座間コミニティー

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◆そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。

2015年06月17日 16時10分56秒 | 聖書

「わきいでよ。井戸。――このために歌え。――」(民数二一・一七)

荒野にあるべエルの井戸は有名である。これは約束の主題だったからである。「それは主がモーセに、『民を集めよ。わたしが彼らに水を与える。』と言われた井戸である。」民は水を必要としていた。その水は恵み深い神によって約束されていた。私たちは、天の恵みの新たな満たしを必要としており、主ご自身契約の中で、そのすべてを与えると約束しておられる。
次に井戸は歌を引き起こした。水がわき出ない前、人々は喜ばしい信仰に促されて歌い出した。そして、透き通った水があわ立ち、あふれ出るのを見て、音楽はいっそう喜ばしいものとなった。同様に、神の御約束を信じる私たちは、神のリバイバルを自分のたましいの中に期待して喜ぶべきである。それを経験すればするほど、私たちの聖なる喜びは外まであふれなければならない。私たちは渇いているか。しかしつぶやかないで歌おう。霊的な乾きは耐えがたい。しかし、そのために忍耐する必要はなく、約束は井戸を指し示している。私たちは勇気を出して、それを待ち望もう。
さらに、井戸は祈りの中心であった。「わきいでよ。井戸。」神が与えると約束されたものについては尋ねなければならない。さもないと、願いも信仰ももっていないことを表明することになろう。今夜、私たちが読んだ聖書、また信仰の実践が、私たちの霊にとって恵みの通路となるように願い求めよう。どうか、聖霊なる神がその全能の御力をもって私たちのうちに働き、かつ神の満たしをもって満たしてくださいますように。
最後に、井戸は努力の目標であった。「笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の導き者たちが掘った」とある。主は、私たちが恵みを受けるのに積極的であることを望まれる。私たちの杖は砂を掘るには適していない。すべての能力を傾けて杖を用いなければならない。祈りをなおざりにしたり、集会をやめたり、礼典を軽んじたりしてはならない。主は豊かに恵みを注がれるが、怠惰な者には注がれない。立ち上がって、私たちの新しい泉である主を求めよう。

 


「見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。

2015年06月17日 16時10分08秒 | 聖書

まず自分の目から梁を取りのけなさい。
そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを除くことができます」(マタイ7:4)

私達は自分の欠点はなかなか見えないが、人の短所はすぐ目につく。
よく見える。相手を責めてさばく。
しかし、裁くのは相手の欠点というよりも、相手が自分の思い通りにならないから、裁いていないだろうか。
自分の思いで相手を見ていないか。
自分の思いがあり、それが梁になる。
「自分の思い」というメガネをかけて見るので歪んで見える。
まっすぐにありのままに見る事が出来ない。
自分の中の偏見が邪魔をする。偏見が無いか。
自分の目が歪んでいないか。あるいは“自分の見方が間違っているのでは”に立ってみよう。
“自分は正しい”に立つと、それが梁となり全く見えなくなる。
相手の目からちりを除く作業は御霊に導かれない限り不可能だ。
目はデリケイトで敏感、ちょっと触れられてもすぐ閉じる。
心も土足で入るや、途端に固く閉じてしまう。
自己義、独善、偏見の高慢の梁を除いて、自分も間違う者であり、過ちに陥ってしまう者である事を踏まえ、御霊に導かれる時、はっきり見えて、相手のちりを除くために神が用いられる。
梁がある自分の目には、相手が決して見えていない事をわきまえよう。
自分の梁に気づく時、見えて来る。
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さばくというのは、自分が上に立って相手を見下している事になる。
恐るべき高慢という自分の丸太に気づく時、目から丸太を取り除かれ、間に合う者として用いて下さる。


今日の聖人の記念日

2015年06月17日 08時34分42秒 | キリスト教

聖フランシスコ・レジス司祭

1597年-1640年

 レジスは、フランスのフォンクーヴェルト村の貴族の家に生まれた。イエズス会の学校に入り、18歳のときイエズス会に入った。33歳で司祭となるまで、勉学・修行に専心した。その後、フランスに巡回説教師として派遣され、ソンミエール、ル・ピュイでも活動した。

 彼の説教は、とても分かりやすく、多くの人々に感動を与えた。寝食も忘れるほど人々のために献身しそして祈り、人々を信仰へ導いていった。特に、貧しい人や娼婦の更生のために力を注ぎ、彼らのために施設を建てた。


◆人の計画の意味

2015年06月17日 08時33分34秒 | 聖書

人は心に計画を持つ。
主はその舌に答えを下さる。     (箴言一六1)

「一寸先はやみ」ということばがあります。私の友人の義理の妹さんのところに、ある朝、同じ職場にいる近所の方が車でさそいに来てくれました。それなのに「私、けさはバイクで行くわ」と断って、ひとりで出かけました。その五分後に事故に会い、左足複雑骨折で足一本切断となるところを、危うく助かったのでした。
人間は、一つ一つのことを自分で計画し、自分で人生のかじとりをしていけるように思いやすいのですが、そうではありません。人の一生は「神のみ手の中にある」、これは厳然たる事実ではないでしょうか。それなら、「なるようになるさ」とケ・セラ・セラで、気ままに欲望のままに、無計画でやっていけばいいでしょうか。けっしてそうではありません。
豊臣秀吉は、やはりすぐれた人物だったと思います。この人の一生を見ると、その前半生と晩年とでは、まるきり違うことに気がつきます。前半生は実に大きな目標を持ち、そのためにちみつな計画を立て、一つ一つ着実に実行に移して成功しています。各所に、行き届いた気の配り方をしています。ところが、関白太政大臣となり、位人臣を極めてしまうと、自分の気の向くまま欲望のままに行動し、酒色におぼれ、妊婦の腹を割くようなこともやっています。その様子を見ると、だらけて不安定で、心も不安に満ちています。まるで別人のようです。
神を恐れつつ、神の前ではっきりと人生の計画を立て、その計画の一つ一つにいわば、神の確認・OKのはんこをいただいて生きる人の人生こそ、生きがいと力と報いと喜びにあふれるのではないでしょうか。あなたはいかがですか。

