富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

富山人が失った売薬さんの精神

2017年07月21日 | Weblog

売薬さんは、大正時代、富山の最先端の社会主義思想を持ち帰ってきた。これは、富山型の破綻を導く社会主義の信仰である。ところが、江戸時代は、全国に目配りしていたから、売薬さんたちが後継を育成する富山藩内の男子の知識水準は、城下町比較では全国第一位であった。そして、北海道から沖縄、さらには台湾へ、明治維新以後は、上海、武漢、天津へ、見事な国際情報を庶民レベルで取り込んでいた。

それが一転して、戦後、富山人が内向きになったのか?原因は、農地解放である。小作人が自作地を拡大し、その後、兼業農家として、製造業に雇用された。そのため、転勤は、絶対NG、平社員のまま定年を希望する労働人口が多数になった。

「下が楽」という言葉がある。昔、富山大学の勤務者で、年収レベルで最も豊かなのは、用務員さんだった。田地・田畑・貸家など不動産の収入があり、神通川のマスの漁業権をもっておられた。彼は、教職員組合の運動の熱心なサポーターであった。

YKKに子孫を就職させると、何十年も海外に行かされ、親の死に目にも会えない不幸者、となる。こうして、富山人の閉鎖性は、1945年以後に加速してできた社会心態である。そこへ、1960年代がら終身雇用制が広がり、職工と社員の差別がなくなり、もともとの小作人の兼業農家の極楽天国が生まれた。それが、「下は楽」という極楽坂が生まれた背景でもある。

富山マネジメント・アカデミーは、この社会心態をどう克服するか、考えるべき課題だと思う。富山大学の教育水準、入試水準でも、合格がご無理な高校生が多すぎる。

 

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