蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 4 最終

2022年06月24日 | 小説
(2022年6月24日)« Le principe du plaisir » では衝動が内的に亢進し実践に向かうとする精神作用となる。一方 « le principe de réalité » は現実世界から刺激を受け欲望を感じるものの、すぐさまの実行を踏みとどまらせる精神作用とする。両者は補完して欲望行動のすべて、すなわち実現と踏みとどまりを支配する。
引用した(前回22日投稿)サイトの信用は確かなものであるから、こうした解釈が(仏国の精神分析界隈で)一般であろうと推察したい。欲望と現実の原理が実践と抑制に分化されて、2として補完、一体に働く。これでフロイトの謎掛けが解けた、めでたし、ラカンの解釈、循環弁証法の概念は部分的にも見出されないけれど。
しかしこの解釈は格好が悪い。
とくに « le principe de réalité » 現実原理をこのように形而下に、言い換えれば即物でカタをつける説明は苦しい。 « Ce nouveau principe… » で始まる上の引用(22日)は精神「分析」学としての説明でしょうか、首をひねる。
とっさに行動、向こう見ずへのブレーキならば社会常識、法律あるいは中学校性教育の指導範囲だと思うのです。精神の動きを物として説明するネットサイトのこうした世界とは、全く異なる次元でフロイトは思弁活動を続けていた。心理の累層、体験の重層、下層心理に沈みこむ後ろ向き記憶、それが無自覚に吐出し時として個を苛む。こうした複雑系を心理が抱えるから人が自我を確定できる。自己の気づかない精神の仕掛けが、個の立ち様と行動を支配すると説いてきたのです。こうしたいわば形而上で精神を解き明かそうとする思弁が臨床、病例の説明に影を落としている。
中学校性教育者が諭す教訓がフロイト精神分析ですよと教えられても嬉しさなど感じない(部族民の主観)。
ラカン先生にして他のあまた精神分析家が70年前から唱えていて(上引用の元となった)即物説明の聞き難さを心苦く感じていた筈です。看過許さじの構えで両の原理の対比と相違に(Hyppoliteの指摘を受けて)休み時間に頭を巡らせたのです。


カラヴァッジョ画マグダラのマリアの法悦

ここで<Que devient dans cette perspective le principe de réalité> この視界の中で現実の原理はどんな位置を占めるのか(107頁)=前出、ラカンの自問に戻ります。
まずは<Le principe de réalité est en général introduit par cette remarque…>現実原理には一般的に次の解釈を与えられている。(引用は略)快楽を追求しすぎると身体の変調が起こるなどの実例を挙げ<C’est ainsi qu’on nous écrit la genèse de ce qu’on appelle l’apprentissage humain>こんなところに « apprentissage修得 » の起源があるのだと人が語っているよ、放り投げるかの口調。なぜなら主流だった一般的解釈を記したもので、これをラカンは認めない。直後に<Dans la perceptive qui est la nôtre, cela prend évidemment un autre sens>私たちの見方では、それは全く別の方向性を持つ。
それら主張の趣旨「現実を体験して行動指針を習得する、故に直情には走らない」―は精神分析ではないとラカンがすぐさま否定する、流石に「中学性教育」の言葉は出なかったが。
この « un autre sens別の方向性 » を説明するにGribouille(間抜けうっかり、Gは大文字なのでうっかり氏)の顛末を紹介する。うっかり氏は埋葬に立ち会った「bonne fête立派なお祭りだ」と言った。立ち合い者から罵られた。家に戻ると家族から「埋葬ではお祭りなんて口にしない、Dieu ait son âme神のお助けあれと言うのだ」とたしなめられた。翌日結婚式に呼ばれ「神のお助けあれ」と祝辞を述べたら花婿家族に小突かれた。
<L’apprentissage tel que le démontre l’analyse, et c’est à quoi nous avons affaire les premières découvertes analytiques ― le trauma, la fixation, la reproduction, le transfert. Ce qu’on appelle dans l’expérience analytique l’intrusion du passé dans le présent est de cet ordre-là>(108頁)
訳:この挿話の教訓とは精神分析学が初にしてあらわにした修得となるもので、トラウマ、固定、再生産、転移の組み合わせである。それは過去経験が現在精神に侵入したもので、その順番は上に書き留めた通りである。


ラカンセミナー講師姿(ネットから採取)

