昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

古知谷(下)

2006-09-26 | 歴史・文化遺産
坂道のゴールになった寺は周囲の森の中に溶け込んでしまっている。

 ここ阿弥陀寺は、慶弔14年(1609)に尾張生まれの弾誓(たんぜい)上人が開基した念仏道場である。彼は9歳で出家して以来、諸国行脚の後、佐渡島で奥義を窮め、最後に、この古地谷の奥の岩穴に念仏三昧に過ごしたといいます。

 赤い葉の楓をメインに、その他さまざまな色の葉を持つ木々が、林間の陽差しの中に浮かび上がります。

 猫の額ほどの境内の庭には、船石が浮かぶ枯山水がある。左上の赤い花をつける百日紅、向いの谷をバックにして数輪のシュウメイ菊が開いている。


左:拝観入口の玄関は唐破風の曲線を見せる。
右:弾誓(たんぜい)上人の岩窟と、隣の宝物殿入口。

 渡り廊下の先に入母屋造りの棟がある。岩窟に眠る御本尊弾誓上人を拝する拝殿である。右隣に当寺の宝物殿が見えている。

 弾誓(たんぜい)上人は自らが仏になる即身仏となられました。慶弔18年(1613)の事だったそうです。彼は1年かけて修行中の僧らに岩に洞窟を彫らせました。石棺の下に掘った石龕(せきがん)の中に生きながら入り「ミイラ仏」になりました。
 

左:岩窟への入口の通路
右:明治15年にこの石棺が収められました。その時に「ミイラ仏」も下の石龕からお出しして、現在はこの鍵のかかった扉の中に、姿そのままに安置されています。


宝物殿には、皇室と縁故があり、数々の寄進された織物や御真筆の手紙が多く保存されている。雑多に放置されていたのが、近年宝物殿に整理陳列されることになった。
 写真は有栖川宮(ありすがわのみや)家御紋章御振袖(ふりそで)壱枚

 中でも「有栖川宮」は、母君の宮とともに、当寺で宗門(浄土宗)の奥義五重相伝を伝授されている。

 有栖川宮の御歌二首
  「五重の法を悦びて」
  みちびきし法の教えの仰がれて 心ひとつに願うあさゆう
  「法話をききて」
  一筋にまことの教え説く法の 妙なる道を今日こそは聴け


左:御手炙り(てあぶり)銀網付 有栖川の宮御寄付(手炙りの火鉢)
右:金銀懸硯(すずり) 有栖川の宮御寄付(重箱弁当のような蒔絵の硯)

 弾誓(たんぜい)上人は、自ら「ミイラ仏」になる前に、人としての理想像の姿を刻み、これに自らの頭髪を植え込み御本尊とした。本堂に安置し「阿弥陀寺」と名付けた。



左:御本尊が居られる厨子。
中:高く手を合わせる御本尊。
右:蓮の模様に乗る鏡の背後に安置されている。


左:御本尊の右の耳の下あたりに上人の頭髪が残っている。見えるでしょうか。
右:国指定重要文化財の阿弥陀如来坐像。


古知谷(上)

2006-09-24 | 旅の風物
大原の里の北方約2kmに、鯖街道の谷の支流に古知谷(こちだに)がある。隠れ里大原のまだその奥になる。
 ここまで来るとバスは1持間に1本になってしまう。マイカーなら鯖街道を北行して若狭まで抜ける道である。この鯖街道は峠付近で3/6にあった土砂崩れの復旧がまだ完成していない。

 この古知谷を遡ると、深山幽谷に「阿弥陀寺」という古刹がある。三千院にまで来てもここまで足を伸ばす人は希である。


洛北の名刹とある。紅葉の古木や大樹があるので、秋の紅葉の時は見落とせないポイントである。


浄土宗であるが、山門は中国風の山門で禅宗にあるような山門である。門の向こうには歩き易そうな道が続く


本堂までの約600mの山道を経て本堂に至る。


樹齢760年と言う楓の古木には名前がついている。天然記念物「古知谷カエデ」
「実相の滝」と呼ばれる連滝が静かな渓谷に水音を響き渡らせる。


やっと境内が見えてきた。苔生す山道にぽつんと立った「酒は禁足」の石碑が人の気配を感じさせる。


突然、視界に広がったのはシュウカイドウ。お寺の人に聞くと、自然にどんどん拡がってこんなにまでなったと言う。
 足元をよく見れば、花の咲かない小さな葉の付いた小さな株がまだまだある。


