座間コミニティー

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◆主は、私の光、私の救い。

2015年06月16日 15時51分15秒 | 聖書

だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。(詩篇二七・一)

ここに個人的に「私の光」「私の救い」と記されている。たましいは、その個人的関係を確信するため大胆に宣言している。たましいが新生する時、神の光は救いの先駆けとしてその中に注がれる。私たち自身の暗さを示し、主イエスを慕い求めさせる光のないところに、救いの証拠は全くない。回心の後、神は私たちの喜び、慰め、導き、教師、そしてあらゆる意味において、私たちの光なのである。主は内なる光であり、周囲の光であり、私たちから反射する光、私たちに啓示されるべき光であられる。単に主が光を与えられるとは記されず、「主は、私の光」、主が救いを与えられるとは記されず、「主は、私の救い」とある点に目を留めよ。したがって、信仰によって神をとらえている者は、すべての契約の祝福を自分のものとしている。
これが事実として確かなものにされると、それから引き出される議論は、質問の形をとって「だれを私はこわがろう」となる。この質問自体が答えである。やみの力は恐れるに及ばない。私たちの光である主が、それらを滅ぼされるからである。そして、地獄ののろいも恐れるには及ばない。主が私たちの救いであられるからである。これは、あてにならない腕力に頼るうぬぼれに基づくのではなく、「わたしはある」というお方の、全能の真の御力に基づくものである。
「主は、私のいのちのとりで。」ここに、第三の熱のこもったことばがある。詩篇記者の希望は、切れることのない三重の綱でつながれていた。主が惜しみなく恵みのみわざをなされるところ、私たちが賛美のことばを積み重ねるのは当然である。私たちのいのちは、その一切の力を神から引き出す。そして、もし神が私たちを強めようとされるならば、敵のあらゆる陰謀の中でも決して弱められることはない。
「だれを私はこわがろう。」この大胆なことばは、現代をも未来をも見渡している。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」現在においても、将来においても。

 


「それからイエスは・聖書全体の中で、

2015年06月16日 15時50分23秒 | 聖書

ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた」(ルカ24:27)

二人の弟子達は、主のあえない、無残な十字架の最期を見て、失望落胆し、エルサレムを後にし、とぼとぼと郷里へ引き揚げる。
そのエマオ途上だ。主がローマ帝国をくつがえし、王国を打ち立てるとの思いが余りにも強く、その分、失望も非常に大きかった。期待が大きければ、落胆も大きいものだ。
何もかも打ち砕かれ、絶望し、郷里へ向かう弟子達…、そんな彼らを主は見捨てられなかった。
よみがえりが信じられない弟子達。
まさにその信仰をよみがえらせるために、主ご自身が彼らのもとへ向かわれた。
失望落胆で、かたわらを歩く主に気づかない弟子達に、主はどこまでも他でもない御言葉を語られる。
御言葉を解き明かし続けられる。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与え」る。
原則として、御言葉を通して主と出会う。
御霊が働かれ、御言葉により目が開かれ、主がわかる。
御言葉が大切だ。御言葉を離れて、幻や、感覚や、神秘体験を求めると、間違った方向へ行ってしまう。
今、失意の中にいて、主を見失っているだろうか。
主は決して見捨てず、あなたのかたわらを歩いておられる。
御言葉を解き明かし、ご自身を現される。
今、御言葉に「心して」耳を傾けよう。
御霊が働いて、新たに主がわかるようにされる。
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失意の時、元気のない時人に向かうのでなく、まず御言葉に向かおう。
主が親しく語りかけ慰め、励まして下さる。
朝、出かける前は、ひと時御言葉にふれて世に出て行こう。


今日の聖人の記念日

2015年06月16日 07時13分30秒 | キリスト教

聖ルトガルディス修道女

1182年-1246年

 ルトガルディスは、ベルギーのトングル市の貿易商の家に生まれた。ある青年と婚約したが、父の事業が失敗したため持参金が用意できず、破談となってしまった。そのことで傷ついた彼女は、母の勧めるままに、修道院に入って神だけを求める生活をしようと決心した。

