座間コミニティー

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◆彼女はそれを食べ、

2015年03月19日 16時22分47秒 | 聖書

十分食べて、余りを残しておいた。(ルツ二・一四)

私たちがイエスから、パンを食べる特権を与えられる時はいつでも、ルツのように豊かなごちそうを十分に与えられる。イエスが主人であられる時、空腹のまま食卓を離れる者は一人もいない。私たちの頭は、主が啓示される尊い真理によって満たされる。私たちの心は、愛の対象を主に見いだして満ち足りる。私たちの希望もまた満足する。イエスのほかに、私たちは天において何も望まないからである。私たちの願いもまた満足する。私たちは「キリストを知り、キリストに見いだされること」以上の願いをもたないからである。イエスは、私たちの良心に全き平安が得られるまで満たしてくださる。また私たちの判断を、主の教えが確かであるという確信で満たされる。私たちの記憶を、主のなされたことの回想をもって満たし、私たちの想像を、この後主がなされることへの期待で満たされる。
ルツは「十分食べて、余りを残しておいた」が、私たちもそうである。私たちは深く飲み、キリストのすべてを自分のものとすることができたように考える。しかし私たちが最善を尽くしても、なおおびただしい残りがある。私たちは主の食卓に座り、そして言い続けてきた。「無限なる方のほかに私を満足させるものはない。私は大いなる罪人であるため、この罪を洗い流すには無限のいさおしが必要だ」と。しかし私たちの罪が除かれても、なおそのいさおしは残っている。聖なる愛の食卓に連なることによって、飢えは満たされたが、なお霊の食物が多く残っているのを見る。神のみことばには、私たちのまだ知らない妙味がある。しばらくは、それをそのままにしておくほかはない。
イエスが「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません」と言われたように、私たちのまだ到達していない恵みがあり、キリストとのさらに近い交わりの場所があり、まだ踏んだことのない霊の高い山々がある。愛の晩餐には、残りものが多い。この、栄光に輝くボアズのもてなしをほめたたえよう。

 


「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、

2015年03月19日 16時21分51秒 | 聖書

へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)

私達はつい人と比較して生きてしまう。
どうしても目に見えるからだ。
又、人から比較される事もあるだろう。
良い意味でのライバルは切磋琢磨して互いの向上となる。
しかしそうでない比較の根は高慢であり、その現われは優越感と劣等感となる。
それらはどちらも根が同じものだ。
優越感を持つ人は、密かな劣等感があるから、優位に立とうとする。
劣等感が、優位に立つと優越感に変わる。
それらは一つのものだ。
その間をグルグル回る。アイデンティティの置き所が間違っていて、常に関心は自分の事で、目はひたすら自分だけに向いている。
強烈な自己中心だ。
見下されないかと、びくびくしている。
自分が優位に立ち相手を見下げる事で、自分を保つ。
虚栄であり、虚しい生き方だ。そんな所から主が贖い出して下さった。
横との比較でなく、縦の関係、神との関係に入れられた。
その神との結びつきにより、自らの存在理由、存在価値、存在目的がわかると、自分を守る事にきゅうきゅうする必要が無い。
人の目から自由にされて、神依存による自分の生き方を確立して行ける。
その時、人をも認めて行ける。
神と自分の関係が確かになればなるほど、自由になる。
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人と比較して負けたくない。
それなら人生が勝ち負けになる。
勝った時も偽の喜びで、高慢の中にいる。
主はそういうものから解放するために来て下さった。
自己中心と虚栄の自分の本当の姿を認める事から始まる。


今日の聖人の記念日

2015年03月19日 06時58分32秒 | キリスト教

聖ヨセフ

1世紀

(この日が日曜日や、聖週間にあたる場合は、移動されます。)
 聖母マリアの夫、イエス・キリストの養父であるヨセフは、ユダヤの王ダビデの子孫であった。
 ヨセフは、新約聖書に記されているように「正しい人」であり、結婚する前にマリアが身ごもっていることを知ると、それを表ざたにすることなく、縁を切ろうとした。しかし夢に現われた天使が、マリアを妻として迎え入れ、マリアの産む子をイエスと名付けるようにとヨセフに告げたので、イエスの養父としての使命を担った(参照 マタイ1.18~24)。

