座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆あなたがたが、その約束のゆえに、

2015年06月26日 16時51分43秒 | 聖書

世にある欲のもたらす滅びを免れ……。(Ⅱペテロ一・四)

よみがえられた主の御力の中に生きたいと願うならば、肉の欲にふけろうとするすべての思いを永遠に追放せよ。主のうちに生きる者が、罪の堕落のうちに住んでいるならば、それは悪である。天使はマグダラのマリヤに言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と。生きている者が墓の中に住むべきであろうか。神のいのちが肉欲の納骨堂に閉じ込められるべきであろうか。私たちは主の杯にあずかりながら、どうしてべリアルの杯を飲めよう。
信者よ。たしかにあなたは、露骨な肉欲や罪からは救われている。しかし、サタンという狩人の、隠れたごまかしのわなからも逃れているか。また、高ぶりの欲や怠惰から、世的な安心から全く逃れただろうか。日々、この世と、持ち物の誇りと、貪欲のわなから超越して生きることを求めているか。覚えよ。あなたはこのために神の宝をもって富ませられていることを。真に神に選ばれ、愛されているならば、あなたのための豊かな恵みの宝が浪費されるのを許してはならない。
聖潔を追い求めよ。それはクリスチャンの冠であり栄光である。聖くない教会はこの世に対して無用であり、人々から尊重されない。忌まわしく、地獄の物笑いであり、天国はそれを忌みきらう。かつてこの世に起こった極悪な事件は、これによってもたらされた。
クリスチャンよ。神の誓約はあなたの上にある。あなたは神の祭司である。それにふさわしく行動せよ。あなたは神によって立てられた王である。あなたの肉欲を治めよ。あなたは神が選ばれた者である。ベリアルの仲間になってはならない。天国はあなたのものである。天国の民らしく生きよ。それによって、イエスにある真の信仰をもっていることを証明できる。聖い生活なくして、心の中の信仰はあり得ないからである。
 主よ。私は血潮によって
 贖われた名をもつ者として生きたい
 あなたを悲しませることだけを恐れ
 それだけを恥とする者として生きたい

 


今日の聖人の記念日

2015年06月26日 08時13分46秒 | キリスト教

聖ヨハネ、聖パウロ殉教者

4世紀

 ヨハネとパウロの兄弟は、コンスタンティヌス皇帝の娘コンスタンティナの宮廷に仕えている高官であった。355年、ローマ皇帝として即位したユリアヌスは、キリスト教を捨て、信者たちを厳しく迫害し始めた。2人は、皇帝に仕えることを拒否し、命をかけて信仰を守ることを宣言したため、皇帝の怒りをかい、処刑されることとなった。彼らが人望も厚く、敬愛されていたので皇帝は、公に処刑し、人心を刺激するのを避けるため、ひそかにローマの2人の邸宅に送って、処刑するよう命じた。彼らが殉教してから約35年後、パマチウスという元老院議員が、この邸宅の場所に教会を建てた。

 1887年に、御受難会の修道者たちがこの聖堂を発掘したところ、2人の邸宅がそのままの姿で現われ、壁に描かれた十字架や羊などのキリスト教のシンボルが発見された。


◆争いを好む者

2015年06月26日 08時12分03秒 | 聖書

ねじれ者は争いを巻き起こし、
陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(箴言一六28)

聖書は、「ねじれ者」とずばり言ってのけたことばを使っています。
ある時、やりつけないことですが、洗濯をしてみました。洗濯機の中の衣類が全部ねじれて固まってしまい、一つ一つ離すのに苦労しました。そのねじれたかたまりを見て、「ああ、こんなことが人生にあるな」と思ったのです。こじれにこじれてしまった人間関係。――夫と妻がうまくいかず、いつの間にか子どもやほかの家族までねじれに引きこんで、ねじれきってしまった家庭がないでしょうか。職場でも、同じようなことが起こっています。そのような状態は、皆をくたくたに疲れさせるのです。その原因は多くの場合、一人の人の心のねじれなのです。
ねじれた心から、意地悪なことば・陰口・非難・あてこすりが出てきます。アラブのことわざに、「人は、言わないことばの主、言ってしまったことばの奴隷」とあります。口から出たことばはもうコントロールが利かず、人間関係をねじまげ、争いを巻き起こします。心と心が通じない、壁のあるいやな情況にしてしまいます。構えられた無言のようなねじけた態度も同じ働きをしますし、顔つきや動作でも同じことです。頭がよくて実力もある人でも、心がねじけていては何にもなりません。自分の感情や都合で相手を解釈して、一ねじりも二ねじりもするために、友を失い、平安を失い、生きがいを泥まみれにしてしまいます。
人を素直に受け入れ、善意で解釈し、悪をたくらまないまっすぐな心は、愛の心です。また、自分の我欲を突っ張らないへりくだった平和な心です。イエス・キリストは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ五9)と言われました。神を知り、イエス・キリストに従う時、私たちは心をまっすぐにしていただけるのです。

