昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

多田神社02

2007-07-12 | 歴史・文化遺産
神社の境内に少し視野を広げます。
 古くから近在近郷の住民から尊崇を集めていた多田神社は、往年の賑わいも昨今、下火になってきている。

神社のパンフレットにあった航空写真をお借りする。広い境内であるが、新興住宅街がすぐそばまで来ていることがよくわかる。


この図の拝殿のある位置から北は禁足の境内になっている。


随神門の棟木にかかる扁額の解説に、本殿・拝殿・随神門が、征夷大将軍正二位右大臣源朝臣家綱公によって、再建され、現在は国の重要文化財になっているとある。


神馬の厩舎がある。飾り馬が奉納されている。


大相撲の貴乃花・曙がここで土俵入りを奉納している。記念樹である。


キャップテンローとは何ぞや。江戸時代に中国からやってきた別名唐椿(からつばき)である。現在は花期でないので、枯死した花である。少し葉のつやなどが普通と異なるかな。


左:神社が大切にしている樹木のひとつのムクロジの巨木である。黒く熟する実は石鹸の代用になるし、羽子板で撞く羽根つきの玉になる。
右:本殿の横にある首洗いの池の玉垣を拝殿側から見たもの。大江山で退治した鬼の首を洗ったという。



多田神社01

2007-07-11 | 歴史・文化遺産
多田神社は川に面した高台にある。桓武天皇第六皇子の子経基が源の姓を名乗り、その子満仲が摂津守として赴任してきたときの館跡でもある。

石段の右に「多田神社」の石標があるが、左にも小さな碑がたっているが「史跡 多田院」とある。


近くによって見ると、多田大権現という神様の名である。権というのは「仮の」という意味である。仏が神様となって仮にこの世に現れているというのが、大権現さまである。即ち、神様はすべて仏様の生まれ変わり(本地垂迹説)と言われていた。

 多田神社もかつては天台宗の寺院であった。「多田院」というのもそれである。
 また「多田大明神」の神号を江戸時代に朝廷から拝受して、正一位の神社にもなったものである。


南大門である。普通は阿吽の仁王様がいるものだが、留守である。江戸時代までは居られたが、神仏分離令で、神社になってから、仁王様は近所のお寺に行ってしまったそうである。後日ここのお寺にも行って写真を撮って来る気になっています。


南大門を入って高台に上がると広い境内になり、案内板があった。中央の縦のラインになって本殿までが見えるでしょうか。

掲示板の下に、かなり時代がかった文章で由来が書いてある。時間のある方は判読してください。


随神門である。中門にあたる。おみくじがあり、若いお母さんが子供の将来でも見ているのだろうか。子供の立身出世がかなうお宮でもある。
笹リンドウの源氏の家紋が光る。


拝殿まで来たが、ここから先にはお祭りのときしか入れない。ここでは笹リンドウと三つ葉葵が繋がっている。
 戦国時代に多くの伽藍を焼失したが、4代将軍家綱が再建し、源氏の流れをくむ徳川・足利将軍には大切にされていた模様。


最深部の本殿は、屋根に千木と鰹木を置いた立派なものである。
 満仲を中央に、源頼光(満仲の嫡子)と、河内守として赴任していった満仲の3番目の子の頼信、その子頼義、その子八幡太郎義家の5人を祭神として本殿にお祀りしている。

頼光寺・花たち

2007-07-10 | 旅の風物
 2回も訪ねた頼光寺であった。数年前までは、観光地図にも名前が乗らずに卍のマークだけのお寺であった。それが、この境内の花の種類の多いのには驚いた。住職の熱意が感じられる。

