蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

続ラカンとレヴィストロースの接点をホームサイトに

2022年04月30日 | 小説
続ラカンとレヴィストロースの接点(Gooblogに4月18~25日4回投稿)を部族民通信ホームサイトへの掲載完了をお知らせします。
サイト上のページアドレスはhttp://tribesman.net/lacansuit1.html または、
ホームサイトIndexページhttp://tribesman.net/index.htmlから入って続ラカンとレヴィストロースの接点をクリック。


ジャック・ラカン著セミナー第2巻 第3章レヴィストロースについての対話をこれら連続投稿で紹介した


「続」の主題は自己(le moi)の形体です。それは「湧き出す泉」のようなもので人は常にその中に入り込む(本文から)としています。 すると自己とは形式であって本質ではないとなります。自我は意思を持たず、目的を持たず、究極相(finalité)も持ちません。第一巻のセミナー講義では<Le moi est bel et bien un objet>自己はいみじくも客体である(第一巻66頁)としている。この主張を通して « fonction symbolique »を考えると主体はこちら側、シンボル能力にあると気づく。自然哲学、ゲシュタルト心理学の全面否定です。
なお同時にアベノマスクがやって来た、もサイトに載せました。
http://tribesman.net/abenomasuk.html
渡来部がマスクを著供養している。よろしくご訪問を。(2022年4月30日)
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続ラカンとレヴィストロースの接点4 個と集団 最終回

2022年04月25日 | 小説
(2022年4月25日)本連続投稿の初回(続のない接点1、3月18日)で予告した提題の4番目は:個と集団は「全く同一」。このラカン指摘に対するレヴィストロースの返答は;
<C’est bien là qu’il y a eu hier soir quelque flottement dans la réponse de Lévi-Strauss à ma question. Car, à la vérité, par un mouvement fréquent chez des gens qui introduisent des idées nouvelles. Une espèce d’hésitation à en maintenir tout le tranchant, il est presque revenu à un plan psychologique>(43頁)
昨夕の話だ、私の質問に対した時のレヴィストロース答えにはなにやらぎこちなさが感じられた。 それもその筈、新しい理論を導入しようとする人は、時にこんな動きを見せるものだ。理論の刃先を研ぎつめて振り上げる。こうした状況下でも一種の躊躇を感じる、心理学理論が彼にも応用される証明ですね。
この一節でラカンの元(パリサンタンヌ病院)にレヴィストロースが訪ねたと分かる。セミナー日付は12月1日とあるから1954年11月30日。きっとレヴィストロースは構造主義そして執筆中の悲しき熱帯を語ったと思われる。そのレヴィストロースを「ダンビラかざして寄らば斬るぞ」の戸惑いと描写する。ラカン先生、余裕があります。レヴィストロースへの質問とは;
<Quelle solution pourrait-il attendre du mot de collectif en cette occasion, alors que le collectif et l’individuel, c’est strictement la même chose ?>集団と個は厳密に同一であるとの指摘に対して、集団なる語はいかなる意味合いになるだろうか。


レヴィストロースに「集団と個は同じじゃよ」と講釈したラカン(写真はネットから)


質問するラカンが答えを用意している。集団と個を同一とする「とある一つの起動因」があって、それが象徴化能 « Fonction symbolique»とラカンは主張しこの持論を展開する、レヴィストロースの返答を待たずに。まさにセミナー教授のノリです。
<Si la fonction symbolique fonctionne, nous sommes à l’intérieur…>象徴化能 が起動すると我々はその内部に潜り込む。(fonction symboliqueの議論は前回22日投稿と重なる部が多いが、文脈の流れに沿って紹介するのでご容赦)
人が思考の内部に入ってしまう、どのように理解するのか。
<Dans une grande partie des problèmes qui se posent pour nous quand nous essayons de scientifiser, c’est-à-dire de ,mettre un ordre dans un certain nombre de phénomènes, au premier plan desquels celui de la vie, c’est toujours en fin de compte les voies de la fonction symbolique qui nous mènent, beaucoup plus n’importe quelle appréhension directe>(43頁) 例えば生命現象など色々と重なる事象を一つの秩序にまとめる、これをして科学的手順と言えようが、このときの問題とはいかなる直接理解よりも、象徴化能を通して、この科学的手順を用いることが多いのである。
直接理解とは事象、現象をありのままに解析する「科学的」手法。解析にはそのありのままは不要で、根源となる思想を探りそれを通して論を進めるべきとラカンが諭す。
これまでは社会を採り上げていたが、この文で精神に視点を移した。すると前文の<思考の内部に>が紐解ける。それを精神分析で語る深層心理と理解する。患者は自らの心の内部に沈みこむ。そこは象徴化能の島である。故に精神分析医はその現象を用いて患者心に肉薄するーと読んだ。しばらく精神分析の技法説明が続くので、その文節を飛び越える。
ここでHyppoliteが質問する。精神分析論から抜けでて、形而上の切り口を見せるから大変興味深い。

