座間コミニティー

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今日の聖人の記念日

2015年06月07日 08時18分36秒 | キリスト教

 聖メリアドク司教

6世紀年ごろ

 メリアドクは、イギリスのウェールズの裕福な家に生まれ、育った。自分の財産をすべて貧しい司祭たちに施し、土地は困っている人たちに与えた。彼の評判は高まったが、ますます世間から離れ、隠退したいと思い、自らは徹底した清貧の生活を送った。ヴァンヌの司教に選出された後も、厳しい生活を続けた。

 メリアドクは、「貧しさは気苦労を取り除き、聖性の母となる」という言葉を生涯、身をもって実践したのだった。彼は、イギリスのコーンウォールと北フランスで尊敬されている。特にコーンウォールでは、彼の偉大な業を伝えた奇跡劇が現在も残っている。またブリタニーのある所には、彼が使ったとされるベルがあり、口の不自由な人や、頭痛で悩む人の上に置くと治る、といわれている。


◆富とわずらい

2015年06月07日 08時17分14秒 | 聖書

正しい者の家には多くの富がある。
悪者の収穫は煩いをもたらす。    (箴言一五6)

財産・大きな屋敷・広大な土地・莫大な預金がかえって人生のわずらいをもたらしている例は、たくさんあります。あなたも、身近にそんな姿を見ておられるかもしれません。私も、一代で何十億の財産を築いた人が自殺をしたのを聞きました。豪華なお屋敷に妻は独りいて、とても寂しそうだったそうです。夫は愛人の別宅にいました。そして、憂いとわずらいとに満ちた人生は、自殺にまで追いつめられてしまったのです。
私たちは金持ちになって、金の不自由などしたくないと思います。しかし、なぜみな財産や金を求めるのですか。それは、金や財産が、安心・安定・満足・平和をもたらすと思うからではないでしょうか。本命は金ではなく、ほんとうの満足・ほんとうの幸せ・ほんとうの平安・ほんとうの喜びなのです。
聖書は、「正しい者の家には」、そんなほんものの富がどっさりあると言います。正しい者・悪者というと、すぐどたばたドラマの善玉・悪玉を考えてしまいます。けれども聖書の言う正しい人は、第一に、神を正しいと認める人。第二に、神の正しさが実現することを心から期待する人なのです。反対に、神を度外視し問題にしないで、自分中心・自分の欲望中心だけで生きる人が悪者です。
自分の罪深さや弱さを深く感じる謙遜な心を持って、神を第一として神にすべてをゆだね、神のゆるし・満たし・慰め・助けを期待しきる時、どうなるでしょうか。キリストは約束されました。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ六33)。

 


◆主を愛する者たちよ。

2015年06月07日 08時16分19秒 | 聖書

悪を憎め。(詩篇九七・一〇)

悪があなたにどれほどの害を与えてきたかを考えるだけでも、あなたが「悪を憎む」のは当然である。ああ、罪は、なんというわざわいの世界をあなたの心にもち込んだことか。罪は、あなたが救い主の美を見られないように、あなたの目を見えなくし、贖い主の招きを聞けないように、あなたの耳を聞こえなくする。あなたの足を死の道に向けさせ、あなたの心の泉に毒を流し込む。それは、あなたの心を腐らせ、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と言われるまでにした。神の恵みによるご干渉の前に、悪があなたを勝手にほんろうしたとしたら、いったいあなたはどうなっていたことか。あなたは他の人のように御怒りを受けるべき子であり、多くの人々と共に悪に走っていた。私たちのすべてはそうであった。しかし、パウロは私たちに告げる。「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」と。
私たちが過去を顧み、悪のなした害を思うならば、悪を憎む理由は十分ある。だから、もし全能の神が干渉し、私たちを贖い出さなければ、たましいは当然滅びていたであろう。現在も悪は私たちの強敵であり、常に害を与え、滅びに陥れようとすきをねらっている。だから、主にある友よ。苦しみを望まないなら、「悪を憎め」。もしあなたの行く手にいばらを散らし、死の枕にいらくさを植えることを望むなら、悪を憎まなくてよい。しかし、あなたが幸福な生涯を送り、平和な死を遂げることを望むならば、聖潔の大道を歩み、終わりに至るまで悪を憎め。もし真実に主を愛し、主をあがめようとするなら、「悪を憎め」。
悪を愛するクリスチャンをいやす道は、主イエスとの親しい交わりに入ること以外にない。主と共に住め。そうすれば罪と親しくすることはできない。
 みことばによって私の歩みを整え
 私の心を真実なものとして
 罪に支配させず、主よ
 私の良心を聖く保ってください

 


第2列王記16章5-6節

2015年06月07日 08時14分37秒 | 聖書

16:5 このとき、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに戦いに上って来てアハズを包囲したが、戦いに勝つことはできなかった。
16:6 そのころ、アラムの王レツィンはエラテをアラムに取り返し、ユダ人をエラテから追い払った。ところが、エドム人がエラテに来て、そこに住みついた。今日もそのままである。



 ユダの国の王アハズの時に、北イスラエルの王ペカと、アラムの王レツィンとが連合を結んで、南王国を攻めてきました。

そしてアハズを包囲しました。

しかし、エルサレムは堅固であったために、すぐには陥れることはできませんでした。

この時アラムの王は、さらに南の方にいって、エラテを攻めてそこを南王国から奪い取りました。

このエラテというのは、エツヨンゲベルといって、アカバ湾の奥にある重要な港町です。そこを奪い取ったのです。

 北イスラエルからの侵入ということで、同胞の民からの攻撃というまさかの事態を、アハズ王は迎えたのです。



第一コリント7:19(エゼキエル25章)

2015年06月07日 08時10分51秒 | 聖書

★割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。

■O:今日のコラム
割礼は、当時のユダヤ人にとっては何にも変えがたい自分と神様の間での約束であり、目に見える保証でした。しかし、その最も重要とも言える割礼をパウロは「取るに足らぬこと」とあっさり切り捨てます。原語で「取るに足らぬこと」を調べてみたら、はっきりと"nothing"と書かれていました。単純明快でした。
では、一方で何が重要なのか。パウロははっきりと、「神の命令を守ること」であると言っています。
神の命令を守ること、そのことに対して、当時のユダヤ人がそうであったように現代に生きる私たちもいろんな勘違いをしているような気がします。何が取るに足らぬことで何が重要なのか、毎日確認をしつつ、一歩づつ歩んでいきたいと願います。

■A:考えてみよう
今日の箇所を何度も繰り返し読む中で、自分が心配していること、誇りとしてもっていること、願いや習慣、様々なことが、「取るに足らぬこと」であり、改めて主の命令を守ることは何かを思い巡らす時間となりました。神の命令を守る、一人一人に与えられたその大切な使命をそれぞれが今日も成していくことができますように。
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷にとはなりません。(第一ヨハネ5:3)」

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月6日(土)のつぶやき

2015年06月07日 01時48分08秒 | キリスト教