 ヘロデ王が幼な子イエスを殺そうとしている計画を夢で知らされると、マリアとイエスを連れてエジプトに避難し(参照マタイ2.13~15)、またイエスを神殿に奉献するためにエルサレムに行き(ルカ2.22~38)、イエスが12歳のときに、エルサレムからの帰路でイエスを見失ったときは、マリアとともに心配した。彼はガリラヤのナザレで、大工生活を営みながらイエスに労働の大切さを教えた。

 ヨセフは、イエスが30歳になる前に亡くなったといわれている。養父としてのヨセフは、中世の教会に大きな影響を与え、多くの聖人たちの生き方に示唆を与えた。

 彼は、キリストとマリアを守ったことからも、教会の特別な保護者とされている。


◆生  命  と  死

2015年03月19日 06時57分04秒 | 聖書

なぜなら、わたしを見いだす者は、
いのちを見いだし、
主から恵みをいただくからだ。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、
わたしを憎む者はみな、死を愛する。(箴言八35―36)

「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく……」「わたしを見失う者は自分自身をそこない……死を愛する」何というコントラストでしょう。あなたは、日々生き生きと恵みに満ちて生きたいでしょうか。それとも、自分の身をすり減らし死んだように生きたいでしょうか。聞くのもやぼかもしれません。しかし、「自分の身をすり減らして死んでいく人」が、中年の男性のうちにだんだん多くなっているそうです。
中年の男性は仕事場では、責任の圧力と人間関係のしがらみで疲れはて、人を動かす自信を喪失して、自分に絶望しています。「家庭に帰っても、女房子どもはテレビを見て楽しそうにしているが、自分の姿を見ると、笑い声も話し声もぴたっとやんで一瞬しらける。いったい、おれはどこへ行ったらいいんだ」と言った人がいました。
現代人は疲れているだけでなく、迷っています。自分の生き方が決められません。どちらへ進んだらよいか分からず、むなしいのです。生きているのではなく、死につつあると言ったほうがいいのではないでしょうか。この原因は、教育が足りないからではありません。
日本ほど教育程度の高い国はありません。またこれは、転職脱サラしたら直る問題でもないのです。
「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく」、答えはこれです。あなたの造り主でありオーナーである神のみこころを無視して、生き生きと生きられるはずはありません。イエス・キリストは、あなたのために死んでくださいました。それほどあなたを愛しておられます。神は、あなたに豊かな祝福を与えたいと思っておられます。この神を見いだし、神に聞き従うこと、これが根本なのです。

 


◆信仰がますます強くなって……。

2015年03月19日 06時56分12秒 | 聖書

(ローマ四・二〇)

主にある友よ。信仰を大切にせよ。祝福を受けるのは信仰によるほかはないからである。神の祝福を願うならば、それをもたらすものは信仰だけである。
祈りも、信じる人の熱心によらなければ、神の御座から答えを引き出すことはできない。信仰は、たましいと栄光の主イエスとの間に立つ天の使者である。使者がいなくなれば、私たちは祈りをささげることも、また答えを受けることもできない。
信仰は天と地とをつなぐ電線である。その上を、神の愛のメッセージが非常な速度で伝わる。私たちが呼ぶ前に神は答え、私たちがなお話しているのに神は聞かれる。しかし信仰の電線が切れたら、どのようにして約束を受けることができようか。
私は困難の中にあるか。――私は信仰により、困難に打ち勝つ助けを得ることができる。私は敵に苦しめられているか。――私のたましいは信仰により、慕わしい隠れ家に逃れることができる。しかし、もし信仰を取り去るならば、神を呼び求めてもむだである。私のたましいと天をつなぐ道は閉ざされている。
冬のさなかであっても、信仰は祈祷の馬が前進できる道である。どれほど霜が激しくても支障なく進むことができる。しかしその道をさえぎるなら、どのようにして王の王なる方と交わることができるだろうか。
信仰は私たちを神と直結させ、神の力を着せる。神の全能の力を私のものとする。神のあらゆる性質を私の防壁とする。信仰によって私は地獄の軍勢に立ち向かい、敵を踏み越えて前進を続け、勝利を得ることができる。しかし信仰がなくて、どうして神から何ものかを受けることができようか。波のように絶えず動揺する者は、神から何ものも受けることはできない。
主にある友よ。あなたの信仰に注意せよ。あなたがどんなに貧しくても、信仰によってすべてのものを得ることができるのである。しかし信仰がなかったら、あなたは何も得ることができない。――「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 


