座間コミニティー

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◆アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、

2015年03月31日 17時21分25秒 | 聖書

それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。(Ⅱサムエル二一・一〇)

殺された息子たちに対する一人の女の愛が、かくも長い間悲しみの徹夜を続けさせたとすれば、私たちが尊い主のお苦しみを思うことに飽きるようであってよいであろうか。彼女は猛鳥を追い払ったのに、私たちは、自分の心を汚し、黙想の主題を汚す世的な罪深い思いを自分のうちから追い払わなくてもよいものであろうか。妄想雑念の鳥よ、去れ。ささげものを汚すな。
彼女は夏の暑さと夜の雨露とを受けて戸外で過ごした。眠りは彼女の泣きはらした目から去り、彼女の胸は少しもまどろむことがなかった。見よ。彼女がいかに子どもたちを愛していたかを。リツパはこのように耐えていたのに、私たちが些細な不都合や試みに驚いていてよいだろうか。主と共に苦しむことができないほど私たちは臆病でよいのか。
彼女は勇気をふるって野獣すらも追い払った。私たちはイエスのために、すべての敵と戦う準備ができていないのか。この息子たちは、彼女にではなく、他の者の手によって殺された。にもかかわらず、彼女は泣きながら見守った。では、自分たちの主を自らの罪によって十字架につけた私たちはどうすればよいのか。
私たちの義務は無限であり、愛は熱烈であり、悔い改めは徹底的でなければならない。主と共に目を覚ましていることが私たちの務めであり、主の誉れを守ることが私たちの仕事であり、主の十字架の下にいることが、私たちの慰めでなければならない。死体は、特に夜など、リツパを恐れさせたことであろう。しかし、主の十字架の下に座す私たちにとって、いやなものは何もなく、心を引きつけるもののみである。十字架上の救い主は生ける美の極みであられる。
イエス様。私たちはなおしばらく、あなたと共に見張りをいたします。すると、あなたはあわれみによってご自身を現してくださいます。その時、私たちはもはや荒布の下に座らず、王の幕屋の中に座するのです。

 


「彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、

2015年03月31日 17時20分45秒 | 聖書

あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである」(申命記25:18 )

サタンは飢えたライオンのように、襲いかかるものを探しながら歩き回っている。
獲物を見つけるや、飛びかかろうとしている。
サタンには策略があり、必ず策略を用いる。
特に身体的、精神的疲労状態にある時に、要注意だ。
あなたが疲れている時を、サタンは鵜の目鷹の目で狙っている。
魂が危険にさらされている事を覚えていよう。
まず、疲れている時は、周囲にも、そして霊の敵に対しても無防備状態になってしまうからだ。
エサウは野での猟から戻り「飢え疲れている」時に、長子の権と豆を交換した。
飢えと疲れで、長子の権などどうでも良いと思ったのだ。
私達は余りに疲れると、判断力を失い、重大な事がどうでもよくなってしまう。
神の言葉や約束など飛んでしまう。
疲れた時に経験しないだろうか。
エリヤはバアルとの戦いで、心身消耗し、多大のストレスに疲労状態だった。
その上に、イゼベルの預言者殺害命令を聞いた時に、もう許容量オーバーで耐えきれず、死を神に願った。
疲れて、弱る時、気力が失せてしまう。
その前に、バアルと激しい闘いをし、大勝利したあのエリヤでさえだ。
人は皆、弱い。疲れて弱る時が、狙われている事をまずよくわきまえよう。
振り返る時、思い当たるだろう。武具を帯び、神に拠り頼んでいよう。
疲れている時、要注意だ。
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自分は、信仰の弱い者だと常に覚えていよう。
疲れて無防備になっている時はサタンに付け込まれている事すらわからない。
家事に、仕事に、勉強に、事ごとに神様の助けを祈ってはじめよう。


今日の聖人の記念日

2015年03月31日 07時01分14秒 | キリスト教

聖バルビナおとめ

2世紀

 バルビナは、ローマに生まれた。父クイリノはローマの職業軍人であった。バルビナは、美貌と才能に恵まれ、結婚の申し込みが多かったが、あるとき顔に腫瘍ができて以来治らず、醜い容貌となってしまった。

 途方にくれていた親子は、キリストとその弟子たちの行っている奇跡を知り、バルビナの病気が治るならば家族でキリスト信徒になることを誓った。

 そのころローマは、皇帝ハドリアヌスのキリスト教迫害下にあり、教皇アレクサンデルも牢獄につながれていた。クイリノはバルビナを連れて牢獄を訪ね、教皇とともに神に祈ると、バルビナの顔はもとの美しい顔に戻った。家族はすぐに洗礼を受け、キリストの宣教に力を注いだ。バルビナは、キリストに生涯をささげたいと願い、終生独身を守ることを決意し、貧しい人々や、苦しむ人々の助けに力を尽くした。

 しかし迫害の手を逃れることはできず、法廷に連行された父とバルビナは、信仰を守りぬき殉教した。信徒たちは、彼女を記念してローマのアヴェンチノの丘に聖堂を建てた。


◆正しい者の祝福

2015年03月31日 07時00分01秒 | 聖書

正しい者の頭には祝福があり、
悪者の口は暴虐を隠す。      (箴言一〇6)