本堂手前の最後の石段に沿って、透き間もなく咲き揃った秋海裳(シュウカイドウ)は根が延びて拡がって行く。


花の中央の黄色の雄蕊はあるが、雌蕊は見られない。

星の夢

2006-09-22 | 話題
近くのスーパーで売っていた北海道。
「星の夢」にお米の系譜がついているとは楽しい。「あきたこまち」の2世代前が「星の夢」とは茶碗の中にもロマンがある。
 広い大地に育つ一面の稲が、この品種なのかも知れませんが、大きな北海道を食べている気がします。


P.S寂光院

2006-09-21 | 旅の風物
また、寂光院を訪ねる機会があって、今日とれとれの画像が出来上がりました。
 本堂に面している庭の樹木に、火災の傷跡が残っていました。


 楓の幹は火災の熱で、樹皮が半分焼け落ち炭になったと考えられる。樹木医が傷を修復する為に薬品を塗布し、黒く塗って保護している。樹皮が半分になっても立派に生育する生命力に感動した。


しかし、この千年以上になる姫小松は甦る事はなかった。建礼門院の住まいした当時に既に、幹に藤の蔓を巻きつかせるほどの大きさであった。
 写真の右手に少し顔を覗かせているのが姫小松の若木だが、池の中島に根を下ろす事はないだろう。


軒先にあるサルスベリの木も、細い枝それぞれに、樹皮が焼け落ちた跡が残っている。本堂から見て裏側の樹皮だけが水や養分を運んでいる。


枝や幹は半分なくなっても、見事な白い花をつける百日紅(サルスベリ)である。この花のつき方は、一つひとつがよく判らないような密集となって咲く。
 赤い花の百日紅の花は当blog1006.7.27「夏の花」にアップしています。そこで花の細部がよく判ります。


サルスベリは青空をバックに撮るのが定番ですが、白の花はもう一工夫が要るようだ。

寂光院04(end)

2006-09-20 | 歴史・文化遺産
 大原の里は漬物である。一説によれば、畑で取れる野菜の保存方法の工夫として研究されてきたらしい。村の一軒一軒によって、微妙に味が違うと言う。
  

寂光院の裏に一戸だけ民家がある。そこが道沿いの小屋に漬物樽を並べて生産している。ちょうど山門の真正面に店を構えていて、両親と息子の3人で売っている。ここの漬物の味を知っている人が大量に買っていく。
 店の後継ぎがいて幸せそうな一家だった。包装紙には店の名前があるわけでなく、手作りの詰め合わせで売ってくれる。
 屋根に苔生す漬物屋は老舗である。


境内の裏門の前の森の中に建礼門院が住んでいた庵室跡がある。柵があって近くまで行けないが、垣根の中央に石碑が建っている。「御庵室跡」とある。

 平家物語から
後白河法皇が、寂光院を訪ねられたとき、この庵室で出迎えたのは阿波内侍であった。 阿波内侍は、法皇とは乳母子であった母を持ち、法皇とは顔見知りであった。今はもう顔すら忘れられてしまっていた事を悲しく思いながらも御庵室へと案内をするのでした。
 
「さて、法皇の御庵室を叡覧あるに、軒には蔦、朝顔這い懸かり、しのぶ交じりの忘れ草。(屋根の)杉の葺き目もまばらにて、時雨も霜も置く露も、洩れる月影に争ひて・・。」

 (法皇が庵室を御覧になると、蔦や朝顔が家の軒まで這い上がって、ノキシノブやヤブカンゾウ等の雑草が生い茂り、屋根に葺いた杉の板には隙間が出来て、しとしと降る時雨も寒い夜の霜も露も、隙間から洩れる月の光と競い合って家の中に入ってくる)

 「後は山、前は野辺、いささ小笹に風騒ぎ、世にたへぬ身の習ひとて、憂き節滋(しげ)き竹柱、都の方のおとづれは、間遠に結へるませ垣や、僅かに言問ふものとては、峰に木伝ふ猿の声、賎(しず)が爪木(柴)の斧の音、来る人まれなる所なり」

 (後は山、前は野辺、笹に当たる風がさわさわと音を立て節が多い竹のように苦しかった事も多く、都からの客人は、間隔の広い垣根のように希である。僅かに訪れるものと言えば、峰の方から聞えてくる猿の鳴き声、樵が柴を集めている斧の音ばかりである。来る人はまれである)

 文章が次々と韻を踏みながら、次のフレーズに繋がって、転がるように展開されていきます。
 

左:この庵室とは谷を越えて橋を渡る。鹿が里に出てこないように橋の上にまで針金で柵をしている。
右:苔のついた石段を上がると、上に阿波内侍ら、建礼門院に仕えた女房たちの墓がある。この道は(寂光院01)のブログに紹介した東海自然歩道がここに出てくると言う。


