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蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 18

2019年02月28日 | 小説
(2月28日)
Klein(北米神話の採取者)は登場する女性を4部に分けている。若い妻、妻ではない女、教育係の姉、過ちだらけ妹。>>La structure quadripartite du groupe de Klein s’applique aux transformation de l’heroine. Slon les versions, celle-ci incarne…
(L’origine des manieres de table 293頁)レヴィストロースはこの4の組分け説を採用しているが、その説明 (上の引用文)を読むと1の主人公(l’heroine)に4の性格が憑依(incarner)しているかに感じられる。それぞれの性格に神話が指定されている。教育係の姉M475は、東の空から下りてくる人食い女(10人姉妹)から弟を守るため小屋に囲って育てた姉がこれにあたる(15回投稿2月14日)。
男についても4部が認められる<<Les systemes mythologiques de freres celibataires se presente sous l’aspect de quatre structures de quadriparties…(294頁)> 訳:独身男の神話学的定義は4の構成による4部として表される。
独身男とは構成員が10に至る前なので(力が足りないから)結婚できない男達で、彼らを1の集体としてその特徴は血族の繋がり、自然と関連する行動、文化的行動、宇宙との繋がりの4部である。それぞれの性格に出典神話があるはずだが、レヴィストロースはこちらには記述していないから投稿子が詮索すると、10人兄弟の嫁取り神話M475そのもので、引きこもりの9人は血を分けた「兄弟」で(血族)、生まれの順に序数詞を付けられ(自然)、10に揃った暁に同盟を求め10人娘を探す(文化)、成就した暁にヒーローは雷神に変わり、9人も四方に分散する(宇宙)のあらすじ各部を隠喩としてあげている(と思う)。
写真:ブラックフット族の少年、ネットから採取。10ほどに見える少年も数年経てば通過儀礼(イニシエーション)を体験する。族長からteterougeの首を狩ってこいと命じられるかもしれない。teterougeとは太陽の擬人であり、敵対部族の酋長かもしれない。首の一本が取れない男に嫁は与えられない。

一方で、半身体(mi-partie)として特徴づけられるヒーローが多く神話で登場する。
M485(Crow族、赤い頭tete-rouge303頁)
結婚を望む若者にTete-rougeの頭を狩り持ち帰るとの試練が課された。道を進む若者に鹿、蟻など動物が味方し、彼を娘の姿に変えた。Tete…館の守りは蛇、オオカミに固められているが、蟻に変身してすり抜け、tete…の前に娘として立ち、結婚を申し入れる。<<Profitant du sommeil de son mari. La fausse femme le tue, coupe sa chevlure et le laisse chauve>その夜、眠りこけたtete…の首を掻き頭皮を剥ぎ取り、禿頭のにして持ち帰った。めざす娘と結婚できた。
解説:若者は完全に女に変身していない。腕には男の徴の戦傷の痕(cicatrice) が見えるうえその匂いも男だった。取り巻きはこの「自称娘」に用心を怠らなかったが、Tete…は女と知りコトが終わって不用心に寝込んでしまった。別の神話では変身を助けるアナグマが若者に「逃げるのに脚は男のままがよい」と忠告され、脚だけは男のそれに残した。

他神話を探り半身体としては片面が綺麗反面は醜い、小屋の内では美人外では老婆、革細工上手は嘘で何も作れない娘(M480Blackfoot族Tete-rouge299頁)などがその例。

人の成り立ちに半身体と4部体の両立。なぜこのような複雑な説明がなされるか。解釈する鍵として投稿子は時制と関連づけたい。
1 半身体は2の性格を共時性で有する。女に化けた若者は女ながら腕に戦傷痕を残していた。変身体ながら必ず前身要素を残すというambivalentアンビバレントな体であり、その内に葛藤を含む。(=レヴィストロースはアンビバレントなる語を用いていない)
2 4部体は共時性の2と経時性の2の組み合わせとなる。女の4部体をとると若い妻、妻ではない女は共時性で共存している。Arapaho月の嫁神話では妻(arapaho娘)と妻になりきれない雌カエルが同居していた。同じく教育係の姉、過ちだらけ妹は共時性をもてる。教育姉が弟を育て成員10に戻した。紹介しなかったがM479(Menomini族、雷鳥の姪291頁)では弟を育てられない娘が雷鳥の養女となって季節を招く。

北米先住民は季節の移り変わりを共時性と経時性で説明している。天候、風土、周期性を捉えるこの思想が考える筋道の根底に控え、その仕組みの枠で人、社会、それらの起源を捉えるとしている。人間性の有様、人間界の活動を宇宙の周期性に結びつけている。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 18の了
(次回3月2日予定)
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レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 17

2019年02月25日 | 小説
(2月25日)
序数詞をWikiで開くと英語、フランス語などヨーロッパ系言語にはそれなりの体系があるとされる。例にfirst, second, third, fourth(英語)premier, second(フランス語)を挙げている。しかし、その後が続かない。英語で5番目はfifthとなるが基数詞5のfiveからの変様である。するとthird, fourthにしてもthree, fourの変化形であろう。フランス語では3番目はtroisieme,4番目quatriemeとなり、接尾辞で序数を示す日本語「番目」の用法とすっかり同じである。前回(21日)投稿の最終段「科学思考は基数詞優先、それを序数としても用い「絶対数」を常にコンセプトとして内包」これが、基数の5を序数5番目に用いるやり方で、序列と数量が一目で分かる「科学的」進数法である。レヴィストロースのこの解析には納得する。

一方、「イチニィサンシー」とは別系統の「ヒイフウミイヨゥ...」の数え方から類推し、日本語とはかつて序数詞を用いており、新大陸先住民らが特別視していたと同様に「トオ、10番目」に力のみなぎり、覇権といった「数の魔力」が内在するとの説を誰ぞか先学が主唱していたなら、投稿子は両手を挙げて賛成する☆。

こんな例が;
自転車競技スプリント。
選手二人が円錐状に凹んだアリーナを5周して勝敗を決める。脚力に自信があってスタートから前にたって全力で回周し続けたとしたら。速く走るほど選手は風圧を受ける。後ろについて風圧を避けていた敵手に最後のスパートでうっちゃられてしまう。4周目までは力を温存、敵手の後ろで漕ぐのが作戦となるが、相手も同じ戦術なので駆け引きがでてくる。この駆け引きに加え自転車の性能が絡むが、決め手はやはり体力、脚力となる。
世界自転車競技会スプリント(プロスクラッチ)10連勝(1977~86年)中野浩一。
おおよそ人の体力勝負の競技において世界大会で10連勝した例を他に知らない☆☆。これに近い戦績は、同じく自転車競技ツールドフランス7連勝のランス・アームストロング(米)を挙げたい。しかし彼はドーピング疑惑を釈明しなかった事で、7連勝を含め自転車競技すべての戦績が消去された。比較するも僭越ながら、陸上短距離で断トツの成績を残したウサインボルト選手。一競技大会で100メートル以外に出場しているから、獲得している金メダルあるいは1位の数は多い。連続した一位の記録(世界陸上、オリンピック)では2008年から7回である。