建物はこの本堂と裏の住居だけである。本堂の横に、言葉の掲示板もあった。


裏庭の目立たない空き地に、100本以上の洋花のカラーが咲いていた。


この花はマメ科である。スペイン語のイニエスタが訛ってエニシダと呼ばれる。園芸品種で派手な色で咲く。


梅雨の頃には梅が実る。まだ黄色くなっていないが、よく太っている。梅の花見も良かったかも知れない。


この柑橘系の木は、カラタチのようではあるが、白い香りのよい花が咲いている。すでに花が終わって、丸い果実がドングリのように付いている。


アジサイの七変化と言われるように、この花はやがて赤く色付いてくることでしょう。


能勢電鉄の線路で境内はきっと削られているはずである。郊外電車は、新興住宅街を走って行く。
 かつては一輌編成のちんちん電車が、屋根の上に長いポールを立てて、電気を受け取り、がたごとと走っていたものだった。この電車の終点にある能勢の妙見山参りの電車だった。
 いまや沿線10万人以上で、通勤ラッシュはすごいと聞いた。しかし、普段はワンマンカーであることを思えば、まだまだ鄙びている。

頼光寺紫陽花03

2007-07-09 | 歴史・文化遺産
6月の末には咲いていなかったアジサイが満開になっている。

この石碑が周囲のアジサイの花にうずもれて、浮き上がって見える。


境内には赤・青・水色・紫色のアジサイが咲き競っている。


左:境内の奥まった基段の上に、五輪塔が三つ中・大・小と並んでいる。
右:その墓標の手前に名前の刻まれた石碑が建っている。左の端が源頼光公御母堂とある。我が息子の名の付くお寺を菩提寺として、ここに眠っている。


当地の源氏は、清和源氏である。

 第56代清和天皇の第六皇子貞純親王の子・経基王(つねもとおう)が源の姓を貰って、清和源氏の一族がスタートした。(他にも嵯峨源氏・宇多源氏などもある)

 源経基は第六皇子の子で清和天皇の孫になる。従って彼は六孫王と呼ばれ、京都八条千本通り付近(東寺の北西)を住居としていた。今も六孫王神社として残っている。

 彼の長男が満仲である。満仲はやがて摂津守になり、兵庫県川西市の現在の多田神社に居を構えた。
 満仲の嫡子が頼光である。頼光は多田の地を継ぎ、多田源氏と言われた。

 ちなみに、頼光の弟に頼信(よりのぶ)がいる。頼信は河内守となり、羽曳野市に居を構えて河内源氏となる。この末裔たちが、頼朝であり義経である。

 
 ところで、源頼光には大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の鬼退治の伝説が「お伽草子(おとぎぞうし)」に書かれていて、よく知られている。

 戦前に巷間で歌われた童謡にはこの鬼征伐の全容が読み込まれている。歌うことのできる方は戦前生まれの方かも知れませんね。


境内の裏庭の泉水には紫陽花が映える。


紫陽花の花が雪崩れている。


さて、この白い花は見事である。シロヤマブキである。
 普通の山吹色は黄色なんだけれども、そのヤマブキとは一線を画する種類で、シロヤマブキ属に入る。黄色のヤマブキは花びらが5枚であるに対し、シロヤマブキは花びらが4枚である。
 大田道灌に出てくるヤマブキは八重咲きであろう。これは実がつかない。シロヤマブキはしっかりと実がなる。


左:ナデシコの赤や白が美しく可憐である。
右:この濃い黄色はキンシバイ(金糸梅)である。
 ビョウヤナギと同じ仲間でオトギリソウ科の植物である。両者ともに、ヒペリカムと呼ばれる。
 ビョウヤナギは花弁が細長くて隙間が大きく空き、オシベが異常に長い。


どんな花が咲くのだろうか。大変落ち着きを取り戻せそうな風情でした。

頼光寺紫陽花02

2007-07-08 | 旅の風物
頼光寺にさらに1ヵ月後に訪れた。6月の末である。

あじさい寺にアジサイを見た。赤いガクアジサイ。


少し花の色も葉も↑とは違うようだ。


近年、人気が出た「スミダノハナビ」だろうが、植木鉢がお馴染みである。後方に見えるのも純白の八重の花弁である。


青の花の中心花に齧りついているカナブンである。口から吻を出して蜜を吸っているのか、齧っているのか。


これは不思議なアジサイである。
 普通は花の中央にある小さな丸い粒が雄蕊雌蕊花弁を備えている立派な花である。その周りの大きな萼が花として愛でられていて、中央の小さな粒は相手にされていない。
 ところがこれはその中央の花が咲いているのである。そして、緑の葉のように見える萼である。

