昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

渡良瀬川03

2005-07-31 | 国内旅行
 百年の計の足尾銅山跡の回復。
 群馬県を横断する渡良瀬川流域は、足利・桐生、赤城山東の裾を巻き、その源流域には足尾銅山が開発されていた。
 銅山の発見は慶長15年というから、天下分け目の関が原の合戦があって10年後のことである。以来営々と銅を生産してきたが、明治10年に、古河市兵衛が採掘権を得るや、飛躍的に生産量は増大し、設備も掘削場所も充実し、大々的に生産し始めた。
 それは同時に、自然の破壊に繋がり、この渡良瀬川源流域に面する山々は、すべて植物が死滅し、禿山が連なる荒涼たる風景になってきた。

山の荒廃は坑道を掘る際に使う、トンネルの補強材の為に、樹木を伐採することから始まる。坑道は、西側・南側・北側の三箇所から掘り進められ、トンネルの延べ延長が約1200kmにもなったと言う。
見渡す限りの茶色の山々が、やや緑を帯びてきたが、森林には程遠い。


北側の坑道「本山洞」には精錬所が設けられ、主要な設備などがここに集中した。


最盛期の鉱山の写真が、掲示してある。住宅の周りには草木の一本もない事がわかる。

今でこそ草が生い茂るが、当時は緑はなかった。
左:住宅地の中の塀は鉱山からの残渣で出来たレンガで黒い。
右:当時の住宅で無人になって放置した家屋。

 しかし、足尾の街は人々で賑わい、群馬県下では宇都宮市に次ぐ人口があったという。街の繁栄の名残りは、足尾病院が大企業の後ろ盾の中で最新の設備を誇った当時を残して、今も地域住民に信頼されて残っている。

 そして、鉱毒問題が大きく国家的規模で取上げられるや、採掘高の減少と相まって、閉鎖への道を歩んだ。昭和48年に96年間の営みを停止した。
 樹木の伐採が大きい要因であったが、煙害による周辺の谷の草木の枯死・渡良瀬川の流域の水の汚染は、生息する生物を死滅させ、我が国の公害問題の先駆けとなった。
 しかし、今は、多くの人たちの定例的なボランティァなどにより、植林が繰り返され着実に僅かずつではあるが、自然は回復しつつある。
この図の緑色は植林によって回復している所。20~30%くらいか。この図は鉱山地区の数%しか描かれていない。現在重点的に治山事業が進められている場所の図である。


植林されて、花を咲かせるヤマボウシ。

地域の学校の生徒による協力、ボランティァ活動など、懸命の努力によって、緑のなかった山が、生気を取り戻しつつあるが、百年の計であろう。



業平蕎麦

2005-07-30 | 旅の風物
 蕎麦が美味い。
 滋賀県湖北に在原という村があると聞いた。かなり山の標高を上げた山里である。そこに業平蕎麦が美味しいと聞いた。さっそく行く事にした。
 マキノのスキー場から更に奥に入る。または、国道161号線、湖北の海津大崎への道と別れて間もなく「在原口」と言う標識があるので、それを西に曲がる。
 山の峠を越すとすぐ村が見えてくる。戸数30軒くらいか。在原村の業平蕎麦の食える村である。
 峠から村に入る道の真ん中に、道路を押しのけんばかりに大木が道を遮っている。何とも気味の悪い樹相をしている。
 幹の割れ目といい、枝振りといい、木霊が宿って居そうである。
 後で、蕎麦屋の人に尋ねると、「ヨノミ」という木だそうである。クスノキの葉に似ているが少し小さい。図鑑でも出てこない。
 さらに言う「昔、戦いで敵が村を攻めてきた時にオニが立っていると勘違いをして逃げていった木で、村の守り神として切らないで守っている」
 写真では迫力はもう一つだが、何とも化けてきそうなほどのオーラを感じた。