<Vous avez opposé l’univers au générique, en disant que l’université était liée au symbolisme même, à la modalité de l’univers symbolique crée par l’homme. Mais c’est une pure forme. Votre mot « université » veut dire qu’un univers humain affecte la forme de l’université, il attire à une totalité qui s’universalise>(47頁)あなたは宇宙(文化)と生殖界(自然)を対峙させた。宇宙は象徴に、すなわち人が形成した象徴宇宙の具体形となるが、それに繋がるとの言い方を採った。それは単に形を述べているだけではないか。あなたの語る宇宙性とは人のとある宇宙が、宇宙の形体に影響する。その宇宙の形体とは何がしかの総体があって、それは宇宙化する方向を持つ、それだけではないのか。
精神分析技法を云々する議論から、禅問答に昇華してしまった。クセジュ文庫を思わせる迷訳ではなんのことか分からない。Hypolitteの言い分を部族民なりに解釈すると;自然と文化を対峙させるのは当然だ、そこに象徴化を持ち込んでいるが、これは文化を熟成させるだけのもので、そこに特異性はない―と。
ラカンの返答<C’est la fonction symbolique>それが象徴化能である。
Hyppolite<Est-ce que ça répond à la question ? Ça nous montre simplement le caractère formel que prend un univers humain>それは答えになっていない。あなたの言い分とは人の宇宙が採るべき形式的性格を語っていると思えるが。「宇宙が採るべき...」の言はHypolitte がラカン説を延伸解釈している。いわば助け舟だったのだが、ラカンはその示唆には乗らず、
<形式的とおっしゃたがそれは2の意味がある>とかわす、1にformalisation mathématique数学的形成を例に出す。「数学的...」を気にすることはない、ラカン一流の修辞でこれが一般に膾炙される形式的。彼は2番目の概念を出す<Au sens gestaltiste du terme, par contre, la forme, la bonne forme, est une totalité, mais réalisée et isolée>ゲシュタルト哲学ではこれとは逆で、形とは良い形でしかない。良い形は必ず実現する、かつ孤立している。
Hyppolite<Est-ce ce second sens qui le vôtre, ou le premier ?> その2番目だがあなたの解釈なのか一義のそれか。
ラカン<C’est le premier, incontestablement>否定の余地もなく第一義である。持説の水平線を広げるために「自然哲学と対立するのだ」と大見得を切る。この鼻っ柱の強さがラカンの持ち前なのです。
とうとう出てきたゲシュタルト思想。ラカンはそれを形の哲学とし、形は目的を必ず達成する「良い形」であるとした。自然哲学la philosophie de nature(集体は一元で構成される)、自然的心理学(Mannoniの質問をラカンが遮って否定的に答えたゲシュタルト心理学、これを指すと前投稿で推理した)、究極律finalité目的論の、ラカン思考の中での繋がりが明確となった。いずれもそれらを否定するのだが、その理論背景に人が形成し関与する象徴化能をおいた。
この心理分析の思想を社会に置き換えてレヴィストロースに「個=精神と集団=社会、は同一だろう」迫ったのが1954年11月30日だった。直接の返答は結局、本セミナーで叙述されていない。そのことをして « flottement »戸惑いを当てたのかもしれない。
続ラカンとレヴィストロースの接点4 個と集団の了(2022年4月25日)最終
(続接点は4をもって最終とする。近親姦淫に対する両者の違いが残るが、これは別の投稿で語るつもりです。しばらくは「読む楽しみ=徳永 恂」に専念します。蕃神)

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続ラカンとレヴィストロースの接点3 Finalité と精神分析構造主義の下

2022年04月22日 | 小説
(4月22日)ラカンが探り出したレヴィストロース社会の形成原理は « une nouvelle fonction »であった。この語を受けてラカンは自身の用語 « La fonction symbolique »を持ち出し精神分析の概念は社会にも応用できると我田引水気味に展開する。
<La fonction symbolique n’est pas nouvelle en tant que fonction, elle a des amorces ailleurs que dans l’ordre humain, mais il ne s’agit que d’amorces. L’ordre humains se caractérise par ceci, que la fonction symbolique intervient à tous les degrés de son existence. (41頁)
この象徴化能は目新しいものではない。人秩序の中で、と言ってもその原初においてのみ、それはきっかけとして働いた。ともかく人秩序なるものの形成とは象徴化能が社会いたるところで介在しなければならない。
<Dès que le symbole vient, il y a un univers de symboles. Si petit que soit le nombre de symboles que vous puissiez concevoir à l’émergence de la fonction symbolique comme telle dans la vie humaine, ils impliquent la totalité de de tout ce qui est humain>(42頁)
象徴を獲得に至れば即、そこには象徴の宇宙が立ち上がる。象徴化能の泉の湧き出し(前述)に認められる象徴の数がわずかであっても、人活動の全体に象徴が働く。
注:単数のsymbole及びla fonction symboliqueを人の持つ根源的思考能力としてtranscendantal(先験、カント用語)と対比させる。複数のsymbolesはレヴィストロース構造主義に於けるidée(思想)に当て、これが実はラカン用語imagination(空想)に当たると理解する。
この時点でラカンは単数の象徴化能と複数の象徴(実は空想)を使い分けるまでに思考を巡らせていない。後の段落でHyppolite(哲学者、高等師範学校長、仏国翰林院など歴任)から「fonction symboliqueとは根源の思考transcendanceだろう。ここを起点とする思索手順にimaginations空想が派生するのだろう」と指摘され「痛いところを突かれたな」と慌てるも「bien sûr, c’est la présence dans la absence…もちろん、それは無いようであるのだ」と言い逃れし切り抜けた(続のないラカンとレヴィストロースの接点で解説) 。PDF図表にてラカン精神分析とレヴィストロース構造主義の接点を改めて確認しよう。