 祈っていると、イエスからの招きを受け、18歳でベネディクト会修道院に入り、そこで院長の職を果たすまでになった。しかし、さらに厳しい生活を求め、シトー会修道院に転じた。29歳のとき、キリストの胸を貫いた槍の傷の聖痕を受けた。晩年は、目が不自由になったが、その苦しみをキリストにささげて生きた。


◆謙 遜 と 栄 誉

2015年06月16日 07時11分53秒 | 聖書

主を恐れることは知恵の訓戒である。
謙遜は栄誉に先立つ。      (箴言一五33)

「謙遜」が美しいということは、だれでも知っています。アウグスティヌスに「人間にとって何が一番の美徳ですか」と聞いたら、「謙遜」と答えました。「第二は」と聞いたら、やはり「謙遜」と答えました。これは、よく知られている話です。ところが私たちはまた、「謙遜ばかりしていたらやっていけない。乗りおくれてしまう」とも、心の底で思いこんではいないでしょうか。
そこで私たちは、謙遜の演技をするのではないでしょうか。相手も同じように演技してくれている時は、どうにかなります。しかし、こちらが下手に出て謙遜に振舞っているのに、相手にそれが分からず大きな態度に出たり、ちらちらと衣の下のよろいが見えたりするともういけません。「何をっ」ということになって、破裂です。演技の謙遜はめっきですから、すぐはげます。では、ほんとうの謙遜とは何でしょうか。
第一は、真理に対して脱帽して従う心です。ほんとうにきよい正しいことには素直になって、自分のメンツや立場を捨てても従う心ではないでしょうか。
第二は、人の人格・人の魂に対する尊敬です。失敗して苦しんでいる人・落ちぶれて貧しくなっている人の苦しみや悩みが分かり、そんな歩みをした人生に敬意を払います。人を人として、魂を魂として素直に受け入れる心の態度です。
第三に、神の前に、罪人・被造物としてへりくだり、神を愛し恐れ従う心です。これが根底にある謙遜だと思います。こんな私にすら愛して目を留め、心をかけてくださる神の恵みの前にひれ伏すのです。これはほんものです。そしてほんものの謙遜があってこそ、人と人の心の交わり・神とのいのちの交流が与えられます。ほんものの謙遜の後に、ほんものの栄誉がついてくるのです。

 


◆わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。

2015年06月16日 07時10分58秒 | 聖書

彼らは決して滅びることがなく……。(ヨハネ一〇・二八)

クリスチャンは、決して軽々しく不信仰について考えたり語ったりしてはならない。神の子たちが神の愛、真理、誠実を信じないことは、非常に神を悲しませるからだ。どうして私たちを支えてくださる神の恵みを疑って、神を悲しませることができようか。
主にある友よ。あなたが忘れ去られるとか、滅びにまかせられるとかいう考えは、神の尊いみことばのすべての約束にもとるものである。もし私たちが忘れ去られ、滅びにまかされるとしたら、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」と言われた神が、どうして真実な方だと言えよう。また、次の約束の価値はどうなのか。「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。』とあなたをあわれむ主は仰せられる。」キリストのみことばの真実性はどこにあるのか。「わたしは彼ら(わたしの羊)に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」恵みの教えはどうなるのか。仮に神の子たちが一人でも失われたら、これらの約束はみな有名無実なものとなる。主の死によって贖われた者、また、主に信頼する者が失われたとすれば、神の真実性、栄え、力、恵み、契約、誓いはどこにあるのか。
こうした神を辱しめる不信仰を捨てよ。ちりを払い落として立ち上がり、美しい衣を着よ。みことばを疑うのは罪であることを心に銘記せよ。あなたの内にある永遠のいのちによって、確信に満ちた喜びを表せ。
 福音こそ、私のたましいを支えるもの
 真実で変わることのない神が
 誓いと約束と血潮によって
 私の望みの礎を置かれたのだ

 


第2列王記17章24-26節

2015年06月16日 07時09分34秒 | 聖書

17:24 アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた。それで、彼らは、サマリヤを占領して、その町々に住んだ。



