昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

アーモンド

2006-03-31 | 自然界
今年も新聞にアーモンドが咲いている記事が載った。

 神戸市東灘区の海を埋め立てた土地に、市民の要望でアーモンドが植栽されている。ここが水公園となっていて、遊歩道も整備されている。

進入注意とは海から入ってくる船に対する注意である。


今日は風が冷たいのに夕方から行った。それでも見に来る家族連れなどもいた。


花が大きい。花弁も大きい。色はピンクで綺麗だ。アーモンドの実は、おつまみと同じだろうか。


桜よりも大きな花が満開である。


一重の花弁は柔らかだがしっかりとして逞しい。しかも派手である。外来種は強い。


スモモの木があった。花が小さい。先日和歌山で見たのは、スモモの一種で、土地の人の言うように「フランコ」とかの名前の種類だろう。桃の小さいのと言っていたからプラムとかその類かも。


スモモは既に散り始めていた。


レンギョウの色が鮮やか。


アケビの仲間で「ムベ」である。大きなやや丸い形の実がなる。この花は初めて見た。


水の公園と言うので、浄水された水が流れている。岸辺の草は「ハッカ」で香りがきつい。


夕日に逆光でフラッシュをつけると、こんな写真になった。


都会の夕日は屋根の上に落ちる。


真田庵(紀ノ川04)

2006-03-30 | 歴史・文化遺産
 九度山町のもう一つの史跡、真田庵に向う。

 信州上田城主の真田昌幸と幸村は、関が原の合戦で西軍方を支援した。
 家康の子秀忠が中山道を廻った為に、関が原の合戦の当日に間に合わなかったのは真田親子の為だった。

 真田昌幸は長男信之を東軍につけていた。

 西軍の敗戦によって昌幸・幸村は、兄信之の計らいもあって、高野山への蟄居を命じられる。そしてここ高野山領であった九度山での生活は14年を数えた。

 慶長19年、真田幸村はその子大介らと共に大阪城に入り、翌年の夏の陣で最期を迎える。
道路から、つっと横小路を入る。電柱などには真田の文字が。この道路は新道で、いわば村の道のバイパスである。


 真田庵の築地塀の瓦には、幸村の六文銭の紋がある。上の階層の屋根の軒瓦には菊の紋がある。
 近くの柿の葉寿司の店の長老の話では、菊の紋があるので、明治維新の廃仏毀釈の時に、破壊されるのを免れたと言う。


 この門は北側にあるが、この門前を走る村の狭い道が本来の街道だと言う。歴史街道もこの道になっている。

 六文銭の家紋は、幸村が関東で北条氏政の大軍と遭遇した。その時
 敵の重臣の紋である「永楽通宝」のついた旗指物6本をつくり、隊を6つに分け夜討をかけた。
 敵方が裏切り者出現と勘違いをして狼狽し、幸村は勝利した。
 その後、父から六文銭の家紋の許可を得ている。

六文銭と菊の紋が並んでいる。


父真田昌幸はここで病死して、神となった。


牡丹のある庭の前に宝物館がある。


掛軸があり、真田三代の肖像画が並んでいた。


真田三代記がある。これは原本だろう。左の本の文言に片桐且元の文字が見える。


幼き頃、夢を見させてくれた「真田十勇士」たち。


 中庭に鉄骨の藤棚などがあるが、家屋は普通の家と違って、一見したところ蔵のように頑丈そうである。


 本来の街道筋は、山の辺の道の様にくねくねとして勾配がある。その道沿いの電柱にあった歴史街道の案内標識。



慈尊院(紀ノ川03)

2006-03-29 | 歴史・文化遺産
 紀ノ川の左岸を更に遡ると、九度山(くどやま)町に入った。すぐに女人高野「慈尊院」がある。気さくな住職も健在であった。
 九度山と言うのは、空海が高野山で修行している時に、彼の母が讃岐国から訪ねてきます。
 高野山は女人禁制の為、ここ高野山の入口になる自尊院に滞在した。母思いの大師は、月に9回(9度)山から下りて母を慰めた所から九度山と言う。