ラカンセミナー今回議論の皮切り役を努めたMannoniの指摘は「社会は精神âmeを具有する」。この発言をラカンが「finalité論に繋がる」否定した。社会は主体sujetではない、象徴化能を入れる容器であるとの立場となる。社会を精神と言い換えればラカン精神分析の理解に近づく。この考え方とは異なる思想に前記のfinalité論が挙げられるが、それは「精神」に機械的運動性を内包するとなる。ゲシュタルト心理学が代表を目される。レヴィストロースはマリノフスキー(ポーランド出身の民族学者)を「機能主義」として批判している。社会を構成する要素には何らかの機能が付随するとの主張である。ここにもfinalitéが伺える。ラカンがゲシュタルト心理学を否定するのと同じ歩調を取ることに留意しよう。
本章の題は「L’univers symboliqueシンボル化の宇宙」。これまでfinalitéを大いに論じたが、象徴化能(fonction symbolique)を究極律(finalité)の解釈(私見)と絡めて、連続投稿の最終段として論じたい。
究極律(finalité)とは何か;
概念はギリシャに始まる;
(以下は各種情報のごった煮、話半分としてくれ)アリストテレスは究極のなんとか、例えば 美とか究極の肉体« finalité physique »を提言した。この概念は中世に引き継がれ究極のナニガシ(騎士道、純愛、王女など色々あった)が語られていた。これは哲学(形而上の論法)の範囲ではない。美学、信仰、思い込みにとどまっていた。デカルトにこの概念は「うざい」と即断否定され、一時日の目を見なかった。
カントの新解釈で復活した。混乱していた概念を3に分けた。1アリストテレスを踏襲する「目に見える究極律(extrinsèque)」2目に見えない(intrinsèque)3継続する(sans fin)。
1を美学、目的論に結びつけると究極の美女は「見えるfinalité」に当たる。2の見えないがカントの新展開で「システム内部のからくり、それが起動してある方向に進む」、けれどその仕組は見えない。美女を形成する人体システムの動きと言える。3の終わりなきで美女とは実は確定判断ができない。感性でも理性でも決めつけられない。靖子と文子はどっちがキレイなんて美女論争は終わりなく続く。この事実をして終わりのない究極律とする。本投稿第1回(4月18日)で究極を相と律に分けたが、実はカントはとっくにそれをintrinsèque 、extrinsèqueに分解していた。
ラカン、Anzieuらは当然カントの解釈を知っている、影響を受けている。1~3の規定で究極を論じていたはず。特に2を社会の主体(意思、女は少なくて良し)として1の見える結果(男女比の不均衡)につなげる(これがAnzieuの解釈)。しかし社会が主体になってはラカンが困る。なぜなら社会の究極律「見えない精神、見える結果」が精神分析に転移してしまうとラカン論と対立する。レヴィストロースにしても、そうした目的論を標榜してないからラカンがnouvelle fonctionを強調し、ついでに自説L’univers symboliqueシンボル化の宇宙を開陳したのである。こう考えています。
続ラカンとレヴィストロースの接点3 Finalité と精神分析構造主義の下の了(4月22日)次回は個と集団4月25日予定。
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続ラカンとレヴィストロースの接点2 Finalité と精神分析構造主義の上

