(2023年6月29日)子が授かる筈のない老夫婦(ユダヤの高僧ザカリと妻エリザベート)、神のお告げで男子が生まれる。その子が洗礼者ヨハネに成長する。
人類史上、神の子と記録されている事例はわずかに2。このヨハネとイエスのみ。記録などないその他大勢は誰の子になるか。彼らも(私も含めて)神の子、このように教えるのがユダヤキリスト教の教条です。
絵画名は「訪問 Visitation」マリアは同じ境遇(神の子を宿す)エリザベートを訪ねる。迎えるエリザベートの社会地位は遥かに高い(赤い衣服がその証)のだがエリザベートが跪く。宿す子の性格、一人は救世主、もうひとりは救世主を預言する洗礼者、の差を表す。Visitationは受胎告知と並んで西洋絵画で重きをなす主題。
両性の結合で「生物として」人は生まれると決めるのは誠に正しい。しかしその生物的成り立ちを「人の生まれ」と敷衍する近代思考は誤りです。卵子が精子を受け入れる意味とは、生物としての誕生のきっかけを演じるだけで、その人(子)はきっかけを貰う前から存在していた。太古ギリシャ人、北米インディアン・プエブロ族(の一支族ズニ)は、それら「可能性としての人」は大地の底に住んでいるーとの信心をもっていた(レヴィストロース著の構造人類学から)。
古事記では神武東征に立ちはだかった地場勢力の名称は「土蜘蛛」「長脛」とある。地場を « autochtonie » 土着性と読み、名称をテーバイ王の系統(いずれも足の不具合に関連付けられる蔑称)に紐付けると、Œdipe神話と見事に重なる。縄文弥生人らは「土から生まれる」との信心をもっていたのではないかと推察でき、謎の言葉「産土ウブスナ」の語源が辿れる。
ユダヤキリスト教の教条は全ての人は神の子。この信仰があってこそ神と人との繋がりが安堵できる。繋がるからこそ神は人を祝福するし、時に罰する。もし人の生まれは生物学事実の通りで、その上でも下でもないとしたら、人は神から独立、というか疎外される。神は人に無関心のまま放おっておく。すると人は幸福にも不幸にもならない。生物としての人がそこらにただ蠢くだけの世界となります。チンパンジー、ゴリラの世界を観察するとそんな世界の悲惨が分かる。物質からの説明のみでは福音も戒めもない物質世界に人が閉じ込められるだけ。
(キリスト教が伝える唯一神を(耶蘇信者ではない)日本人は「お天道様」、あるいは「カミサマ」に置き換え読んでください。私もそのようにしている)
さて、出揃いました。
男は大地から生まれる、この考えはギリシャのみならず太古の民族が抱いていた信心です。
男の精が胚を発生させるのではなく、それはきっかけにすぎない。男は子の「人間としての」父親ではない。フロイトは「Œdipeコンプレックスとは古代からの信心が人の深層心理に居残る」と唱えた(レヴィストロース構造人類学から)。20世紀の名言です。
そしてレヴィストロースは(ユダヤ教の教条を無神論に置換、昇華させて)人は己から生まれると言い切った。
冒頭の主張に戻ります。
マリアとエリザベトに懐妊を伝える天使は生誕のみならず、子の人生(エスラエルの民を神の国に導く)をも伝えた。生まれる前に「己」は人生の送り様も決められているのです。故に「人は懐妊する前に人間の可能性として存在する」。懐妊した時に、もともと決められていた己の個人性(個体、性格、知能のみならずその個性がどのような人生を送り死ぬか)を確立する。レヴィストロースが教える「人は己から」生まれるーの意味です。
堕胎はその子の個人性(生のあらゆるを可能性)を破壊するのみならず、神の秩序(カミサマの申し付け)に背く。これが罪です。人はいつから人か?の了(6月29日)
人類史上、神の子と記録されている事例はわずかに2。このヨハネとイエスのみ。記録などないその他大勢は誰の子になるか。彼らも(私も含めて)神の子、このように教えるのがユダヤキリスト教の教条です。
絵画名は「訪問 Visitation」マリアは同じ境遇(神の子を宿す)エリザベートを訪ねる。迎えるエリザベートの社会地位は遥かに高い(赤い衣服がその証)のだがエリザベートが跪く。宿す子の性格、一人は救世主、もうひとりは救世主を預言する洗礼者、の差を表す。Visitationは受胎告知と並んで西洋絵画で重きをなす主題。
両性の結合で「生物として」人は生まれると決めるのは誠に正しい。しかしその生物的成り立ちを「人の生まれ」と敷衍する近代思考は誤りです。卵子が精子を受け入れる意味とは、生物としての誕生のきっかけを演じるだけで、その人(子)はきっかけを貰う前から存在していた。太古ギリシャ人、北米インディアン・プエブロ族(の一支族ズニ)は、それら「可能性としての人」は大地の底に住んでいるーとの信心をもっていた(レヴィストロース著の構造人類学から)。
古事記では神武東征に立ちはだかった地場勢力の名称は「土蜘蛛」「長脛」とある。地場を « autochtonie » 土着性と読み、名称をテーバイ王の系統(いずれも足の不具合に関連付けられる蔑称)に紐付けると、Œdipe神話と見事に重なる。縄文弥生人らは「土から生まれる」との信心をもっていたのではないかと推察でき、謎の言葉「産土ウブスナ」の語源が辿れる。
ユダヤキリスト教の教条は全ての人は神の子。この信仰があってこそ神と人との繋がりが安堵できる。繋がるからこそ神は人を祝福するし、時に罰する。もし人の生まれは生物学事実の通りで、その上でも下でもないとしたら、人は神から独立、というか疎外される。神は人に無関心のまま放おっておく。すると人は幸福にも不幸にもならない。生物としての人がそこらにただ蠢くだけの世界となります。チンパンジー、ゴリラの世界を観察するとそんな世界の悲惨が分かる。物質からの説明のみでは福音も戒めもない物質世界に人が閉じ込められるだけ。
(キリスト教が伝える唯一神を(耶蘇信者ではない)日本人は「お天道様」、あるいは「カミサマ」に置き換え読んでください。私もそのようにしている)
さて、出揃いました。
男は大地から生まれる、この考えはギリシャのみならず太古の民族が抱いていた信心です。
男の精が胚を発生させるのではなく、それはきっかけにすぎない。男は子の「人間としての」父親ではない。フロイトは「Œdipeコンプレックスとは古代からの信心が人の深層心理に居残る」と唱えた(レヴィストロース構造人類学から)。20世紀の名言です。
そしてレヴィストロースは(ユダヤ教の教条を無神論に置換、昇華させて)人は己から生まれると言い切った。
冒頭の主張に戻ります。
マリアとエリザベトに懐妊を伝える天使は生誕のみならず、子の人生(エスラエルの民を神の国に導く)をも伝えた。生まれる前に「己」は人生の送り様も決められているのです。故に「人は懐妊する前に人間の可能性として存在する」。懐妊した時に、もともと決められていた己の個人性(個体、性格、知能のみならずその個性がどのような人生を送り死ぬか)を確立する。レヴィストロースが教える「人は己から」生まれるーの意味です。
堕胎はその子の個人性(生のあらゆるを可能性)を破壊するのみならず、神の秩序(カミサマの申し付け)に背く。これが罪です。人はいつから人か?の了(6月29日)