写真:スプリント決勝に挑む中野浩一選手。彼の漕ぎ方はペダルを踏む(押し下げる)ではない。前のペダルを踏みながら、後ろに回ったペダルを引き上げるのである。このペダル技法が今は長距離も含めて基準になっている。

ヨーロッパには中野選手の走り様を目の前にみてスプリント競技を断念した選手が多いと聞く(ウルリッヒ選手など)。ナカノが出てこない長距離に目標を変えた、才能ある選手がスプリントから抜けて、長距離競技に集まりツールドフランスが栄えた。一方のスプリント、十連勝を決めた最終の競技で決勝に残ったのは中野選手ともう一人の日本人選手となった。翌年に11連勝、さらには12連勝の体力が彼に残っていた。しかし10で止めた。

10とそろえば力のみなぎり、覇権である。10の集団が他者にもたらす作用とは破壊、殲滅である。行く先々の不毛をかならずもたらす。10はもう一つの10を求める。10が20を求めても敵対の10に敗北したら殲滅は己にかぶさるーこれが先住民Menomini族の序数10の思想であり、今にしてもこの魔力は残っている。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 17の了
(次回予定は2月27日)

☆ネットでググると「ヒイフウミイヨゥ...」は古来の数え方とする投稿が見られる。しかし11以降(の序数)がないことから、昔の日本人は多数の数を数えられなかったなどの誤解も見られる。序数詞はあくまで順列、数量とは別個なので、トオ10でそろえば一括りとするので11、12を示す序数は要らない(チュウチュウタコも同様)。10と仕舞って次に必要なのは、もう一組の10なのである。本ブログを訪問している方にはお分かりかと。
☆☆ステートアマと呼ばれたソ連、東ドイツに強豪選手がひしめいていた時期と重なる。彼らはアマチュアなのでプロスクラッチに参加出来ない。もし出場していたなら中野10連勝はなかったとの憶測がある。おそらく正しい。しかし当時のソ連東欧圏の陸上などでの強さは「ドーピング」によると今は判明している。

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廃墟にブラッサンスは泣かない

2019年02月23日 | 小説
(2019年2月23日)
投稿子が笑い飛ばした縄文の廃墟をK氏は泣いた。忠犬チャビ公は泣けないけれど遠吠えワオーンで代用した。
ユーゴーもマブッフ老人も泣いた。しかしブラッサンスは泣かない。(経緯は前の投稿を読んでください)

Geroges Brassans(1921~1981年)作曲家詩人、社会派の歌手だった。死してすでに38年が経った。
彼の作詞作曲による名曲「オーヴェルニャ人に捧げるChanson pour l'auvergnat」を取り上げる;
♪♪elle est a toi cette chanson, toi l’Auvergnat qui sans facon m’a donne quatre bous de bois quand dans ma vie il faisait froid. Toi qui m’a donne du feu quand les croquntes et les croquants , tous les gens bien attentionnes m’avaient ferme la porte au nez. Ce n’etait rien qu’un feu de bois mais il m’avait chauffe le corp et dans mon ame il brule encore a la manière d’un feu de joie.♪♪(同氏のアルバムから)
訳;この歌をオヴェルニャ人のお前に捧げる。私が寒さにあえいでいた時、お前は少しももったいぶらずに、薪の4本をくれた。女も男も、すべての村人が私を警戒し、開けた戸を私と知るや鼻先をぶつける勢いで閉めていたあの頃に、幾ばくかの火を恵んでくれたのだ。それは一時くゆるだけの火でしかないけれど、体を温めてくれた。今も心で燃えている。
♪♪Toi l’Auvergnat quand tu mourras quand le croqu’mort t’emportera qu’il te conduise a travers le ciel au pere eternel♪♪
訳;お前、オヴェルニャ人よ、死んであの世に向かうとき、死に神が空を渡って神のもとにお前を連れ行くように。
(しんみりと聞かせるメロディが良い。韻を踏んだ詞はさらによい。ぜひネットで聞いてください)

写真:ブラッサンス。一度はステージで聞きたかった。

この第一番に続いて、私が飢えに苦しんでいた時、だれもが私の飢餓を喜んでいた、お前はパンの4切れを恵んだーの第2番が続く。
第3番は憲兵警察(gendarmes)がやってきて私を拘束した時、皆が追い立てられ様の私を愚弄した。お前だけが悲しみの表情で見つめてくれた。
いずれの番も最後は「死に神は空を渡って神様のもとに連れ行くよう」で締めくくられる。

オヴェルニャ人、Auvergneの住民。中央高地(massif-central)中南部を占める。田舎、純朴な気質(と見られている)。日本での東北地方の人と比較できようか。
なぜこの人は飢えのあげくに拘束されたのか。
憲兵警察は国家体制、社会秩序に違反する反逆者を拘束する。日本の公安に近いけれど逮捕許可を受けずに拘束、送検できるなど権限は強い。するとこの本人は国家体制に反する活動を続けていたのか。暖に用いる薪にことかき、食すらも用意できない苦境に陥ったのは、反社会活動で社会、職場から締め出されたからか。そしてある寒い夜、憲兵警察がオートバイの爆音を響かせ村にやってきた。

第二次世界大戦。
フランスは北部ドイツ直接統治地区と中央から南のヴィシー政府に分断された。ヴィシー政権下では大戦前に政権を担っていたFront Polulaire(人民戦線)派の重鎮、闘士の弾圧が起きた。首班を務めたLeon Blumを含め多くがナチスドイツに送られ処刑された者も。作曲が1955年。わずか10年前まではナチスドイツの支配下にあった。フランス独特の司法制度、憲兵警察もこちらでは残っていた。
この弾圧の記憶をブラッサンスが歌にしていると投稿子は疑ってならない。村人の「皆が嘲り笑った」、まさに人民戦線の闘士が被った処遇そのものではないか。
(人民戦線はドイツの進行、そしてユダヤ系市民の弾圧を恐れるあまり、ソ連との同盟を夢みかつ交渉団を派遣した。しかし当時、ソ連はロシアに多額資金を投資し、革命でそれを失ったフランス指導階級の憎悪の的だった。それに世間と軍隊はイギリスとの同盟の維持で固まっていた。戦争直前のフランスの政治、軍隊の分断、大混乱の主因がFrontPopulaireの失政にあると投稿子は見るのだが。フランス人はこの時期の歴史を一向に語らない。戦での負け様、ナチスの下働き三年を含めて、第二次大戦を恥と感じているのか)

