座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆私のたましいに言ってください。

2015年03月05日 16時47分27秒 | 聖書

「わたしがあなたの救いだ。」と。(詩篇三五・三)

この聖句は、何よりもダビデが疑いを抱いていたことを示す。そうでなかったら、「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」と祈る必要はなかったであろう。それで私は勇気を出したい。自分の信仰の弱さを嘆くのは、私だけではないからだ。もしダビデが疑いをもったとすれば、私は決して「私は疑いをもっているから、もうクリスチャンではない」と結論する必要はない。
この聖句は次のことを思い起こさせる。ダビデは疑いと恐れをもった時そのままにせず、確信を求めて、ただちに恵みの御座に行った。そこを純金のように尊んでいたからだ。私もまた、愛する御子に受け入れられたとの確信を得るまで祈り続け、その愛がたましいに注がれるまでは喜びを抱いてはならない。私の花婿が私のもとを去られる時、私のたましいは断食する。
また、ダビデが全き確信を得ることのできる場所を知っていたことを学ぶ。彼は祈りにおいて神のもとに行き、「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」と叫んだ。もし私がイエスの愛をはっきりと悟ろうとするなら、ひとりで神と親しく交わることをさらに努めなければならない。祈りをやめるならば、私の信仰の目は衰える。
ダビデは神からの確信を得なければ満足しなかったことも見ることができる。主よ。「私のたましいに言ってください。」神の証言以下のものは、真のクリスチャンを満足させることができない、と。
さらにダビデは、彼の確信を自分のものにしなければ安心しなかった。「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と。」主よ。このみことばがすべての聖徒に告げられても、私に告げられなければ、私にとってそれは無益です。私は罪を犯したので、それをあえて嘆願する勇気をもちません。私のようなたましいにも、「わたしがあなたの救いだ」と告げてください。私があなたのもので、あなたが私のものだという、確かな意識を与えてください。

 


「彼らは信仰によって、国々を制服し、

2015年03月05日 16時46分39秒 | 聖書

正しいことを行ない…また、ほかの人たちは…拷問を受け、石で打たれ、牢に入れられ…」(ヘブル11:33)

ある人々には、超自然の奇跡がなされた。
獅子の口がふさがれ、炎に焼かれず、剣から守られ、戦争をすれば勝利し、死人がよみがえった。
しかし、他の人々は拷問、投獄、石で打たれ、のこぎりで引かれ、殺され、奇跡は起きず死んで行った。
同じ信仰の勇者とされている。ある人は奇跡で命が救われ、別の人は殉教して行った。
これは神が全主権を持たれ、御心のままを行われるという事だ。
どちらの人々も「信仰によって」生き、どちらの結果も神の栄光のためだ。
ある人が病を患い経済的にも困窮し、日毎の糧にも困る状況だった。
神にお委ねし、ただ神に頼り祈った。
ところが奇跡は何もなく、更に窮状に追い込まれて行った。
祈りが積まれるが、病気が治るとか、必要が与えられるとかは何もなく、どん底になった。
しかし、不思議な事に、彼の心に感謝が溢れ、喜びが溢れ、それは自分ではなく、御霊からのものだった。
状況はどん底なのに、感謝が溢れるのだ。最悪の中で、感謝と喜びに溢れている彼の姿に、周囲の人々は信仰に火がつき、リバイブされて行った。
信仰が揺らいでいたある人は、彼により生涯の信仰が定められ、牧師となって行った。
神はご自身の望む通りに御心をされる。どうであれ従おう。
神の栄光が現される。
--------------
華々しい奇跡だけが神の栄光ではない。何も起こされない事もある。
しかし、それが神の御心であり、甘んじて受け感謝して行く時、そこに神の栄光が現される。
「信仰によって」生きているからだ。


今日の聖人の記念日

2015年03月05日 06時39分27秒 | キリスト教

聖フリドリノ司祭

?-538年

 フリドリノは、アイルランドの貴族の家に生まれた。若いころから、司祭となって神に生涯をささげたいと望んでいた。司祭になると、ゴールやドイツ、スイスなどを巡って説教をし、多くの人々を信仰に導いた。そのため「さまよう人」とも呼ばれた。フリドリノは多くの修道院を設立した。また、バンダル族によってフランス、ポアティエ市の修道院が破壊されたときに失われた聖ヒラリオ(1月13日 参照)の遺体を発見し、同地に聖ヒラリオの記念聖堂を建てた。

 フリドリノが建てたライン川近くの教会の周辺には人々が集まり、セッキンゲンという町となり、今日に至るまで彼への崇敬が盛んである。


◆真実のない愛

2015年03月05日 06時38分18秒 | 聖書

さあ、私たちは朝になるまで、
愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。
夫は家にいません。
遠くへ旅に出ていますから。   (箴言七18―19)

