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「論語」先進編18「回也庶乎、屢空」の読解

2017年08月04日 | Weblog

金谷治「顔回はまあ理想に近いね。〔道を楽しんで富を求めないから)よく窮乏する」〔岩波文庫〕。これが、朱子集注も含め、共通理解である。これは、子貢がマネジメントの巧者であり、子貢を褒めた言葉と対になっている。

これに異議を始めて唱えたのは、宮崎市定「現代語訳論語」〔岩波現代文庫〕、第175-6頁。これは、「庶」の理解である。宮崎さんは、「原文につき、「しばしば空しにちかし」と6文字で一文であると解釈する。だが、「庶」(ちかし)を動詞であると解釈する点では、岩波書店では同じ。話題の井波律子さんは、金谷治さんの解釈をうけつぐ。中国でも。楊伯峻、金良年も、「庶」を「差不多」と解釈する。

宮崎さんの説は、孤立しているようだが、程樹徳の「論語集釈」では、「回也庶乎屢空」と6文字で一文として「音読」するべきだ、という説を紹介していいる。その場合でも、子貢が理財に長けているのと比較し、「空」は経済的な困窮を意味している。ところが、「空」につき、程樹徳は、より深い意味で、哲学として「空」であると、その意味を延伸する解釈を施している。しばしば、「空理空論」に陥ったということか。

中村は、「庶」を現代中国の代表的な字典にしたがう。「庶」とは、周王朝時代の宗法の制度のもとで、「傍流」「傍枝」という「庶」を法制の身分の言葉と理解する余地があると考える。季氏篇に、「天下道あれば庶人議せず」とある。孔子は士大夫の階級に属し、願氏は「庶」人の身分である。「士庶」の別をふまえると、「庶」と「空」の経済困窮も、自分の意見を主張しない「空」もともに説明ができる。

孔子が、「回也庶乎、屢空」と、中間で息を止めたのは、「也ー乎」の「乎」が、音声上の中断となり、次の音とは連音で発音できないからだ。だから、6文字を一体とする説も、4文字と2文字とする説も、元来の孔子の語気と音という成り立ちからの説ではなく、文字化された「論語」の研究といえる。英語のおけるチョムスキーの言語学の発見を、孔子の言葉の分析に使用しないと、論語バカの壁は破れない。少なくとも、朱子集注の解釈には無理がある、といえる。

 

 

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