2022年04月21日 | 小説

(4月21日)前回(18日)最後の行、« une dynamique naturelle » 自然的な動態、この文脈の中でこうした語が用いられると « finalité » 究極律が浮かび上がる。親族構造を語るレヴィストロースを理解するに自然を持ち込んだら不能、これが文意になるとして、社会は自然の宿命(dynamique naturelle 、究極相の言い換え)とは「無縁」、ここ「自然と無縁」にラカンが落ち着かせた。
社会を統治するのは文化であって「親族の基本構造」主題がここにある。社会での究極率finalitéの否定からからズバリ核心「文化」に切り込んだラカン先生の論法はさすが、脱帽。
「親族の…」序章でレヴィストロースは親族構成を「系統」対「同盟」に分けた。この峻別を通して系統内部婚姻を近親婚と忌み下げ、その間柄の婚姻を認めない通婚の「文化」制度を作った。嫁婿は外部社会から手当するしかないが、行き当りばったりで息子と娘を交換する仕組みを文化と呼ばない。交換する相手部族を特定することで同盟が形成される。系統同盟を骨格とする社会がここに成立するとの主張です。
(この仕組が族民社会に定着したのは新石器革命以降とレヴィストロースは主張する。すると彼が述べる人社会の「自然」とは旧石器以前の状態を指す。自然を猿社会と想定してはならない。後の作品「野生の思考La Pensée Sauvage」で人は新石器革命以降に思考(具体科学)を獲得したとする主張とラカンの歩調が合う)
社会に意思が付随し自らが設定する目的(これが究極律)へまっしぐらに、この目的論をレヴィストロースは排します。ラカンの語る家族親族を系統同盟をと読み替えて、社会文化の萌芽の仕掛けと解釈する彼の指摘はまさに正鵠を射た。
彼の本貫の精神分析学では、
本書の主題は自我 « le moi » の確立。この内容でレヴィストロースを引用する目的は構造主義による社会形成と、精神分析の自我の確立が同じ流れをたどるとの主張を正当化するためと見る。人の空想(imaginations)、その経時の流れを共時として溜め込んだ蓄積に、精神が乗り込んで自我(le moi )を確立する。この考えを展開する過程でレヴィストロースの社会形成論に立ち寄った、これが理由かと判断します。


写真はセミナー第一巻 フロイト診断技術の著作について


レヴィストロース論を続ける;
「近親姦を実行したとて人はなんの嫌悪感も抱かない」おいおい、ムキになるなよ。私が言ってるのでないよ、レヴィストロースの意見なんだ-のアドリブが入って(41頁)、意識のみならず「生物学的に見ても社会が族内婚(系統内婚姻、近親婚)を実施しても何ら悪影響は発生しない。遺伝劣化が生まれても、いずれ排除される」の注釈が続く。この言葉は「新石器革命と同時に栽培植物と家畜の最適化が進んだ。品種改良とは近親交配の賜物である。新石器人はこの利点を熟知しながらも、人の近親婚は厳しく禁止する。人と家畜の婚(交配)の逆進性を説明するのは「文化」でしかない-と主張する「親族の…」序章と対比できる。
<Il n’y a aucune déduction possible, à partir du plan naturel, de la formation de cette structure élémentaire qui s’appelle l’ordre préférentiel>(同)好ましさの規則(婚姻で優先される間柄など、社会状況でのいろいろな選択に際し優先を定める規則)と呼ばれる(社会の)基本構造の形成因の源を、自然の摂理に探ったところでいかなる説明にも行きつかない。
« plan naturel » を自然の摂理と訳した。前回投稿では « science de nature » 自然科学をゲシュタルト心理学をほのめかすとして排撃した。この説では心理を「自然事象の総体」として捉え、その総体は究極相に向かう…となる。ここ「総体」としての機動に破綻が認められる―これがラカン主張である。返す刀で文化にも「究極相」など無いとAnzieuらを諭した。では文化とは一体何か、更にラカンを聞こう。
<Et cela, il le fonde sur quoi ? Sur le fait que, dans l’ordre humain, nous avons affaire à l’émergence totale englobant tout à l’ordre humain dans sa totalité―d’une fonction nouvelle>
この一節は話し言葉で構成されている。文頭のcelaは文語体では見かけない、「今度はこれだ」とした。続くil(彼ないしそれ)は直前の男性単数(人ないし物)を受ける。「好ましい規則」が(文章の並び順で)それに当たるが、かなり前に置かれるレヴィストロースとした。会話体であれば「代名詞の飛越し紐付け」が許されるのだろう(仏文の範囲なので自信はない)。そうすれば続く « le» に「 好ましい規則」を当てはめられ、話の筋が見えてくる。細かい差異にこだわるが解釈に繋がるのだ、許せ。
上引用の訳:今度はこれだ、彼(レヴィストロース)はそれ(優先規則)を何の上に形成しているのか。そこを語ると、人の規則をそれごとひっくるめて抱き込む泉の湧き出しみたいな総体があって、私達はそれと常に関与している(人が社会に入り込む)、そうした事象の中で優先規則を形作っているのだ。これがとある新しい力(une nouvelle fonction)である。

続ラカンとレヴィストロースの接点2 Finalité と精神分析構造主義の上の了(4月21日)次回は22日を予定。
お詫び:昨日はアベノマスク到着を急遽入れました(渡来部寄稿)。投稿予約していた本稿は本日、1日遅れとなりご迷惑をかけました。
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♪~アベノマスクがやって来た~♪

