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昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

山の辺の道1

2005-04-30 | 歴史・文化遺産
 海拓榴市から北に、山の辺の道を辿ると、この三輪山の裾を巻いて進みます。
 途中、海拓榴市観音・金屋の石仏などを過ぎた頃、木々の茂みの中に「志貴御県社」の神社に出会います。「しきのみあがたのやしろ」と読みます。
 ここは第十代崇神(すじん)天皇が御所を構えたと言われているところです。社域の直ぐ隣りに、宗教団体の大きな建物や地元の小学校が建っています。これらが建設された時に、いろいろな遺跡、遺物が発見されたそうです。
 現在と違って、発掘調査などは、殆どされなかったようです。惜しい事をしました。

海拓榴市7

2005-04-29 | 歴史・文化遺産
 遂に海拓榴市(つばいち)の最後の画像になってきました。「山の辺の道」らしい道になってからの起点が海拓榴市であります。少しだけこの古代の国道を北に進み、大神神社に向かいます。
 鄙びた田舎風の家の間を縫って進むと、こんな立て札が立っていました。百の文章よりもと思って、画像を掲載します。清少納言も「市は海拓榴市・・」と枕草子に書いています。現在では想像もつきません。
 僅かに名残りを留めるのは、当時の旅人が立ち寄った時に、旅の安全を祈った「海拓榴市観音」とか、北隣りの金屋に残る石仏がその名残りを残しています。

海拓榴市6

2005-04-28 | 歴史・文化遺産
 山の辺の道は、桜井の駅前の初瀬地区から出発しますが、1.5kmくらいは街の中を歩きます。楽しい古代の道に着くには、面白くも何とも無いところを歩いて、期待感を膨らませます。
 魚釣りに行って、やがて食いつく大きな魚を夢見て、大きな期待をもちながら、じっと我慢しているようなものでしょう。
 そして正面に見える三輪山に向かって歩きます。
 やっと、それらしい道に出るのが、この泊瀬川(大和川)のほとりです。観光用の橋が架っていて、「馬井手橋」となずけられています。そうです。ここに隋の使者を出迎える為に、馬が75頭出てきた場所でした。
 この写真は橋のバックになっている山が「神名備」の三輪山です。少し近すぎていますが、手前の麓一帯が海拓榴市(つばいち)で賑わった所です。
 

海拓榴市5

2005-04-28 | 歴史・文化遺産
古代の市であった海拓榴市(つばいち)の賑わいは、この大和川の流れの傍に発展した市場の宿です。人々は集い、諸国の情報が行き交い、歌垣が人のつながりを広く、深くできる街であったといいます。
 後方の山々の向こうに、長谷寺があり、伊勢参りの道筋である。今は河川敷が芝生で整備されていて、馬のレプリカまで設置されているが、難波からの船便が到着する港でした。
 この初瀬川、または泊瀬川(はつせがわ)と呼ばれる川は、水量が多く、もっと大きな川幅を持っていたに違いありません。
 また、当時の奈良盆地の平野部は海抜が低く、池か沼が多くの水を湛えていたことでしょう。今も奈良盆地の地下には巨大な池が埋もれています。当時の多くの池や沼の東の岸辺に「山の辺の道」が整備されたように思います。
 「山の辺の道」は桜井市の初瀬を起点にしている事から初瀬街道とも呼ばれ、ここ海拓榴市が出発点と考えられます。

