座間コミニティー

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◆私が呼んでも、

2015年03月29日 16時27分28秒 | 聖書

答えはありませんでした。(雅歌五・六)

嘆願をする者が門で待つように、祈りも時には答えのないことがある。しかし、主はついに出て来られて、その求める祝福を満たしてくださる。主は大いなる信仰を与える時、長く待たせることによって試みられる。しもべたちの声を、銅を張った空にこだまさせるように、むなしく彼らの耳にこだまさせられる。彼らは金の門をたたく。しかし、門は微動だにしない。彼らはエレミヤのように、「あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎりました」と叫ぶ。このように、真の聖徒は長い間答えを待ちながら、忍耐強く祈り続ける。それは彼らの祈りが熱烈でないためでも、それらが受け入れられていないためでもない。主権者であり、みこころのままに与えることをなさる神が、そのような祈りをこの上なく喜ばれるからである。
私たちの忍耐を働かすように命ずるのを主が喜ばれるなら、主はご自分の民に対して望まれるままにされないであろうか。しかし私たちは、答えが長びくのを、祈りが拒まれたのだと判断することのないようにしなければならない。神の長期手形は期日になれば、必ず支払われる。私たちはサタンが答えられぬ祈りを指して、まことの神に対する私たちの信頼を動揺させようとするのを許してはならない。祈りが答えられないのは、祈りが届いていないためではない。神は私たちの祈りを記録しておられる。私たちの祈りは風に吹き飛ばされるのではなく、王の記録保管所のうちに大切に保管されている。
試練の中にある信者よ。あなたの主は涙のつぼを持たれ、聖い尊い悲しみの涙を保存しておられる。またノートを備えて、あなたの聖いうめきを数えておられる。やがてあなたの訴えは聞かれ、あなたは勝利を得るであろう。だから、しばしの間忍耐をすべきではないだろうか。主の時はあなたの時よりすぐれてはいないか。やがて主はいつくしみの顔を見せて、あなたのたましいの喜びとなり、あなたの長い忍耐の荒布と亜麻布とをしまわせ、希望が成就したというしるしの紅の衣を着せられるであろう。

 


「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。

2015年03月29日 16時26分20秒 | 聖書

それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」(ルカ15:28)

兄息子は、放蕩の弟と違い、きちんと父親のいいつけを守って、仕事をしていた。
家出もせず、父のもとを離れず、忠実に労働をしていた。
正しい関係を守っていた。
恵みによらずに律法を行っている人は、必ず人をさばく。
兄は自分がなすべき事をしていたため、好き放題をして、身をもち崩して帰って来た弟を受け入れる事ができない。
ましてや、それを喜んでいる父を見るや、怒りに震えて、家に入ろうともしない。
喜びと楽しみの大宴会にいる弟と、家の外の暗闇で、すねてひがんで、怒って、歯ぎしりしている兄は対照的だ。
兄は、父が子山羊一匹くれないと心を屈折させているが、父は、わたしのものは全部お前のものだと言っている。
兄にとり、父との関係は取引き関係だった。
労働を提供するから、報酬は当然、ギブアンドテイクの関係、雇用関係、それは労使関係だ。
あなたと神の関係はどうだろう。
祝福を貰いたいがために、良い行ないや奉仕を提供しているか。
愛をもらうために仕えているか。
それなら報酬のために仕える、ギブアンドテイクの関係で労使関係だ。
私達と神の関係は、愛の関係だ。
それは信頼関係であり、神の溢れるばかりの愛に応えたいから、愛が嬉しいから自発的に仕えて行く。
神の信頼に応えたいから、自由意志で仕えている。
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いいつけも守り、怠けもせず、仕事もし、きちんとしているのに、心は惨めで喜びなく虚しい。
外側を繕っていて見えないが、実は内側は強烈な自我だ。
ありのまま御前に行き、ありのままを主に告げよう。
そのままを愛されているゆえに。


今日の聖人の記念日

2015年03月29日 07時25分14秒 | キリスト教

聖ヨナ、聖パラキシオ兄弟殉教者

4世紀ごろ

 ヨナとパラキシオは兄弟であり、ペルシャのベト・アサに生まれた。2人は、熱心なキリスト信徒であった。当時、ペルシャはシャプール2世の統治下にあり、キリスト教に対して厳しい迫害が行なわれていた。兄弟は、捕えられている信徒たちを慰めるために牢獄に出かけていたが、ついに彼らも捕まり、法廷に連行された。そしてペルシャ王を崇拝し、自然の神々を礼拝することを強いられたが、拒んだために死刑を宣告された。