部族民なりの理解を記す。
トラウマle trauma、固定la fixation、再侵入la reproduction、転移le transfert。これらは精神分析の学術用語となる、訳は蕃神の私訳なので定訳とは差異があるかと思う。概念を説明するに部族民は全くもって適任でないが、語感から受け止められる意味合いを頼りに挑戦するとトラウマは心傷、固定はそれを思い締め深層に封じる、同様経験に接し心傷の再侵入を許す、つらい思いを別事象に転移するなどとなるー過去は消えず心理の奥に心傷はこもる。この一連の過程、修得apprentissageをうっかり氏が小突かれたりして体験したのである。
ラカンは丁寧にも教育での修得とは何かを付け加えている。
<Qu’est-ce que dévoile l’analyse ― sinon la discordance foncière, radicale, des conduites essentielles pour l’homme, par rapport à tout ce qu’il vit ? La dimension découverte par l’analyse est le contraire de quelque chose qui progresse par adaptation, par approximation, par perfectionnement. C’est quelque chose qui va par sauts, par bonds.
訳:人は生き体験を重ねる、体験と個の関わり合いで、基本行動において過激かつ根本からの不調和を除いて、精神分析は何を明らかにするのか。精神分析が解明した次元とは、適応性を発揮し進展すること、大まかさで妥協すること、あるいは完成を極める努力―このような事柄とは正反対である。それは跳躍や外し飛びで進む何かである。
皆様にはお分かりかと;
« Adaptation, par approximation, par perfectionnement » 適応性を発揮し進展すること、大まかさで妥協する、完成を極める努力―が教育における修得です。 精神分析が主張する « le principe de réalité » とは « Le trauma, la fixation, la reproduction, le transfert » の原理となります。両を対比させると教育での過程は具体、即物的で、精神分析が説く修得は抽象、思弁的であると思います。
ラカン説では「現実原理は精神の裏に働く作用」である。ここで心理の構造性、記憶の累層性との整合が取れた。<Si vous ne pensez pas le principe du plaisir dans ce registre, il est inutile de vous introduire dans Freud. (107頁)快楽の原理をこの脈絡の中で考えない人をフロイト世界に導く意味はないーと大見得を切った訳がわかった。快楽原理と現実原理の補完関係を否定しないとフロイト2大原理の理解に至らないのじゃ。
残念ながらキッカケを作ったHyppoliteはこの時限に欠席していた。彼の反応を聞きたかったのだが(時空間移動で臨席した部族民の述懐)。
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し4 最終の了(2022年6月24日)

後記:快楽原理は欲望リビドーを起動因としている。フロイトはそれを「性衝動」に収斂しているがラカンは一般性の衝動 « Ne serait-elle pas, cette libido, quelque chose d’assez libidineux ? » (106頁、前出) としている 。個の内面から露出するそれを « affect » とすれば精神から起動し外部対象を象徴 (symbole) として特定する « fonction symbolique » (3月18日投稿)との繋がりが見える。一方、現実原理は外部事象の有様を個が受け止め空想化する、こちらは « fonction d’imagination » に比定できる 。両の原理では精神作用の方向が逆向きになっている。これをして双方向の作用とするとラカンの循環弁証法が理解できる(部族民の私見)。
今後の予定:本稿で紹介したVII章はキルケゴールと精神分析の関連で行を閉じます。近々に快楽のはての続編として投稿します(7月中)。
次にセミナーIのLe Fort女史報告「オオカミ少年」を採り上げます。母親の虐待から「狼」としか話せなくなったRobertの心理とは。精神分析医師はそれを妄想と見立てるがラカンは « sur moi » 超自己なる概念を持ち出します。ここでもラカンの形而上的分析が光ります。ぜひお楽しみに(7月末)
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ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 3 