何という絵のような情景描写でしょう。聖書は、現実を知らない学者が書いたものではありません。聖書は、現実を知り、ちまたの実際の出来事を見通しているお方が書いた本です。
この世には耳を傾けるなら、神の声が満ちています。花も鳥も星も、神を語り、私たち一人一人の良心も、神の細き声を語りかけ、聖書は、はっきりと神のみこころを伝えます。
しかしこの世には悪魔の声も満ちています。きょうのことばも、悪魔の甘言・甘いささやきのサンプルです。この悪魔の甘いささやきの中心は、他の何もかも無視して、欲望に酔いしれて楽しめということです。
性欲という欲望は、神が備えてくださった最もうるわしいものの一つです。男と女が引き合い、愛が生まれ、愛が育ちます。男と女が引き合わなかったら、この世はどれほど砂漠のようだったことでしょう。
しかし、神のみこころという枠をはずれて、欲望第一主義に走ってごらんなさい。欲におぼれてごらんなさい。食欲なら、食べすぎて体を壊し、太りすぎて早死にするでしょう。遊びすぎては、貧しくなり不健康になります。性欲の野放しは、家庭を壊し、個人をだめにし、人間関係をめちゃめちゃにします。憎み合い軽蔑し合い傷つけ合う様は、人間の没落がここにあるという感じがします。
性欲という欲望は、神のデザインされた結婚というみこころの枠の中で楽しむべきなのです。聖書は、「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです」(ヘブル一三4)と、警告しています。

 


◆ほかの人々のように眠っていないで、

2015年03月05日 06時37分34秒 | 聖書

目をさまして、慎み深くしていましょう。(Ⅰテサロニケ五・六)

クリスチャンの目を覚まさせる方法は種々ある。その中でも、クリスチャンが神の道について語り合うことを強く勧めたい。バニヤンの『天路歴程』の中で、「クリスチャン」と「希望氏」の二人が、天の都へ旅をする途中で互いに語り合うところがある。彼らは「眠気をもよおすことがないように有益な話をしようではないか」と言う。「クリスチャン」は「兄弟よ、それではどこから始めようか」と言う。すると「希望氏」は「神が私たちに始められたところから」と答える。それから「クリスチャン」は次のように歌う。
 聖徒よ。眠気をもよおしたら、ここに来て
 二人の巡礼が語るのを聞け。
 そうだ。どうしても、彼らから学ぶのだ。
 まどろむ目を開くことを。
 聖徒の交わりを正しくもつなら
 目を覚ますだろう。地獄をよそに。
他人と離れてひとりで旅をする信者は、眠気をもよおしやすい。信仰の道づれを求め、それによって、目を覚まし、力づけられ、天への旅路を早く進むようにせよ。また、あなたが神の道について麗しい話をする時は、その話題が必ず主イエスであるように心せよ。信仰の目をもち、絶えず主を見つめ、主によってあなたの心を満たせ。あなたのくちびるをもって主を語れ。
友よ。十字架に近くあれ。そうすれば眠ることはないだろう。あなたの行く先の価値を深く心に刻むように努めよ。もし天国へ旅していることを覚えるなら、途中で眠ることはない。後ろに地獄があり、悪魔が追いかけてきていることを考えれば、道草はできない。殺人者が、逃亡の機会を目前にして、復讐をねらう者とともに居眠りをするだろうか。
主にある友よ。真珠の門が開かれ、天使の歌があなたの参加を待ち、黄金の冠が準備されているのに、あなたは眠っているのか。否、聖い交わりの中に目を覚まし、祈り、誘惑に陥らないようにせよ。

 


第1列王記22章24-28節

2015年03月05日 06時36分17秒 | 聖書

22:27 王が『この男を獄屋に入れ、私が無事に帰って来るまで、わずかなパンと、わずかな水をあてがっておけ』と命じたと言え。」
22:28 ミカヤは言った。「万が一、あなたが無事に戻って来られることがあるなら、主は私によって語られなかったのです。」そして、「みなの人々よ。聞いておきなさい」と言った。



 偽預言者たちは、王の意向をくみ取って、王が戦いに出れば勝利を得ると告げました。

しかしミカヤは、王が戦いに出れば、無事に戻って来られないと告げました。

それが、主から与えられた幻とみ言葉による証言でした。

しかし、この言葉はアハブ王には不快なことばでした。

そこで彼は、この預言者を牢に入れておけと命じました。

 ミカヤはその時、誠に主から出た言葉であれば、それは実現すると告げました。

そして、もし私が語ったことが実現しないようであったら、私の語った言葉は主によって告げられたことではないでしょうと語りました。

彼は、実現するのは、主の言葉とその御心のみであると告げたのです。

これは、常に真実なことです。


使徒の働き7章54 - 56節

2015年03月05日 06時33分53秒 | 聖書

★人々はこれを聞いて、 はらわたが煮え返る思いで、 ステパノに向かって歯ぎしりした。
しかし、 聖霊に満たされていたステパノは、 天を見つめ、 神の栄光と、 神の右に立っておられるイエスとを見て、
こう言った。 「見なさい。 天が開けて、 人の子が神の右に立っておられるのが見えます。 」

