富山マネジメント・アカデミー

富山新聞文化センターで開講、教科書、参考書、講師陣の紹介、講座内容の紹介をいたします。

富山大学が、日本一になる道筋は、営利・非営利のドラッカー経営学にある。

2016年05月31日 | Weblog

TMA講師代表:個人研究

アダム・スミスは、市場の需要に応じる供給側の専業・分業化の発達が、国民総生産の増減のカギだと理解している。そして、彼は地代やその他の資本財の法的所有権からうまれる利益よりも、供給側の専業・分業化による市場サービスの高度化が、国民総生産の年々の増減率に関係してくると説いている。ここに、国民総生産と企業の業績とのマクロ相関があるので、経営学は、経済学の隣接科学となる。これを論理的に最初に説明したのは、アダム・スミスである。

ドラッカーは、アダム・スミスにける経済学と経営学との関係をきちんと消化している。だから、「資本主義社会」とか、「資本主義経済」というような包括的な定義をしない。あるのは、「資本を所有する階級が主導権」をもった初期の産業社会(工業化社会)の段階から、資本をマネジメントする専業化したマネジャーが主導権を持ち、国民経済をリードする社会へのゆるやかな時代の移行という歴史観である。つまり、現代はポスト・キャピタリスト・ソサエティの時代である。

誰もがマネジャーになれる世界は、実は、地球上では、中国、韓国、日本にしかない。それは、中国の科挙制度の伝統、つまり、学習者のなかから国家のマネジャーがうまれると想定した「孔子の儒学」こそが、経営学の原点である。孔子には、国民総生産の概念が存在した。馬車による戦車の数量で、その国の国力を評価する尺度をもって語っていた。その場合、兵士たちが国を守るために、国に忠義を尽くせるのか、そこに儒学によるマネジメント教育の基礎をおいていた。

孔子の学は、国家学に収れんする。その学を企業の世界に移植したのが、渋沢栄一である。したがって、渋沢栄一からドラッカーへという道筋となると、中国と韓国とは、脱落する。大学入試で、全国有数の学力をもち、アメリカの大学に留学した人材のみをマネジャーとする体制へと、韓国は突き進んだ。これでは、国民国家としては完成しない。

しかし、経営学は顧客価値の創造という命題をもつことで、人間の欲望にひそむ心理要員を分析するなかで、ゲーム理論との関係性を深めた結果、人間総合科学のステージで、学問の諸課題が分散しやすい状況で、それを総合化する役割をもつのが経営学である。総合大学は、経営学の手法で統治されなくてはならない。ところが、日本の大学はそこまで進んではいない。学問のリーダーが大学のリーダーである保証はない。京都大学は、前者。大阪大学は、後者。東京大学は、今はどちらでもない。

小生は、富山大学には、全学部の教授・院生・学生が経営学を真摯に、謙虚に学ぶことを提言している。官僚的な統合ではなく、全員がメネジメントの主体となること、つまりドラッカーの営利・非営利の経営学を身に着けることだと推奨している。それに成功した日本の大学はない。共通教養のコアーに経営学をおくことをお勧めする。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする