認めよう。しかしながら、科学の最終目的は人を構築させる(=お飾りする)ではなく人を分解する(=dissoudreすなわち分析する)との考えを変えない限りにおいて。
さらに;
<<cette attitude nous parrait etre celle de tout homme de science du moment qu’il est agnostique(La pensee sauvage 294頁) =後略
拙訳;この(シロアリに例えるサルトルの)態度は、全くの科学的人間ながら「不可知論者」となっている時点での態度を思い起こさせる。

今度はレヴィストロースの言葉ながら、科学の人(homme de science)と不可知論者は両立する訳がない。すると、名指されたその人サルトルは科学者ながら不可知論を信奉するのか、それとも不可知論者ながら己は科学的と勘違いしているのか。そもそも、サルトルは不可知論者か?
この提題を解く鍵は別の小論文にある。以下は(Le role du philosophe, le regard de Claude Levi-Strauss, 哲学の役割レヴィストロースの視点、Le magazine litterature dec/1985より引用)
<<Malgre tout le respect et l’administrattion que j’avait pour Sartre, j’ai adopte une attitude polemique vis-avis de ses conceptions (=l’existentialisme) parce que j’estimais que’elles etaient une maniere de poser les problemes qui trounait trop radialement le dos a la pensee scientifique .
訳:サルトルに対して多大の尊敬にもかかわらず私はかれの考え(実存主義)に否定的姿勢を貫いた。なぜならそれら(サルトルの考え)が科学思考に対して確信的に背を向けていると感じるところがあるからである。(サルトルにMonsieur等の尊称をかぶせないのはこの時点で彼は他界している)
レヴィストロースはサルトルの政治・社会活動としてのアンガジュマンでも共産主義志向でもなく根源にある実存主義を「反科学」として否定している。弁証法への取り組み方にしてもそもそも謬りである実存主義の派生として定義づけるので、否定する。

8 ペーパーナイフも弁証法も不可知

なぜ不可知論か?筆者なりに構図を単純化すると;
<<サルトルは説明にペーパーナイフを使った。倣ってペーパーナイフを例に説明する。本質とはその目的は何かを追求することである。ペーパーナイフのならば紙を切るために作られた。「紙を切る」というのがその本質だとサルトルは言う。モノにはつくられれ存在する前に、紙を切る目的との本質がある>>(Wikipediaサルトル項より引用)
では、ペーパーナイフの本質を、どの過程で、人は理解するのか。
本質が先に立つのだから、それは人が作成した物でない。神のごとき絶対的思考を持たない人は、ペーパーナイフを経験できない。出来上がったペーパーナイフを手にとって、存在に先立つ「紙を切る」本質がその姿形に具現しているかどうかを確認できようか、できない。この個体は紙切りの本質からはずれているかもしれない、猫を叩く便利道具かもしれぬと、絶対の知を持たぬ人は疑う。人は己の存在を知りみずからの本質(思考)を編み出す運命を課せられているとサルトルは教える。そうした思考はいかなる外部(存在)も経験しないから、ペーパーナイフに限らず事象の本質にたどり着かない。そして;
ペーパーナイフと同じく、人は弁証法を「手に取り目にする」事はできるが(次の段階へ止揚する)本質は経験ではきない。しかしながらサルトルは分析思考を取り入れ、人の精神活動に潜むかもしれぬ(pratico-inerie, totalisation、interio...など)弁証法の仕組みを曝いたとして、止揚なるをつじつま合わせすると努力するが、真理を「経験していない人が」説明するのは、誤りで無駄だ。ゆえに、弁証法を歴史の真理とするのは、科学姿勢の放擲である。「レヴィストロースは実存主義を不可知論とした。
お飾り文章屋に対して不可知論者、売り言葉に買い言葉の論争に入ってきました。続くパラグラフで唐突にルソーを引用します。含蓄深い言葉なので孫引きします;
<<Quand on veut etudier les hommes, il faut regarder pres de soi; mais pour etudier l’homme, il faut apprendre a porter la vue au loin; il faut observer les differences pour decouvrir les proprietes.(同294頁、ルソーのEssai sur l’origine des languesから)
拙訳;人々を学ぶには自身の近くを見なさい、しかし個としての人を学ぶには視線を遠方に投げなさい。あらゆる変異を観察する事で人の特性を発見できる。