左:阿波内侍・大納言典侍(すけ)局・右京太夫局・治部卿局・小侍従局の五輪塔や法筐印塔(ほうきょういんとう)が並ぶ。
右:斜面の上から墓石の背後を見る。下方に谷川がある。


左:平成12年(2000)に焼けた本堂の建材、欄干の擬宝珠が痛々しい。
右:高倉天皇皇后徳子(建礼門院)大原西陵の宮内庁の立札。横の石段を上がった先の高台にある。


建礼門院大原西陵である。平家物語の最後の章の書き出しは「寂光院の鐘の声、今日も暮れぬとうち知られ、夕陽西に傾けば・・」である。最初の「祇園精舎の鐘の声・・」と対になっている。
 建礼門院の最期で物語は終る。

寂光院03

2006-09-18 | 歴史・文化遺産
「高倉天皇国母建礼門院徳子皇后閑居御所」と案内にある寂光院である。

 平家一門の菩提を弔っているところに、後白河法皇が訪ねてくる。
 「春過ぎ夏立つて、法皇夜をこめて、小原の奥へ御幸なる。
  遠山にかかる白雲は、散りにし花(桜)の形見なり。青葉に見ゆる梢には、
  春の名残りぞ惜しまるる。
  頃は卯月(4月)二十日余りの事なれば、夏草の茂みを分け入らせ給ふに、
  人跡絶えたる程も、思し召し知られてあはれなり。
  西の山の麓に一宇の御堂あり。即ち寂光院これなり」(潅頂の巻)


 境内の表の庭に鉄製の雪見灯篭がある。豊臣秀吉が桃山城にあったものを寄進したものと記録にある。以来この位置に居座っている。
 背後の渡り廊下は書院と本堂を繋ぐ回廊である。この回廊の向こうに回遊式四方正面の庭がある。


シュウカイドウが可憐な風情である。


「鬼百合が綺麗ですね」と言うと、寺の世話をしている女性が「尼寺に鬼百合はどうでしょうか」と言う。話し好きの人だった。


この庭の奥には滝がある。岩清水を引いた三段の滝で落ちる高さ・方向が異なり、それぞれの滝の異なる音色は、一つに合奏するかのように出来ていると言う。


渡り廊下のすぐ下には鯉が泳いでいる。後方に書院が見える。


どの角度からでも絵になる。四方正面の庭である。


堂内撮影禁止で、パンフレットから本尊の地蔵菩薩と、建礼門院・阿波内侍の坐像。
 阿波内侍の母は後白河法皇の御乳母である。従って、この地で建礼門院の付人で生活している阿波内侍の母は、後白河法皇とは乳きょうだいであった。

寂光院02

2006-09-13 | 歴史・文化遺産
 ひっそりと京都の北、大原の里の片隅に寂光院がある。

 聖徳太子が父の用命天皇の菩提を弔う為に建立されたという。

 かつて、平家が壇ノ浦で滅亡したとき、海から救い上げられた建礼門院が、ここで平家一門と我が子の安徳天皇の菩提を弔って、天寿を全うした地である。


 寂光院への門扉には菊の葉と花が一緒になった紋が付いている。建礼門院の標しだろうか。


この家紋は抱き菊と言うのだろうか。普通は菊の葉が花を取り巻いているのが多い。菊の葉に乗る菊の紋は、建礼門院のものだろう。軒瓦にも抱き菊が付いている。


本堂に行く石段の途中に、茶室への門がある。


屋根の上は苔が密生していて下の屋根が見えない。門の框に「孤雲」と門札がある。


池には睡蓮が植えられており、岸辺から鬼百合の朱色の花が垂れ下がっている。8月というのにこの紅葉は色づいている。静寂が支配する山ふところである。


寂光院の山門は、豊臣秀頼の寄進によって、再建された当時のままの姿を残す。


再建なった美しい桧皮葺の大屋根が光る。この本堂は、平成12年(AD2000)に火災にあった。白灯油で火をかけたという。


 平家物語の潅頂(かんじょう)の巻の「大原御幸(おはらごこう)」から、寂光院の風景を書いた部分を抜き書きします。

 「庭の若草茂り合ひ、青柳糸を乱りつつ、池の浮き草、波に漂ひ、錦を晒すかとあやまたる。
 中島の松にかかれる藤波の、裏紫に咲ける色、青葉交じりの遅桜、春の花よりも珍しく、岸の山吹咲き乱れ、八重立つ雲の絶え間より、山ほととぎすの一声も、岩の絶え間より落ち来る水の音さへ、由ある所なり。」