海拓榴市4

2005-04-27 | 歴史・文化遺産
  これが史跡に基づいた錺馬(かざりうま)です。時代考証をしながら、できるだけ当時の姿を再現しようとした像だと思います。
 全身を金属で包み、鞍の後ろあたりは、針が並んでいて、これがきらきらと輝いたと思います。
 石の作品で重いためか、脚などはかなり太いです。腹に台座になっている部分を多く残して彫刻していますが、それにしてもやや脚が太いですね。もともと太いのかも知れません。
 日本の国産の馬は、木曾馬に見られるように、馬格が余りありません。背が低いのです。時々、東北で良い馬だといって都で話題になったりはしていましたが、ましてやこの時代のこと、それほどの馬は見当たらないでしょう。
 考えてみれば、重い鎧を着た武士を乗せて走ったのも、この手の馬だったことでしょう。現在でもアラブ系の馬の脚の太さと背の低さは生き残っています。競馬ばかりしているのが能じゃあないんです。
 一の谷の坂落しで、武将が馬を背負って下りたという伝説が生まれるのも、この馬格だったからでしょうか。
 その点、サラブレット系は、脚が細くて、早く走って、走る事だけが命の馬は大きな身体をしています。足を骨折すると、その場で殺すという文化は日本には無かったと思います。
 外国から来る使者に、大和国家は弱みを見せない為に、「日出ずる国の天子」は、あらゆる接待をしたことでしょう。
 またこのときの使者は、新しい文明を携えてやってきていました。
 

梅拓榴市3

2005-04-26 | 歴史・文化遺産
 遣隋使であった小野妹子が、九州に帰って来て、少なくとも3ヶ月以上は滞在しました。それは隋の国の使者を伴っていたからと思われます。
 小野妹子にとっては一日も早く、先進国の情報を都に伝えようとするのが普通ではないかと思います。それが九州に滞在してワンクッションを置きました。
 それが飛鳥の都で隋の使者の受け入る準備を整える為だったとしたら楽しいですね。
 また、隋の使者は、どんな意図を持っているのかを確認する期間だったかも知れません。
 さらに、九州から難波に戻ってきても、梅拓榴市(つばいち)の船着場を経由して、飛鳥に入るまでには更に2ヶ月を要しました。
 ここに、使者の迎えに錺馬(かざりうま)75頭の準備をし、「日出ずる国」を隋に判らせる必要があったと考えませんか。

海拓榴市2

2005-04-26 | 歴史・文化遺産
海拓榴市(つばいち)は別に椿市(つばきいち)とも書きます。この交通の要衝には椿の木が多かったのでしょうか。
 ここにもう一つの話が日本書紀にあります。
 前回に出てきた欽明天皇の次女の推古天皇の時(AD608)、小野妹子が遣隋使として赴き、やがて帰還した時、隋の使者を伴っていました。使者はやがて、この初瀬川の船便で飛鳥にやってきました。ここ海拓榴市で上陸します。その時に、錺馬(かざりうま)75頭で出迎え、国威を誇示したそうです。これを偲んで川の河川敷の公園には錺馬のモニュメントが並んでいます。
 この「山の辺の道」の南の出発点である海拓榴市は、楽しい話のある土地でした。桜井の北側から、大神(おおみわ)神社に向かうまでの川沿いに開けた市でした。

海拓榴市(つばいち)1

2005-04-25 | 歴史・文化遺産
 「あんこ椿は恋の花」シリーズ でしたが、今回から、同じツバキでも、漢字の海拓榴(つばき)に変ります。
 奈良桜井の北に位置する、海拓榴市(つばいち)を流れる大和川(初瀬川)は藤原京の都の玄関口になっていました。難波の港からの船便の終着点でした。
 日本書紀によれば、AD552年、欽明天皇の時に、百済の国から釈迦仏金銅像が、この港から献上されたとあります。
 これは我が国に仏教が伝わった最初の事でした。個別的には経典等は既に来ていたと思いますが、公に伝来したのが、この時、この地とされています。この川のほとりに「仏教伝来の地」の碑が建立されました。
 なお、日本書紀によりますと
 時の天皇、欽明天皇は、新しい神を待ち望んでいましたが、「自分ひとりでは決めない」と言って、この釈迦の教えの受け入れについて臣下に尋ねました。
 蘇我稲目(いなめ)は「異民族の諸国は等しくみな礼拝しています」と新しい神を受け入れました。
 物部尾輿(もののべのおこし)は、「今の我が国の天下は五穀の神々を拝礼しているから実りも豊かです。新しい神を拝したりすれば、国つ神は怒るでしょう」と反対しました。
 天皇はそれでは「蘇我稲目に授けて試みに礼拝するように」と言われました。
 以来、聖徳太子が関係する戦いにまで発展する歴史が始まりました。
 