 イエス様の会われた人の中に、サマリヤの女という人がいて、井戸の所でイエス様と話をしたことが記されています。

イエス様はお働きをなされた当時、北のガリラヤ地方と南のユダとの間に、サマリヤと呼ばれる地帯があったことが記されています。

そのサマリヤ地方の誕生の理由が、本日の所に語られているのです。

 北イスラエルの王国サマリヤを滅ぼしたアッシリヤの王は、その住民の多くをアッシリヤの地へと捕虜としてつれていきました。

従って、その北イスラエルの地には、人が少なくなってしまいました。

そこでアッシリヤの王は、自分たちの国に属している人々を、この地に移住させました。

その人々は、後にこの地にいた人々と結ばれて、その結果、混血の民としてのサマリヤ人が誕生しました。



第1コリント14章1節(エゼキエル書32章)

2015年06月16日 07時06分03秒 | 聖書

★愛を追い求めなさい。…

■O:今日のコラム
多くの人は、愛するよりも愛されることを追い求めて生きています。誰が私を愛してくれるだろうか、どこに行けば私の心を満たしてくれ、心地良くさせてくれるだろうか…と。

しかし、聖書は「愛されること」ではなく、「愛すること」を追い求めなさいと言っています。なぜなら、私たちは神様の愛を持っていないからです。

愛は自然に行えるものではありません。ある日突然、身につくものでもありません。それは主と共に歩む中で、時間をかけて実を結んでいくものであり、追い求めて、神様ご自身から与えられるものです。

英語では、「Follow the way of Love」と書かれています。直訳すると、愛の道を追う、たどる、従う、ついていく…etcです。「愛の道」ー、それは、イエス様がこの地上で歩まれた道です。イエス様が歩まれたのであれば、神の子とされた私たちも、同じ道をたどろうではありませんか。この「愛の道」について、前章に具体的に書かれています。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(第1コリント13章4節~7節)

これら全てはイエス様にある性質です。神の子どもたちがイエス様に似た者へと変えられていくこと、それは父なる神様の願いです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章2節)

イエス様に似た者となるために、心の一新によって自分を変える…それはちょうど、さなぎから蝶へと変えられていくプロセスと同じです。多くの場合、私たちが変えられるのは、痛みや葛藤を通してだからです。さなぎは、もがくことで、血液が羽に送られて動くようになります。それは、期せずして飛ぶための準備運動となります。

苦しむということは、そこに意識を向けなさい、という主からのサインです。もし苦しみから逃れようと人の手を借りてしまうならどうなるでしょう。さなぎが苦しんでいるのを助けようと、人の手で触ってしまうなら、その蝶は飛ぶことが出来ず、自立出来ず結局死んでしまうのです。苦しみや葛藤は、私たちが成長し、愛の人へと変えられるための重要なプロセスとなります。

一つの例ですが、小さな子供を持つお母さんは、しばしばこの葛藤を経験します。24/7、365日、毎日、子供のお世話で自分の時間はありません。カラカラに渇いて、やっとの思いで教会に来ても、メッセージを集中して聞くことは出来ないでしょう。いつまでこの暗やみが続くのだろうと、さなぎの殻の中にいるような孤独を経験することがあります。

いったい誰が私を助けてくれるだろうか、と、一刻も早く殻から脱出することばかり考えます。しかし、そのような時には焦らず、必ず主の最善のタイミングが備えられていることを信じ、待ち望みましょう。

この葛藤は実は神様の良いレッスンなのです。自分の時間がない事や、自由に出来ないことを通して、心が引き伸ばされ、忍耐を学び、子を愛することを学ぶのです。自分以外の者を自分以上に優先させる、犠牲の愛。これはイエス様が歩まれた愛の道です。この愛の実を見て、父なる神様はどれほど感動されることでしょうか。

もちろん、時として人の助けがなければどうにもならない問題もあります。聖書は互いに重荷を負い合うことを命じています。しかし、それと同時に、人にはおのおの負うべき自分自身の重荷があることを知らなければなりません。

今、暗い殻の中でもがいている人はいるでしょうか。その人は、イエス様が歩まれた、愛の道へと導かれていると信じます。今、あなたが置かれている場所で、主を礼拝しましょう。十字架に目を注ぎましょう。聖霊様をその場所に歓迎し、神様の愛の実を結ばせて下さい、と熱心に祈り求めましょう。

苦しみから逃げることをせず、イエス様が歩まれた愛の道をたどろうではありませんか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8章34節)

■A:考えてみよう
愛を追い求めましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


6月15日(月)のつぶやき

2015年06月16日 01時44分52秒 | キリスト教