訳通りの意味なので難しくはないが、定冠詞複数のles hommesと単数のl’hommeを対比させている。複数が社会を、単数が「人性、人間性」を表していると筆者は理解する。しかし、そこに違和を覚えるのは蕃神だけではないだろう。個の人を観察するなら近づくに限る。逆を、なぜルソーが教えるのか?引用の立ち位置を前後の文脈の流れで探れば、真意が分かりそうだ。数行の前、
<<La valeur emminente d’ethnologie est de correspondre a la premiere etape d’une demarche qui en comporte d’autres : par-dela la diversite empirique des societes humaines, l’analyse ethnographique veut attendre des variantes=後略 (同294頁)
拙訳;民族学の突出した価値とは事の始めの段階につながることである。一歩進んでその先が内包されているから、2歩3歩が続く。人社会の多様性を読み取り、その成果を通して、民族誌学的分析が社会の変異に迫るのである。

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 2 了
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判(決定版) 1

2019年01月19日 | 小説
(2019年1月19日投稿)
初めに;
投稿子は昨年(2018年)3月5日から表題のブログ投稿を重ねた(全11回)。読み直すと誤り、至らなさの幾つかに気づいた。初投稿からの月日は隔たるが、この投稿には来訪者が多く誤り放置は小筆として心苦しくここに書き換え、再投稿に踏み切った。
訂正加筆した趣旨とは;
1 明らかな2-3の誤りがあった。例として、serialite(連続性)はサルトル造語で個人体験がとある場で集団体験化する現象を表す。これをして次段階への進展(dialectique)の起爆としているが、レヴィストロースがこの原理を(分析的手法として)批判する。そこまで読み取れなかった。
2 二人の対立は哲学の究極課題「思考と存在」のあり方、解釈の違いに起因している。初回投稿で気づいていたが、説明足らずだった。訪問する方々の理解を得ている感触はなかったので、新たに解説を設けた。
以上です。
初めの投稿に接し、不同意を感じた方に再読いただければ幸甚です。先の投稿分は近々に削除いたします。(投稿子、蕃神)

内容は以下のとおり。
1 きっかけ 
1 反論は無かった
3 思考と存在のあり方の差異
4 歴史は存在か思考か
5 絶対神の弁証法
6 歴史は思想
7 お化粧屋
8 ペーパーナイフも弁証法も不可知
9 生まれ損ないの畸形
10 Cogitoの捕囚
11 誤謬か論理破綻か
(全文は長いので5回に分けて投稿する)

1 きっかけ 

著書「弁証法理性批判(Critique de la raison dialectique)」でサルトルはメルロポンティの知覚の現象論(=phenomenologie de la perception)を批判したが、真の狙いはレヴィストロースへの構造主義であるとされた。(=巷間の説明による。これが正しいかは原書に立ち入らなければならないが、諸々の制約から実行できなかった)。1960年の後半。
レヴィストロースは手際よく、=こうした語を無関係な筆者が使うは不謹慎ながら=一年を経ず、1961年10月に出版された野生の思考(La pensee sauvage)の最終第9章にサルトルへの反論を付け加えた。タイトルはHistoire et dialectique=歴史と弁証法=、8章までの内容は、未開とされる民族の思考を論じたもので、対する9章は内容として異質。本書の執筆開始は1961年6月12日と後書きに書かれるから、筆をとる直前に、サルトルからの批判をレヴィストロースが関知し、本題(野生の..)を論証する傍ら、サルトルへの反論をとりまとめていたと察せられる。

奥付(最終行の記載)で稿了したのは同年10月16日と分かる。「手際よい」この言い回しは、一年も経たずにこれほどの内容で反論した事情を比喩したつもりである。メルロポンティは1961年5月に執務中に急逝された。レヴィストロースが野生の思考を執筆を始める1月前である。二人は「意味」や「存在」のあり方などで互いに影響を及ぼしている盟友。メルロポンティの死まで二人に、どのような会話あったのだろうか。