レミゼラブルで不遇を嘆いたマブッフ老とイメージが重なる。彼は共和党派に属しルイ16世の死刑に賛成票を投じたregicide=王殺しの一人。暖にも食にも用意が出来ない。稀覯本を一冊二冊と手放し飢えをしのいだ。マブッフを慰める者はいなかった。しかし「私」には薪とパンを恵むオヴェルニャ人がいた。嘲り笑われたけれど泣かなかった。ヴィシー政権の崩壊で出所した。戦後の混乱でそのオヴェルニャ人がどこに住むかは知らない。しかし死に神が空に渡り彼を連れて行くなら、最期が拝める。

写真:死に神は死者を引き連れ空を渡る、こんな信心がヨーロッパに広まっている。ベルイマン監督の第7の封印から。

廃墟にブラッサンスは泣かない 了
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レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 16

2019年02月21日 | 小説
(2月21日)
M475神話(Menomini族、東の空の姉妹(同書286頁から)を続けます。
若者が妻に選んだ老女が実は、もっとも若く美しく、その上、心遣いの優しさまで兼ね持つ。姉らが殺した9の同胞の心臓の隠し場所を教えた。夫はそれらを盗み取り、亡霊共を蘇生させた。裏切りーと夫婦は鬼天女に追われる。夫は先頭にたった鬼の義姉、長女の膝を打ち跛行者とさせた。村に戻ると蘇生させた9人実は兄、も戻っていた。兄弟はようやく10人にそろって東の空は鬼天女の住むところ、復讐に向かう。跛行者は数に入らないから、相手は8。これは弱い。(姉達とは別の悪の根源)の鬼を順に殺し、母も嘆きのあまり息絶えた。若者は兄達に配偶の9鬼天女を東の空に残し、西に向かい雷となれと指図した。

この神話を前回(2月19日投稿)で留意点とした1~4と対照すると、次の指摘が挙げられる;
1 成員10番目となる末弟に課せられた試練は常に厳しい。M475での試練とは見た目の醜い老女を嫁にせよと迫られる。というのは9の姉はすでに9の男を誘惑して心臓を抜き取っているから。勇気ある末弟は尻込みせずこの試練を受けて立ち、結果として麗しい妻を得ることとなった。(劣位を選択して幸を得る、先住民の多くの神話モチーフに見られる。日本民話に舌切り雀、花咲じいさんなど散見するが、新旧大陸、世界中に広まっていると言えようか。投稿子はこの辺りは素人なので)
2 末弟は9の亡霊を復活させて、己とあわせて数は10となった。兄弟集団の統治は末弟に移る事となる。
3 よみがえった9の男達は兄弟で若者が末弟であったとは、村で一同が会して確認できた。10にそろえば<<plenitude en puissance>の条件がそろった、復讐せむとまとまる。10の力は偉大なり。
4 10の姉妹が10男の心臓を必要とした。同盟の否定である。10番目が成人になったから達成する手筈が整った。しかしその若者の機転で失敗した。前回紹介のM476神話では10兄弟は10の姉妹を求めた。こちらは同盟の模索である。

写真:先住民は大きな数を数えられないと伝わるが、これは能力の差ではなく数進法の「思想」が異なるからである。Tukuna族の家族。

これら神話の紹介を経て皆様にして(先住民の考える)10の偉力に納得がいったと思います。2の数進法に戻ります(2月19日に一部解説)
助数詞とは数えの順番で、その中には数量の意味はない。Wikiで調べたら日本語は助数詞が発達していない言語の一典型なので、我々には理解が難しい。そこで「チュウ、チュウ、タコ、カイ、ナ」を助数詞とした。順番のみを規定する数なのでチュウもタコも含意は序列。すると個別での使用はあり得ない。3姉妹と聞いたら意味は明瞭だが、タコ娘などと個別の使用となったら意味不明なうえ、否定的に誤解されてしまう(あえて伝えるとするは5姉妹の3番目。前回にこの点は言及した)。

一方数量を規定する基数詞(基本数詞)の本来の使用法は個別です。5人男、100万都市、1000万と雖も我行かんなど、かく個別に使用しても意味が通る。これは100、1000などの基数詞には絶対数量の「100」「1000」が思想として含意しているから。レヴィストロースは以下に説明します;
<<Entre le nombre ordinal et le nombre cardinal, la somme arithmetique assure une sorte de mediation, puisqu’elle permet tout a la fois aux nombre de paraitre l’un apres l’autre et d’etre present en meme temps>(289頁)
訳;序数詞と基数詞には、算術的合計が仲介役としてはたらく。なぜならこの合計を通して数詞とは順列であると同時に、同時に出現するを許すからである>
解説;基数詞は個別使用としたが、序数詞的にも使用される。イチ、ニ、サンと順番に数える。これは常にその時点での算術合計を認知したいとの希望があるためである。序数としてタコとはサンにあたり、その仲介者(medeiateur)は3という絶対数であるとレヴィストロースが教えてくれている。「数え方始め」で列を作る成員が右から左に「イチニサン」をつなげ、15で終われば、列の絶対数はたちどころに15と掴める。
これは基数詞を序数化する例である。

新大陸先住民は(神話で読む限り)数のまとめを序数に置いている(レヴィストロースはそこまで論じていないが、論理の成り行きで投稿子はそう感じる次第)。序数にあたる1,2,3....に固有の数詞を当てはめ(例えば長兄、次兄、タコ兄などか、6兄までの固有数詞が再現されているらしい)あくまで順列に重点を置いている。そして重要な数詞は物事の始まりとしての長兄と締めくくりの10番目の末弟、benjaminとなる。神話の骨子はおおむね、末弟が試練かいくぐり、統治を委譲させるが長兄の反逆となる。その間2~9成員は希薄である。

<<Nous avons souligne cette difference entre pensee scientifique et pensee mythique : l’une travaille avec des concepts, l’autre avec des significations ; et si le concept apparait comme l’operateur de l’ouverture de l’ensemble, la signification apparait comme l’operateur de sa reorganisation>(290頁)
訳;科学的思考と神話的思考の差異はすでに説明したが、これは(科学思考は)コンセプトに基づいて働き、一方(神話的)は意味合いで働く。コンセプトは集合体の開示として現れ、意味合いは再構成として現れる。
解説;数進法での科学思考とは基数詞優先、それを序数としても用い、その思想の「絶対数」を常にコンセプトとして内包する。神話的とは1~10の順列を優先し、それぞれの数詞に持たせるが、10には特別の意味合いを持たせる。10に達して集合体が動き出す。2の数進法における「思想」の差異を説明している。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 16の了
(次回予定は2月23日)
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レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 15