 平山郁夫氏の手になる銘の石碑が出来ている。背後のお堂が国宝木造弥勒菩薩坐像が二重の扉の中で秘仏になっているお堂である。


小説「紀ノ川」によって慈尊院は更に知られるようになった。


子育ての悩み、乳の出ない悩みなどで参詣者は跡を絶たない。


立体絵馬にまでなっている乳房である。


大師の母はここで一生を終ったと言う。


大師が立てたという寺の鎮守の神社が裏の丘にある。「丹生官省符(にうかんしょうぷ)神社」と言う。


紅梅が盛りだ。よく見ると写真左上に、ボダイジュの種子が葉に付いたままで引懸っている。例の楕円形の葉の中央にぶら下がる種子である。


枝垂桜が咲き初めである。


 慈尊院は紀ノ川の船着場に近かった。一度は洪水で寺が流された事すらある。
ここまで来て船を降りて、高野山金剛峰寺に向ったのである。
 
 道沿いに1町(約109m)ごとに卒塔婆が立っていたが、江戸時代になって卒塔婆の形の石碑となった。
 町石には180町とある。山上の根本大塔からスタートして、慈尊院で180町という意味である。


スモモの里(紀ノ川02)

2006-03-28 | 自然界
 紀ノ川沿いの桃源郷がもしや咲いているかと向ったが、南国紀の国でも、まだであった。行くほどにかつらぎ町の道路沿いに見事な花の真っ盛りを見つけた。
ここの村は、山の斜面までが一面スモモである。


紅白の花が満開である。
 すぐ傍で、耕運機を動かしている人に聞いたのを要約すると「これはフランコと言う種類で、桃よりも小さい果実が出来る。スモモの種類である」ということです。


紅色は、けばけばしくない程度に色がついている。


一見、梅と見まごうばかりの花たち。


 これは驚き、紅白の花が同じ幹から出ている。
 先ほどの耕運機の人の話「接木(つぎき)をして紅白を咲かせている。接木をしないなら、人工受粉をしないと実がならない。紅白混ぜてやると、ミツバチも飛んで来る」と言う。
 あまり要領を得ないが、それ以上を聞くには、あまりにも親切なおじさんであった。耕運機のエンジンを停めて話し相手になってくれた。


そう言えば、ミツバチの羽音がぶんぶん言っている。


ちょっと枝の向きがアンバランスだが、青空一杯に伸び伸びとして咲いている。

万葉の里(紀ノ川01)

2006-03-27 | 歴史・文化遺産
 朝、目が覚めると、抜けるような青空だった。こんなとき、家の中にいると黴が生えそうなので、首や腕の痛いのをものともせずにドライブした。その間は暫く痛みを忘れている事も、その気にする一つです。

 春酣と思っているのに、桜の便りが関西ではまだ聞かれない。まだ満足に咲いていないのです。関東、東海ではしきりと話が聞えてくるのに。

 これでは、南に行くに限ると和歌山方面と決めて、早い季節が見られるかと、紀ノ川の左岸に広がる桃の里に向う。人呼んで「桃源郷」。

 桃山町は見事に空振りであった。そのまま紀ノ川の左岸を遡る。紀ノ川市を抜けて、かつらぎ町に入る頃、「紀ノ川万葉の里」が出てきた。以前は素通りしていたが、今回は車を降りてみる。
 道路から吊り橋が架かっており、川向こうには、何やら万葉歌らしき碑と岸辺に歌が書かれている。


つり橋の向こうには、古来から船岡山と呼ばれる森があり、川を上り下りする水運を護る厳島神社がある。


橋を渡って右手に、犬養孝先生の万葉和歌の碑があった。

せの山に ただに迎へる 妹(いも)の山 事聴(ゆる)せやも 打橋渡す

背(せ)の山(168m)と、妹(いも)の山(128m)が、川に迫り、ここの地で紀ノ川を最も狭くしている所である。山の名前が北側が背山、南側が妹山になっている。

 大和から南海道を下る旅人にとって、旅の行く手の目標となっていた地形である。
飛鳥から二日、奈良から三日の距離である。行く人にとっては、残してきた妻を一層恋しくなる位置でもあった。
 この地で万葉集の歌が14首集まっているそうです。