■O:今日のコラム
私はこのマナメールの記事を書くにあたって、ステパノという人物について調べ、また彼の歩みを想像しながら、祈りの家で何度もこの箇所を読み返し、思いをめぐらしました。そうしている中で、この記事を書くことを放棄したくなるほど多くの啓示を主から与えられました。そして私もステパノのように生きたいと心から思わされました。彼の生き方こそ、終わりの時代に生きる聖徒のモデルです。

ステパノという人は昨日読んだ聖書の箇所の後半に登場します。彼は十二使徒から選ばれたリーダーの一人でした。使徒の働き6章8節に彼に関しての事が書かれています。

「さて、 ステパノは恵みと力とに満ち、 人々の間で、 すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。」

このような働きをしていたステパノを見て面白く無いのは律法学者たちです。例のごとく民衆や長老を扇動して、あることないことを並び立て、ステパノを議会に連れてきます。今で言えば国会の証人喚問のような感じでしょうか。そこでステパノは恐ろしくなって逃げたのではなく、彼の顔は御使いの顔のように見えたと書かれています。そして、ここから2節から50節という短さで旧約聖書のアブラハムから捕囚までの歴史を見事に語ります。

私ならここで反論したり、弁明したりしたくなると思いますが、なぜ不利な立場に立たされ、あることないことを言われたステパノは旧約聖書の話をし始めたのでしょうか。それは、同国民に対する愛ではないかと思います。この旧約聖書の壮大な神の計画は全てイエス・キリストを指しているということに気づいてほしいというステパノの愛に満ちたメッセージだったのではないかと思います。

議会の人々はステパノの話に引き込まれていたでしょう。しかし、ステパノはその話を聞いても悟らない彼らに対して、最後の一撃を解き放ちます。

「あなたがたは、 御使いたちによって定められた律法を受けたが、 それを守ったことはありません。」(53節)

人々に律法を守るように教えているあなた方自身が律法を守ってないではないか!とズバリ真実を突きつけます。それを聞いた人々ははらわたが煮え返る思いであったと書かれています。この「はらわたが煮え返る思い」とは、言語の意味では「のこぎりで引かれてバラバラになる」という意味があります。

ステパノのメッセージは人々の心を幸せにするものではありませんでした。むしろ聞く者に、心を突き刺すような悔しさを引き起こしました。これこそ真のメッセンジャーです。多くのメッセンジャーは人々を励まし、祝福するでしょう。それはとても重要で大切な事です。しかし、真のメッセンジャーは人々に悔い改めを生じさせるのではないかと思います。自分にとって都合のいいメッセージだけを聞くのではなく、耳に痛いことも自分のこととして受け取り、悔い改め(自分勝手な歩みを止めて神の道へと方向転換する)ていきましょう。


そのようなメッセージをしたステパノに対し、悔い改めた者はいませんでした。愛を持って語ったメッセージに対して返ってきたものはステパノの命を奪う石でした。人々はステパノを町の外に追い出し、そこで石を投げつけて殺してしまいました。しかし、そのような中でもステパノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りながら眠りにつきます。そうして、ステパノはイエス様の弟子で殉教者の第一号となりました。

その様子を天から見ていたイエス様は、この事に胸が張り裂けそうになり、耐え切れなくなってその御座から立ち上がられました。

「こう言った。 「見なさい。 天が開けて、 人の子が神の右に立っておられるのが見えます。 」(56節)

かつて幕屋で仕えた大祭司はその務めの間、決して座ることはありませんでした。しかし、十字架ですべてを「完了した!」と叫ばれた永遠の大祭司なるイエス様は天の父の右の座にお座りになりました。父の元で安息されたのです。しかし、このステパノの出来事はイエス様も立ち上がらざるを得ないほどの尊い出来事だったのです。先にも後にもイエス様を立ち上がらせたのはステパノ以外いないのではないかと思います。
では、なぜステパノはこのような事ができたのでしょうか。そのひとつはステパノが聖霊様に満たされていたからでしょう。55節にしっかりとその事が書かれています。