2019年02月19日 | 小説
(2月19日)
前回の復習。
数え方には序数詞(nombre ordinal)と基本数詞(nombre cardinal)がある。序数詞とは数の順番でそれ自体に数量の意を持たない。日本語には序数詞が見あたらないが、投稿子は古い数え方の「チュウチュウタコ…」を挙げた。最後の「ナ」で5を分ける。基本数詞は数量を表すので、個別に(順番なし)でも用いられる。3姉妹と云えるけれど、「タコ」姉妹の用法はない。両の数詞を結びつけるmediateur(仲介)が基本数詞に含意される絶対数量であるとレヴィストロースは自説を展開する。

新大陸先住民は兄弟(姉妹)の名称に序数詞を用いる。兄妹、姉弟のあわせ数えは(引用される神話に限り)検証されない。あくまで男、あるいは女の数である。長兄、次兄と続いて6兄までの固有の序数詞が復元されている(らしい)。先住民は10進法なので兄弟は10で終わり。最後の10の弟を表すにbenjamin=末っ子末弟が都合がよい。先住民の語法では、この末弟にmediateurを通して10という神聖な数が被さる。10とは「plenitude, puissance, satulation充満、力、飽和」の意味がこもるとレヴィストロースは教える。

M476(289頁)Fox族の伝承は;
Benjamin末弟に課された義務は「失われた魔法の矢」探し、無事に戻ること。探査に10日帰還に10日の猶予が与えられた。一日探して村に宿を借りる、宿先では主に見込まれ「娘の婿に」を申し入れられる。benjaminの答えは「今は流浪の身、あの矢を探し出しての帰り道にきっと立ち寄るから」これを10夜繰り返し、魔法の矢を見つけ出しての帰り路は行きの逆で10の嫁を引き連れて村に凱旋した。
兄達に長兄には歳のいった娘、次兄にはその次と己の嫁を振り分けた。自身にはもっとも若く(見目の良い)娘を残した。この采配が兄達に嫉妬を引き起こす。


写真:有力部族ブラックフットの戦士10人組、数は幾分か多いが追軍下女らしきが混ざるので男は10。

この神話には幾つかの留意点が読み取れる。
1 矢探しは末弟への通過儀礼の隠喩である。矢を見つけだして20日で戻らなければ成人になれない。達成しないと集団は9の数のまま、未完成にとどまる。冒険に困難さが伴った。これは10という特別な数字を背負う者への必要条件であって、易しい試練で験したら達成しても、その者はひ弱かもしれぬ。すると本来持つはずのpuissance力が充満しない。(そもそも、多くの部族で通過儀礼は過酷。ベンテコスト島のバンジージャンプはその好例)
2 過酷な試練を失敗も犯さず末弟は成就する。すると10兄弟集団は長兄から末弟の統治に移行する。末弟による嫁の振り分けがその例。<<Dans le mythe des freres celibataires, l’aine le sait fort bien, et c’est la le motif de sa jalousie>(289頁)訳;独身兄弟の神話では、長兄はそれ(統治の代替わり)を知るから、末弟の成功に嫉妬する。M476では末弟は9人の兄に殺される。
3 嫁らはそれぞれが異なる家族の出。彼女らを10という単位に取りまとめなければならない。benjaminが一旦、すべてを己の嫁に迎えた理由が10の力の整合であった。すると10の兄弟にしても同じ両親の血を分けた兄弟とは限らないとも推察できる。同じ村落での10の同胞であろうし、9人集団が10番目の若者を試練でえり好みしていたかもしれない。一群の独身兄弟神話には父母の存在が希薄である。

4 10を達成した集団が次に求める数は11でも12でもない。もう一つの10である。11、12という序数詞は(投稿子は知らないが)無い。次の10を形成するため始めから「長兄、次兄...」と序数詞で呼ばれる。また10と10の邂逅で、M476では同盟の樹立となるが、神話が伝える多くは闘争である。10は例えば10の首級を求めるために、他方の10を殲滅して、集団puissanceを貯える。(1~4の論点は一部が投稿子解釈だが、多くはレヴィストロース文中の示唆による)

M475神話(Menomini族、東の空の姉妹)を紹介する。
東の空に10姉妹が住む。時折、地上に下り立ち男を誘惑し殺し、心臓を抜いて身は皆で食べ分ける。地上には女が一人、弟(ヒーロー)を育てるが、人食い天女を怖れ、用心深く弟を小屋の内に籠もらせる。ヒーローが成人(思春)を迎える年頃になった、見計らった10姉妹は地に下り前に立った。後ろには誘惑され殺された亡霊9人が生気なく従う。
ここでヒーローは亡霊に暖かい息を吹きかけ正気を取り戻させる。そして目の前の10姉妹、それぞれの誘惑にもっとも歳の行った(醜い)女を選んだ。この選択が賢明、実は一番若く綺麗で、夫への気遣いを惜しまない末娘だった。<<en realite elle est la plus jeune at la plus jolie ; la plus compatisante aussi, puisqu’elle revela a son mari l’endroit secret ou ses seors dissimilaient les coeurs ravis aux prisonniers> 夫に秘密の場所、誘惑した男どもから抜きとった心臓の隠し場所を教えた。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 15の了
(次回2月22日を予定)

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地獄は身の内 (読み切り)

2019年02月17日 | 小説
連載投稿の「レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) の第12回2019年2月8日で「L’enfer, c’est les autres=地獄は他者」なる語を紹介しました。この語に引っかかりググると、サルトルの戯曲(Huit clos=出口なし1945年初演)の一セリフと知った。当時の読書人にも反応すくなからず。詩、歌、文芸作品にカバー引用されていたと聞く(ここまでが前回の投稿)。
とうの昔はやったこの文句も忘れられた今(1967年)、原作者のサルトルに敬意を払ってか無断か、神話学を執筆中(1967年頃)のレヴィストロースが「何気なく」借りている。
借りた趣旨は罪なる汚れの元がどこに浮遊し停留するかに、人の身の「外」と「内」があるとして、西洋人の考えと新大陸先住民のそれとを図式として対照させたかったからである。西洋はギリシャの昔から伝統的に「汚れ」は外(これがL’enfer c’est les autres)。一方、先住民どの部族にしても汚れは身の内としている。本書では主に女性の汚れを論じている。そこで(L’enfer, c’et nous-meme、地獄は我々自身)なる対句をレヴィストロースが造語した。