 


◆あなたもまた……

2015年06月26日 08時11分04秒 | 聖書

私たちに似た者になってしまった。(イザヤ一四・一〇)

口先だけで信仰を公言する背教者のたましいが、裸で神の前に立った時の運命はどうであろうか。彼はどうして、「のろわれた者ども。離れ去れ。あなたはわたしを拒んだ。それでわたしもあなたを拒む。あなたは姦淫を行い、わたしを離れた。わたしもまた、永遠にあなたをわたしの前から追放し、あわれみを注がないだろう」という神の御声に耐えることができるだろうか。
終わりの大いなる日に、集まった大群衆を前に背教者が仮面をはがされる時、その恥辱はどれほどであろうか。これまで決して信仰を告白したことのない俗人や罪人が、火の床から身を起こし、後ろ指を指すのを見よ。ある者は言う。「やあ、あいつがやって来た。やつは地獄でも説教するのか」と。他の者は言う。「あいつだ。あいつは悪口を言ったと言って私を責めたが、今偽善者の正体を表した」と。さらに他の者は言う。「ああ、あの賛美歌好きの男がやって来た。集会にはいつも出席し、天国行きは保証されたように大言していたあの男だ」と。
偽善者のたましいを滅亡に引きずり込む時ほど、悪魔が熱心になる時はないであろう。バニヤンは『天路歴程』の中で、地獄に引き戻される光景をものすごいタッチで描いている。七つの悪霊が九つのひもで一人の男を縛り、彼が自ら歩いていると公言する天国に至る道から引き戻して、地獄の裏門から投げ入れる。
信仰を公言する者たちよ。地獄の裏門に心せよ。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」あなたの状態を見つめよ。自分がキリストの中にあるかどうかを見よ。自分をさばく時はとかく寛大な判決を下しがちである。しかし、この点において正しくあれ。特に自分に対して厳しくあれ。もし岩の上に家を建てていないなら、家が倒れる時、その倒れ方はひどいことを記憶せよ。
主があなたに誠実と、貞節と、断固たる勇気を与えてくださいますように。この悪い世にあって、あなたが脇道にそれることのありませんように。

 


第2列王記19章8-13節

2015年06月26日 08時09分34秒 | 聖書

19:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。
19:11 おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」