2022年04月20日 | 小説
本日(2022年4月20日)朝の9時、玄関ホーンがピンポ~ン。受話器からは「S急便」です。反応が「配送なんてありえない」なにせ部族民には先立つモノが払底している。3月から緊急のキンユウ引き締めに入っているのだ。故に「AMAZにもYodobaにも何も頼んでない」。幸運なことにその困乏様は北朝鮮までまだいかないが、ウクライナ侵攻(2月24日)以来アタフタしまくりのロシアの制裁困窮には同等に陥っている。ともかくハンコを握って「料金着払いだったらどうしよう」不安を隠さず玄関を開けると、配達者の腕には小ぶりのダンボール。発送元など気に掛けず、貰えるモンなら頂きさ。


S急便から配達されたダンボール


サモシイ乗りでひったくった。誰か知らぬが「食い物なら上々だ、アルコールでも許してやるわ、現金なら足を向けない」部屋に戻って確かめると読めたのはなんと、
厚生労働省医政局経済課


とっさに思いついたのは「PCR検査キット」。突拍子もない思いつきが生じたかに思いあたりは十分満々。部族民はワクチン接種を拒否している。拒否と言っても世間を騒がしている工作団体とは全く別です。自発で他者への喧伝、強制など行動しない。理屈では「武漢に罹って重症になっておさらばになってそれが運命」と達観している、と自身に言い聞かせる。単に予約して日付を確認して足を運ぶ、こんな複雑作業が面倒だけかもしれない。このサボタージュが厚生省にバレて「自分でヤレ~」て来たかな?天網恢恢ソにして漏らさずだよ。しかしこの幼稚な邪推をすぐに振り払った。「国家機関が個人の行動を気にするはずがない。部族民は一介ビンボー人、未接種が武漢に当たったら自己責任、うろたえて死ね~」とどやされるだけ。それならこの中身、一体何だ、天井を仰ぎ見た。
そして目を配送箱におもむろに戻す、差し出し部署の後にカッコが続く、「マスク等物資対策班」とあった。

アベノマスクだ~♪


1袋に50枚、2袋と送り状。転売してはならぬとあった。

やっときたぜ!
経緯を申す。
2021年12月半ば、アベノマスクが未配達のまま余剰在庫されている。希望者に配布するとの報に接した。厚生省のHPに入って特定頁に潜って、メールボタンを押すと画面にエクセル申込用紙が出てきた。住所氏名を入れてメールを送るだけ。これは「頭金、決済金なし」「送料はアベノ国家負担」(間違えたキシダだ)ヨーするに申込者には一切、費用負担が発生しない。10枚位もらえたらのケチ根性で頁に入ったのだが、申込みは1口単位、1口は100枚。10と入れると1000枚くる仕組みになっている。100枚でも多すぎるけれど1と入れて、当たれば100枚マル儲け。これが1月の初め。後に在庫8000万に対して2億9000万枚の申込みがあった、自治体医療機関優先なので個人は抽選になるかもしれないと報道された(4月2日)。
抽選には必ず漏れるが身上なので、武漢には当たるかもしれないが、コッチは当たるはずがない。アベノマスクが遠ざかる。諦めていた途端の配送だった、嬉しくてルンバを踊りそうになった。
前回の2枚配布(2020年5月頃)にアベノマスクを2枚頂いた。あの頃は使い捨てマスク20枚で5000円、干天に慈雨だった。更にはアベノボーナス(10万円)を貰ってデジカメを新調したな。政府にはお世話になっている。せめてこのマスクを有効利用せねば、1枚なんてしみったれるな、10枚重ねで顔に当てたら使い切りできると計算もした。これで武漢を乗り越えよう、ワクチン打たないけど。(元祖部族民の渡来部須磨男の投稿です)

本日に予告したラカンとレヴィストロースの接点2は明日に伸ばします(蕃神)
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続ラカンとレヴィストロースの接点 1 序

2022年04月18日 | 小説
(2022年4月18日)ラカンのセミナー講演を文字起こしMillerの監修をへて刊行された作品はいずれも「セミナー」を題名にしています。そもそもラカンは「セミナー」のみを残している(小片自著はあるかもしれない、要確認)。第2作はセミナー2、題に「Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse,フロイトの精神分析技法における「私」の扱い」を冠している。本書III章、章題はL’univers symboliqueシンボル化の宇宙、副題に「Dialogues sur Lévi-Straussレヴィストロースについて対話」を持ちます。この章紹介は(続なしの)「ラカンとレヴィストロースの接点」としてGooBlogに3月18日から4月1日の5回投稿を寄せています。また部族民通信ホームサイト(www.tribesman.net)に掲載(4月10日)しています。
続なしの内容は章全体の紹介ではなく注目(衝撃)の3点を採り上げました。読者様多くは既読かと思いますが一通り説明する。1嬰児殺しを実行する社会にご褒美 2裏口から侵入する神におののくレヴィストロース 3フロイト精神分析の根底は「超越性Transcendance、先験」―となります。この先験を鍵語としてレヴィストロース構造主義、メルロ・ポンティの知覚と精神分析を比較した図表を作成した。20世紀半ばのフランス思潮界での傾向、施策と実態の対比がご覧いただけるかと。(下にその縮小画像。拡大画像は以下のアドレスに部族民通信のホームサイト頁 http://tribesman.net/lacan2.html です)
「続」の今回投稿で採り上げられる課題は;
1 ネパール、チベットなどの辺境での嬰児殺しの風習、対象は女児。その代償は人口の男女比の歪さ。この風習に対し「代償compensation=前出」を説明として用いるレヴィストロースに異議を定ずる参加者に、ラカンが私見を披露する。するとそれは明らかに「代償」なのである、まったくもってレヴィストロース思考を再現できる(前回と重なるので、2との関連と併せて述べる)。
2 因果律(causalité)と究極律(finalité)
3 シンボル化能(fonction symbolique)
4 個と集団は「全く同一」ラカン指摘に対するレヴィストロースの返答
5 エディプスコンプレックスに対するレヴィストロースの返答
6 近親相姦(の禁止)に対する精神分析からの解釈
盛りだくさん。「順を追いこれら解説をしていきます」―と予告(3月18日)した。

