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せつなくて金沢③ 終章

2015年06月10日 20時36分36秒 | 小説・詩

秋風  作 秋月タクヤ

 

木製のドアを開けて牧師館に入る

懐かしい木の香り

ミゲル先生がコーヒーカップを運んでくる

笑顔でしばらくコーヒーの香りを楽しみながら一口コーヒーを口に含む

僕も一口

「トシ疲れているようだね、人生は楽しみながら生きていくものなんだよ、こっちに帰ってこないか、お父さん嬉しがるだろうにね。」

苦笑いしながら下を向く

顔を上げながら「今の仕事仲間が僕を必要としています。しばらくは東京で頑張ってみます。」

帰り際ミゲルがトシを強く抱きしめる。

「何時でもここに戻って来なさい。皆も神様もいつまでも待っているよ」

帰り際にミゲル先生に深々と一礼して振り向いて金沢駅に向かった。

どんなに帰りますと言いたかったがなぜか言い出せなかったことを噛みしめながら新幹線ホームで弁当と経済新聞、経済雑誌を抱えて車両に乗り込む

席につきながら手帳を開く「明日の10:30に横浜港で三菱物産の白木部長の見送りと会食か、お嬢さんのお誕生日だったよな」右手の親指の爪を噛みながら考え込んで車窓をどことなく見つめている。

 

翌日の朝9:30の山下公園

 

山下公園の近くのマックで軽食を摂るトシ。

港を見ながら食べている。「久しぶりの楽しい休暇だな、幸さんとはもう3年ぶりか」

ジーンズにジャケットとスニーカーでリラックスして体調も良い。

元町のイタリア料理店スミルナに向かって歩き出す。

白木家は何かあるとこの店でお祝い事をごく親しい者たちを集めて楽しむのである。

木製のドアを開けると幸が駆け寄ってきて「トシお兄様しばらくです。」といってハグを強めにする「久しぶり幸さん」と言って紙袋を渡す「え~何かしら」と言ってバックを取り出す「えーキタムラのバックだわ素敵―」と言ってまた抱き着く。

白木部長が満面の笑顔で「トシさんありがとう。ちょっと無理をさせたかなあ~、ありがとう。」

 

それから2時間食事とアルコールを堪能し聖公会教会、イギリス館、カトリックのお御堂で祈り、そして山下公園から出港する赤い靴号の船上で将来を誓う指輪を交わす。


◆その聖書が、

2015年06月10日 16時34分11秒 | 聖書

わたしについて証言しているのです。(ヨハネ五・三九)

イエス・キリストは聖書のアルファでありオメガであられる。その聖なるページは、初めから終わりまで主について証しをする。
天地創造の時において、私たちはすぐ、キリストを聖なる三位一体の一人格として認める。また女の子孫に関する御約束の中で主を見、ノアの箱舟において主が象徴されているのを見る。私たちは、メシヤの日を見たアブラハムとともに歩む。恵み深い約束によって生きていたイサクやヤコブの幕屋の中に住む。また、尊敬すべきイスラエルがシロについて語っているのを聞く。そして、多くの律法の様式の中に、贖い主が至る所に予表されているのを見いだす。預言者も王も祭司も説教者もみな一つの方向を見つめている。彼らはみな、ケルビムが契約の箱の上に立っているように、立ち上がってその中を見ることを欲し、神の大いなる贖いの供え物の奥義を知ることを願う。
新約になると、さらに明らかに、私たちの主が一貫した主題になっていることがわかる。ところどころに金魂がころがっているとか、砂金の粉が薄くまき散らされているとかいうのではない。あなたはしっかりとした純金の床の上に立つ。新約聖書の実質は、すべて十字架にかかられたイエスであり、その最後の文章さえも、贖い主の御名によって飾られているからだ。
私たちは、常に聖書をこの光に照らして読むべきである。みことばを、天におられるキリストの御姿を映す鏡のように考えなければならない。そこをのぞけば主の御顔が鏡で見るように映っている。それはおぼろではあるが、顔と顔とを合わせて主を見まつる時のための幸いな準備である。この書は私たちに対するイエス・キリストの手紙を集めたものであり、主の愛が香り高くにおう。各ページは、私たちの王の着物であり、没薬、アロエ、肉桂の香りを放つ。聖書はイエスが乗られる王の馬車である。その道には、エルサレムの娘たちに対する愛が敷きつめられている。また聖き御子イエスの産着である。それを解けば、あなたは救い主を見いだす。神のみことばの精髄はキリストである。