 やっぱり在原村には業平の墓があった。案内板は消えかかっているが、それと読める。150mほど山に入ったところにある。森の中には、小さな宝筐印塔があった。
 ここには、業平の別荘があったそうで、晩年はここで暮し骨を埋めたと言う。
 案内板の下に「在原の里カタクリ、駐車場は500m」と読める。
 ここまで山奥に入ると、さすがにカタクリの群落があるようで、年に一回は、シーズンになると人で混雑するようで、駐車場とか、野菜売場とか、coffee店まである。すべて休業中である。

ふと足元を見ると、田の畦道の溝にヤブカンゾウが咲いていた。

業平そばの小屋があった。ここまで家から2時間近くかかった。小屋の中のテーブル席は、すべてここに見えている石灰岩がドーンと置いてある。右手のほうには宴会でも出来そうな座敷が見えている。

店の中は6人ほどのファミリーの客があり、屋外にある茅葺の小屋の席で業平そばを食った。業平もこんな山奥で蕎麦を食ったかなどと思いながら。味は本来の蕎麦の味で素朴な味がする。美味い。塩味で戴く山菜てんぷらが美味い。

退屈しのぎの一対の信楽狸がいる。後のイノシシがよく出来ている。そして雨蛙。カメラを向けると、そっぽを向いた。

渡良瀬川02

2005-07-28 | 国内旅行
 萌子と蕎麦と富弘と02。
 赤城山の東の谷を渡良瀬川に沿って遡る。この道は日光に通じる謂わば裏街道になる。ここに渓谷鉄道が1時間に1-2回走っている。それでも2両編成というから、たいしたものだ。

 渓谷沿いに村が点々とある。その一つの村里の畑1haほどに、今回案内してもらった桐生っ子の女性の旦那さんが、ブルーベリー100本を植栽したと言う。
 外国で野生のブルーベリーをよく見かけたものだ。今年の苗木移植というのに、もう実がついている。数年後には収穫を手伝いに行くという話もある。これは食べると眼に良いそうで。

 行くほどに、進むほどに草木ダムがあって、一帯が公園になっている。観光バスが4-5台駐車していた。そこに、富弘美術館があった。星野富弘さんの作品数百点と、生きることの素晴らしさが展示されている。

 彼は1946年ここ群馬県に生まれ、長じて体操の選手として県でも名を馳せた。1970年群馬大卒業後、中学校で教鞭をとり、クラブ活動指導中に頚髄を損傷し、手足の自由を失った。落胆と絶望は如何ばかりか。
 以後、口に筆をくわえて文や絵を書き始めた。その詩画展は大きな感動を呼んだ。海外での詩画展の反響も大きく、1991年、生まれ故郷の群馬県勢多郡東村に、村立の美術館を開設した。2004年には入館者460万人を超えたという。2005年、この地に美術館を開館したものである。

美術館入ってすぐのロビーに展示された詩文

展示されている数百点の作品は、すべて写真がお嫌いで、パンフレットからのコピーをアップします。じっくりと味合ってみて下さい。
 彼の生きる為の一途な意欲は常人の想像を絶するものがあります。さらに、傷害の日から5年間の闘病生活に、母の献身的な支えが大きかったそうです。


 余談になるが、京都山科にある勧修寺のすぐ隣りに塔頭の仏光院というお寺がある。ここは、両腕を失って仏門に入った大石順教尼が、昭和11年、身障者の救済に建てた厚生施設が前身である。
 彼女は大阪堀江の芸者妻吉で、養父の6人斬り事件として、話題になった際の被害者の一人である。唯一、生き残ったが両腕を無くしたものである。
 彼女が口に筆を咥えて書画に励み、遂に日展に入選したことがある。数々の作品はお寺の入ったところに、ガラスのウインドウに展示されている。
 

萌子と蕎麦と富広と01

2005-07-27 | 国内旅行
 赤城山裾野の萌子と蕎麦。
 標高1800mほどをくだり、急なドライブウエイが緩やかになった頃、俵萌子美術館があった。本人は現在、海外に行っていて出会えなかった。新聞記者から身を起し、陶芸家から、あらゆる部門で活躍して、ここを終の棲家にしたのだろうか。庭の大きな木はヤマボウシで満開であった。