さて「野生の思考」を手に取った読者各氏は、最終章を読むに驚いたであろう。「批判」の読後感は手際よさではなく完璧さであった。

2 反論は無かった

21世紀(2019年)、レヴィストロース反論に対するサルトル陣営側からの反響とはいかなるか。ネットを通し探ると「実存主義の終了」「反論も出来ず」が主流、レヴィストロースへの好意的な論調がそれらに読める。サルトル側からの「反論の反論」は形成されず、論壇での「論争レベル」には進展しなかった(小筆は同時代人でないからネットで推察するしかない)。
partisans de Sartre、hommes dits gauche(サルトルのパルチザン、左側とされる一派=これら語はレヴィストロースのHistoire et dialectique)から「資本主義追随者のあがき」「歴史法則への無知」などの反論がでたと記事を見るが、弁証法の教条主義者からの反論である。(サルトルに取り憑いた)教条主義がサルトルの墓穴を掘った(ネットで読んだ)。
一般読者からの賛同は得られなかったのであろう。ご本尊からの反論はネットで見当たらない。

さて、レヴィストロース反論の趣旨は
1 実存主義は(非科学、不可知論)である
2 実存主義なる個人経験思想を弁証法に展開する手法に論理矛盾がある
3 サルトル的弁証法は未開社会を非文明とするなど間である
に集約される。

反論を展開できなければ、サルトルは「負け犬」に貶められてしまう。そして、その取り扱いとなった。「手際よく完璧に」裁かれた。
彼は1966年に来日したが、フランスでの論争事情を知らない陽気な「サルトル信者、日本のpartisans de Sartre」の熱烈歓迎に浮かぬ表情を見せていた。彼と彼女(シモーヌボーボワール)の困惑した顔つきはネット写真で窺える。論争負けの影響であろうか。(小筆の邪推も加味されるから、信じないでください)

余談:1950~60年代は60~70年の前。哲学民族学などのフランス出版事情を(ネットで)振り返ると;メルロポンティの「弁証法の冒険」の発刊が1955年(1945年からサルトルと哲学誌を共同編纂していたが1953年に決別した)。レヴィストロースの「悲しき熱帯」は1956年、「弁証法理性批判」(サルトル)は1960年、「野生の思考」1961年、構造神話学の嚆矢の「生と調理」1963年。

第9章に取りかかろう。難解である。
言い換え(前段の数十行を一語の暗喩、換喩で集約する)、論理反転、多重否定などがその源と指摘したいが、これらはラテン語を引きずるフランス語の「宿痾」なので慣れるしかない。我ら一般人にあって脳みその捻り塩梅が捩れのまま、苦しいのは、レヴィストロースがサルトルの語を用いてサルトル歴史観を批判するという2重絡繰りがあるからである。例えばtotalisationは辞書には総計とあるが、文の脈絡で意味が通らない。サルトルが発明した用語となるのだが、原書で読んでいない筆者はこれを「総括」と(勝手に)訳す。
その総括を以下に解釈する。=totalisationは弁証法での段階(categorie)を乗り越えて、次段階に揚がる行動を指すとする=。
それならsynthese止揚をフランス語は用意しているではないか、異議を唱えたくなる。こちらはヘーゲル用語で、語感として機械的、間さ、非個人性が漂う。この響きを嫌ったのが造語の理由かは推察だが、レヴィストロースから曖昧として批判された。

(サルトルは)dialectiqueを(共産化に進む歴史必然の)公理としているのだから、人の意識活動totalisationが集団化(serialite)することも、集団が思考を持ち、一の方向に活動して歴史の進展の起爆となる、このような分析するのは(分析と絶対が住み着く)アンビバレント状況と切り捨てる事情にもなっている。dialectiqueが歴史真理であるならばそれのみで十分に歴史を正当化できるのだから。
(なおレヴィストロースはアンビバレントなる語は使用していない)

余談;彼の地、哲学者は先達の用語を踏襲するも、解釈の差異を顕わにするために、別に用語を編み出し用いるを旨とするところが多々ある。表現力の確かなサルトルにあっては、その権化の相を見せる。

3 思考と存在のあり方の差異

西洋哲学を振り返りこの論争の理解としたい;

1 デカルト;
西洋哲学の流れには、絶対神をめぐり思考と存在の相克が常に表面に出る。デカルトは思考(cogito)が物事の本質(essence)を見極めるとした。さらに、思考は神から授かった能力なので、森羅万象存在のすべても神が創造したのだから、考えれば(cogito)本質(モノ)に迫る事は可能だとする。