あんこ椿は恋の花9

2005-04-25 | 国内旅行
 椿の花の写真も終わりになりました。最後は本格的な赤い椿です。シンプルで品の良さすら漂う椿です。この株の品種の名前は忘れられません。
「熟田津(にぎたつ)」です。
「熟田津に舟乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(巻1・八)
と詠った額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に出てくる熟田津に他なりません。
 時は飛鳥に都のある頃、大和の国に、百済の国からの救援要請が着きます。そこで、時の天皇の斉名天皇は25000人規模の援軍を派遣する事になりました。
 諸国から集められた兵を乗せた数百艘の舟は、難波の港を出発して九州に向かいました。
 このたびの援軍は本格的なもので、斉名天皇もみずから九州に向かい、そこに遷都をしてまでの肝の入れようでありました。
 そこで、九州に皇居と都を造成しなければなりません。御所を建て、各役人の住まいを建て、街としての機能をすべて新しく作らねばなりません。
 難波の港を出発したものの、九州での都の建設が間に合いません。大船団は、伊予国の道後のあたりに停泊して、九州の準備が出来るのを待ったといいます。
 そして、かなりの日数が経って、船上の兵士達も士気が落ちてきました。
 そんな時、ある月の輝く夜、出発の号令がかかります。天皇の号令をより効果的にし、士気を鼓舞する為に、額田王はこの歌を詠ったのです。二度、三度と詠うにつれ、この歌が全軍の兵士に勇気を奮い立たせたと記録にあります。
 当時は、歌垣の話でもわかるように、自分の気持を歌にすることによって、感情が倍増していた時代でした。恋の歌、別れの歌、愛の歌、葬の歌などの数々が万葉集に出てきています。
 森淳司・俵万智共著の本から抜粋してみます。
 この歌にはまさに王者の風格があり、航海の安全と、征戦の貫徹を予祝する重々しい歌いぶりが見られる。潮良し、月良し、まさに今こそ出発の好機ぞ、とその出航を宣言する。
  さて、少し脱線しましたが、この写真の椿は「熟田津」と名前を貰っていました。大海人皇子と中大兄皇子の時代にあって、数奇な運命を辿った額田王に思いを馳せてしまいました。

あんこ椿は恋の花8

2005-04-24 | 国内旅行
 これも伊豆大島の温室に咲いていた花です。黄色の椿です。
 しかし、これは日本古来のものでなく、それほど遠くない昔に、中国の雲南省から渡ってきた(移植した)椿の一つです。珍しいのでカメラに収めましたが、名を「キンカチャ」(金花茶)と言います。
 だから、椿ではなくて茶の木なんです。花の形は「茶の花」や「夏ツバキの花」にそっくりですが、黄色は始めて見ました。
 ところで、椿も茶の木も両方ともcamelliaという属に入っていて、和名ではツバキとチャと呼び分けていますが、生物学的には同じ一族なのです。だから、ここの椿園で栽培されていたものです。
 以下駄文になりますが書いて見ます。
 属とか種とかの言葉を使ってきましたが、属名と種名とを並べて生物の名前を表します。
 これはリンネと言う人が世界共通の名前をつけることを称えてから始まりました。
 世界の共通語を使うのがいいのですが、そんな言葉はないので古典に残っていて、どこの国も現在使っていない言葉である「ラテン語」を使うことにしました。
 人はホモ・サピエンス、稲はオリザ・サティバ・リンネなどと言います。三つ目の名のリンネとか言うのは、命名者の名とか、指導してもらった師の名前とかを付けます。
 当然、これを発案したリンネが、○○・××・リンネという名前で最も多くなっています。
 ツバキの仲間は、すべてCamellia・△△という名前が付いています。これで世界中、どこに行ってもCamellaと言う属の名を聞いただけで、世界中の人が同じ生物の姿をイメージできると言うものです。
 この属名が集まって、よく似た属をまとめて、科名があります。例えば、バラ科、イネ科、キク科などと言います。
 こんなに長く書いてしまって、どうしましょう。