 近くに、洒落た格好の蕎麦屋があった。誰かの別荘を店に改装したらしく、レトロな造作で、なかなかの盛況であった。高原地帯でクーラーはなく、ボリュームたっぷりの天ザルは4人前である。これは美味かった。


赤城山

2005-07-26 | 国内旅行
 赤城山系はあるが赤城山という山はない。
 丁度、八ヶ岳とか立山のようなものだ。 
 昔々神代の頃、赤城神の大ムカデと日光の二荒(ふたあら)神の大蛇が、中禅寺湖の戦場ヶ原で戦い、長年優勢だった赤城神であったが、遂に破れた。傷ついて逃げ帰ってきた大ムカデの血で、赤城の草木が赤く染まった。以来、赤木山と呼ぶようになったとサ。
  赤城山が曇っていて全貌が見えなかったので、晴れた日の遠望を借りてきた。

  山頂近くまで車で行けた。少し下がったところに「小沼」と言われる爆裂火山湖がある。
 ここに、小沼伝説がある。
  山の麓の長者に16歳の娘がいた。娘の願いで、お供を多く連れて赤城山に登り、小沼で休憩していると、娘は喉が渇いたと言って沼の水を飲むために岸辺に近付いた。すると、沼の中に吸い込まれてしまって、竜神(大蛇)になって沼の主になった。
 それからは、雛祭りには、娘の好きな菱餅を沼に浮かべると、餅は沼の中央に行ってから底に沈むと言う。また、村の16歳の娘はこの山に登らないそうだ。
  竜神の住む「小沼」

少し標高を下げると、森林浴もバードウオッチングも出来る「覚満渕」に着いた。これも外輪山に出来た火口湖である。

頭隠して尻隠さず。水中の草を食べているかも?

「俺たちみんな、そろそろ一本立ちしないとなァ」遅い春にオタマジャクシが蠢く。「もうちょっと離れろよ。ぎゅうぎゅうで、ひっくり返るじゃあないか」

手前のピンクのツツジがヤシオツツジ、奥の朱色のものがレンゲツツジ。ヤシオツツジは早く咲き終わるそうで、既に盛りを過ぎていたのだった。
 赤城山の大ムカデの血に染まったとすると、ムカデの血は赤い血と、ピンクの血だったことになる。節足動物としてのほんとの百足の血は緑色である。
 それに、古来ムカデは、おあしが入る・客足がつくなどと言って縁起がよい動物とされる。神の使い、また怪異なものとされる。近江国の三上山のムカデもそうであった。尻尾から近江米の俵が出て、藤原秀郷が俵藤太と名を変えるほどの瑞祥であった。

岸辺の原野に一面のレンゲツツジ

野生だと思うがクリンソウが咲いていた。 野鳥観察場所の案内板。

渡良瀬川01

2005-07-24 | 国内旅行
 北関東を右往左往。
 今回の旅の目的の一つである新田・足利を訪ね、翌日午前中に足を伸ばして宇都宮まで、東北道もあるし、桐生から約1時間と踏んだ。そこに大谷石の採掘跡があった。関西でも、村の庄屋の家の塀にはよく使われている。鹿沼土で全国に知られる鹿沼市との中間にある。

 彷徨える今回の旅は、伊勢崎ICから足利市とその対岸の新田町。宇都宮の大谷石、渡良瀬川を西に遡ると桐生の西にはもう渓谷がある。さらに西の赤城山。そして川沿いに北に上り日光から中禅寺湖と進む。地図の水色のラインは渡良瀬川を表す。
 市街から近く渓谷がある。総体にこちらは山が深い。緑が多い。人手が入っていない。


こんな大きな甌穴(おうけつ)は初めて見る。中の石が流れで回転して岩を穿つのである。直径1m以上はありそうだ。自然の妙というほかはない。

続いて赤城山(1828m)に登った。車で1500mほどまで行ける。下界は真っ白で何も見えない。竹下夢二は足利に滞在した事があるという。山頂の高原地帯はヤシオツツジの群落が満開であった。