歌の意味は
 背山に真正面から向き合う妹の山はあまりにも近くである。川の中の島である船岡山を挟んでいるが、大きな声で呼べば応えるほどの距離であるが、ここに橋を架けましたよ。橋は要らないかも知れませんが、了解してください。とでもいうのでしょうか。もっと楽しい解釈も出来ると思います。

両岸に山が迫っていることから、古代、畿内の境界をここに決めていたという。


川を護ると共に、村の鎮守としても大切にされている。


立派な千木と端にそれぞれ一本の鰹木を持つ。


紀ノ川の上流(東方)を望む。大和盆地まほろばを見ている。遠く金剛・葛城連峰の山並みが見えている。


 

新滑走路ウオーキング

2006-03-26 | 歴史・文化遺産
 関西国際空港を歩こう、というキャンペーンがあった。第2空港島の完成に伴ったイベントである。開港は来年だそうである。

 第2空港島まで行くのは、シャトルバスがフル運転している。

 電車の駅を降りると、延々と列が出来ていて、止まる事無く進む列は、ターミナルのホテルの前を右に行ったり、左に行ったり、引っ張りまわされて約1時間でやっとバスに乗れる。

 列の横では、ステージイベントや各国の食べ物の店が並び、旅行社や各国の宣伝の店が並んでいる。ダージリン茶を買った。

歩くのはこの図の一番上の滑走路の右端から全部で4000mある。島を隔てる水路の幅は200mと言うから大きさがわかる。 


スタートのゲートである。


整然とバスに分乗して15分でスタート地点に着く。


はるか遠くに、民族の大移動のように見える。


マシンが並んでいる。土砂を地面に落としてからの「敷均し(しきならし)」と言う作業の手順を示す。


これはドイツ製のマシンだという。ダンプからの土砂を受けて、それを均等に地面に広げていく。その後ろからローダーが進む。


第1空港島の管制塔やターミナルの遠景。遠く葛城・金剛の山並みが見える。


大阪湾側には、船が空中に浮いているのかとさえ思う。何故地面よりも上に船が見えるのだろうか。地面のほうが海よりも高所にある筈。背後に微かに見える山は淡路島だろうか。


逃げ水が見えて、春の陽射しがうららかで、霞は遠くをベールに隠す。


子ども連れのファミリーが多い。彼らもまた何年かして、飛行機でここを走る事だろう。ここに文明の新しい造形が出来上がった。

旭川の駅弁

2006-03-25 | 旅の風物
今日近くのスーパーで駅弁大会をしていた。旭川の弁当があったので購入しました。最近北海道の旭川が身近な感じになっているので、つい手が出たというわけです。美味かった。現地からどうやって運ぶのかと思いながら、北の雪国からの味を楽しみました。
 明日の関西空港の滑走路ウオーキングに、弁当代わりに「柿の葉寿司」も手に入れたました。越前の蟹寿司、富山の鱒の寿司、などお馴染みの物が並んでいました。

平家総門跡(屋島06)

2006-03-24 | 国内旅行
屋島に陣を構えた平家は、ここに陣地の総門を置いたという。佐藤継信が義経の身代わりになって討たれた射落畠に程近い。


陣営の入口の総門は海の方を向いて建っている。


道路に面した正面からの総門。


左:牟礼町の史跡に立っている紅白の旗と円形の碑は地元の人による歌碑である。
右:総門の表示のある石碑、由緒書きがある。


左の「安徳天皇社」とあるのが屋島である。


木材で出来た総門がいかにも仮の陣地を象徴している。侘しいではないか。


平家が滅び、源氏の世の中になって、この総門も、改築を重ねていると思うが、特に粗末に作られた感じがする。


明治時代の総門の風景、周囲は田園風景が広がる。右の立札には射落畠と書いてある。


佐藤継信(屋島05)