 


◆主よ。

2015年06月17日 08時32分38秒 | 聖書

お救いください。(詩篇一二・一)

この祈りはすばらしい。短いけれど、適切であり、暗示的である。ダビデは忠実な部下が少ないのを嘆き、願いのうちに心を天に向けた。被造物には頼みがいのないのを見て、造り主のもとに走った。彼は明らかに自らの弱さを覚えた。と同時に、真理のために心から自分の力を尽くそうとした。何もせずに救いを求めることはあり得ないからだ。この短い祈りは単刀直入で、きわめて明確である。ある信者たちの長々とした祈りにはるかにまさる。詩篇記者は熟考のうえの祈りを携えて、一途に神のみもとに行った。何を求め、また、どこに求めたらよいかを知っていた。主よ。同じように祝された方法をもって祈ることを教えてください。
この祈りの用いられる場合はきわめて多い。摂理により苦難を受け、疲れた信者が他のすべての助け手に裏切られた時の祈りとして、最も適切である。教理上の問題を抱えている学生は、偉大な教師である聖霊に「主よ。お救いください」と叫んでしばしば助けを得ることがある。内なる戦いにある信仰の戦士が御座に向かって救いを求めるのに、模範となる。主のわざに従う働き人は、この祈りによって折りにかなう恵みを得る。疑いながら驚きながら神を探求する罪人も、この力ある願いが可能である。事実この祈りは、すべての場合とすべての時、すべての場所において、貧しいたましいの転換点となり得る。私たちが生きている間も死の時も、苦しみの時も働く時も、喜びの時も悲しみの時も、この祈りは私たちに適切である。私たちの救いは主の中に見いだすことができる。だから、主に向かって叫ぶことを怠らないようにしようではないか。
祈りがイエスを通して誠実にささげられるならば、必ず応答がある。主のご人格を見るとき、私たちは決してその民を見捨てられないことを確信する。父また夫としての主と私たちの関係は、確実な救いを私たちに保証する。イエスがご自身を私たちに与えられたことは、すべてのよい賜物を私たちに与えるとの誓いのしるしである。「恐れてはならない。わたしはあなたを助ける」との確実な御約束は変わらない。

 


第2列王記17章27-33節

2015年06月17日 08時30分59秒 | 聖書

17:28 こうして、サマリヤから捕らえ移された祭司のひとりが来て、ベテルに住み、どのようにして主を礼拝するかを教えた。
17:29 しかし、それぞれの民は、めいめい自分たちの神々を造り、サマリヤ人が造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分たちの住んでいる町々でそのようにした。

 

 サマリヤに移住をしてきた人々は、真の神のことを知りません。

ですから、主なる神を恐れ敬うということをしませんでした。

そこで主は怒りを発せられて、彼らの内にに獅子を送り、幾人かを殺害されました。

そのことに恐れを感じた彼らは、自分たちをこの地に送ったアッシリヤの王に、このことの報告を送りました。

 その結果、アッシリヤの王は自分たちが捕虜として連れてきた人の内から祭司であった一人を選んで、彼をこの地に再び戻してベテルに住まわせ、この新しい民に主なる神と、この方を恐れ敬うべきことを教えさせました。

しかしその人々は、主のことを教えられても、今での偶像礼拝をやめることはしませんでした。


「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。

2015年06月17日 08時07分18秒 | 聖書

あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)

ある人が祈りの要請を受けた。しかし、それはどうしても受け入れられない相手の事であった。
普段からよく思っていなかった。
様々問題が起きているが、それは自業自得ではないのか、自らが引き起こしている問題ではないのか、責めて裁く心があり、又、裁く自分が嫌で、辛く、関わりたくなかった。
祈りの要請が来たが、心がそって行かず祈れなかった。
どうしても祈れない。すると、心にとがめも来るし、そんな自分に悶々とした。
自分は祈れない、祈りたくない。しかし祈りの要請が来ていて、大変な状況にある。
それで、とにかく、この自分をこのまま神に委ねる決心をした。
神の御前に出て、自分の心を正直に申し上げた「私には祈れません。
助けて下さい」すると不思議な事が起きた。
自分がその人の立場だったらどうだろう、との思いが臨んだ。
絶対に自分には耐えられないと思った。
そう思った時、涙が溢れ出て、知らぬ間にその人のために心注ぎ出し真剣に祈っていたのだ。
自分では無かった。まさに御霊だった。
すぐ後、その難問題が見事解決との連絡が入った。
皆の祈りと共に、彼女の祈りは用いられた。
主はいけにえを喜ばれない。
主が喜ばれるのは砕かれたたましい、できませんと自らの無力を認める態度だ。
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主は何も求めておられない。主が求めておられるのは、「自分にはできません。
助けて下さい」これだけだ。
いつも奇跡を見たのは、自らの無力を心底認めた時だった。


6月16日(火)のつぶやき

2015年06月17日 01時44分10秒 | キリスト教