大谷石採掘場跡

2005-07-23 | 国内旅行
 大谷石を切り出す。
 宇都宮市大谷町一帯が、火山灰の層に覆われ、凝灰岩となって産出されている。出来た時代は2000万年前と言うから、まだ日本列島の大部分が」海中にあった頃という。
 その分布は、東西8km、南北37km、地下200-300mに拡がっている。
 明治時代になって、本格的に採掘されるようになり、大変な賑わいを見せた。大正時代になって、旧帝国ホテルに大谷石が利用され、全国に知られるようになった。
 今でも、採掘場は50箇所で年間70万トンを生産していると言う。
 
  採掘場跡が、地下に巨大な洞窟を作り、観光地として開放されている。上の写真はその洞窟の入口にある駐車場である。この辺りの山々は、皆空洞になってしまっている。

 昭和35年頃までは、鶴嘴による手掘りであった。一個の石(重さ70kg)の大きさは15×30×90cmで一人一日に10本を採掘した。その後は、機械化が進み50本は掘れたという。当時はそれを担いで運び上げ、地表でトロッコなどが使われた。

いつか、掘り出した跡は巨大なものになり、ここ見学している洞窟だけで、東京ドームの広さになるという。中の年平均気温は18℃と言うから、夏は快適である。余剰米の貯蔵や、ワインとか、冷蔵庫に活用されている。戦時中は軍需工場にもなったと言う。

右上の写真の中、三本のライトは、コンサートの時のステージになる部分である。

 すぐ近くに大谷観音がある。平安時代の創建で、坂東三十三ヶ所観音霊場の十九番になる。写真がお嫌いな千手観音さまで、弘法大師作とされる肉厚の磨崖仏である。正面奥の崖の洞穴に鎮座する。

 お寺の前の丘をトンネルで抜けると、「平和観音」と言う名の石像の大きな観音様が立っておられました。この観音様の頭よりも高く、凝灰岩の丘であったに違いない。

高氏から尊氏へ03

2005-07-21 | 国内旅行
 後醍醐天皇都に帰る。
 遂に、鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇の思惑通りの世になった。建武の新政(中興)と言われる2年間であった。(1333.6)高氏は天皇の名である尊治(たかはる)から一字を貰い尊氏となった。
 しかし翌年元号を、元弘から建武に改元したが、間もなく足利尊氏と対立し始めた。後醍醐天皇の施策は、平安時代への復帰であって、武士の権益は認めなかった。天皇が直接にすべてのことを実行しようとしたので、手が廻らなかった。天皇は組織で動く事ができなかった。
 反旗を翻した尊氏は、一度は西国に落ちるが、盛り返し、楠木正成を葬り、さらに新田義貞を打ち破り、後醍醐天皇は吉野に逃れる。南北朝の幕開けである。
 北朝を称えた尊氏であったが、弟直義との軋轢もあり、南朝方に付いたり、様々な人間模様を展開する太平記の世界になる。
 このあたりの詳細は興味津々であるが、一休みをして、次の機会にします。
 いずれにしろ、尊氏の生涯は戦いに明け暮れたのち、室町幕府を開く事になる。
 
左上:栃木県足利市の街中に立つ尊氏の像。右上:京都北区等持院の中門。
 等持院は、仁和寺の支院であったのを、尊氏が夢想国師を開山として、臨済宗の寺として中興した。当初は北側の衣笠山にあったものを現在地に移したものである。尊氏に法号をとって等持院と改めて嵯峨野天竜寺の末寺とした。足利将軍歴代の菩提寺になった。
下の写真は、門の横にあった案内である。戦前までは逆賊と言われ続けた尊氏であるので、その案内も他の寺と違って控え目に、訪れる人に親しみを持って歓迎しているような感じがする。

臨済宗と曹洞宗は、インドから中国へ達磨大師がもたらしたもの。それを栄西(1168)と道元(1223)は中国に渡り、教えを受けてきた。そのときの中国の僧が臨済であり、洞山良介とその弟子の曹山本寂
であったことから、禅宗の日本名として名づけられた。達磨こそが偉大なる禅宗の祖である。玄関を入ると正面に射竦めるような屏風がある。心のやましいものはさぞやドキッとする事でしょう。