 残酷な責め苦の後に、ヨナは体を押しつぶされ、パラキシオは尖った木を体に突き刺されるという刑を受け、最後まで神を賛美しながら殉教した。


◆怠 惰 と 勤 勉

2015年03月29日 07時24分07秒 | 聖書

無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。     (箴言一〇4)

無精者が寄り集まって相談しました。「おい、みんなで無精会ってのつくろうか。」「よせよ。面倒くさい。」こんな無精者が目立って落語の材料になるくらい、日本人は勤勉ではないでしょうか。私たちが自分は無精だと思っていても、外国人から見ると日本人は勤勉で働きすぎると言われています。
「わたしゃ、このマージャンをやるために、昼間は会社で働いているんですよ」という人にも会いました。これもどうかと思います。けれども一般に、日本人の勤勉はただがむしゃらに勤勉のための勤勉となっていませんか。つまり、ほんとうに生きがいを感じ、使命感に躍動しつつ、喜んで一生懸命働いているのかというと、そうではないらしいのです。
厚生省の統計情報部がまとめた一九七八年の数字によると、働き盛りの四十代五十代の人の自殺率が、もはや二十代の自殺率を追い抜いています。今まで日本では、老人の自殺に次いで二十代の自殺が多く、働き盛りは少ないといわれていたのに、ショッキングです。「悩み多き四十代」と新聞には見出しが出ていましたが、人生の目的がはっきりしていなければ、働く喜びも生きがいもあるはずはありません。
ある牧師はこう言いました。「こんにゃくだって、一本くしを通せばシャンとする。日本人に必要なのは、精神的バックボーンである。」神を知り愛を知り、神のため人のために汗を流し涙を流すという一本筋の通った勤勉な人生は、豊かな人生を生み出すのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ一〇10)。

 


◆キリストは御子であられるのに、

2015年03月29日 07時23分25秒 | 聖書

お受けになった多くの苦しみによって従順を学び……。(ヘブル五・八)

私たちの救い主イエスでさえ、苦難によって完全になられたと言われている。したがって、完全にほど遠く、罪深い私たちが、苦難を通るように命ぜられたとしても驚いてはならない。かしらである方がいばらの冠をかぶらせられたのに、そのからだの肢体が安逸をむさぼっていてよいのだろうか。キリストがご自身の血の海を渡って冠を得られたのに、私たちは銀のスリッパをはいて、足をぬらさずに天国へ歩いて行くのだろうか。否! 主のご経験は、私たちに苦難が必要であることを教え、真に新生した神の子どもがそれを逃れたり、逃れようと欲してはならないことを教える。
しかしキリストが「苦しみによって従順を学び、完全な者とされた」との事実の中に、一つの非常に慰めとなる思想がある。それは、主が私たちに対して全き同情をもたれるということである。このキリストの同情が私たちを支える力となる。昔、ある殉教者はこう言った。「私はこの苦難のすべてに耐えることができる。それはイエスが苦しまれたからであり、今も私の中にあって苦しんでおられるからである。主は私に同情してくださる。それで私は心強い」と。主にある友よ。苦しみの時いつもこのことばを思い出せ。
あなたが主の足跡に従う時、主を思い、自らの心を引き立てよ。主のご同情の中に麗しい心の支えを見いだせ。そして苦しみは名誉であり、キリストのための苦しみは栄光であることを深く覚えよ。使徒たちは、御名のために辱しめられるに値する者とされたことを喜んだ。キリストのために苦しみ、キリストと共に苦しむ恵みを与えられるのに応じて、主は私たちに栄誉をも与えられる。クリスチャンの宝石はその苦難である。神の油注がれた王たちの位を証明するものは、彼らの困難と苦悩と悲哀である。だから、この名誉が与えられる時にそれを避けず、抜擢されるのに顔を背けることのないようにしようではないか。悲しみは私たちを高め、困難は私たちを引き上げる。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」

 


第2列王記3章21-27節

2015年03月29日 07時21分53秒 | 聖書

3:27 そこで、彼は自分に代わって王となる長男をとり、その子を城壁の上で全焼のいけにえとしてささげた。このため、イスラエル人に対する大きな怒りが起こった。それでイスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。



 エリシャが告げたように、エドムの方から水が流れてきて、渇いたのどは潤されました。

また戦いも、エリシャが告げたように、モアブに対しての勝利に彩られました。

 ところがモアブの王は、自分が戦いに勝つことができないので、王の継承者である自分の長男を、城壁の上で犠牲の供え物としました。

その結果、イスラエルの民に対する怒りが起こって、自国に帰る以外に事ができなくなってしまいました。

これはどういうことでしょう。

怒りが下ったのは、イスラエルの民に対してでありました。

それも、モアブの王が人身供養をしたためでした。

 つまり、この事は、イスラエルの王も、この人身供養を行っているモアブ王と同じような意味で、偶像礼拝者であることへの、主の怒りの現れであったのです。



ローマ人への手紙 2章29節(エレミヤ30章)

