百年の計の足尾銅山跡の回復。
群馬県を横断する渡良瀬川流域は、足利・桐生、赤城山東の裾を巻き、その源流域には足尾銅山が開発されていた。
銅山の発見は慶長15年というから、天下分け目の関が原の合戦があって10年後のことである。以来営々と銅を生産してきたが、明治10年に、古河市兵衛が採掘権を得るや、飛躍的に生産量は増大し、設備も掘削場所も充実し、大々的に生産し始めた。
それは同時に、自然の破壊に繋がり、この渡良瀬川源流域に面する山々は、すべて植物が死滅し、禿山が連なる荒涼たる風景になってきた。
山の荒廃は坑道を掘る際に使う、トンネルの補強材の為に、樹木を伐採することから始まる。坑道は、西側・南側・北側の三箇所から掘り進められ、トンネルの延べ延長が約1200kmにもなったと言う。
見渡す限りの茶色の山々が、やや緑を帯びてきたが、森林には程遠い。
北側の坑道「本山洞」には精錬所が設けられ、主要な設備などがここに集中した。
最盛期の鉱山の写真が、掲示してある。住宅の周りには草木の一本もない事がわかる。
今でこそ草が生い茂るが、当時は緑はなかった。
左:住宅地の中の塀は鉱山からの残渣で出来たレンガで黒い。
右:当時の住宅で無人になって放置した家屋。
しかし、足尾の街は人々で賑わい、群馬県下では宇都宮市に次ぐ人口があったという。街の繁栄の名残りは、足尾病院が大企業の後ろ盾の中で最新の設備を誇った当時を残して、今も地域住民に信頼されて残っている。
そして、鉱毒問題が大きく国家的規模で取上げられるや、採掘高の減少と相まって、閉鎖への道を歩んだ。昭和48年に96年間の営みを停止した。
樹木の伐採が大きい要因であったが、煙害による周辺の谷の草木の枯死・渡良瀬川の流域の水の汚染は、生息する生物を死滅させ、我が国の公害問題の先駆けとなった。
しかし、今は、多くの人たちの定例的なボランティァなどにより、植林が繰り返され着実に僅かずつではあるが、自然は回復しつつある。
この図の緑色は植林によって回復している所。20~30%くらいか。この図は鉱山地区の数%しか描かれていない。現在重点的に治山事業が進められている場所の図である。
植林されて、花を咲かせるヤマボウシ。
地域の学校の生徒による協力、ボランティァ活動など、懸命の努力によって、緑のなかった山が、生気を取り戻しつつあるが、百年の計であろう。
群馬県を横断する渡良瀬川流域は、足利・桐生、赤城山東の裾を巻き、その源流域には足尾銅山が開発されていた。
銅山の発見は慶長15年というから、天下分け目の関が原の合戦があって10年後のことである。以来営々と銅を生産してきたが、明治10年に、古河市兵衛が採掘権を得るや、飛躍的に生産量は増大し、設備も掘削場所も充実し、大々的に生産し始めた。
それは同時に、自然の破壊に繋がり、この渡良瀬川源流域に面する山々は、すべて植物が死滅し、禿山が連なる荒涼たる風景になってきた。
山の荒廃は坑道を掘る際に使う、トンネルの補強材の為に、樹木を伐採することから始まる。坑道は、西側・南側・北側の三箇所から掘り進められ、トンネルの延べ延長が約1200kmにもなったと言う。
見渡す限りの茶色の山々が、やや緑を帯びてきたが、森林には程遠い。
北側の坑道「本山洞」には精錬所が設けられ、主要な設備などがここに集中した。
最盛期の鉱山の写真が、掲示してある。住宅の周りには草木の一本もない事がわかる。
今でこそ草が生い茂るが、当時は緑はなかった。
左:住宅地の中の塀は鉱山からの残渣で出来たレンガで黒い。
右:当時の住宅で無人になって放置した家屋。
しかし、足尾の街は人々で賑わい、群馬県下では宇都宮市に次ぐ人口があったという。街の繁栄の名残りは、足尾病院が大企業の後ろ盾の中で最新の設備を誇った当時を残して、今も地域住民に信頼されて残っている。
そして、鉱毒問題が大きく国家的規模で取上げられるや、採掘高の減少と相まって、閉鎖への道を歩んだ。昭和48年に96年間の営みを停止した。
樹木の伐採が大きい要因であったが、煙害による周辺の谷の草木の枯死・渡良瀬川の流域の水の汚染は、生息する生物を死滅させ、我が国の公害問題の先駆けとなった。
しかし、今は、多くの人たちの定例的なボランティァなどにより、植林が繰り返され着実に僅かずつではあるが、自然は回復しつつある。
この図の緑色は植林によって回復している所。20~30%くらいか。この図は鉱山地区の数%しか描かれていない。現在重点的に治山事業が進められている場所の図である。
植林されて、花を咲かせるヤマボウシ。
地域の学校の生徒による協力、ボランティァ活動など、懸命の努力によって、緑のなかった山が、生気を取り戻しつつあるが、百年の計であろう。