澱んだ空気を病気の元とする考え「瘴気(しょうき)説」は西洋社会である意味、いまも流布している。悪臭、むかつく臭いが瘴気である。とくに腐臭に人は敏感で、それに気づくと強い反発と恐れを覚える。「瘴気=悪臭」に気づくのは人の外界認識の一歩であり、かつそれは易く、否定の感情に容易につながる。よって病の元の悪臭に気づいたら、身を遠ざける。ならば罹患しない。信心である。
この判断は間違いではないが、正しくはない。対局否定にあたる「むかつく臭いを感じなければ安全」、とはならないからである。1853年にロンドンで猖獗したコレラ禍を記述した書、感染地図(ジョンソン筆、河出書房新社)と開けると;
>ロンドン中央部、4の井戸が水を供給していた。市民の多くは「ブロードストリート」井戸からの水を求めていた。ソーホー住民はルバートストリート、あるいはリトルマルバラストリート井戸が近くても、遠くの「ブロード…」の清涼な水を求めていた(同書より)。
この井戸をコレラ菌が侵した。その経緯、被害の様を省くが、市当局も市民も原因に思い当たるところがない。空気は相変わらず澱んでいたとしても(汚物を窓から放り投げて「処理」していた)、それは昔から変わらず。ブロード...の水は前と同じく清涼なままだった。しかしロンドンの市央、ブロード…近辺にのみコレラが猛威をふるった<
原因をつかめないが「何かが悪さしている」ブロード…井戸を閉鎖して(1854年)、下火となった。
真因に至る原理を解明したのが細菌学の始祖、パスツールである。
>微粒子病がカイコの卵へのノゼマと呼ばれる原始生物(=細菌)の感染であることをつきとめ<1865年(wikiより引用)細菌学の勃興に伴い病気の元は細菌、瘴気説は否定された。

しかしL’enfer c’est les autres.が否定された訳ではない。悪臭が細菌にすり替わっただけで「悪は外気」は已然として西洋社会では顕在である。なにせギリシャの昔、プシュケなる娘が「開けてはならぬ」と固く言い含められたパンドラ箱を開けてしまって、害虫や臭虫なり、悪のすべてが外に逃げ出てしまった歴史を負うから。

投稿子は日本人にして「地獄は他者」には理解が至らないが「地獄は身の内」をすんなりと受け止めた。

古くは黄泉から戻ったイザナギが黄泉行きで身に生じた悪、穢れを水垢離で払った(禊ぎ)と古事記で記載される。古事記の成立を西暦700年代初頭とすると(和銅5年712年に編纂)、記中を流れる思想風習は600年代、それ以前からの伝承と思われる。縄文からの信心かもしれない。
縄文時代の永きに渡って作成された土偶に「L’enfer c’est nous-meme 悪は身のうち」求めれば、その身体一部を破損させ、破棄するかに土中に埋めていた習慣にたどり着く。土偶とは拝みたてる神仏ではなくもう一人の私、アルターエゴ、悪を背負わされた身代わりである。
>身体の悪い所を破壊することで快癒を祈った。ばらばらになるまで粉砕された土偶は大地にばら蒔くことで豊作を願ったのではないか(Wikipedia)<

縄文人は「悪は身のうち」を信心しており悪の在所のこの己身を破棄は出来ないから土偶を身代わりにしたと言えようか。

今の世にも穢れ、禊ぎの風習は残る。禁断の神域沖の島は5年に一度、信徒に解放される。選ばれた男は入島の前、裸になって海に飛び込み心身の悪を祓う(Wiki)。投稿子の住む日野市の近く、高尾山では滝に打たれる「水垢離」苦行を衆生に課す。これも穢れの祓い儀式であろう。

もう一例、身近なところの地獄は身の内。

写真:矢崎の庚申塚。JR中央線豊田駅南口から5分ほど。矢崎信号の近く。移設工事も完了した。

<庚申塔とは江戸時代、農村で盛んだった庚申信仰の名残を今に伝えます。60日に一度巡る庚申(かのえさる)の深夜、寝入った人の体から三尸(し)の虫が抜け出し天帝に宿主人間の悪行をつげて>(広報日野、2019年2月1日号、ふるさとこぼれ話より)
虫の告げ口で人の寿命が短くなるのだと。そもそもこれは道教の教義から来ている。本来信仰として課していた各儀礼、種々な手順を一切省いて、呑んで歌って眠らないで♪Nessun dormaネッスンドルマ、誰も寝てはならぬ♪歌劇turandotそのままの大騒ぎ。そしたら寿命が永くなる、一石二鳥の実利です。

写真:享保12年(1727年)の建立、190年の歳月の風化にもめげず正面青面金剛像が視認できる。

<<L’enfer c’est nous-memeなどは、江戸期の日野豊田の在の農民もしっかり知っていたと言えよう。(了)

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レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 14

2019年02月15日 | 小説
(2月15日)
M465神話のあと数進法に論点が移ります。各地の神話の主人公の兄弟姉妹の数から5進法、6進法などの例を挙げるが、民族名など投稿子は門外漢なので字面を斜め読みすると、北米でも10進法が支配的として;
<< Quelle valeur s’attache a la dizaine.? Bien que les connaissances sur les systems numeriques des indiennes laissent beaucoup a desirer, on sait que les systems decimaux reganaient en Amerique du Nord. En revanche, a l’ouest des Rocheuses, on trouvait des systems tres divers:>(同書276頁)
訳;10のまとまりの価値とはなんだろうか。アメリカインディアンの数システムについては十分な知識が集められている訳ではないが、北米では10進法が主流。しかしながらロッキー山脈の西では他の数進法が用いられている。それらは<<quinaires-vigesimaux, quinaires-decimaux, decimaux purs, ou quternaire>の進法である。
見慣れない語が並びます。辞書に照らすと5進20進法、5進10進法、純粋10進法、4進法など。そこで数進法の理論が紹介される。

<<On a propose (Salzmann) de classer les systems numeriques en function de trois criteres> ザルツマン氏は世界中の数進法を3の基準を設け分類したと。1 constitution基本。これは数を示す用語が還元(termes inirreductibles)できないか、派生(合成derives)されているかを識別する。すなわち十進法では1~10までは還元できない固有の語(イチニィサンシ…)かまずあって、10を超してから派生語ジュウイチ(10+1)ジュウニ(10+2)が出てくると分析できる。
(ちなみにフランス語では11をディス(dix)アン(un)とはせずonze(オンズ)と言う。onはun 、zeはdixの短縮と考えられる。以下12douze、13treize。この辺りはetymologie語源学の分野にして小筆は門外漢なので当てずっぽうです)
2サイクル。特定の数字が「折り返し点」となり一から始める仕組み。イチニィ…は10,20,30…で折り返す。 3オペレーションメカニズム。これは例えばニジュウニなる意味が数量として22であることを担保する仕組み。足し算の原理と理解すればよろしい(と解釈した)。投稿子は10進法に生きてきたから、上記1~3はすんなり理解できる。
しかしレヴィストロースは<<D’autres auteurs ont objecte que cette reforme laissait encore trop de champ aux interpretations subjectives.訳;この立て直し作業(Salzmannの説そのもの)は主観的解釈の余地を残すと幾人かの研究者(レヴィストロースのこと)からの反論を呼んだ。