第2列王記2章4-5節

2015年03月19日 06時54分49秒 | 聖書

2:5 エリコの預言者のともがらがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「きょう、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っているが、黙っていてください」と答えた。



 エリヤは、次にエリコの町に行き、そこにいる預言者の集団に会いました。

その時も、エリシャはエリヤについて行きました。

その時、エリコの町にいた預言者たちは、エリシャに向かって、「きょう主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」と尋ねました。

つまり、今日天に召されるということを知っていますかと聞いたのです。

彼はそのことを知っていましたが、自分が知っていることをエリヤに告げないで下さいと彼等に語りました。

それは、エリヤが自分のことで特別な配慮を持ってしまって、それによってエリヤが自由な行動をとれなくなるのを心配したのです。

彼は、主が事を為して下さるままに、起こることをそのまま見、主のご配慮と導きとに従いたいと思ったのです。


使徒の働き21章13節

2015年03月19日 06時51分21秒 | 聖書

★するとパウロは、 「あなたがたは、 泣いたり、 私の心をくじいたりして、 いったい何をしているのですか。 私は、 主イエスの御名のためなら、 エルサレムで縛られることばかりでなく、 死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。

■O:今日のコラム
パウロは旅を続ける中で、カイザリヤというところに立ち寄りました。そこでユダヤから下ってきたアガボという預言者に出会います。そして、突然パウロの帯を取って自分の両手両足を縛って「あなたはこうなります」と告げます。預言的な行動です。それを見た土地の人達はもちろんパウロを引き留めようとします。その時にパウロが言ったのが今日のみことばです。
この箇所を読む時に思い出されるのは、マタイの福音書16章22,23節のイエス様の姿です。

するとペテロは、 イエスを引き寄せて、 いさめ始めた。 「主よ。 神の御恵みがありますように。 そんなことが、 あなたに起こるはずはありません。 」
しかし、 イエスは振り向いて、 ペテロに言われた。 「下がれ。 サタン。 あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、 人のことを思っている。 」

パウロはその預言的な行動の現実を受け入れたくなかったのでしょうか?カイザリヤの人々はパウロのことを思っていました。しかし、パウロはひたすらに神の事を思っていました。パウロのほうがカイザリヤの人々よりもより高い次元で先を見ていたのです。
イエス様は自ら進んで十字架にかかられました。しかし、避けられるのであれば避けたいとも思われました。なぜイエス様は自ら苦しい十字架の道を選ばれたのでしょうか。それは私たちに対する深い愛とご自分の使命の故です。十字架の御業無くしては人々に救いが訪れません。それを成し遂げられるのは先にも後にもイエス様しかいませんでした。
イエス様はご自分のその使命を知っておられました。同じように、パウロも自分の使命を聖霊様から教えられていたのです。その使命は死さえも覚悟させるものです。死をも覚悟した人ほど恐ろしい人はいません。テロを起こす人は自らの命を差し出して多くの人の命を奪います。しかし、私たちが主イエスのために命を捧げるなら、死よりも強力な爆発的な力、人々を永遠に導く生きる力をもたらすことになります。
自分の使命をつかみとったなら、次に必要なのは覚悟です。どっちつかずの状態が一番たちが悪い状態です。みなさんも祈りとみことばの中でうっすらと自分の使命をつかみとっているのではないかと思います。それであれば、みなさんに必要なのは覚悟です。イエス様のために命を失うものは命を得ます。主イエスの御名のために、覚悟を決めましょう。


■A:考えてみよう
神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:29)まずは祈りとみことばによって、自分がどのような賜物を与えられているか、また、神様にどのようなことに呼ばれているかを教えていただきましょう。そして、少しでもその方向が見えたなら、勇気を持って一歩を踏み出していきましょう。
一歩を踏み出さず、その場にとどまっているのであればいつまでも0の状態です。0はいくら大きな数をかけても0にしかなりません。しかし、1であれば数は大きく増えていきます。
失敗するかもしれません。恐れがあるかもしれません。しかし、その一歩こそが信仰の一歩です。間違った方向でも、とにかく一歩を踏み出す決断をし、実際に踏み出してみましょう。今日、あなたが覚悟を持って踏み出す一歩を主は喜んでくださっていると信じます。


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


3月18日(水)のつぶやき

2015年03月19日 01時43分49秒 | キリスト教