座間コミニティー

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◆鳩は、

2015年06月25日 16時06分13秒 | 聖書

その足を休める場所が見あたらなかったので……。(創世八・九)

読者よ。あなたは箱舟であるキリスト・イエスのほかに安息を見いだすことができるか。もしできるのなら、あなたの信仰は、疑いもなく無益である。あなたは、キリストとの結合、キリストとの関係を自覚しないで満足することができるか。では、あなたはわざわいである。クリスチャンであると公言しながらも、この世の快楽に全き満足を見いだすならば、あなたの信仰告白は偽りである。もしあなたのたましいが罪の部屋にあって平然と休み、ベッドもかけぶとんも十分ゆったりしているならば、あなたは偽善者であり、キリストについて、またその尊さについての正しい考えから、横道にそれている。
しかし、一方あなたが次のように感じるなら喜べ。罪にふけるなら、罰を受けずにすんでも、それ自体が罰である。また全世界を所有して永遠にその中に住んでも、自分のたましいが渇き求めているのは神であるから、その世界から離れられないのは非常に大きな不幸である、と。そのように感じるなら、勇気を出せ。あなたは神の子なのである。あなたのすべての罪と欠点をもったままで、これをあなたの慰めとして受け入れよ。あなたのたましいが罪の中に平安を見いだせないならば、あなたは罪人とは性質が異なる。もしあなたが何かよりよいものを叫び求め、それを切望しているならば、主キリストはあなたを忘れておられない。あなたはキリストを忘れていないからである。
私たちは、荒野の砂を食べて生きていくことはできない。天来のマナを必要とする。被造物への信頼という私たちの革袋からは、一滴の水も出ない。しかし、私たちは、常に私たちと共にある岩から水を飲む。その岩とはキリストである。あなたが主を食する時、あなたのたましいは「主は私の一生を良いもので満たされる。私の若さは、わしのように、新しくなる」と歌うことができる。しかし、主がおられなければ、あなたの満ち満てる酒ぶねも、あふれる穀倉も、あなたにいささかの満足も与えない。

 


「イエスは彼に言われた。

2015年06月25日 16時05分20秒 | 聖書

『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」(ヨハネ5:8)

日常生活、気づくとブツブツ言っている事が無いだろうか。
特に人の事が気になり、人の言葉、態度が気になり「あの人がああ言った、この人がこんな態度をした…」腹を立てていたり、傷ついていたり、猜疑心を持ったり、許せなかったりする。
それは、人の言動や態度に支配されてしまい、飲み込まれてしまい、人によって生きてしまう事になる。
人依存であり、人に自分の人生が左右されてしまう事だ。
そして、それは自立していないのだから、何か問題があると、必ず人のせいにする事になる。
妻が玄関掃除をして、バケツを置いたままだった。
夫が帰宅し、不注意でひっくり返してしまった。
「誰だー!こんな所にバケツを置いたのは!」と怒鳴った。
しかし、どうであれ、ひっくり返したのは自分だ。
妻は不注意かも知れないが、ひっくり返したのは自分である事を、きちんと認める事が責任を取る事だ。
苦しい事が起こる時、環境のせいにせず、人のせいにせず、愛と配慮をもって、ご計画をもって、取り扱っておられる神を信じて行く時、変えられて行く。
人依存という床を取り上げて、自分の足で立って、人生を歩んで行く。
人のせいにせず、責任転嫁せず、神に頼って、自分の人生を生きて行く。
真の自立とは神依存の事だ。
そこに生きる時、生き生きとした、生きる実感と喜びがある。
あなたは何依存だろう。
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人のせい状況のせいにし、いつまでも臥せっている者が弱いのではない。
本当に自分が弱いと知った時、私達は神依存の生活へと変えられた。
そして真に自立した強い者と変えられる事を知っているから感謝だ。


今日の聖人の記念日

2015年06月25日 07時10分11秒 | キリスト教

聖プロスペロ(レッジョ)司教

?-466年

 プロスペロは、自分の財産をすべて貧しい人々に与え、司祭となってキリストの教えに徹底して従った。イタリアのレッジョの司教として22年間務め、市民たちを導き、彼らの父として尊敬されていた。彼は生前に自分が亡くなったときは、レッジョ市の城壁の外の目立たない所に教会を建て、自分の遺骸をそこに埋めるように頼んだ。しかし、市民たちは、プロスペロを市の守護の聖人とし、現在は市の広場近くにある教会に移し記念している。


◆まっすぐに見える道

2015年06月25日 07時09分02秒 | 聖書

人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。   (箴言一六25)