(庭の若草もよく茂って緑が濃くなり、庭の中島の柳の枝も緑になって糸のように垂れ下がり、池に浮かぶ浮き草は池の波に漂って、ちょうど染めた布を水に晒しているのと見違うほどである。

 中島の大きな姫小松に藤の枝が巻き付いて紫色の花を咲かせている。また、遅く咲いた桜の花が緑の葉の中に交ざっているのは春の桜とはまた違った風情である。

 岸辺には山吹の黄色の花が咲き乱れ、山に次々と湧き出す雲の中から聞えてくる山ホトトギスの鳴く声も、庭の池に落ちる三段の滝の音を聞くにつけても、この土地は趣きのある美しい場所である。)


  七五調で語られる平家物語の名調子は、この庭を、平家物語に合わせて作り上げたかとも思われるほど、見事な表現である。


樹齢数百年の姫小松も、本堂の火災によって枯死してしまった。


焼失前の本堂である。古色がいいか、新本堂がいいか。


庭の西方に門が見えている。この門を出るとすぐに、建礼門院の隠棲した御庵室があった。現在は、その場所に遺跡の碑が建っている。


左:諸行無常の鐘は無断で打ってはいけません。
右:庭の一隅にあった立札は、この寂光院門主智光作詞と書いてある。


寂光院01

2006-09-01 | 歴史・文化遺産
 寂光院と三千院でよく知られる大原の里は京都市街地を北に上がる事5-6kmの山奥にある。
 若狭から京へ向う国道367号線の鯖街道沿いとはいえ、京の人たちにとっては、都を逃れて隠棲する盆地であった。


 比叡山を挟んで東に琵琶湖を望み、西に江文(えぶみ)峠を越えて、さらに山を越えて鞍馬山が望まれる。


 左:江文峠バス停(京都バス)
 右:道路にクロスしている東海自然歩道の道標である。左は金毘羅山を経て大原。右は静原を経て鞍馬駅(鞍馬電鉄)とある。


 金毘羅さんの鳥居がある。これを潜って急坂の山を登る。途中、丁石も残っているが登りも下りも急坂である。山を越え谷に下りたところが寂光院である。東海自然歩道は厳しいコースをとる。


 バス道を下ると大原の里が開けてくる。この盆地を一周するハイキングコースが出来ていて、案内板も充実してきた。南の方角には、中央に遠く霞む比叡山の稜線が見えている。


「大原」というバス停は三千院前にあるから、寂光院に行く時はこの道は通らない。車で寂光院に行く三叉路の交差点である。ここからは徒歩6分という距離である。右に道をとると若狭に出る鯖街道と出会う。背景は「乙が森」である。


 鄙びた里風景に、何か筵の上で天日干している。大原は柴漬けが名物だから山野草だろうと思う。左手に紫蘇の畑が見える。


 畦道の入口に藍染の染料をとる藍草を干している。


 茶店にあった額の大原女の絵。大原の里は、都に木材や薪炭などの供給地であった。大原女については、平安末期に書かれた書には「炭を売る婦人に聞くに、家郷は遥か大原山、衣は単(ひとえ)、路は険しく、嵐とともに出で夕暮寒天に月に向ってかえる・・」とある。


左:案内標識。 右:小さな森の中に碑が建っている。
 (場所は寂光院に向う車道の入口付近道沿い) 
 昔々、この里に乙(おつう)という美しい娘がいました。若狭の国のお殿様の上洛のときに目がとまりました。「おつう」は若狭の国に招かれてそれはそれは幸せな毎日だったといいます。
 「おつう」があるとき病にかかり、お殿様の気持も離れ、この里に戻されました。「おつう」は悲しさのあまり川に身を投げ蛇になりました。暫くして若狭のお殿様が上洛するときに大蛇が襲い、家臣に斬られました。激しい雷雨や悲鳴が響き渡ったそうです。里人は大蛇の頭を乙が森に埋めました。
 今でも大原の里に出る朝靄は棚引くのでなく、大蛇の様にうねった姿で出るという。


左:比叡山を含む東山を挟んで京都市街と琵琶湖がよく判る。中央の印が寂光院。
右:拡大したもので、縦長の大原の里の盆地が見えてくる。


左:盆地の北半分。真っ直ぐ北に向かう谷は鯖街道。左に分かれる谷の奥に寂光院。
右:行き止りの谷の奥の○印が寂光院。大きな屋根が本堂で、○の右端が建礼門院大原西御陵で樹木のないところである。