尊師レヴィストロースはここで奇妙な数え方を報告する。eskimo, athapaskan, penutien族(エスキモはご存じ、アサバスカはエスキモの隣接部族。アラスカ、カナダ北東部に居住。ぺニュチアンはgoogleで探査出来ず)。彼らは1から6までを特定する用語を持つ。それら1~6は還元できないから(6=5+1と表現しない)基本とサイクルで6進法となる。しかし3のオペレーヨンメカニズムで狂ってくる。7を指す数値を6+2とする。以下8=6+3、9=6+4と数える。

写真:アサバスカンの男たち。彼らが7=6+2と表現するのは折り返しの6を超すと6の充満性が欠けると考えたのか。ネットから採取。

これは足し算の原理に反している。どの先住民にしても、おそらく、7=6+1の原理は知るだろう。しかるに7=6+2とするのは数進法のあり方、言うなれば数の単位とそれに結びつく「思想」に対する定義が、彼我で異なるのだ。レヴィストロースは示唆する。(「数とは物」と「定義には思想が含有する」)を対峙させている。これは構造主義としての解釈です。Salzmann(合理的解釈の)定義では7=6+2の論理は説明できない。となると人類学の基本に戻るべき;
<<Dans le domaine de numerologie comme ailleurs, il faut determiner l’esprit de chaque systeme sans introduire les categorie de l’observateur> 訳;それ以外分野でも同様のことが指摘出来るが、特に数進法においては、観察者の持つ定義づけを導入せずに、それぞれ(先住民の)システムについての「理念、エスプリ」を解明すべきだ。人類学者として自身の方向をかく定めた。独特の数進法を展開する;

<<Entre le nombre ordinal et le nombre cardinal, la somme arithmetique assure une sorte de mediation,puisqu’elle permet toute a la fois aux nombres de parraitre l’un apres l’autre , et d’etre presents en meme temps>(289頁)
訳の前に若干の解説を。
観念的に数詞を捉えると1量を表す数詞。これをnombre cardinal白水社の大辞典で基本数詞とする。GRに当たるとgrandeur mathematique, puissanceその数字が表す大きさとある。これに対峙するのがnombre ordinal(序列数詞、le rang d’un element dans un ensemble bien ordonne.一つの集合体の中での数え方の順番。出典は同)とある。白水社ではun1をcardinal、premier最初をordinalと分かりやすく例証している。より分かりやすい例を挙げると1,2,3,4,5はnombres cardinauxである。チュウ、チュウ、タコ、カイ、ナ(5を数える古来の手法。チュウで1をとってナで終われば5となる)は順番の規則性を持つが数量は示さない。故にnombres ordinauxである。
2通りの数詞に加えレヴィストロースはla somme arithmetique 足し算合計なる概念を導入した。cardinalの1,2,3自体が合計(数量)の概念を含むのだが、あえてsommeを別だしとした根拠とは1,2,3は表面的言い回しでその奥に思想に(数量)が潜む。(またまた)構造主義を持ち出した。そしてcardinalに潜む数量には不均衡、未達成、均衡、飽和などの概念が加わるとも(後の段で)展開する。
以上を予備知識として前引用を訳す;序数詞(チュウチュウ…)と基本数詞(1,2,3…の間)には合計数量が仲介役として働いている。なぜなら、この合計数を持ってして、数とは順繰りに出てくるし(最初の次が2番目、その次が3番目を規定する)、それまで出現した序列数詞は必ず(同時的に)存在するからである。数進法をsyncronie(共時性)とdiacronie(経時性)として説明しています。
そして<<la notion de decade nous a suggere qu’elle exprimait la plenitude>(288頁)
訳;10日間(あるいは兄弟10人の単位など)の思想は充満、横溢を表していた。

Salzmannの数進法解説では先住民が数値に抱くcardinal(基本数)の思想を解明できないとの指摘です。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 14の了
(次回2月18日を予定)
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レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 13

2019年02月13日 | 小説
(2019年2月13日)
生活と身体の周期性が天と同期し、なんとか文化がこの世に形成されるに至ったきっかけが月の嫁取り。嫁に選ばれたArapaho族の娘が天の文化を下界にもたらした。
神話学第一巻の「生と調理、Le cru et le cuit」の基準神話M1(le denicherur de l’oiseau鳥の巣あらし)の思想とは「連続した自然を分断するための文化」。それがかまどの火と狩りの技法だった。この2点から始まり、モンマネキ神話(本書「食事作法の起源」の基準神話)の思想「同盟の模索」を経ての文化形成の道のりは長かった。南米マトグロッソ(Bororo族)からアマゾニアTukuna族に渡り、南米を出てからはカリブ海そして北米。大平原プレーンズArapaho族へ伝播して☆(下の注参照)「周期律の確保」に至って、めでたく人間界に文化が形成された。(1月25日投稿の新大陸文化創造パラダイム)をご参照ください。

本書L’origine des manieres de tableは第6部Balance Egale(辻褄あわせ)267~310頁に入ります。この趣旨は数進法の解説です。月の満ち欠け女の月経の起源など、これまで論じてきた「周期性」との連関は薄いと思っても、疑心をいだきつつ読み始めた。さて、尊師レヴィストロースのねらい(intrigue)を掴めるのか。

章での基準となる神話を紹介する;
M465 Hidatsa族 les bisons secourables 救いのバイソン
あらすじ:ある日、Mandan族(伝承する部族Hidatsaと近接)村に小太りで醜い風体の男がふらり現れ、賭を挑発した。村人は受けて立つが負け続ける。バイソン婦人(la Bisonne=定冠詞付きで名が大文字で始まるので婦人とした)がこっそり「あの小男は太陽神の化け姿、武器をすべて巻き上げてから、手下の部族どもが村を攻撃に来て村の男のすべてを殺す手はず」(村の長に)告げた。「乗っ取られる」頭を抱える村人に婦人は「一つだけ手がある」。そのやり方とは;若者達がすべての神(les dieux)を招待しふんだんな料理で饗応し、さらに彼らの若妻を伽に差し出すことと。
早速、神々が呼ばれた。若者達はバイソン婦人に宴の執りしきりを願うが、婦人は企ての表には出ず、共犯として月に「一番の別嬪を与えるから」裏約束をとりきめ、呼び寄せた。
部族あげての神々への饗応が始まった、婦人は月を通し、小男の太陽に宴に入り込むよう誘うが、疑い深い太陽は断る。宴もたけなわ3夜目、月が「お前に当てられる筈の娘は別の神に渡されるぞ」と太陽をせかす。太陽は宴の館に近づいた。中を覗くだけで入らない。