2022年06月22日 | 小説
(2022年6月22日)ラカン先生が自ら持ち込んだ論議の種は; « Il y a, sur le plan de l’intuition, quelque discordance entre le principe du plaisir ainsi défini et ce que ça évoque le plaisir » かように解釈する快楽原理と、快楽が導くところの何かとの、不整合が認められる、直感ではあるが。
直感と訳したが直観(認識性がある)はより近い。欲望とは快楽を求めるためにあって、それを実行するよう行動を律する機能を持つ。快楽を閉じるために人を動かしてはいない―との人の直観と循環弁証法説は相容れない仕組みをラカンが自問している。
フロイトの曖昧な説明が混乱を招いた。<Chacun court après chacune> それぞれが自身の解釈(interprétation、女性形)を追い求める状況になった。緊張の最低位に立ち戻る自説の循環弁証法を否定するかに受ける。こんな文が飛び出した。<Freud n’a-t-il pas introduit après tout la fonction de la libido dans le comportement humain ?> フロイトは何よりも先んじてリビドーの機能を人行動に当てたのではなかったか。
否定疑問文なので「人行動に当てた」肯定として解釈するのが正しい。すると行動 « comportement » の意味が理解の鍵となる。この語は個々の単一の行動を意味するのではなく反応の総体 « ensemble des réactions » (Robert) を言う(行動主義心理学派の解釈、らしい)。すると「リビドーは(性行動のみならず)人の反応総体」を支配する内的起動因となる。<Ne serait-elle pas, cette libido, quelque chose d’assez libidineux ?> ここでのリビドーはよりリビドー的な何かであって然るべきだろう(106頁)。
フロイトはリビドーを性衝動とした。それを拡大し人の衝動反応の総体とするラカンのこの説明はJungを彷彿させる。このラカンの「フロイト拡大解釈」は注目です。続いて、


写真はセミナーXVII 表紙写真は1968年5月の学生騒乱の指導者Daniel Cohn-Bendit が警備のgendarme(軍警察)を嘲笑している姿。この切り取り状況がなぜ採用されたかは不明。編集者Milerは当時24歳(1944年生)、5月騒乱に参加した思い出を残したかったのか。


<Vous voyez que le versant de la théorie va ici en sens strictement contraire de l’intuition subjective―dans le principe du plaisir , le plaisir, par définition, tend à sa fin. Le principe du plaisir, c’est que le plaisir cesse>(107頁)
訳:フロイト説が示す処がここにおいて主体的直観とは正反対に向かうを知ることとなる。快楽の原理における快楽は、その規定からして終局を目指す。快楽の原理とは快楽を終焉に向かわしめる働きをしているのじゃ。
と自らの問を自答した。
さて、
Hyppolite指摘は「原理を打ち立て、その原理が他に影響を与えるとフロイトに書かれている(ダーウインにも通じる所がある)」。その主たる原理が快楽の原理。これまでのラカン説明からそれを纏めると
1 快楽を得て神経系が活性化すると活性の最低値に戻る規則を持つ(循環弁証法と命名)
2 快楽を性衝動に限定しない、行動総体の発生と収束への起因となる
3 弁証法に支配されるが(性衝動だけではない)一般化と自発性が認められる。すると内から発露する感情 « affect » と共通する処がある(部族民解釈)
困った一点が浮かび上がる。快楽の原理に関連する« le principe de réalité » 現実の原理、こちらは欲望の即実行を阻む « Entrave, ajourner » 足かせ引き伸ばしを受け持つ、「活性の低位安定」が主たる機能である。ラカンはこの機能まで快楽原理に押し込んでいる。快楽原理が両方を統括するのであれば現実原理の立ち位置が見えなくなってしまう。
<Que devient dans cette perspective le principe de réalité> この視界の中で現実の原理はどんな位置を占めるのか(107頁)はラカンの自問。彼の説明は後回しにして、両の原理がフランス思想界、21世紀でどのように理解されているかを探ると。
<Le principe de plaisir constitue un des deux principes réagissant le fonctionnement mental : l’activité psychique, dans son ensemble, a pour but d’éviter le déplaisir et de procurer le plaisir>快楽の原理は精神を司る2の原理の1にして、苦痛を避け快楽を求める霊的活動である(Étude Psychanalytique, Larousse Encyclopédie 電子版)
ラカンが語る循環弁証法、活性と不活性を行ったり来たりの説明は一切見えない。では « réalité » については;
<Ce nouveau principe (= celui de réalitéのこと,フロイトが提唱したのは1911年 ) synthétise la capacité du sujet à prendre en compte les entraves à l’accomplissement de ses désirs qu’il rencontre dans le monde réel>この新らたな原理は個体の精神機能を統合する、現実世界で自らが湧きたてる欲望に足かせを当て引き伸ばす機能を受け持つ(ネット哲学サイト1000idcg.com.découvrir les 5 secretsから) 。
両原理の説明を2の引用源に分けた。Plaisirの説明に引用したLarousse電子版からréalitéを持ち出すと歯切れが悪い(理解出来ない)。一方1000idcgサイトはréalitéには行数が多いがplaisirに語を費やしていないが理由です。どうも2の原理を同時掲載すると一方が軟弱化してしまう怖れを避けたか、これは邪推です。2のサイトを用いて2説明を合体すると何故か筋が通る。その一本筋とは:
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 3 了(6月22日、次回24日最終)
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ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 2 