足利高氏の墓が庭の一隅にある。この墓は、幕末に勤皇の士「高山彦九郎」は、ここに来て、この墓を叩いたと言う。逆賊であったのです。

歴代将軍の木像が勢揃いしているのは壮観です。第5代義量(よしかず)と第15代義栄(よしひで)が欠けています。これは尊氏です。


手前が3代義満です。金閣寺建立ですね。一つ向かうは2代義詮(よしあきら)その向こうが尊氏です。明治維新の時に、勤皇の志士によって、尊氏と義満と義政の三体の首が抜かれて、鴨川に曝されたと言う。

禅宗の寺の庭だけでなく、全国から招かれても気骨のあった禅宗の僧「夢想国師」の手になる庭園は見事で飽きが来ない。

醒ヶ井宿

2005-07-19 | 自然界
 バイカモ。
 米原町の蓮華寺が出てきたので、「米原」から東隣りの駅「醒ヶ井」のバイカモの写真があったのを思い出しました。
 この花は6月くらいから10月くらいまで咲いている。秋には花が小さくなるようです。数年前から、駅前に大きなレストハウスが出来て行きやすくなった。

 ここはバイカモよりも、駅から約4km谷間に遡ったところに、大きな養鱒場がある。年に1ー2回は鱒を食べに行きます。

 醒ヶ井を始め、伊吹山麓に沿って関が原あたりまで史跡などが多い。これらの紹介は後日にします。




高氏から尊氏へ02

2005-07-17 | 歴史・文化遺産
 高氏立つ。
後醍醐天皇が隠岐から脱出して、船上山に陣を張り(1333.2)伯耆の名和長年・播磨の赤松則村らの助けで、やがて都を目指す。
 一方では、楠木正成らを千早城に攻める幕府軍は、護良親王のゲリラ部隊に苦しみ、多くの幕府軍の武士が戦線を離脱している。 
 天皇軍の一翼をになう播磨の赤松則村は山崎・八幡付近まで進出してきた(1333.3)が、六波羅軍と睨み合いが続く。
 これを見た幕府は、高氏(29)を大将にして増援軍を上洛させる。そして、高氏は赤松則村討伐に向かうが、味方の軍が敗れるのを見て、足利氏の領地であった篠村(京都西の亀岡市)に逃れる。
 ここ篠村の八幡宮こそが、足利高氏が時代の流れを知り、幕府に反旗を翻した土地であった。彼は全国の豪族に密書を出した。7-8cm大のもので、「伯耆より勅命を蒙り候の間」と書き出し、天皇から委任されたかのような文言が並んでいる。
 新しい風に期待を寄せ、変化を求める人たちとか、幕府の有様に愛想を尽かしていた人たちを糾合したのであった。





下左:旗揚げ柳は、この木に源氏の笹竜胆の印も鮮やかに、源氏の白旗を高々と揚げたという。すぐ右の道路は旧山陰道が通る。柳と言っても枝垂れでない。勿論、数代目の木が育っているという。
下右:矢塚は、高氏がここに鏑矢を置くと、意思を同じうする武将たちが、次々と矢を一本ずつ置いていった。矢は山と積まれ、それを塚とし、杉の木を植えたと言う。昭和になって台風で駄目になった後、植え替えたもの。

かくて、足利高氏・赤松則村・千種忠顕らの軍勢が、京都六波羅探題を攻撃(1333.5)した。六波羅探題の北条仲時(28)らは、光厳天皇(21)と後伏見上皇・花園上皇を奉じて鎌倉に向かう。

 しかし、滋賀県米原町の番場宿で、一族郎党432人が自刃した(1333.5)のが蓮華寺の境内であったと言い、流れる小川が真っ赤に血で染まったと言う。寺には供養の五輪塔が多数並び、死者の記録も今に残っている。皇族は捕らえられている。

丁度このころ、新田義貞が生品神社で倒幕の兵を挙げている。また、千早城の幕府軍は、奈良興福寺まで引き、その後降伏している。