夜、埠頭の道を車で飛ばして、海の中に突っこみ、死んでしまった事件が、何回か新聞に出ていたのを、私は記憶しています。目の前の道がまっすぐに安全に見えたので、突っ走ってしまったのです。私も夜、水たまりが光ってよい道に見えたので、歩いていったら足をとられて泥だらけになった経験があります。
人生航路には、若い人たちばかりではなく、ベテランの教師・親・経営者・役人にも、こんなことがありはしないでしょうか。家庭の問題・人間関係・仕事の面で、死の道へ突っ走ることが多いのではないでしょうか。人の目にはまっすぐに広々と見えるような人生の道でも、実はそうでない滅びの道があるのです。
赤外線写真では、人の目に見えない姿がとらえられるといいます。神を見、みこころをのぞくことができるような心を自分のものにしたいものです。神の前にへりくだり祈れる心・神の前に立ち止まる心があると、いのちの道が見えてくるのではないでしょうか。
人間は、未来のことを計画します。そして、未来のことは分かっているし、自分でコントロールできると思いこみやすいのです。しかし一日たりとも、人間はその将来を所有してはいません。所有者は神です。神がその一日一日を私たちに与えてくださるのです。しかも神は、ご自分のみこころのままに、ご自分のペースでこれを授けてくださいます。目の前の姿や外側だけで私たちが物事を判断せず、神の心をのぞき見て、神に従って歩むことは、どんなに大切でしょうか。
人間の目は、罪で曇っています。あの罪を犯した、このことをやってしまったということではありません。神を無視する自分勝手が根本的な罪なのです。イエス・キリストの十字架の血潮でこの罪の曇りをぬぐい去っていただいて、神と人と共に、ほんとうの生きる道を歩みたいものです。

 


◆高い山に登れ。

2015年06月25日 07時07分55秒 | 聖書

(イザヤ四〇・九)

キリストを知ることは、あたかもイギリスでウェルシュ山に登るようなものである。
ふもとにいる時には、きわめてわずかしか見ることができない。山は実際の高さの半ばぐらいに思われる。狭い谷間に立っていると、山麓の小川に注ぐ小さな渓流のほかには何も目に入らない。初めの峰を登り尽くすと、谷は長くなり広がって、あなたの足下に開ける。さらに高く登ると、あなたは五、六キロ四方を見下ろして、その光景はいっそうすばらしいものとなるだろう。そしてなお登りつめるなら、展望はさらに広くなる。そしてあなたが頂上に達し、そこに立って東西南北を見はるかすならば、足下にイングランドのほとんどが横たわるのを見るであろう。おそらく、はるかかなたの遠く二百キロも離れた森林を見ることもできるであろう。こちらに海があり、かなたに川が輝き、工業都市の煙の立ち上る煙突、あるいは港の船のマストも見られるであろう。こうしたすべてがあなたを喜ばせ、あなたはこう言うだろう。「なんという光景! こんなすばらしいものが見られるとは!」と。
クリスチャンの生活もこれと同じである。私たちが初めてキリストを信じた時は、ほんのわずかに見るだけである。そして私たちが高く登れば登るほど、さらに主の美しさを見いだすのである。しかし、だれがその頂上を極めたか。だれがキリストの測り知れない愛の高さと深さを知っただろうか。
パウロは老境に入り、白髪が混じるようになってから、ローマの獄中において私たち以上の確信をもって「私は、自分の信じて来た方をよく知っている」と言った。彼にとって一つ一つの経験が丘を登るようなものであり、試練の一つ一つが新しい山頂に立つ思いであった。そして死は、山の絶頂に立つようなものであった。そこで彼は、自分のたましいをゆだねた主の真実と愛のすべてを展望することができたのである。
愛する友よ。立って、高い山に登れ。

 


第2列王記19章1-7節

2015年06月25日 07時06分24秒 | 聖書

19:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。 19:7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」



 ヒゼキヤ王は、ラブ・シャケが主を侮るのを聞いて怒りに満ちました。

そこで主の宮に入りました。

また、そこから使者を預言者イザヤの元に遣わしました。

使者は、ヒゼキヤの言葉をイザヤに告げました。

「今、主の御名が侮られ、生ける真の神の御名が辱められている。

ですから主に祈ってください、と伝えたのです。

 イザヤは、彼らの言葉に応えて主の御心を告げました。

主を侮る彼とその彼らの言葉を恐れるな。

主が彼らの内に1つの霊を入れられる。

その時に、彼らは噂を聞いて、自分の国に帰ることになる。

そして、そこで主が彼を殺される。」と、このように告げたのです。


2コリント8:11-12

2015年06月25日 07時04分13秒 | 聖書

★ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。

■O:今日のコラム
この箇所はパウロが献金についての意見を語っている箇所です。
献金は神様にささげるなので、献金だけでなく、私たちが神様に何かを捧げるとき、また神様のために何かをするとき、神様のために何か人に与えるときにも、適用できるものであると思います。
私たちが神様に何か捧げるとき、神様のために何かをするとき、この箇所から分かる3つのポイントがあります。