 


「あなたがそれを食べるその時、

2015年06月10日 16時33分23秒 | 聖書

あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり…」(創世記3:5)

サタンの誘惑の根本だ。神を捨てて、自分が神になれる。
つまり、自分の思い通りに生きる事ができる。
誰からも干渉されず、とやかく言われず、自分のしたい事をし、思いを通せるのだ。
自分が神となり、王となり、自分の判断、自分の力、自分の知恵で生きて行く。
誰に従うこともいらないのだ。何と魅惑的で、心地良い楽しい事だろう。
私達の古い性質がまさにこれだ。
アダムが選んだ結果だ。
「自分の考えこそは絶対だ」「私の意見が一番素晴らしい」「誰にも邪魔させない。
干渉させない。自分の思い通りにやる」古い性質へのサタンの誘惑だ。
自分の思い通りに生きるようにと。
肉は誰にも従いたくない。ムクムクと自我は頭をもたげてくる。
それゆえ、神に従う道は「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」だ。
自分を捨てなければ、従えない。神に従うとは、自分の思いを下ろして、神の御心を行なうことだ。
神は私達を愛しておられるので、様々な訓練の中で、取り扱われる。
頑なさを砕かれる。思い通りにならない事態を、目の前に置かれる。
信仰人生、自分の思い通りにはならない。
それこそが恵みであり、砕かれ、変えられて行く。
今、思い通りにならない状況なら、神が立ちはだかっておられ、状況でなく自分が変えられる時だ。
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自分の思いを通し、なに不自由なく暮らすの事が私たちの望む生活だろうか。
そうでなく、少しずつでも砕かれ変えられて行きたい。
意に添わぬ時も、主と共に歩んでいると実感できるから平安だ。


今日の聖人の記念日

2015年06月10日 07時14分18秒 | キリスト教

聖ランドリー(パリ)司教

7世紀

 ランドリーは、650年に、パリの司教に任命された。当時、パリ市内の貧しい人々や病人は、治療を受けることも、また入院するための病院すら十分になかった。この状況を見て、ランドリーは、司教座聖堂の傍らに大きな病院を建てた。この病院の名は、「オテル・デュイ」という名に変えられ、今日でもノートルダム大聖堂の北に近代的病院となって建っている。


◆叱ってくれる者

2015年06月10日 07時12分32秒 | 聖書

あざける者はしかってくれる者を愛さない。
知恵のある者にも近づかない。    (箴言一五12)

自分で十分やっていけると思い、人を人とも思わず神を神とも思わない人は、叱ってくれる人を受け入れません。自分より知恵のある人には近づこうともしません。しかし、きのうもお話ししたように、叱ってくれる人があり、その叱責を真正面から受けていくなら、ここに成長があり祝福があるのです。
ところが、私たちは特別にごうまんでも自信過剰でもないのに、叱られることが一般的に好きでありません。それには、もう一つ別の理由があると思います。多くの親・上司・先輩・友は、相手のことが気にくわなくていらいらします。そこで、それを相手にぶつけて、がみがみ言うのです。言い換えれば、相手の身になる相手中心の叱り方・怒り方ではなく、あくまで自分が中心になっています。
親として夫として、このことを心に痛く反省させられます。ほんとうの叱責は、相手の人格を認め、相手の立場に立って考える愛から出るものです。自分の心の大切なところに、愛する人として、その人が大切な場所を占めています。だから、その人がばかなことをしたり考えたりすると、我慢ができません。自分がいい子になったり格好よくしたりするためでなく、愛がほとばしって叱責となります。これが人を助け成長させ、後になって祝福となるのです。
神は、あなたを心から愛しておられます。あなたは、神の心の中で大きな関心と期待の的となっているのです。ですから神は、日々聖書を通して、時にはいろいろの事故・病気・出来事を通して、あなたを叱責されます。この神の叱責を受け、神を愛していく時、大きな祝福を受けることができます。そして、人の叱責を感謝し、知恵ある人に近づくようになるのです。

 


◆もし生きるなら、

2015年06月10日 07時11分41秒 | 聖書

主のために生き……。(ローマ一四・八)