 ラブ・シャケは、エルサレムから一時引き上げました。

それは、王がラキシュから移動したということを聞いたからでした。

ところで、王は、クシュの王ティルハカが、自分の所に攻め上ってくるということを聞きました。

そこで彼は、そのことが実際に起こってしまう前に、エルサレムの降伏を実現させようとして、ヒゼキヤに使者を送りました。

彼は書き送りました。

あなたの信頼している主なる神が、いったい何の役に立つのか。

私は今まで、それぞれの神々をまつる多くの民を皆滅ぼしてきた。

そこでの国々にまつられていた神々は、何も勝利をもたらすことはなかった、だからおまえの今頼っている神も同じことだ、と言ったのです。

主なる神を、彼は全く知らなかったです。


コリント人への手紙 第二 9章7節

2015年06月26日 08時06分32秒 | 聖書

★ 私はこう考えます。 少しだけ蒔く者は、 少しだけ刈り取り、 豊かに蒔く者は、 豊かに刈り取ります。

■O:今日のコラム
今日のみことばにはシンプルな法則が書かれています。  少しだけ蒔く者は、 少しだけ刈り取り、 豊かに蒔く者は、 豊かに刈り取るということです。アタリマエのことですね。たくさんの収穫を得たいと期待するなら、その分たくさん種をまく必要があります。種も蒔かずに多くの収穫を期待するのは少しおかしく思えます。
しかし、ここで重要なのはどういった種を蒔くかということです。朝顔の種を蒔いて、「ああ、はやくメロンが実らないかな!?」と言う人がいたら、その人に「それだったらメロンの種を蒔く必要がありますよ!」と言うでしょう。
パウロはここで、奉仕という種を蒔くことをすすめています。その種はどういった動機から巻かれる必要があるかが、7節に書かれています。
「ひとりひとり、 いやいやながらでなく、 強いられてでもなく、 心で決めたとおりにしなさい。 神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
ここでは、具体的にどれくらいの種を蒔けばいいとは語られていません。それは一人ひとりちがうのです。ある人は5タラント、ある人は3タラント、またある人は1タラント蒔く力を持っているかもしれません。どのような人でも、心に決めたとおりに蒔くのでいいのです。
しかし、心の姿勢は明確に書かれています。いやいや蒔くのでもなく、強制的に蒔くのでもないのです。必要なのは自発性です。いやいやの種を蒔くなら、いやいやの実を刈り取るでしょう。強制的な種を蒔くなら、強制的な実を刈り取ることになるのです。
パウロは奉仕を通して、悪い実を刈り取ることが無いよう、愛を持ってこのように書いているのではないかと思います。ですから、私たちは人々に仕える時には良い心の態度を持って仕えるようにしたいものです。もし動機が不純なものであれば、必ずその実を刈り取ることになります。
もし、「自分には奉仕をすることができない」と思う人がいたら、主に願ってみましょう。主は求めるものには与え、探すものに見つけ出させ、叩くものには開かれるお方です。8節に書かれているとおりです。
「神は、 あなたがたを、 常にすべてのことに満ち足りて、 すべての良いわざにあふれる者とするために、 あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
もし、わずかしか種を持っていないと思う人がいたら、その種を持ったままにしてはいけません。わずかでもそれを蒔く必要があります。種は蒔けば芽を出し、多くの実を実らせるのです。そして、多くの収穫を得ます。その多くの収穫の種をまた蒔くことで、さらに増え広がっていきます。それが収穫の法則です。10節にこう書かれています。
「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、 あなたがたにも蒔く種を備え、 それをふやし、 あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」
では、なぜ種をまく必要があるのでしょうか。私たちが満足するためでしょうか。その目的は自分の必要を超えたところにあります。11節を見てみましょう。
「あなたがたは、 あらゆる点で豊かになって、 惜しみなく与えるようになり、 それが私たちを通して、 神への感謝を生み出すのです。」
たとえ僅かであっても奉仕という種を蒔くことで、私たちがあらゆる点で豊かになることが出来るだけでなく、人々に惜しみなく与えるようになって、さらには私たちを通して、神様への感謝を生み出すことが出来るというのです。まとめると、奉仕の種は神への感謝を生み出します。12節にはこのように書かれています。
「なぜなら、 この奉仕のわざは、 聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、 神への多くの感謝を通して、 満ちあふれるようになるからです。」
奉仕の種を蒔くなら、私たちも満たされ、神の家族も満たされます。これが真の奉仕です。よろこんで自分に出来る範囲で奉仕の種を蒔いていきましょう。豊かに蒔くものは豊かに刈り取ることが出来ます。

■A:考えてみよう
自分にできる奉仕は何だろうか?それは喜んで与えることができるものだろうか?
もし、自分の力で働きを進めていくのなら、いつかは疲れてしまいます。神様に愛されたいから奉仕をするのであれば、それは奴隷と主人の関係です。そうではなく、私たちは主から愛されてるから感謝があふれて奉仕をしたくなるのです。これは友の関係です。主に喜ばれ、また自分を、そして神の家族を満たす奉仕をするためにも、ますます主を慕い求めていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