「しかし、 聖霊に満たされていたステパノは…」

終わりの時代の私たちも聖霊様に満たされる必要があります。悪魔はありとあらゆる手を使って、私たちを神様から遠ざけようとします。楽しさや快楽を与えるこの世がもたらす「酒」を私たちの前に持ってくるでしょう。しかし、私たちはそれを決して飲んではいけません。

「また、 酒に酔ってはいけません。 そこには放蕩があるからです。 御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)

ステパノが殉教できたもう一つの理由は、彼の目の先にあります。続く55節の後半にはこのように書かれています。

「天を見つめ、 神の栄光と、 神の右に立っておられるイエスとを見て」

ステパノはただイエス様しか見つめていませんでした。彼の目にはイエス様しか写っていなかったのです。それはまるで雅歌に書かれている乙女のようです。

「ああ、 わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。 あなたの目は鳩のようだ。 」(雅歌1:15)

鳩は一点しか見つめることが出来ないという特性があります。私たちはこの惑わしの多い終わりの時代にあって、鳩のように一点にただイエス様だけを見つめて歩む必要があります。

聖霊様に満たされ、ただイエス様だけを見つめる生き方。これがステパノから学ぶことが出来る終わりの時代の聖徒らの生き方です。イエス様のために命をも捧げることを惜しまない殉教者の心を持った究極の信仰の姿です。キリストの花嫁の姿です。このステパノの最期の姿を見るなら、誰もがイエス様に似ているということに気づくでしょう。ステパノは文字通りイエス様に似たものなっていきました。

そのような生き方を私たちに示してくれたステパノという名前にもその事が掲示されています。「ステパノ」という言葉は「冠」と言う意味があります。あらゆるものを犠牲にして自分を鍛錬し、走るべき道のりを走りぬいたもの、その勝利者だけに与えられるのが冠です。正にステパノはそのような生き方をしました。イエス様が十字架でなされたように、またステパノも死に至るまで忠実でした。

「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。 見よ。 悪魔はあなたがたをためすために、 あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。 死に至るまで忠実でありなさい。 そうすれば、 わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示録2章10節)
これからの時代、日本において、また世界各地において今まで歴史上誰も見なかったほどの魂の大収穫が起こっていくでしょう。しかし、それと同時に迫害も起こっていくでしょう。そのような大きな揺り動かしに耐えうることが出来るものはステパノのように殉教者の心を持った者です。イエス様の愛を本当に知ったのであれば、誰もが殉教者の心を持っていくのではないかと思います。

もし、「自分はそんなことは無理だ」と思うなら、そのとおりになります。信仰はそこで頭打ちになり、それ以上キリストに似たものとして成長していくことは出来ないでしょう。だから、みことばによって力を受け、キリストの身丈に達するまで成長していく事が大切です。

「私は、 私を強くしてくださる方によって、 どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

このような信仰を持って、共に祈り合い、励まし合いながら戦うべき戦いを戦い、走るべき道のりを走り切ろうではありませんか。イエス様と顔と顔を合わせてお会いできるその日まで。

「私は勇敢に戦い、 走るべき道のりを走り終え、 信仰を守り通しました。」(2テモテ4:7)


■A:考えてみよう
自分で自分を制限していることはないでしょうか。私も以前は徹夜の祈りなどは絶対できないし、断食など到底出来ないと思っていました。しかし、イエス様がどれほど私の事を愛してくださっているかという事実を知った時、それらは喜びとなりました。

自分で自分を制限すること無く、毎日を全力で生きましょう。目の前の一つ一つのことに手を抜かないで、誠心誠意全力で取り組んでいきましょう。小さな事に忠実なものは大きなものにも忠実です。その訓練として、今までの経験に頼ること無く、後のことを考えないで一つのことに全力で取り組みましょう。何事も死ぬ気で取り組むのです。

その時に忘れてはいけないのは、イエス様だけを見つめて行なうということです。自分ためにそのようなことを行なうなら疲れ果ててしまうでしょう。しかし、主のために行なうなら、主は天から無限の力を供給してくださいます。イエス様とお会いできるというゴールを見つめつつ、今置かれている走るべき道のりを全力で走って行きましょう。今こそ踏ん張りどきです。ゴールはそう遠くないと信じます!共に主からいのちの冠をいただこうではありませんか。


■P:祈り
天のお父さん、心から感謝します。どうぞ私に今日を生きる力を与えてください。試練に耐え抜く力を与えてください。必要な励ましを与えてください。
そして、今日、あなたのためになすべきことを教えて下さい。ステパノのように、死をも恐れずただあなただけを一点に見つめて歩むことが出来るように、あなたの惜しみない愛を今日も注いでください。それをいっぱいに受け取ります。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


3月4日(水)のつぶやき

2015年03月05日 01時41分37秒 | キリスト教