頼光寺紫陽花01

2007-07-07 | 旅の風物
兵庫県阪神地区に川西市という町がある。ここに清和源氏発祥の地といわれる多田神社がある。
 ここを開いたのは清和源氏2代目の源満仲である。以来、この地一帯は源氏のふるさとの地として、現代も綿々と続く。

 源満仲の嫡子頼光(らいこう)の名の付いたこの寺は多田神社から数kmの距離にある。

近年、あじさいの寺として知られ始めた頼光寺である。能勢電鉄のガードをくぐる。


こじんまりとした頼光寺は、紫陽花をはじめ花の栽培に熱心と言う。


しかし、5月の末に訪ねたのが早過ぎたようで、あじさいの蕾は固い。それでも、まだ色に染まっていない緑の蕾が咲きかけであった。文字通り緑の紫陽花である。


境内を探索していると、これはカミキリムシか。「お前もちょっと早過ぎるぞ」と声をかけておいて、境内を散策する。


5月の終わりのこととて、オオヤマレンゲが咲いている。和歌山の大峰山から広がって、少し気の利いたお寺にはありそうだ。
 背後には能勢電車も結構走っている。かつては山と原野の山中であったが、今や住宅街のど真ん中になって交通も便利になった。


これは珍しい。ニオイロウバイが咲いている。なにやらいい香りがすると思っていたらこの花が香りを発散していた。香りの形容詞は少ないが、メロンのような甘い匂いである。
 これを知ったのは、京都の蛸薬師の裏庭に咲いていた。けれど、蛸薬師のそれは、花が緑色である。
 右:この実はロウバイの実である。


本堂の横の池泉に咲く菖蒲である。いい色だ。

伊吹特産から

2007-07-06 | 話題
 最近めっぽう増えてきた道の駅、ここに地元の特産品が販売されている。とれとれ野菜もそのひとつ。伊吹山の麓にもあって、面白そうな品物が並んでいた。

最近、辛くない大根ばかりになった中で、伊吹の辛味大根として新聞に紹介されていた。2年前の秋のことである。この写真はその時のものです。
 「伊吹大根」の札の前には「峠大根」と書いてある小ぶりの大根が並んでいる。話を聞けば土壌の所為でこんなになるという。これで一人前だそうだ。


「いたちきゅうり」は広辞苑で見ると、「いたちうり」で出てくる。胡瓜(きゅうり)の異称と出る。それを「いたちきゅうり」というのであるから、やっぱりこの地方独特のものであるらしい。



オカヒジキは文字通り、陸上でできるヒジキである。全国、広い地域で見られるという。なんでも北海道でも店頭で販売されているとも聞きました。
 海のヒジキと同じような調理だと思う。花の咲くヒジキである。


図鑑の説明の一部分です。


藤森神社紫陽花(下)

2007-07-05 | 話題
雨の中での写真です。

紫陽花苑の中の東屋が雨に降り込められている。


雨宿りの休憩が済んだのか、傘の花も少し咲かせて・・。


「隅田の花火」という品種だと思うが、森の中でのびのびと育っている。


ここ藤森神社の祭りは5月5日の菖蒲(しょうぶ)の節句の初めと言われ(しょうぶ=勝負)に通じ、節句に祭る武者人形には藤森の神が宿るといわれている。
 その宿った神の武者姿を本殿の横に安置してあった。


純白の紫陽花も、雨水を貯めている。


本殿の裏の紫陽花苑NO2。


左:本殿を囲む玉垣は森厳な雰囲気である。
右:本殿は切妻造りである。


右の本殿から左の拝殿までの裏にはぎっしりと紫陽花苑である。

藤森神社紫陽花(上)