図:マンダン族の太陽の祭りサンダンス。当該神話から派生する「太陽を鎮める」祭り。1833年の記録。Wikipediaから採取。

4夜目、太陽は館に入った。バイソン婦人が近づいて甘い言葉で誘う、お前と寝たいと。
原文は<<Soleil se sentit floue, car la Bisonne avait deja ete sa maitresse. Mais, en ces sirconstances, on n’a pas le droit de refuser. Et il s’executa, bien que ce retour a d’anciens errements ne lui plut guere>(270頁)
「騙された」と太陽は気づいた。なぜならバイソン婦人はかつての愛人だったからだ。でもこんな状況に陥ったら(周囲は宴の真最中、宴とはMandan族が神々に約束した「新妻夜とぎ饗応」。昨夜に盗み見た状景とは私に回るはずの美形が月に抱かれじゃないか)なお( )の括弧内は訳者の加筆、原文にこの描写は無い。
バイソン婦人の甘い誘いを拒絶する権利はない。実行してしまった。
据え膳は食わねば、焼け棒くいは拾わねばならない。昔なじみの飽きの浮いた関係の再現に喜びはなかった。そしてこれが太陽の大失敗。

<<Et voici l’effet du coit : le pouvoir surnaturel de Soleil passerait aux Indiens>
訳;この性交を通じて太陽が持つ超自然の力はインディアンに移った。
12の敵部族が太陽の息子に率いられMandan村に攻め入ったが、もはや太陽力のご加護は欠けた、村人の反撃に屈し太陽息子と12の部族長の首は狩られた。バイソン婦人の機転がMandanを救った。

☆南米神話が北米に伝播したとはレヴィストロースの仮説です。本書L’origine des manieres de table第2章「Du mythe au roman神話から物語へ」でこの説を論じている。傍証として南北神話には思想に共通性が認められる、北米神話は筋立てが巧妙で複雑化しているなどを挙げている。近年の新大陸考古学では南米遺跡は北米のそれよりも古いとの説が主流と聞くが、神話の起源とも重なり興味深い。2章は本投稿では取り上げなかったが。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 13の了
(次回2月15日を予定)
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廃墟にむせび泣くユーゴー(読み切り)

2019年02月11日 | 小説
(2月11日)
主題(に近い表題の)ブログを2月3日に投稿したが、再訪があるのか、週を超した今も結構読まれている。こんな反響があった「最後の引用文はユーゴー・レミゼラブルからとあるが、出典を明らかにしてください」(ユーゴー愛読者群馬県60歳代)。最後の引用とは=泣く赤ちゃんには母が寄り添う、若者が悲しめば必ず娘が慰める。老人が嘆いても誰も声をかけない」(ユーゴー・レミゼラブルより)=を指している。縄文遺跡の荒廃を目の辺りにした老人(K氏)が愛犬チャビとともに泣き出した事情を語った。情景を現すに最適な文句と気づいて加えた。しかし、出典となる元の章頁を明らかにせず引用したのは、一巻にして2000頁の2巻作品、あわせて4000頁に及ぶ元本をひっくり返す余裕が投稿子にはその日になく、うる覚え記憶で書きいれた。

写真:同書第二巻の表紙。ガブロッシュは少年兵として30年争乱に参加した。彼も銃弾に倒れる。

そのあたりは気持ちの奥に引っかかっているうえに、貴重な指摘をうけたこの機会に4000頁を探ってみた。このブログサイトは訪問者が少ないに加え読者反応が全く希薄です。
さてぱらりぱらりの繰り返し、見つかりました。
<<La misere d’un enfant interesse une mere, la misere d’un jeune homme interesse une jeune fille, la misere d’un vieillard n’interesse personne. C’est de toutes les detresses la plus froide>(livredepoche版Les miserables第2巻第9のOu vont-ils1407頁、M.Mabeufの項)
訳;泣く子には母が寄り添う、悲しむ若者には娘が慰める、老人の悲しみはいかなる人の同情を引かない。あらゆる悲惨のなかで、それがもっとも冷たい(前回の訳とあまり変わらず)

文豪にしては珍しく<la misere><interesser>を3度繰り返している。
misereを調べるとsort digne de pitie, malheur extreme (robert micro)慰めに値する境遇、不幸の極限とある。これを3度繰り返す意味とは、極限が3通りとも同じ「程度」であると表現するために違いない。しかし、文の中身ではその程度が主体の加齢に同期して「深刻化」すると読者に気づかせるためであろう。
赤ちゃんは泣き声で彼のmisereを母に教える。その悲惨とはおなかがすいた、おしめが濡れている程度である。若者は何を嘆くのか。きっとおなかがすいた以上の悲惨を感じているのだろう。試験に通らなかった、作品が評価されないかもしれない。しかし彼には未来が残る、脇に寄りそう娘に優しく、明日があるわよと慰められているではないか。
しかし、老人の<misere>は生活か心情の破綻であろう、これこそが惨めに尽きる。人は彼にこそ慰めをかけるべきなのに、誰しも一片の同情、一言の慰めを寄せない。彼に母はいないし、脇に座る娘など期待できる訳がない。未来はとっくに視界から消えている。
3度繰り返したmisereの意味合いとは、若さの未来と老いの途絶を語ったものだ。ユーゴーとはどの文脈を選んでもロマンティシズムが流れている。
投稿子はこれを読んだ時に3様の惨めさがあるわけだから、寄り添う慰めるなどと分けて、その句を記憶していたが、読み返して、文豪の「単純すぎる」繰り返しの奥深さに気づいた。小筆の至らなさを露呈した。

さて、東京日野市、21世紀。
老人K氏が浅川土手でチャビとともに泣いたところで、人のひとりも声をかけてくれなかった。吹き抜けた北風よりも冷たい人情を、ユーゴーは19世紀も半ばにすでに喝破していたのだ。

廃墟にむせび泣くユーゴーの了
(2月11日)