1    神様は心を見ておられる。

喜んでしようと思ったならば、それをし遂げることができ、熱意があるならば、神様に受け入れられる(受納される)とあるように、神様が重要視しているのは、何を捧げたか、何をしたか、どれくらいのお金かではなく、私たちの心、熱意です。
そして、その熱意があるならば、喜んでする心があるならば、それを成し遂げることができ、神様に受け入れられるものとなるのです。

「神様は喜んで与える人を愛してくださいます。(2コリント9:7)」とは、神様は私たちに喜んでしてほしいと思っておられ、私たちが喜んでしている姿が大好きなのです。

「~しなければならない」という強いられてする思いは、キリストにある自由を持つ神の子どもたちが持つ思いではありません。

「わが子ソロモンよ。今はあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。(1歴代誌28:9a)」

「喜ばなきゃ!」「熱意を持たなきゃ!」「神様に喜ばれる心を持たないと!」と、時に私たちは、頑張って喜ぼう、頑張って熱心になろう、頑張って主に喜ばれようとしてしまうことがあるかもしれません。
私はそう思ってしまっていたことに気付かされ、それは計り知れないほど超絶に愛されている私たち神の子が持つ考えではないことを教えられました。

喜び、喜んでする心、また熱心さは、頑張って持つものではなく、私たちの神様がどんなに素晴らしい方で、どんなに私たちのことをそのままで愛しておられるかを知るならば、神様の愛を経験し、神様を知るならば、自然と喜び、喜んでする心が湧き出てしまうものなのだと思います。

神様を喜ばせるには、何かをするのではなく(何かしなくても神様はもう既に私たちのことを喜んで愛しておられるので)、私たちが喜ぶことです。

献金や何かの奉仕をすること、任されている仕事・働きをすること、神様に従うこと…何をすることにおいても、私たちは全てを神さまのためにしています。

ですから、何をするにも、喜びを持つことができるように、神様を知ることを求めます。

2    何かをしたい思い・心があるならば、それを成し遂げる「モノ」が既に与えられている。

私たちは「神様のために何かしたい、何か捧げたいけど、私には~がない、私には~が足りない」と、私たちの目や人の目で見て、足りないものを見てしまう古い性質があるかもしれません。
私もよく、「自分には~が足りない」と思ってしまうことがあります。

しかし、喜んでしようと思ったのなら、熱意があるならば、もう既にそれを成し遂げるに十分なもの、神様が受け入れてくださるのに十分なものが与えられていることを覚えたいと思います。

神様は心を見ておられる方なので、献金の金額、能力の大きさ、結果の大きさなどで、評価が変わる方ではありません。

私たちが思う、大きさや小ささは関係なく、たとえ私たちには少ない、少ししかないと思っても、心から私たちの持てるすべてを捧げるならば神様にとっては十分なのです。

なので、私たちは
3    持っているものを捧げればいい。自分にできることをすればいい。

ナルドの油の入った石膏のつぼを割って、すべてを捧げたベタニヤのマリヤの行動をイエス様はこのように言って評価しています。


「この女は、自分にできることをしたのです(マルコ14:8a)」

マリヤは自分にできることをしたのです。自分の持っているものを捧げ、それを使って、私たちのために十字架に架かろうとしているイエス様のために、埋葬の準備をしました。

神様は持っていないものを、捧げなさいと言われる方ではありません。

私たちが神様のために何かしたいという思いがあるならば、私たちの持っている物で、それをし遂げることができるはずなのです。

そして、私たち一人一人に、必ず神様のために何か自分にできることがあること、神様のために捧げられる自分の持っているモノがあることを感謝します。

■A:考えてみよう
1    神様のためにしている全てのことに関して、「~しなくては」という思いを捨て、心から喜んでする心を求める。また、頑張って喜ぼうとする思い、頑張って喜ばれようとする思いを捨てる。そのために、神様を知ること、神様の愛、喜びを知ることをひたすら求める。

2    足りないものを見てしまう目・思いをなくし、主の目で物事を見ることを求める。もう既に神様のために何かをして、神様が受け入れてくれるのに十分なモノが与えられていることを認め、感謝する。

3    自分にできることがあること、捧げらるモノがあることに感謝する。そしてそれをすべて捧げる

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月24日(水)のつぶやき

2015年06月25日 01時42分53秒 | キリスト教

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、 goo.gl/CWR5gd


◆群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。 goo.gl/e1pJG2


◆シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。 goo.gl/cbg7fz