2 メルロポンティ現象学では本質は場(milieu、champとも伝える)にあるが、そのままでは探れない(雑景や雑音で見えないし聞こえない)。知覚(perception)を通して混乱の場から秩序(ordre)を探ることで人は本質に近づく。セザンヌはサントヴィクトワール山の本質にキャンバスに描いて迫る。種々の語を選択し組みなおしたランボーが、人の心の本質を謳う。(デカルトの)存在=etreを場=milieuに置き換え、そこに混乱を見せても本質は秩序だと主張した。
(メルロポンティは神が創造物した場に「混乱chaos」の表現を用いない。小筆は不遜にも、場は混乱知覚が秩序と対立させる。理解を速くするためです)
余談:彼は敬虔なカソリックとして生きた。「可愛くて(assez beau)上品な生まれをほのめかす仕草の若者(l’allure d’un jeune home de bonne famille)のtalas=ecole normale superieureのカソリックの学生」と描写されるPradelleなるがメルロポンティ(と聞いた)。ボーボワール「娘時代」の一片。

3 サルトルはデカルトから神を取り上げた。
神がいなくとも物は目に見えるしそこ存在している。神から思考を授けられない人は自身で存在の本質を認識する使命を負うのだ。(無神論、実存主義における存在と思考の相克)
4 レヴィストロースは。

写真は27歳のレヴィストロース、ブラジルマトグロッソで現地調査中。

無神論者です。神を否定し存在から本質を外した。思想と存在の双極性に本質が宿ると考える。犬は神に創造されたモノではない、そこらにうろつく犬に本質が宿るものでもない。尻尾を巻いてワンと吠える四つ足ほ乳類は、「犬という思想」との関連にのみ存在する。人が犬という思想を持ってのみ犬が存在する。思想と存在を結ぶ対称性(reciprocite)に本質がある。構造主義です。

哲学の底流は神(いるかいないのか)と本質(探れるのか)の解明に尽きます。それを1-4で(筆者なりの勝手解釈で)解説した。この理解から始めれば、難文「Histoire et dialectique」の解読は簡単です。

4 歴史はモノか思考か

野生の思考第9章の冒頭を引用します。まず題名のhistoire歴史についての意味合いから。
<dans quelle mesure une pensee, qui sait et qui veut etre a la fois anecdotique et geometrique, peut etre appelee diacletique?>(La pensee sauvage, 第9章)
拙訳:どうやったら思考を計測できるのか。思考とは逸話的で地理的なものなのにどうしたら弁証法的と言えるのか?

上の訳では分かりにくい。語の意味するところから攻めよう。
mesureは長さを計測する事、その器具です。モノ(etre)を計測すること。歴史を長さにして(重さ、ふくらみかもしれない)を計るってどうする?レヴィストロースが問いかけています。
anecdotiqueとは逸話的と辞書に出ている。faits curieux 変わった説明しにくい(辞書le GrandRobert)ともされる。すなわち突発的、系列非依存となる。geometriqueは地域性だから地域限定性としよう。すると<une pensee思考とは系列に依存しないし、地理的にも限定されている。その事を思考は知っているし、そうありたいと願っている。そうした思考を何かの尺度とし計測し、弁証法的と呼ぶにはどうするのか>
別の言い方は「思考とは個別で独立している。それにもかかわらず弁証法になり得るとはどの様な仕組なのだろうか」
一方、弁証法は「系列(時間)依存」「地域非依存」であるとは説明の必要はないでしょう。歴史の真実、物事の原因であり帰結であるからには、地域原則ではなく時間(歴史)原則です。