2022年06月20日 | 小説
(2022年6月20日)<生きる器械(身体)の実態からして自立系を司るのは神経系で、その働きによって最も低い刺激状態に戻る>が前回(17日)の最後の文。これを理解する鍵となる語が 原文にある « homéostat » 。
スタンダード辞典を開くと「サイバネティクスでのホメオスタット」と記される。これでは分からない。Petit Robertを開けると「前もって設定される均衡の基準値に立ち戻る複雑系」幾らか理解できた。 « Cybernétique » サイバネティックは「機械の立ち行きは通信系と基準値への復帰規制で制御される」みたいな説明があった(同)。すると « homéostat » の意味は生きる器械である人体が「刺激を受け快楽を追求し愉悦状態が亢進されても神経の働きで、基準として設定されている最も低い水準に戻る 自律系」となる。
ラカンは快楽原理を神経が制御する自立として説明した。その運動は行ったり来たりに自動制御される。この動きをして「快楽頂点と最低水準の緊張」概念を打ち立てたフロイトに独創があり、それをして「循環弁証法」と名付けた。
この行ったり来たりが誤解を生む。<Freud leur a offert là l’occasion d’un malentendu de plus, et tous en chœur s’y précipitent dans leur affolement> ここでフロイトはさらなる誤解の元凶を彼らに与えてしまった。皆が立ち騒ぐ狂乱の様は音の揃わない合唱隊だった(同)。
彼らとはフロイトの賛同者、前述の対比関係、特に最低緊張 « le plus bas de la tension »とはなにかで論争が巻き上がった様子をかく述べたのである。
最低緊張の解釈にラカンは2の候補をあげる。 一の候補は « pur et simple, c’est-à-dire, la mort » 単純簡明にそれは死。そして « les processus de la décomposition qui suivent la mort » 死に続く肉身の解体にたどり着く。身体を精神に置き換えれば「精神の死、崩壊」とも捉えられる(ラカンはそれに言及していない)。二の候補は « une certaine définition de l’équilibre du système » 生体系をサイバネティックとして均衡する点。基準としてそこに戻る。いわば « homéostat » の特異点。
第一の解釈では快楽の原理をフロイトが提唱した「死の本能」が結びつけられる。この解釈がフロイト追随者に喧伝されていた事情をラカンがかく語り、それが前引用の « affolement » 狂乱の意味合いに繋がります。快楽の果ては死の本能―と語るとなんとも(当時1950年代に流行った)実存主義です。時代にもてはやされた解釈でした(70年前のフランス論壇の傾向を知らない、ネット情報のかき集めです)。
<C’est supposer le problème résolu, c’est confondre le principe du plaisir avec ce qu’on croit que Freud nous a désigné sous le nom de l’instinct de mort>これで解決と問題を片付けただけで、フロイトが我々に諭したと人が信じるところの死の本能と快楽の原理の連関に混乱を招いただけだった。