1は前回に扱った。2の因果律(causalité)と究極律(finalité)の絡まりと併せて;


セミナー2の表紙、画はイタリアルネッサンス期のマンテーニャによるLe Calvaire


Anzieuは精神分析医、セミナー参加の時点では31歳、新進若手と目されていただろう。

発端はAnzieu(精神分析医)の質問。ネパール、チベットで実行されている女児の嬰兒殺しについての見解。この見解はラカンに否定される。社会へのご褒美なる語を用いる(compensation)正当さがラカンの(回りくどい)言で展開されている(前回)。次の話題の因果律でもAnzieuの質問が尾を引く。彼の質問は<La question de M. Anzieu n’est pas reproduite>文中に採録されていないから中身が不明。しかしそれを見極めないと「因果、究極律」と章題「シンボル化宇宙」の対比、ひいてはラカン反論の解釈が難しい。(見えていない質問を)以下に、かくあるべしと復元した;
<女児嬰兒殺しを実践する社会は主体として「意思」を持つ。結果としての男女比の不均衡が創出される。故にこの状態は究極相(finalité)である。代償と規定したレヴィストロースは間違っており、社会意思の究極finalité表現ではないか>かような指摘が若き分析医Anzieuから発せられた、と想定する。本節でのラカン問答はこの「finalité」の意味合いと彼の反論にあるから、ここを起点として全章の解釈に結びつけたい。(finalitéを究極律と究極相に使い分ける。これは語の含意が2あるに他ならないが、しっくりこない。この謎をカントが解いていた。後述する)
Compensationに対してのfinalité。ラカンからは;
<Mais votre erreur va plus loin encore quand vous parlez de finalité, quand vous croyez que Lévi-Strauss donne de l’âme à la société lorsqu’il parle de la circulation d’une famille à une autre> (41頁)しかし君の間違いはそれだけではない。究極律(finalité)と君が語り、よって家族から別家族へ(嫁の)循環交換があるとレヴィストロースはしていると君が解釈するが、社会に「意思=âme」が与えられているとの君の理解は間違いである。
Anzieu指摘では嬰兒殺し、嫁の循環交換は(意思を持つ)社会が企画しているから、結末は社会の望む状態であり、究極相(finalité)が見える。これを真っ向から否定するラカン。ではラカンが構築するレヴィストロース宇宙とは。
ここでfinalitéとcausalitéの説明に入ろうとする<c’est une question de discipline d’esprit que de s’y arrêter un instant>ここに一旦、足を止めるのは(君たちの)精神訓練の課題になるからと見得を切るが、大した中身は出てこない(そもそもfinalitéはcausalitéなんかも含んで…ムニャムニャ)。若手研究者を軽くいなし、
<Quelle est l’originalité de la pensée qu’apporte Lévi-Strauss avec la structure élémentaire ?>レヴィストロースが親族の基本構造で展開した独創性とはなにか。
真っ向からfinalitéを扱わず、社会組成と絡ませる。


ラカン(本投稿の写真はネットから採取)

<Il met de bout en bout l’accent sur ceci, qu’on ne comprend rien aux phénomènes collectés depuis longtemps concernant la parenté et la famille, si on essaie de les déduire d’une dynamique quelconque naturelle ou naturalisante>(同)。
家族、親族にまつわる事象。それらを観察者、人々が長い年月を費やして集めてきた。しかるにそれを何がしかの自然的な動態、あるいは自然化する試みに結びつけてしまうと、理解ができない。この書(親族の基本構造)の初めから終わりまでレヴィストロースはこの提言を強調しているのだ。
Finalité は何処に云ったのだとラカンに向かって叫びたくなった(部族民)。

続ラカンとレヴィストロースの接点 1 序の了(2022年4月18日)
次回は接点2 Finalité と精神分析構造主義 1(4月20日予)
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ラカンとレヴィストロースの接点のHP投稿

2022年04月07日 | 小説
主題投稿には皆様からの絶大なアクセスを頂き、部族民も一息つきました。相当の加筆を施し、ホームサイトに投稿しました。
ぜひご訪問ください。