神がもし望まれるなら、私たち一人一人は回心の瞬間に天国に入っていたかもしれない。不死の世界へ入る準備をするために、私たちがどうしてもこの世に滞在していなければならないというのではない。人は今イエスを信じたばかりであっても、天国に移され、光の中にある聖徒たちの資産にあずかる者とされることができる。なるほど私たちの聖めは長く、継続的な過程であり、私たちが肉体を捨てて墓の中に入るまでは完成されない。しかしそれにもかかわらず、主が望まれるならば、主は私たちを不完全から完全に変え、ただちに天国に移されることであろう。
では、なぜ私たちはこの地上にいるのか。神はその子らを、一瞬間でも必要以上に天国の外に置くことを望まれるであろうか。ひとたび進撃命令を下せば勝ちを得ることができるのに、生ける神の軍隊は、なぜいつまでも戦場でしのぎをけずっているのだろうか。神のくちびるから出る一言が、その子らを天にある彼らの望みの中心に移すことができるのに、なぜ彼らはさまよい歩いているのだろうか。
その答えはこうである。彼らがこの地上にいるのは「主のために生き」、他の人に主の愛を知らせるためである。私たちは、良い種を蒔くためにこの世にいる。やせ地を耕す農夫として、救いを宣べ伝える使者として生きている。「地の塩」として、世の祝福となるために、ここにいる。日々の生活でキリストをあがめるために、ここにいる。私たちは神のために働く者として、また「神とともに働く者」として、ここにいる。
私たちの世界がこの目的にかなうものとなるように注意しようではないか。「恵みの栄光が、ほめたたえられる」ために、熱心な、有用な、きよい生活を送ろうではないか。私たちは主と共なることを望み、日々このように歌うのである。
 私の心は御座にいます主と共にある
 私は地上にとどまるのを耐えがたく思い
「立って来なさい」との御声を聞こうと
 絶えず耳をすましている

 


第2列王記16章17-20節

2015年06月10日 07時07分16秒 | 聖書

16:17 アハズ王は、車輪つきの台の鏡板を切り離し、その台の上から洗盤をはずし、またその下にある青銅の牛の上から海も降ろして、それを敷石の上に置いた。
16:18 彼は宮の中に造られていた安息日用のおおいのある道も、外側の王の出入口も、アッシリヤの王のために主の宮から取り除いた。



 アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルは、アハズ王の要請に応えて軍隊を送り、アラムの王レツィンを打ち破って殺害してくれました。

そのお礼をかねてアッシリヤの王に会うために、アハズ王はダマスコに行きました。

その時、彼はダマスコで立派な祭壇を見ました。

その豪華さに見せられた彼は、詳細な見取り図を取らせて、祭司ウリヤの元に送りました。

ウリヤはそれを見て、王の要請通りに、その設計図に基づいて祭壇を作りました。

王は帰国するなり、今まであった祭壇の器具を取り除いて、新しく作った祭壇の所で犠牲を捧げさせました。

彼は主の命令で作られた祭壇よりも、人の作った、より美しい祭壇を好んだのでした。

外見だけを問題としたのです。


1コリント10:13

2015年06月10日 07時03分29秒 | 聖書

★あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

■O:今日のコラム
私たちの会う試練は人の知らないものではないこと、耐えられないものではないことがこの箇所に書かれています。
試練は耐えられないものではないということは、試練は耐えられるものであり、耐える為にあるものであるということです。
そして、神様は耐えられない試練は与えないことも書かれています。
神様は耐えられる試練しか与えないのです。
そして、神様がその試練に会うことを良しとされるときは、「この人は必ずこの試練を耐え忍ぶことができる」と認めたときです。
自分にはもう耐えられない、乗り越えられないと思っても、神様は必ず耐えることを知っていて、耐え忍んだその後の状態、耐え忍んだ後の結果を見て、私たちが試練に会うのを良しとされています。
「脱出の道」という言葉は、この同じ言葉が使われているもう一つの箇所では「結果」と訳されて使われています。
試練に耐えて脱出の道=結果に行くとき、私たちには、いのちの冠が約束されています。この結果=脱出の道が備えられていることは、神様のみことばにある約束です。
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブ1:12
試練に会うとき、直面しなければならばいその試練や問題、自分の弱さだけでなく、その試練の後にある結果をも同時に見ることを覚えたいと思います。
試練の真っ只中でその結果を見れる人が、試練に会うときにこの上もない喜びと思うことができる人なのです。
私の身近にも、そのような素晴らしい方がいます。
「試練があると喜びでしょうがない、どんな状況でも、必ず神様のみことばの方が成就されるのが分かるから」と言っています。
私自身も、そう思いたいけれど感情がついていかないこと、またそんな風に喜べるのはレベルが高すぎると思ってしまうことがあります。
しかし、今日、今一度神のみことばに信仰を置きたいと思います。
自分の状況、感情ではなく、神様のみことばが一番正しいことを宣言し、耐えられない試練はないこと、神様はその人が耐えられる試練にしか会わせないので必ず耐えられること、必ずみことばの約束の結果があること、脱出の道は備えられているという約束を感謝します。