暴虐と祝福、何というコントラストでしょう。
自分の運転手を次々と殺して保険金をごまかしていた会社社長の犯罪が、新聞に出ていました。海に連れていき、酒を飲ませて水の中で殺し、事故に見せかけたのです。ブラジルまで逃げて、とうとう警官隊に射殺されました。
暴虐な世相になってきました。自分の子を伸び伸び遊ばせられないような寂しい冷たい世の中です。
しかし私は、あるクリスチャンを知っています。その人は、金持ちでも有名でもありません。小ぢんまりした家に住んでいます。ところが、近所の人は、悩み事があるとこの家を訪ねていきます。この人の前に出ると、何でも打ち明けられるのです。話をよーく聞いてくれます。いけないことは、それはいけないとはっきり言ってくれるけれど、励まして自信を持たせてくれます。相談に来た人は心の重荷がおりて、ほっとして帰っていきます。まわりの人は、この家を尊敬をもって見ています。この家から祝福が流れてくるからです。神がその方の頭に祝福を注ぎかけ、その祝福が流れ出して、ご近所の人々までうるおしています。
神は、あなたを祝福の泉とされたいのです。そのためにイエス・キリストは十字架にかかり、あなたの罪をゆるされました。そのために、イエス・キリストはあなたを造り変えてくださいます。あなたを祝福のもとにし、神の国の仕事のため有用な存在とするために、生まれ変わらせてくださるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント五17)。

 


◆彼の打ち傷によって、

2015年03月31日 06時59分11秒 | 聖書

私たちはいやされた。(イザヤ五三・五)

ピラトは主を兵士に渡してむち打たせた。当時ローマのむちは最も残酷な拷問に使われた。それは牡牛の皮で作られ、あちこちにとがった骨が入れてあるので、打ち下ろされるたびに、骨の小片が恐ろしい裂傷を与え、肉を骨からむしり取るのであった。救い主はもちろん柱に縛りつけられて、このようにむち打たれたのである。主はその以前にもむちで打たれたことがあった。しかしおそらく、このローマの兵士のものが、一番耐えがたかったであろう。私のたましいよ。ここに立ち、打たれた救い主のおからだのために泣け。
主にあるたましいよ。イエスがあなたの前に苦悶という愛の鏡を立てられる時、あなたは涙なしにイエスを直視することができるだろうか。純潔なゆりよりも美しい主が、ご自身の鮮血のために、ばらよりも赤くなられたのである。イエスがむち打たれたことによって、祝福に満ちたいやしが与えられたことを感じる時、私たちに愛と悲しみが共にわくのではないか。もし私たちが主を愛しているならば、今主の燃えるような愛を感じなければならない。
 見よ。忍耐深い主がいかに立たれるかを
 見よ。主は侮辱の極みを受けられた
 罪人らは全能なる主の御手をしばり
 造り主である主の御顔につばきした
 主の額には深くいばらがくい込み
 傷口より真紅の血がほとばしる
 背に鋭いむちを受けられたが
 そのむちが主の心を引き裂いた
一室に閉じこもって、私たちは泣いていたい。しかし日々の仕事をもっている。それなら、主が血潮を流された御姿が心に深く銘記されるように祈り、夕べには主との交わりのために帰り、私たちの罪が主をお苦しめしたことを思って嘆こう。

 


第2列王記4章8-17節

2015年03月31日 06時57分55秒 | 聖書

4:13 エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか。』」彼女は答えた。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」
 


 ここには、先の貧しい預言者の妻とは反対に、豊かな人の妻であった婦人のことが語られています。

彼女はエリシャを見て、彼が聖なる方であるということを知り、心からのもてなしをしました。

彼が訪れてくる度に食事を整え、宿泊する所を準備して、彼を歓迎しました。

 エリシャは、彼女の行為に報いようとしました。

しかし、彼女は自分は幸せですと語って、何も要求しませんでした。

そこでエリシャの方から、彼女に不足しているものを見つけて、彼女に報いました。

子供のことでした。

 主の働きに携わる人に配慮をすることは、配慮をする人が気がつかなくても、主が喜んで下さることだということを知るのです。

大事な働きをしているからです。


ローマ人への手紙3章26節(エレミヤ32章)

2015年03月31日 06時55分00秒 | 聖書

★それは、今の時にご自身の義を現すためであり、またイエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

■O:今日のコラム
今日の聖書箇所の中には、律法によっては、かえって罪の意識が生じると書かれています。ローマ7章10節によると、律法によって、私たちの罪が明らかにされ、私たちを死に導くものだと書かれています。イザヤ書の中に、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」と書かれています。私たちも多かれ少なかれ、そのような体験をするのではないでしょうか?行いによって義を得ようとするなら、私たちは自分にはそれが到底無理であることを認めざる得ません。

パウロは、ローマ7章の中で、律法が良いものであり、自分がそれをしたい思いは、あるがそれをする力がないことを認めて、こう告白している。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」しかし、そのすぐ後の節で、私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝しますと言っています。つまり、パウロがキリストの中に、その解決を見出したのだということが分かります。
ガラテヤ3章24節に書かれている通りに、「こうして、律法は私たちをキリストに導くための私たちの養育係となりました。」ということを悟るのです。イエス様が道であり、真理であり、いのちであることを感謝します。この方によってのみ、私たちは、大胆に父のもとに近づいて行くことができるのです。


■A:考えてみよう
自分の中に行いによって義と認められようとする部分はないだろうか?ただ、全ての中に、キリストを見上げ、キリストの中にある安息、解決を受け取って行こう。


3月30日(月)のつぶやき

2015年03月31日 01時42分11秒 | キリスト教