ラカンとレヴィストロースの接点上
は http://tribesman.net/lacan1.html
下、番外(マンターニャ)
は上に入ってクリック。

なおホームサイトはhttp://tribesman.net/ です。部族民蕃神
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ラカンとレヴィストロースの接点6(最終) 精神分析、構造主義、現象論三題噺

2022年04月01日 | 小説
(2022年4月1日)前回投稿(3月30日)は「この御仁はスッゲーと感心したがそれもその筈」で終わった。ラカンの喉首に匕首を立てた質問の主はHyppolite。こんな御仁です;
「ジャン・イポリット(Jean Hyppolite, 1907年1月8日 - 1968年10月26日[1])は、フランスの哲学者。ヘーゲルを始めとするドイツ哲学の研究者として著名である。また、20世紀後半にフランスで活躍した複数の哲学者・思想家を弟子として輩出したことでも知られる」
「イポリットは高等師範学校の学長に就任した。そして1955年にはマルクスの初期の著作、つまりヘーゲルの影響が色濃く見られる時期の作品に関する研究を発表した。それはまさに、フランスにおけるヘーゲル熱が最高に高まっているタイミングでの出来事だった。1963年、彼はコレージュ・ド・フランスの教授に選出された」(2の引用はWikipedia丸写し)

さて本投稿の結論は

拡大図は文末。

前回に「禅問答」風のやり取りを挙げたのですが、その続きを;
彼が(Transcendance=経験に先立つ知恵)そこに留まることも抜け出ることもできないと講釈を垂れた続き<Nous ne pouvons pas nous en passer, et toutefois nous ne pouvons pas non plus nous y installer>この句は前文と同じ(抜け出ることも立ち止まることもできない)。なぜ繰り返したか。いつもなら丁々発止、打てばたちどころに大音響で返すLacanの対応が、Hyppoliteの目の前で一瞬詰まった。「ムヌヌゥ...」の敵Lacanに考え込むゆとりを与えてあげた、その為の繰り返しです。Hyppoliteは論敵に優しい、人格も優れているから胸像まで建った(出身リセ校の中庭)。


Hyppoliteの胸像。いかに慕われていたかが分かる(写真はWikipediaから)

武士の情けのこの一瞬、息を吹き替えしたLacan。<Bien sûr. C’est la présence dans l’absence et l’absence dans la présence>なる返事(前出)を、これだって意味不明なんだが、差し挟むことができた。これを<それは在るようで無し、無いようで在る>と訳すけど、なおも意味不明。でまかせ文句の言いっぱなしの感がする(部族民の理解力不足はあるけど)。
Hyppolite<Je voulais comprendre ce qu’il y avait à comprendre>(文脈からしてtranscendance知恵のfonction力)そこには理解せねばならない何かがあり、それが何かを知りたいのです。Lacanの返事は;
<Si vous voulez maintenir ce que vous m’apportez là, sur le plan phénoménologique, j’ai aucune abjection à y faire. Seulement, je crois que ce n’est pas suffisant>あなたが私に問いかけるその事は、現象論の立場からであるとするならば、私にはそれを取り扱うに異論がない。しかるにそれのみでは目標にたどり着かない。追い打ちが<Pour être purement phénoménologique, ça ne nous avance pas beaucoup>現象論一辺倒となってしまうと先に進まないから。
どうしてもtranscendanceから離れたい気分がLacanから滲む。
Hyppoliteはヘーゲルの「精神現象論」をフランスに伝えた功績で知られる。Hyppoliteが口走ったtranscendanceがヘーゲルで取り沙汰されていて、その意義はカントのtranscendantalに「限りなく近く」、Hyppoliteは哲学者として知恵と精神の統合を考えているからtranscendanceに寄り付き、統合の緒にせむとした。Lacanが中性的響きのa prioriを用いたのは会話でのうっかりではなく(前の投稿での判断)、その語に纏わる「知恵としての先験」を嫌ったから、あえてtranscendanceを避けた。
Lacanが精神分析で扱うのは精神、心理であって知恵ではない。現象学の分派ではないぞの気構え。そう推測を巡らせるとHyppoliteの不満げな質問、Lacanの端切れの悪さに思いが至る(妄想かも)。前述のラカンの思考停止瞬間は「やっぱりここに食らいついてきたのか」のバレてしまった戸惑いです。

三題噺なのでパワーポイント図表を作った。Wikipediaによると20世紀半ばのフランスの思潮界は個、知恵、社会の統合を目指していた、その運動の中心にHyppoliteが鎮座していたとも。ラカン、レヴィストロース、メルロ・ポンティにしてその統合を精神、知恵、知覚から目指していった。図表を御覧ください。


3の智の巨人が並ぶ。いずれも智の源泉、智の主体と客体を追求した。ソシュール(言語学)は彼らの2世代ほど前、構造主義との関連で付け加えた。

ラカンとレヴィストロースの接点6(最終) 精神分析、構造主義、現象論三題噺 了

Gooblog投稿の次回は(10日の休みの後)、ラカンセミナー3抽象化宇宙を採り上げます
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ラカンとレヴィストロースの接点5(最終) 精神分析、構造主義、現象論三題噺