コリアンダーの花、葉っぱをサラダに加味しようと鉢に植えたらすぐにトウが立って花になった。季節ですね。


歯切れが悪い。気付いて言い訳気味に<Je dis ce qu’on croit, parce que quand Freud parle d’instinct de la mort, il désigne heureusement quelque chose moins absurde, anti-scientifique> 人が信じるところのと申したが、フロイトが死への本能を語るときは、まあ幸運なことに(=本当の死ではない)非合理ではないが、非科学的な何かを当てているのだから(103頁)。
それを生物学的死と信じたら誤り、別の意味の死をフロイトは諭したのだと言いようだ。別の非科学的な何かとは« tend à ramener tout l’aminé à l’inanimé » 生体系全体を活発から不活発へ導くモノであるとした、精神作用である。次の文に移る。
« Ce n’est pas la mort des êtres vivants. C’est le vécu humain, l’échange humain, l’intersubjectivité » それは生きる個体の死ではない、人の体験の死だ、人の交信の死だ、主体内部活動の死なのだ。
ラカンが蘊蓄を傾けた « homéostat , cybernétiques »と「体験の死、交信の死等など」を結びつけるとフロイトが語る死は「交信と制御」を遮断した不活性の肉体、そして精神も不活性化に陥ると読み取れる。「快楽と不活性状態は循環弁証法の関係にある。快楽を求める本能には反作用として不活性に向かう本性が潜むのだ。その過程は遮断、交信停止を神経系が人体に押し付ける」。これが緊張の最下点 « le plus bas de la tension »なのだとフロイトが説明したのだ、とラカンが言っている。
第一原理 « le principe du plaisir » の定義を以下とする、 « Au niveau du système nerveux, quand il y a stimulation, tout opère, tout est mis en jeu, les efférents, les afférents, pour que l’être vivant retrouve le repos. C’est le principe du plaisir selon Freud » 神経系の段階で、刺激が発生したらすべてが、導出血流(efférents)も導入血流(afférents)も、一体となって起動して後、休息に戻る。これがフロイトの快楽説である(106頁)。
この後、熱力学と通信理論を精神に擬える試みを語る。エントロピー、ベル研究所(アメリカ)の通信(パケット)技術など例を説明する。これらを持って人体内のhoméostatの基準点、神経の交信の巧妙さを説明しようとしている。精神の事情である快楽の追求と、近代科学との関連を、それらラカン説明に見いだせない部族民は脱線と憤ってしまうが、エントロピーを理解しない者の泣き言であろう。
しかるにここで万事解決には至らない―ラカン先生は自ら論議の種を掘り起こす。Hyppoliteが抜けたので彼が指摘しそうな項目を取出した、フロイトのもう一つの原理 « le principe de réalité » 現実原理との不整合が発生しているのだ。
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 2 了 (6月20日、次回22日)
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ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 1

2022年06月17日 | 小説
(2022年6月17日)精神分析学ジャック・ラカン著セミナーIIの紹介を続けています。「ラカンとレヴィストロースの接点」を本年3月18日~4月1日全5回、「精神分析現象学ゲシュタルト」として5月16~27日6回GooBlogに投稿しました。内容はレヴィストロースでは思考の巡らせ方でラカンとの共通性を指摘し、また彼の精神分析論での根幹、象徴化と空想化の(Hyppoliteの指摘を起点に)解析を加えた。
直近のゲシュタルトではMerleau-Ponty知覚の現象学はgestalt思考の一派生とラカンが否定的に指摘した。しかしセミナー(パリ聖アンヌ病院にてラカンが主宰する精神分析講座)参加者からの快諾を得なかった。さらにはMannoni(精神分析医)からフロイトとダーウィンの関連が取り沙汰された。この論点が進むと「精神分析の原点はgestalt」に風向きが変わる事態に陥る。さらにHyppolite(高等師範学校校長兼哲学教授)からラカンが注釈するフロイト学説とは異なる見解も出された。
(フロイトでは臨床と治療が優先される、原理を立ち上げ精神の事象を演繹説明する分析手法を取らないとラカンが主張するも、Hyppoliteから一の体系の原理が他の体系と連動し原理統合する、この記述がフロイトにあると反論された。ダーウイン進化論とも似通う=原理を立てて実際を説明する=との哲学者ならではの指摘でした)
窮地に陥ったラカン先生はReprenons cela pas à pas (その当たりを一歩一歩で片付けよう)で締めくくり休憩時間が入った(以上が前回連載投稿の最終回5月27日の抜粋)。
2時限目ブッブー、
本文の前に:
この章(セミナーII、VII章Le Circuit)の文脈はラカンの講義、参加者の質疑を実地のままに活字起こししているので、心情あからさまなやり取り以外にも当時(1950年代)の思潮の流れを摘める面白い。歯に衣を着せないラカン向こう意気が強烈の弁。一方、敢えて質問を起こし訂正をほのめかす参加者。これほどの談論風発、火花も爆ぜるセミナーを見届けるに現場に向かわなければと意を決し、時空間瞬間移動を部族民は実行した。目指す時は1955年1月19日現地時間19時、空間こそパリは14区カバニ通り聖アンヌ病院、その中庭は華麗なバラ園、冬にも花が咲き誇り心病んだ入院者を紅にピンクに慰める。花園を見下ろすポリクリニック室に、影を見せず息をも継がず「エイッや」中空から飛び降りた。
中央の会議卓に肝心のHyppoliteが見当たらない。2時限には席を外したと思える。残りの二人は若手の精神分析医AnzieuとMannoni。ラカンの弟子、歳の差よりも経験知識の隔たりから、講義を聞く一方の場面が続きそう。あらぬ方向に講義が流れても、これがラカンの特技なのです、正面切ってのより戻しなど試みようがない。先生の独壇場に居合わせるやの怖れも予感すれば身も縮んだ。
ブッブーはセミナー再開の時報、ラカン先生、早足でポリクリ室に入るやいなや、