コリント人への手紙 第二 9章7節

2015年06月26日 08時06分32秒 | 聖書

★ 私はこう考えます。 少しだけ蒔く者は、 少しだけ刈り取り、 豊かに蒔く者は、 豊かに刈り取ります。

■O:今日のコラム
今日のみことばにはシンプルな法則が書かれています。  少しだけ蒔く者は、 少しだけ刈り取り、 豊かに蒔く者は、 豊かに刈り取るということです。アタリマエのことですね。たくさんの収穫を得たいと期待するなら、その分たくさん種をまく必要があります。種も蒔かずに多くの収穫を期待するのは少しおかしく思えます。
しかし、ここで重要なのはどういった種を蒔くかということです。朝顔の種を蒔いて、「ああ、はやくメロンが実らないかな!?」と言う人がいたら、その人に「それだったらメロンの種を蒔く必要がありますよ!」と言うでしょう。
パウロはここで、奉仕という種を蒔くことをすすめています。その種はどういった動機から巻かれる必要があるかが、7節に書かれています。
「ひとりひとり、 いやいやながらでなく、 強いられてでもなく、 心で決めたとおりにしなさい。 神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
ここでは、具体的にどれくらいの種を蒔けばいいとは語られていません。それは一人ひとりちがうのです。ある人は5タラント、ある人は3タラント、またある人は1タラント蒔く力を持っているかもしれません。どのような人でも、心に決めたとおりに蒔くのでいいのです。
しかし、心の姿勢は明確に書かれています。いやいや蒔くのでもなく、強制的に蒔くのでもないのです。必要なのは自発性です。いやいやの種を蒔くなら、いやいやの実を刈り取るでしょう。強制的な種を蒔くなら、強制的な実を刈り取ることになるのです。
パウロは奉仕を通して、悪い実を刈り取ることが無いよう、愛を持ってこのように書いているのではないかと思います。ですから、私たちは人々に仕える時には良い心の態度を持って仕えるようにしたいものです。もし動機が不純なものであれば、必ずその実を刈り取ることになります。
もし、「自分には奉仕をすることができない」と思う人がいたら、主に願ってみましょう。主は求めるものには与え、探すものに見つけ出させ、叩くものには開かれるお方です。8節に書かれているとおりです。
「神は、 あなたがたを、 常にすべてのことに満ち足りて、 すべての良いわざにあふれる者とするために、 あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
もし、わずかしか種を持っていないと思う人がいたら、その種を持ったままにしてはいけません。わずかでもそれを蒔く必要があります。種は蒔けば芽を出し、多くの実を実らせるのです。そして、多くの収穫を得ます。その多くの収穫の種をまた蒔くことで、さらに増え広がっていきます。それが収穫の法則です。10節にこう書かれています。
「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、 あなたがたにも蒔く種を備え、 それをふやし、 あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」
では、なぜ種をまく必要があるのでしょうか。私たちが満足するためでしょうか。その目的は自分の必要を超えたところにあります。11節を見てみましょう。
「あなたがたは、 あらゆる点で豊かになって、 惜しみなく与えるようになり、 それが私たちを通して、 神への感謝を生み出すのです。」
たとえ僅かであっても奉仕という種を蒔くことで、私たちがあらゆる点で豊かになることが出来るだけでなく、人々に惜しみなく与えるようになって、さらには私たちを通して、神様への感謝を生み出すことが出来るというのです。まとめると、奉仕の種は神への感謝を生み出します。12節にはこのように書かれています。
「なぜなら、 この奉仕のわざは、 聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、 神への多くの感謝を通して、 満ちあふれるようになるからです。」
奉仕の種を蒔くなら、私たちも満たされ、神の家族も満たされます。これが真の奉仕です。よろこんで自分に出来る範囲で奉仕の種を蒔いていきましょう。豊かに蒔くものは豊かに刈り取ることが出来ます。

■A:考えてみよう
自分にできる奉仕は何だろうか?それは喜んで与えることができるものだろうか?
もし、自分の力で働きを進めていくのなら、いつかは疲れてしまいます。神様に愛されたいから奉仕をするのであれば、それは奴隷と主人の関係です。そうではなく、私たちは主から愛されてるから感謝があふれて奉仕をしたくなるのです。これは友の関係です。主に喜ばれ、また自分を、そして神の家族を満たす奉仕をするためにも、ますます主を慕い求めていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


6月25日(木)のつぶやき

2015年06月26日 01時43分59秒 | キリスト教