2015年03月29日 07時11分46秒 | 聖書

★かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

■O:今日のコラム
「御霊による、心の割礼こそ割礼です。」

(肉体の割礼ではなく)心の割礼こそ神様の求めていること

新約聖書を読むと、旧約時代のユダヤ人が持っていた様々な礼拝の儀式は、神様が求めている、本物の礼拝を、地上に住む私たちにわかりやすく説明するための模型なんだ、ということが書かれています。(ヘブル8:5他)

ちょうど、樹脂製の食品サンプルのようです。あるレストランに行くと、実際に販売される食べ物の代わりに、ショーケースの中に食品の模型が並んでいます。実際に食べたり味わったりすることはできませんが、本物は、こんな感じですよ、とイメージをわかせる助けとなります。

肉体の割礼も同じです。ユダヤ人にとっては、神様の民として取り分けられている、という大切な契約の印でしたが、イエス様を信じる者たちにとっては、神様の心を教えてくださるヒントのようなものなのです。

神様が、「包皮の肉を切り捨てなさい」と言われた時、神様が本当に願っておられるのは、私たちの心の固い部分=生まれつきの人間が持っている、神様との正しい親しい関係なしに生きようとする性質、を切り捨てなさい、ということです。
固い外側の皮膚を切り取ると、柔らかい感じやすい生の肉が出てくるように、私たちの心の外側の固い部分、神様に対して、また義や罪に対して、固く無感覚になっている部分が切り取られると、柔らかい、砕かれた心が表れ、神様の心と一つ心となっていくことが始まります……。
神様が喜ぶことを喜び、神様が感動する事に感動し、神様が心引き裂かれることに心引き裂かれる。
これが、「心の割礼」であって、神様が真の礼拝者たちに求めておられることです。


2. 心の割礼を受ける

肉体の割礼は、病院や、ユダヤ人の専門家のところに行って受けます。

「心の割礼」は、御霊による、と書いてあります。また、人の手によらず、キリストにあって受ける、と書いてあります。

コロサイ2章11節 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。

「心の割礼」を受けるには、自分の力で正しい人間になってやろうとすることをやめて、へりくだってキリストの十字架を受け入れることが必要です。そして、聖霊を受け、聖霊様に心を柔らかくしていただくことが必要です。

今週大阪でもたれた7000カンフェレンスで、一人の講師の先生が、「私たちは自分では悔い改めることも、罪に気づく事もできない存在。主に照らしていただかなくては、自分で、自分に罪があることすら気づかない存在。」だと言われていました。
神様に喜ばれない、神様と自分との間の仕切りとなってしまう罪が自分にあったとしても、そのことにすら気づかない、気づけない存在。それが私たちです。
ですから、へりくだって、また時間をとって、知恵と啓示の御霊、真理の御霊を求めて、その罪を、思い違いを、示してください、導いてください、と助けを求めることが重要です。必ず助けてくださること、罪を示し、悔い改めに導いてくださることを信じ、待ち望みましょう。

3. 心の割礼を受けているかどうかどうしたらわかる?
自分は心の割礼を受けて、その中を歩んでいるのか、それとも、また心がかたくなになってしまっているか、どうしたらわかるでしょう?
心の内側からあふれる、本物の「喜び」「平安」「感謝」「神様の子どもとされた!愛されている!」「恵みによって完全に赦された!義とされた!罪から解放された!」という思いなどがヒントになります。

ガラテヤ5章22-23節
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

反対に、いつの間にか肉に従って歩んでしまっていると、憤りやねたみ、また次のような思いや行動が表れてしまいます。

ガラテヤ5章20-21節
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

御言葉に心を探っていただき、聖霊様の助けを受けて、柔らかい心をもって、主に仕えていきましょう!


■A:考えてみよう
自分の心は神様の前に柔らかいだろうか?神様に愛されている、子どもとして受け入れられている、という喜びが心にあふれているだろうか?


■P:祈り
知恵と啓示の御霊よ、真理の御霊よ、助け主よ!あなたを歓迎します。どうぞ私の心を探り、照らしてください。
私のうちに傷ついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


3月28日(土)のつぶやき

2015年03月29日 01時44分00秒 | キリスト教