歯に衣着せぬラカン先生、鼻っ柱も強いと見た(写真はネットから)


<A quelle impasse sommes-nous arrives la dernière fois ? L’organisme, déjà conçu par Freud comme une machine, a tendance à retourner à son état d’équilibre ― c’est ce que formule le principe du plaisir. La tendance répétitive qu’il isole, et qui est ce qu’il apporte d’original. Nou nous posons donc la question suivante ― qu’est-ce qui distingue ces deux tendances ?>
訳:前の講義でとある処で行き詰まった。身体系に付いてだった、その解として以下を伝える。フロイトは機械的動作を持つと身体系の正体を見破っていたが、常に平衡状態に戻るとの運動習性をも持つ。これが快楽原理の公式となる。この系には反復がつきまとうと主張したのはフロイトの独自性である。すると次の質問が浮かぶ、この2の傾向にはどのような区別があるのか?(Le séminaire II 102頁)
最後の「2の傾向」とは平衡から亢進へと向かう、亢進から平衡に戻ると理解する。
Hyppoliteが指摘した他の系を統合する原理le principeとは、le principe du plaisir快楽原理であろうと目星をつけて、そこに思考を一点集中させてフロイト学説を再吟味し、Hyppoliteに対抗せむが休み時間作戦と知った。予告なくHyppoliteが退席したのは残念だが、自説を開陳できるこの機会を有効利用せむとする覚悟にラカンは燃えた。
<Les moyens sont très curieux dans ce texte, parce qu’ils sont de dialectique circulaire>
訳:フロイトが本書(Au-delà du plaisir、快楽の果に)で主張した理論は風変わりだ。2の方式は周回弁証法となる。
これをして « l’originalité de la tendance répétitive » 繰り返しの独自の傾向はフロイトの発見とラカンは評価する。生ける道具に刺激が与えられると、神経系統がhoméostat自立調整機能を引率する…この働きが亢進を抑え次の段階として « l’excitation au plus bas »最も低い刺激状況に戻す。
(精神分析現象学ゲシュタルト三題噺の初回投稿(5月16日)にて第7章の主題Le circuitなんとこれを訳すかと自問した。この段階(読み始め)では不明と逃げたが、欲望原理の循環弁証法だったと判明した。すると訳は「循環」が正しい。本文に戻りラカン説明を引用する、
<Depuis le début jusqu’à la fin de l’œuvre de Freud, le principe du plaisir s’explique ainsi―devant une stimulation apportée à cet appareil vivant, le système nerveux est le délégué essentiel de homéostat grâce auquel l’être vivant persiste une tendance à ramener l’excitation au plus bas>(102頁)
訳:フロイト作品の初めから終わりまで、快楽原理は以下に説明される。刺激が与えられた生きる器械(人間)の実態からして自立系を司るのは神経系で、その働きによって最も低い刺激状態に戻らむとす。
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 1の了 (6月17日)
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精神分析現象学ゲシュタルト三題噺のホームサイト掲載

2022年06月09日 | 小説
2022年5月16日~5月27日にGooBlogに投稿した加筆版となります。アドレスは
http://tribesman.net/gestaltponty1.html
部族民通信サイトのホームページは
http://tribesman.net/
ラカンを集中して読みたい方は
http://tribesman.net/psycha.html
(ブログページではアドレスリンクが生きない、http://...をコピー、Google窓にペーストしてください)

種本はラカンセミナーII、

及びメルロ・ポンティのCauserie(ネット版)


ラカン先生のご尊顔は


なお、
部族民通信GooBlogへのアクセスは、ラカンを取り上げて以来、ホッケースティックの如く右肩急上がりを見せています。皆様のご感心ご協力の賜と喜んでいます。しかし、
ホームサイトへのアクセスは底打ちのママ、低位を継続しています(涙。唯一の慰めは最低でもゼロアクセス、これまで一度もマイナスアクセスを記録していません。
某社民党の人気が凋落してゼロにこそなれ、決してマイナス支持に落ち込む悲惨は起こりません。政党支持とホームページアクセスは同じと感心し、慰めております。
ぜひ部族民通信サイト http://tribesman.net/ にご訪問を。


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