2022年04月01日 | 小説
(2022年4月1日)前回投稿(3月30日)は「この御仁はスッゲーと感心したがそれもその筈」で終わった。ラカンの喉首に匕首を立てた質問の主はHyppolite。こんな御仁です;
「ジャン・イポリット(Jean Hyppolite, 1907年1月8日 - 1968年10月26日[1])は、フランスの哲学者。ヘーゲルを始めとするドイツ哲学の研究者として著名である。また、20世紀後半にフランスで活躍した複数の哲学者・思想家を弟子として輩出したことでも知られる」
「イポリットは高等師範学校の学長に就任した。そして1955年にはマルクスの初期の著作、つまりヘーゲルの影響が色濃く見られる時期の作品に関する研究を発表した。それはまさに、フランスにおけるヘーゲル熱が最高に高まっているタイミングでの出来事だった。1963年、彼はコレージュ・ド・フランスの教授に選出された」(2の引用はWikipedia丸写し)

さて本投稿の結論は

拡大図は文末。

前回に「禅問答」風のやり取りを挙げたのですが、その続きを;
彼が(Transcendance=経験に先立つ知恵)そこに留まることも抜け出ることもできないと講釈を垂れた続き<Nous ne pouvons pas nous en passer, et toutefois nous ne pouvons pas non plus nous y installer>この句は前文と同じ(抜け出ることも立ち止まることもできない)。なぜ繰り返したか。いつもなら丁々発止、打てばたちどころに大音響で返すLacanの対応が、Hyppoliteの目の前で一瞬詰まった。「ムヌヌゥ...」の敵Lacanに考え込むゆとりを与えてあげた、その為の繰り返しです。Hyppoliteは論敵に優しい、人格も優れているから胸像まで建った(出身リセ校の中庭)。


Hyppoliteの胸像。いかに慕われていたかが分かる(写真はWikipediaから)

武士の情けのこの一瞬、息を吹き替えしたLacan。<Bien sûr. C’est la présence dans l’absence et l’absence dans la présence>なる返事(前出)を、これだって意味不明なんだが、差し挟むことができた。これを<それは在るようで無し、無いようで在る>と訳すけど、なおも意味不明。でまかせ文句の言いっぱなしの感がする(部族民の理解力不足はあるけど)。
Hyppolite<Je voulais comprendre ce qu’il y avait à comprendre>(文脈からしてtranscendance知恵のfonction力)そこには理解せねばならない何かがあり、それが何かを知りたいのです。Lacanの返事は;
<Si vous voulez maintenir ce que vous m’apportez là, sur le plan phénoménologique, j’ai aucune abjection à y faire. Seulement, je crois que ce n’est pas suffisant>あなたが私に問いかけるその事は、現象論の立場からであるとするならば、私にはそれを取り扱うに異論がない。しかるにそれのみでは目標にたどり着かない。追い打ちが<Pour être purement phénoménologique, ça ne nous avance pas beaucoup>現象論一辺倒となってしまうと先に進まないから。
どうしてもtranscendanceから離れたい気分がLacanから滲む。
Hyppoliteはヘーゲルの「精神現象論」をフランスに伝えた功績で知られる。Hyppoliteが口走ったtranscendanceがヘーゲルで取り沙汰されていて、その意義はカントのtranscendantalに「限りなく近く」、Hyppoliteは哲学者として知恵と精神の統合を考えているからtranscendanceに寄り付き、統合の緒にせむとした。Lacanが中性的響きのa prioriを用いたのは会話でのうっかりではなく(前の投稿での判断)、その語に纏わる「知恵としての先験」を嫌ったから、あえてtranscendanceを避けた。
Lacanが精神分析で扱うのは精神、心理であって知恵ではない。現象学の分派ではないぞの気構え。そう推測を巡らせるとHyppoliteの不満げな質問、Lacanの端切れの悪さに思いが至る(妄想かも)。前述のラカンの思考停止瞬間は「やっぱりここに食らいついてきたのか」のバレてしまった戸惑いです。

三題噺なのでパワーポイント図表を作った。Wikipediaによると20世紀半ばのフランスの思潮界は個、知恵、社会の統合を目指していた、その運動の中心にHyppoliteが鎮座していたとも。ラカン、レヴィストロース、メルロ・ポンティにしてその統合を精神、知恵、知覚から目指していった。図表を御覧ください。


3の智の巨人が並ぶ。いずれも智の源泉、智の主体と客体を追求した。ソシュール(言語学)は彼らの2世代ほど前、構造主義との関連で付け加えた。

ラカンとレヴィストロースの接点5(最終) 精神分析、構造主義、現象論三題噺 了

Gooblog投稿の次回は(10日の休みの後)、ラカンセミナー3抽象化宇宙を採り上げます
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