多田神社は川に面した高台にある。桓武天皇第六皇子の子経基が源の姓を名乗り、その子満仲が摂津守として赴任してきたときの館跡でもある。
石段の右に「多田神社」の石標があるが、左にも小さな碑がたっているが「史跡 多田院」とある。
近くによって見ると、多田大権現という神様の名である。権というのは「仮の」という意味である。仏が神様となって仮にこの世に現れているというのが、大権現さまである。即ち、神様はすべて仏様の生まれ変わり(本地垂迹説)と言われていた。
多田神社もかつては天台宗の寺院であった。「多田院」というのもそれである。
また「多田大明神」の神号を江戸時代に朝廷から拝受して、正一位の神社にもなったものである。
南大門である。普通は阿吽の仁王様がいるものだが、留守である。江戸時代までは居られたが、神仏分離令で、神社になってから、仁王様は近所のお寺に行ってしまったそうである。後日ここのお寺にも行って写真を撮って来る気になっています。
南大門を入って高台に上がると広い境内になり、案内板があった。中央の縦のラインになって本殿までが見えるでしょうか。
掲示板の下に、かなり時代がかった文章で由来が書いてある。時間のある方は判読してください。
随神門である。中門にあたる。おみくじがあり、若いお母さんが子供の将来でも見ているのだろうか。子供の立身出世がかなうお宮でもある。
笹リンドウの源氏の家紋が光る。
拝殿まで来たが、ここから先にはお祭りのときしか入れない。ここでは笹リンドウと三つ葉葵が繋がっている。
戦国時代に多くの伽藍を焼失したが、4代将軍家綱が再建し、源氏の流れをくむ徳川・足利将軍には大切にされていた模様。
最深部の本殿は、屋根に千木と鰹木を置いた立派なものである。
満仲を中央に、源頼光(満仲の嫡子)と、河内守として赴任していった満仲の3番目の子の頼信、その子頼義、その子八幡太郎義家の5人を祭神として本殿にお祀りしている。
石段の右に「多田神社」の石標があるが、左にも小さな碑がたっているが「史跡 多田院」とある。
近くによって見ると、多田大権現という神様の名である。権というのは「仮の」という意味である。仏が神様となって仮にこの世に現れているというのが、大権現さまである。即ち、神様はすべて仏様の生まれ変わり(本地垂迹説)と言われていた。
多田神社もかつては天台宗の寺院であった。「多田院」というのもそれである。
また「多田大明神」の神号を江戸時代に朝廷から拝受して、正一位の神社にもなったものである。
南大門である。普通は阿吽の仁王様がいるものだが、留守である。江戸時代までは居られたが、神仏分離令で、神社になってから、仁王様は近所のお寺に行ってしまったそうである。後日ここのお寺にも行って写真を撮って来る気になっています。
南大門を入って高台に上がると広い境内になり、案内板があった。中央の縦のラインになって本殿までが見えるでしょうか。
掲示板の下に、かなり時代がかった文章で由来が書いてある。時間のある方は判読してください。
随神門である。中門にあたる。おみくじがあり、若いお母さんが子供の将来でも見ているのだろうか。子供の立身出世がかなうお宮でもある。
笹リンドウの源氏の家紋が光る。
拝殿まで来たが、ここから先にはお祭りのときしか入れない。ここでは笹リンドウと三つ葉葵が繋がっている。
戦国時代に多くの伽藍を焼失したが、4代将軍家綱が再建し、源氏の流れをくむ徳川・足利将軍には大切にされていた模様。
最深部の本殿は、屋根に千木と鰹木を置いた立派なものである。
満仲を中央に、源頼光(満仲の嫡子)と、河内守として赴任していった満仲の3番目の子の頼信、その子頼義、その子八幡太郎義家の5人を祭神として本殿にお祀りしている。