続いて;
<la pensee sauvage est totalisantnte; elle pretend aller plus beaucoup loin dans ce sens que Satre ne l’accorde a la raison dialectique, puisque celle-ci laisse fuir la serialite pure>( 292頁)
引用文を訳す前に;
キイとなるserialiteなる語は辞書(le GR)に見あたらないから、フランス語として認知されていない。近い語としてserialがでていた。一連のシリーズ映画の一フィルムを指す。寅さんシリーズの一作品「寅さん柴又望郷にむせぶ」はun serial de la serie寅さんといえる。それに=ite=の接尾語をサルトルが加えたから、意味合いは寅さんなら「男はつらい全56巻」となり、言い換えて(系列依存、地域非依存で)「連続して表出した事象の総体」となるだろう。
訳;野生の思考は総括的であるしその方向に進行している。サルトルが主唱する弁証法(dialectoque)論理は、単純な連続性=la seriarite pure=という事象に逃げ込んでいるから、そのこと(野生の思考の総括能力)を認めないだろう。
後段に出てくるが、バス待ち人はそれぞれ個人がserialである。列の全体がserialiteとして 集団化するとサルトルが言う。この考え方を=pure=純粋、単純、あるいは判断、知性の無いとの意味。ここではtotalisationはserialiteと共存する訳がないとのレヴィストロースの見解、これに留意しよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食事作法の起源、番外BonSauvageとは

2019年01月17日 | 小説
(1月17日)
北米先住民Arapaho族「月の嫁」神話(M428、同書177頁)に地上に降りた月がArapahoの一村落を遠望するくだりがあります。
<<un vaste campement anime de bruits et d’aboiements. L’air etait embaume, la vue magnifique. Une eau limpide reflectait les arbres et le ciel. Les habitans se depensaient en jeux et en travaux divers.>>
訳;人の声、犬の吠えが遠くからも聞こえる活発な、大きなキャンプ地だった。そよ風は芳しく、心奪われる見目だった。池は透明で木々、空が水面に繁栄されている。人々は遊びに、仕事にいそしんでいた。

この状景をレヴィストロースは後の頁(181)で以下に説明しています。
<<En approchant du village ou il souhaite trouver une epouse, Lune a les yeux et les orailles charmes par la beaute du paysage, les rumeurrs joueuses qui s’elevent, les chants et cris des humains et des animaux. Ce tableau embelli de la vie montre que l’idee du <<bon sauvage>> n’etait pas etrangre aux sauvages!
訳;その村で配偶者を捜すと決めた月は、近づくにつれ、あまりの美しさに目に視野が奪われ、耳もうっとり聞き惚れた。快活な声は湧きたち、人、動物の叫び吠えさえうれしげだった。美しいこの光景こそ<bon sauvage>この(かつての)表現は原住民sauvageにbonが奇妙でない証左である!
 
御大にしては力のこもった数行です。その理由は置いてbon sauvageについて。
<sauvageは野蛮人が正しい訳。Non domestique, sans cultive, farouche, insociable などが属性として説明される(robert micro)。教育をうけていない、文化を持たない、残忍で社会性のない。すべてが人性の否定です。それをbon(良き)で形容している。「あり得ない意味の連結」はoxymore(=oxymoronとも)です。その義を辞書に尋ねるとallier deux mots de sens imcompatible(両立しない2の語を結ぶleGR)とあります。日本語で矛盾形容語法(白水社仏語大辞典)となります。文学表現としては許されるものの、時には物議をかもす。小筆で思い起こすのは「Lune noire brillante」輝く黒い月。たしかこの題名の小説が「奇をてらい過ぎ」と批判された(誰かは今思い出せないが)。

Bon sauvageはレヴィストロースがTristesTropiques悲しき熱帯で用いた。世間は哲学者ともあろう彼がこんな(いい加減な)表現をつかうなんて、大いに批判された。TristesTropiquesのBororo族BonSauvageをめくると(249頁から)、bororoの集落を求めマトグロッソを彷徨するレヴィストロース、目の前の崖、精根尽き果てた希望叶わぬとあきらめかけて
<<mais ce vertige est tout illumine par des perceptions de formes et de couleurs; habitation que leur taille rend majestueuse…
訳;目眩に襲われたが、天啓というか、とある形と色を認めた。住まいである、彼らの技法としてはとても大きな高さ…..
bororo族の村を発見したのだ。彼らはbon sauvageだった。

Arapaho村に月が見とれた。その幾千年の後、レヴィストロースはbororoに良き野生人を発見した。BonSauvageはoxymoreではないと力説したワケです。

写真:もう一つのBonSauvage(ネットから、肖像権などに違反があれば乞うご指摘)

食事作法の起源、番外BonSauvageとは の了
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする