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子午線をたどる「時の道」

2018-02-24 23:43:45 | 
朝日新聞2月10日土曜日版be 「みちものがたり」に兵庫県明石市の子午線をたどる「時の道」
が取り上げられた。

日本標準時のランドマーク


地球上のどんな場所に位置するのか――。人類は、座標軸でその位置を表せるよう、垂直に交わる
仮想の線を地表に引いた。北極と南極を結ぶ経線と、赤道と平行な緯線だ。方角を十二支で表すと、
経線は子(ね)(北)と午(うま)(南)を結ぶため、子午(しご)線とも呼ばれる。
 地図にあっても、目には見えないこの子午線をいち早く形にした街がある。「子午線のまち」で
知られる兵庫県明石市。明石海峡に面した海辺の街を訪ねた。

子午線上のモニュメントが明石市内を貫く
1.天文科学館の展望室
2.明石子午線郵便局前
3.明治時代の花崗岩の標識
4.大蔵海岸近くの「トンボの標識(レプリカ)」




標準時子午線が通るのは、しかし、明石に限らない。北は京都府京丹後市から南は和歌山市の
友ケ島まで12市に及ぶ。なぜ明石だけが広く知られるようになったのか。
 「明石と子午線の出会いは明治時代にさかのぼります」。鈴木さんと向かった先の交番敷地には、
高さ3メートル弱の古い石柱があった。花崗岩(かこうがん)の「大日本中央標準時子午線通過地識標」。
1910(明治43)年にできた日本最古の子午線標識だ。
 英国のグリニッジ天文台を通る子午線が1884(明治17)年、世界標準時を決める
本初子午線となったのを受け、明治政府は2年後、日本の標準時を東経135度子午線に定めた。
石柱が立つまで24年余りの歳月が経っていたが、日本の時刻を決める子午線が通過している
ことに気づき、意義を感じた地元小学校長会が寄付を募って2カ所に設けた一つだった。
250人もの教員らが「月給の100分の1・5」を持ち寄って費用に充てたのだという。
     *
 先人らはその後も、子午線のより正確な位置を追い求める。象徴的なできごとが、他に
先駆けて1928(昭和3)年に実施した天体測量だ。提唱したのは、渡米経験があった
山内佐太郎・県立明石中学校長(当時)。日付変更線を過ぎると、また前日に逆戻りする
不可思議な船旅を体験し、「痛切に子午線、標準時といった事柄を考えさせられた」と
書き残している。
 石柱はその後、より正確な現在の場所へ移され、新たな標識も次々とお目見え。
明石の取り組みは教科書でも紹介される。そして60(昭和35)年の時の記念日
(6月10日)、戦後の再測量で割り出した子午線上に天文科学館がオープン。
「明石=子午線のまち」のイメージが確立したのだ。
 今では東経135度子午線が通る12市に、多くの標識やモニュメントが存在する。
子午線巡りの旅を続ける神戸大助教の吉野健一さん(54)は、その魅力をこう語る。
 「目に見えなくても、子午線には時間をつかさどる何かが宿っているような気がする。
標識にもそこで暮らす人々の誇らしい思いが詰まっているのです」
 子午線に引きつけられたのは住民にとどまらない。文筆家の心も揺り動かし、明石を
貫く子午線から構想した小説も生まれていたのだ。

30年以上も前の話、神戸に出張に行った際、早めに、明石に行き市立天文科学館に行った。

モニュメントの最上部にトンボが見える。

これは「トンボの標識」として親しまれていた子午線標識で、昭和5年に建てられたものです。
トンボはあきつ島(日本の古名)の象徴です。

 ■余話
 子午線づくしの明石市内を散策すると、東西に走る国道2号には、東経135度
子午線の標識が2カ所で交差していることに気づく。
 同じ子午線なのになぜ2本もあるの? その答えは「測量方法の違い」だ。
明石市は、星を計測して経緯度を決める天体測量で子午線の位置を導き、
その真上に市立天文科学館を建てた。
もう一方は、全地球測位システム(GPS)に対応した「世界測地系」の子午線で、
同館の西約120メートル付近を通る。
それぞれの標識が国道2号に残されたというわけだ。
 実はもう1本存在する。今は標識は立っていないが、三角測量に基づく
「日本測地系」の子午線で、同館の西約370メートル付近を通っている。
「そもそも見えない線が三つなんて混乱してしまいますね。でもどれが正しくて
間違っているというわけではないのです」と同館の鈴木康史学芸員。
 今年は日本標準時の施行から130年。
「子午線のまち」をアピールする明石の取り組みにも歴史を感じさせられる。

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