2007-07-04 | 話題
アジサイには梅雨の小雨が相応しい。雨が降るから花を見に行こう、などと思ったのは初めてである。
 京都から京阪電車に乗って南へ、墨染駅から5分で藤森神社境内のアジサイである。

鳥居をくぐって参道を突き当たると正面の拝殿の前に出た。雨は激しくなってきた。傘が重いと感じるまで、傘がカメラの邪魔だと思うまであと10分。


紫陽花苑は参道の左手にあった。苑の中は、羊腸のようにくねくねと、観賞する道がついている。一面の紫陽花が花盛りである。


雨天だからここに来たと言う人たちの傘が右往左往する。左端で屋根のあるところでカメラを構えている人が見えるでしょうか。


振り返ると、絵馬堂の屋根が花の隙間から見えている。


マクロで入りきれないアジサイの花であった。


紫陽花苑の中ほどにある東屋が見える。十重二十重に紫陽花に取り囲まれている。


ガクアジサイが遠慮がちに片隅で咲いていた。


雨であるし蝸牛でも居れば・・と、残念でした。ハナグモもアマガエルもいなかった。

醒ヶ井の宿など(米原)

2007-07-03 | 旅の風物
 中山道(なかせんどう)の醒ヶ井の宿場には、昔、東洋一と言われた醒ヶ井(さめがい)の養鱒場がある。その門前に鱒を食わす店がある。渓流沿いの茶店であるが、年に1回は訪れ、さらに、近くの伊吹山の西側山麓を彷徨う。

左:これが定食の基本である。好みで鱒が一品ずつ増す。あらい・田楽・甘露煮などなどが出てくる。店先の生簀で泳いでいる鱒が姿を変えてくる。
右:最近は居なくなったが、渓流には鱒が泳ぎ、窓から食べ物を投げると、群がって集まったものだった。


窓際に、蜘蛛の巣があり、虫が懸かっていた。白いマントで包まれて、これは動けませんね。


左:少し谷の上流に行くと、白い泡の塊があった。モリアオガエルの卵である。
 小さな蛙は、樹上に径30cm位の泡を吐き出しその中に卵を産む。
右:卵が孵ると、小さなおたまじゃくしが無数に出てきて、泡とともに真下にある水中にドボンと落ちる。
 この真下に水があるというのが大切である。蛙は知っていて卵を真上に産むのである。


山の中から里に引き返す。醒ヶ井の宿場の街道沿いに流れる小川には、水中で花が咲く梅花藻(ばいかも・キツネノボタンなどの仲間)が広がる。


まだ最盛期になっていなくて一部分の群落が見えている。川一面に広がり晩秋のころまで花が咲く。


 この川の水はこの地点から上流200m位にある湧水である。源流地点には、ヤマトタケルノミコトの石像が立っている。
 彼が伊吹山で山の神の逆襲に会い、意識が朦朧としてここまできた時、この湧水で目が醒めたのである。(古事記) よってこの土地を「醒ヶ井(さめがい)」と言う。

 梅の花に似ている。葉はキンギョモのようであるが藻でなく。雄蕊雌蕊のそろった花が咲いている。


伊吹山の麓を巻くように、国道365号線が走っている。右に行くと関が原である。
 この街道は戦国時代、賎が岳の合戦の時、豊臣秀吉が、柴田勝家の軍勢を討つために、大垣から急遽湖北に駆けつけた街道である。秀吉の軍勢が夜間行軍をした街道である。
 ここに道の駅「伊吹の里」がある。


商品は、ちょっと珍しい物が並んでいる。バケツ卵(40個位入っている)・いたちきゅうり・たけのこ・おかひじき(これは何でしょう)などなど。



背景には伊吹山が立ち上がり、尾根の右にはロープウエイの終点が見える。山上にはユウスゲの一面の群落がある。地上よりも3℃も気温が低い。