2006-03-23 | 国内旅行
義経の軍勢が迫るや、平家は一斉に海上の船に退却します。
 それは周囲の山々や集落などに火を点け、その火が源氏の大軍の寄せ手を思わせたからでした。
 しかし、やがて源氏の手勢は僅かだと知ると、反撃に出ます。

平家の武将能登守教経(のりつね)が、渚に上陸して強弓で義経を狙い撃ちします。

そのとき咄嗟に義経をかばったのが、佐藤継信でした。
 
 矢は過たず義経の胸板を貫くところを、継信が前に出て、身代わりとなって倒れたのでした。28歳という。

下の絵は継信が矢に貫かれて落馬をする瞬間のもの。屋島寺の山門前に、合戦の絵が掲示されており、その一枚である。


ことでん「矢栗駅」の傍にある継信の墓。背景には屋島の南東の面が見える。川は相引川の支流。


継信の業績などの文章を彫った石碑が立ち、道路に面して30m程の間口がある。紅白の旗が建っている。
写真の左端に見える五輪塔が墓である。


玉垣に囲まれた中に、五輪塔がある。前の石碑には「佐藤次信墓」とある。


 佐藤継信は、奥州藤原秀衡の武将で、弟忠信と共に、義経について奥州平泉から付き添ってきた数少ない武将であった。
 ここに命を落とした継信に、義経は最大限の法要を営んだ。法要をする僧に、義経は愛馬「太夫黒」を布施にもした。
 それを見ていた他の武将も、これほど丁重に死を悼む大将ならば、自分の命を預ける気を強くした、と平家物語には出てくる。

 墓域の北の端に、もう一つの墓がる。義経が後白河法皇から貰った名馬「太夫黒(たゆうくろ)」が埋められている。
 後になって、太夫黒が命を全うした時に、僧がここに埋めたという。


名馬「太夫黒」で阿波から讃岐へと駈ける義経。


「射落畑」と呼ばれる、継信が討死をした場所。


 屋島寺にある襖絵である。
 継信が討たれたのを見て、矢を放った能登守教経の小姓「菊王丸」が継信の首を取ろうと駆け寄っている絵である。
 しかし「菊王丸」は継信の弟「忠信」の矢に打たれ、討死する。


菊王丸の墓である。これも道路沿いにある。


菊王丸の墓から、屋島の斜面を400mほど歩くと継信の墓がある。これは顕彰碑的なものであろう。


佐藤継信・忠信兄弟の墓が京都にある。
 国道1号線五条通りの一つ南の筋「馬道」とも「渋谷通り」とも言われる坂の、北側の道沿いにある。このあたりが兄弟の邸宅であったらしい。


大坂峠(屋島04)

2006-03-22 | 国内旅行
 阿波国に上陸した義経一行は、屋島に向けてひた走る。阿波の国を縦断し、阿波(徳島県)と讃岐(香川県)を隔てる讃岐山脈を大坂峠で越して屋島に向う。
阿波を抜けるときに、四国88箇所観音霊場巡りの3番札所「金泉寺(こんせんじ)」に立ち寄っている。門前に案内板があった。

徳島県内の義経ロードに沿って史跡が並んでいる。

3番札所金泉寺の境内にある弁慶の力石伝説。右はその石。

「四国のみち」(四国自然歩道)の標識もある。山に入る前に渡る「大坂谷川」の橋。ここから大坂峠を越す。

 四国のみちが古来からの峠越えの道である。車は自動車道を、くねくねと曲がって讃岐の国に抜け、瀬戸内海を望む集落に着く。

峠付近からの眺望。

瀬戸内海側を通る讃岐街道と、大阪峠に向う道との境目である。この峠越えの道は「歴史の道百選」に指定されている。

峠を北に抜けた自動車道はつづれ折りになっている。こんな厳しい道はあまり見かけない。

瀬戸内海が見える。下は引田の街である。

netで見た義経進軍の図解である。夜を日についでの急攻であった事がわかる。