補遺;Les miserablesで泣いた老人はMabeuf氏。物語のなか、フランス革命での国民公会議員に選ばれ、国王ルイ16世の死刑議決に賛成を投じた(1793年1月)。公会には700を超す議員が所属し、それぞれが死刑に賛成か否かを弁舌とともに表明した。結果、賛成387票(執行をのばす条件付きを含む)、反対334票で死刑が決まった。賛成した議員は王政復古(1814~1830年)となって、regicides(王殺し)とさげすまされたうえ、アンシャンレジーム政府から資産没収、公職追放など懲罰を被った。
Mabeuf氏は老いさらばえ、夕食の用意にも事欠く様となった。
<<M.Mabeuf ouvrit sa biblioteque , regarda longtemps tous ses livres l’un apres l’autre, comme un pere, oblige de decimer ses enfants...(同書1407頁)
マブッフ氏は書棚を開けて蔵書すべてを、長く時をかけて一冊二冊と眺めた。あたかも子の十分の一殺(decimer)を命じられた父親のように...
十分の一刑とは全員から十分の一の割で死刑とする制度。隊の動きが鈍いので要塞を落とせないなど(全員を殺せないから)で実行された(ローマの風習)。子をdecimerするとは飢饉か、あるいは懲罰か。ナチがパルティザンによる人的被害をうけた報復に、村にこの刑を実行した。
Mabeuf氏は公会議員にも選ばれた名士、しかし今は王朝、regicideに声をかける奇特な人はいない。往時に贅を誇って集めた稀覯本を一冊二冊と売り、生活をしのいだ。
売る本の種も尽きた最期に1830年の争乱に参加し命を失う。
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レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 12

2019年02月08日 | 小説
(2019年2月8日)
文化創造に参画するためには、女性は周期性を具有せねばならない。
周期性とは服飾品や什器の作成とその使用で、家事全般である。それらにまして、自身の身体特性を周期化する要がある。月経の獲得にあわせ懐妊能は必須で、月が満ち十月十日の出産につながる。Arapaho族の娘が月に誘われ、天上の「文化家庭」に嫁として滞留したのは、周期性を基盤とする「文化生活」を修得して下界に普及させるためであった。脱出行での墜落死、己身の犠牲を払ってまでも周期律の文化委譲の偉業が達成された。
雌カエルが天上嫁の選から外れた。これはArapaho族のみならず全人類にとり、歴史上、最大の僥倖であった。さもなくば、パリのビストロで今時食われているのはヒトの脚で、食っているのがカエルとなっていた筈だ(前回に続いてのつまらぬ述懐の繰り返しをすまぬ。それだけ、神話を読む小筆の憂いは辛かったのだ。まだ食われていない脚をさすりつつ投稿子は今、安堵しているぞ)

先住民の思考が身体周期性に重きを寄せる仕組みについてレヴィストロースは、西洋社会の世界観l’enfer c’est les autres (地獄とは他者だ、悪は外に存在するとの意味)を取り上げ、その反対概念として位置づける。なおles autresの言い回しはサルトル=哲学論争の対敵者=劇作品での台詞である。さりげなく引用している。対する先住民はl’enfer c’est nous-meme(地獄は私たち自身が抱える、レヴィストロースの造語)の思考法であると対比させたうえで、周期律文化論を発展させている。

本書L’origine des manière de table食事作法の起源の最終章は「La morale des mythes神話の教え」その414 頁。
ワイン摂取の害はどこからか、論を始める。
子のワイン摂取をなぜ制限するかの問いに<<le vin est une boisson trop forte ; on ne peut l’administrer sans risque a des organismes fragiles>(415頁) ワインは強い飲み物で、まだ身体器官が弱いものには体の毒。
今の親はかく答える。しかし古代からルネッサンスまでは真逆の思考であった。
<<non pas la vulnerabilite d’un jeune organisme a une agression externe, mais la virulence avec laquelle les phenomenes vitaux s’y manifestent : =中略= Au lieu donc de juger le vin trop fort pour l’enfant, on jugeait l’enfant trop fort pour le vin>
訳;外界からの攻撃による(子供の)損傷ではない。それは(内包する)有毒物で、摂取に伴って様々な症状が表出するのだ。ワインは子供に強すぎるのではなく、子供の(潜在悪)がワインよりも強いのだ。

ワインは体に毒とする考え(l’enfer c’est les autres)は近世に生まれた。過去は身体がワインに対して強すぎると思考していた(l’enfer c’est nous-meme)。成人ともなれば身体悪を制御できるから、ワインに強すぎる事態を回避できる。ルネッサンス以前は先住民の思考、作法と同期していた。尊師レヴィストロースの指摘である。

写真:サルトルの戯曲のポスター、この語は当時(1950年代)流行ったらしい、歌評論などにカバーが出ている(らしい)

被服、什器などへの機能も異なる。手袋、外套、ストローを挙げて;
<<Au lieu, comme nous pensons, de proteger la purete interne du sujet conntre l’impurete externe des etres et des choses, les bonnes maniere servesnt, chez les sauvages, a proteger la purete des etres et des choses contre l’impurete du sujet>(419頁)
訳;(手袋、外套などの効用は)我々西洋人は内なる無垢を外部の人、物から防御するため
と考えるが、未開民においては、内なる不純を外の人、物の無垢への影響から守るためにそれらを用いる。こうした規範の根拠はl’enfer c’est nous-memeを外部へ吐露しないためである。

さらに;
櫛、頭掻き、ミトン、フォークなど什器を持たずに(作法に反した手順で)髪の手入れ、外出、食事などを実行するとは周期性を無視する所行でしかなく、結果(老化の速まりで)白髪、顔の皺など不具合が発生するとの言い伝え(新大陸広く)を挙げている(421頁)。

ここで女の周期性に戻ろう;
おおよそ新大陸のすべて部族で、月経にまつわる禁忌を挙げている。妻、娘が月の障りを迎えてギアナ先住民の夫は彼女らに食事制限を強いる。
<<Pour que leur corps elimine le poison qui, sens cela, fletrieait la vegetation et frait enfler les jammbes des hommes partout ou elles ont marche>(418頁)
訳;身体が(内なる)毒を滅消させるためで、その過程なしでは(女が)歩いた至る所で作物が枯れ、男の脚が膨れてしまう。空腹にして毒を消すのみならず、毒を消しおざなりにしてうろつくのは、まき散らしでしかないから禁じられる。特に裸足歩きは、極端に制限される。

女どもが月の禁忌をすっかり守らなくなったら、周期性が崩れる、
<<elles se trouvent constamment menacees—et l’univers entier avec elle , de leur fait—par les deux eventualites que nous venons d’evoquer : soit que leur rytsme periodique se relentisse et immobilise le cours des choses ;soit qu’il accelere et precipite le monde dans le chaos.>
訳;彼女らは間断なく脅かされるであろう、さらに宇宙全体までが危機に陥る。(月経の周期性欠如によって)宇宙のリズムが狂い、日と夜の交代が遅くなり物の動きが緩慢になるか、速くなってこの世が混乱するかの危機を迎えることになる。

月が人の嫁をとって身を固め、日夜の交代リズムが担保された。同時に女に月経が発生した。月と女の密約でこの世が平安に保たれている。しかし、時として女は約束を守らず奔放に生きるとする(蜜から灰へ、蜜狂いの娘、裸の人=神話学第4刊の「アビ、鳥plongeon」娘)などが例である。

レヴィストロース「食事作法の起源」を読む(続き) 12の了
(次回2月12日を予定)

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