ここで使われている「試練」という言葉は、誘惑とも訳されて使われている言葉です。ネガティブな意味も、良い試練というポジティブな意味も両方ある言葉です。
私たちが、試練・誘惑を耐えて乗り越えるならば、それは主に近づき、イエス様が誘惑の後に御霊に力を帯びて働きを始められたように、新しい御霊の力を帯びて前進する良い機会です。
しかし、神様が私たちが直面することを許される試練は全て乗り越える為、耐え忍ぶ為にあるものであることを感謝します。
私たちが、試練や誘惑に陥ってしまう為ではありません。それは神様の御心ではありません。
そして誘惑や試練に陥らない為には、祈ることが必要です。
「いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、『誘惑に陥らないように祈っていなさい』と言われた。」ルカ22:40
「祈り=神様との親密な交わり」の中で脱出の道を教えていただくのです。
試練の真っ只中は、神様とのより深い親密な交わりへと招かれるときなのです。
またルカ4:3-11にあるイエス様があった誘惑・試みを見ると、イエス様は、数々の誘惑・試みに対してみことばの宣言を持って打ち勝っていることが分かります。
時には自分の目に見える必要や状況、感情ではなく、神のことばを宣言し、神のことばに信仰を置くことが脱出の道となるのです。
私たちが試練に会うとき、私たちの信仰がためされます。
しかし、信仰がためされるとき、忍耐が生じるのです。そしてその忍耐を完全に働かせるとき、私たちは何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となることが約束されています。(ヤコブ1:2-4)
試練の中では悲しみがあっても、信仰の信仰は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄養になることが約束されていることを感謝します。(1ペテロ1:6-7)
また私たちの試練は人の知らないものではないことが今日の箇所に書かれています。こんなのは、自分だけ、他の人には分からないと思うことがあっても、聖書は真実ですから、人の知らない試練ではないのです。
だからこそ、励まし合うことが必要なのです。試練のとき、兄弟姉妹からの励ましを受けることが力になります。
そして、イエス様は「試みのとき信仰がなくならないように祈ったから、あなたが立ち直ったら、今度はあなたが兄弟たちを力づけてやりなさい」とペテロに言っています。(ルカ22:32)
私自身も、試練を通ってきた信仰の先輩である神の家族から励ましと力を受けることを経験しています。
経験した試練は全て、兄弟姉妹を力づけることに繋がるのです。
また私たちの試練を1番分かってくださっているのは私たちの主です。イエス様が人としてこの地に来られ歩まれたとき、イエス様が試みを受けられました。イエス様が私たちの試練を知っています。
イエス様は試みを受け苦しまれたので、試みられている私たちを助けることができる方なのです(ヘブル2:18)。
そして、イエス様は今も、試みに会う私たちの信仰がなくならないように祈ってくださっています(ルカ22:32)。

■A:考えてみよう
イエス様の祈りは必ず聞かれることを感謝します。
偉大な大祭司であるイエス様が祈ってくださってるから、信仰の告白を堅く保ち、
私たちと同じように試みに会われた方、私たちの弱さに同情してくださる大祭司がいますから、このお方からあわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に進み出たいと思います。(ヘブル4:14-16)
そこで、試練に耐える為の脱出の道が示されることを信じます。

■P:祈り
神様、あなたは耐えられない試練に会わせることはなさらない方であることを感謝します。
どんな状況でも、あなたのみことばが必ず成就されることを感謝します。
試練は乗り越えるためにあること、必ず耐え忍ぶことができ脱出の道に導かれること、主よあなたは私を助けることができる方であることを感謝します。
試練の真っ只中で、直面する問題だけでなく、あなたのみことばに約束されている結果を見ることができるように助けてください。
神様のみことばに、神様あなたに信仰を置き続け、忍耐を働かせて、成長することができるように助けてください。
試練の真っ只中で、あなたとの益々深い交わりへの招きに応えます。
あなたとの深い親密な交わりの中へと私を導いてください。
親密な交わりの中で、試練に耐える脱出の道へと導かれることを感謝します。
私の大祭司である愛するイエス様の御名でお祈りします。アーメン。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月9日(火)のつぶやき

2015年06月10日 01時49分47秒 | キリスト教