座間コミニティー

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◆あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。

2015年03月21日 18時06分36秒 | 聖書

オリオン座の綱を解くことができるか。(ヨブ三八・三一)

もし自分の能力を誇りたくなるならば、自然の雄大さは、ただちに私たちがいかに取るに足りない者であるかを教える。輝く星のうち、最小のものすら私たちは動かすことができず、朝の光の一筋さえも消すことはできない。春になり、スバル座の星が喜びの光を放つ時、私たちはそれをとどめられない。オリオン座が高く輝き、年が冬の足かせに縛られる時、私たちはその結氷を解くこともできない。四季は神が定められたままに移り、人類のすべての力も、それを変えることはできない。おお主よ。人は何者でしょうか。
自然界と同様に、霊の世界においても、人の力はあらゆる面で限られている。聖霊がその喜びをたましいの中に注がれる時、だれもそれを乱すことはできない。すべての人間のずる賢さも悪意も、助け主の温かい新生の力をとどめることができない。聖霊が教会を訪れて信仰を復興される時、最も執念深い敵といえども、その良いわざに抵抗することはできない。それはあたかもスバル座が輝き始めて春が来た時、その春を押し戻すことができないのと同じである。神が望まれることは必ずそのようになる。しかし、もし主がその主権と正義によって、一人のたましいを縛られたとしたら、だれが彼に自由を与えることができるだろう。主のみが、人から霊的死の冬を除かれるのである。主はオリオン座の綱を解かれる。ただ主のみがそうされる。なんという祝福であろうか。
おお、今夜、主がその奇蹟をなしてくださいますように。主よ。私の冬を終わらせ、私の春をもたらしてください。私がどう望もうと、自分のたましいを死から引き上げることはできません。しかし主よ。あなたはどのようなことでもおできになります。天の御力とあなたの愛の鮮やかな輝き、恵みの光線、御顔の光を私は必要とします。それは私の輝くスバル座! 私は罪と誘惑に苦しんでいます。それは私の冬のきざし、また恐るべきオリオン座です。主よ。私の中に、私のために奇蹟をなしてください。アーメン。

 


『そしてイエスは言われた

2015年03月21日 18時05分35秒 | 聖書

「聞く耳のある者は聞きなさい」』(マルコ4:9)

御言葉が蒔かれる。土地は私達一人一人の心だ。
「聞く耳」とは、聞く意志を持って、全身全霊で御言葉を聞こうとする耳だ。
そして、従おうとの態勢で聞く耳だ。
「聞く耳のある者は」だから、「聞かない耳」もあるという事だ。
聞かない耳は聞く意志のない耳、又、物理的に聞いてはいるが、心に入らない。
心で聞いていないから、頭を通り抜けて行く。
又、従うつもりが無い。
よく御言葉がわからない、わからないと言う。
しかし、御言葉がわかるのは、従おうとの気持ちと態度があるからだ。
従おうとの姿勢がある時、必ず御言葉がわかり、神のみこころがわかる。
逆に、従うつもりが無いなら、御言葉はわからない。
御言葉をどぶに捨ててしまう事だから、決してわからない。
御言葉はわかりたい、しかし、従うつもりは無い時、実のところ、わかっては困るのだ。
従う気が無いのだから。
だから、わからないという事になる。
どのようであれ、御心に従う決心があるなら、必ず御言葉はわかる。
神の御声がわかる。
聞く耳というのは、聞いた事に従う姿勢を持って、聞く態度だ。
私達はどうだろう。
聞く耳があるだろうか。
聞かない耳だろうか。
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御言葉を慕い求めているだろうか。
従いたい、変わりたいとの心で御言葉を聞こう。
聞く耳のある者になって、いのちの御言葉の重みを知ろう。


今日の聖人の記念日

2015年03月21日 08時59分05秒 | キリスト教

聖ニコラウス(フリューエ)

1417年-1487年

 ニコラウスは、スイスのフリューエ(現在のフリューエリ)の裕福な農家に生まれ、信仰深く育てられた。農業を営んでいたが、その後軍隊に入り、1444年ごろに敬虔な女性ドロテーアと結婚し、10人の子どもに恵まれた。

 子どもたちが成長し独立した1467年ごろに、ニコラウスは隠修士として余生を過ごすことを望み、家を後にした。ランフト村の聖堂の近くに小屋を建て、祈りと黙想の日々を送った。彼の徳はいつしか広まり、読み書きこそできなかったが、スイスでは最も有名な賢人の一人となり、多くの人々が彼のもとに相談に訪れ、「兄弟クラウス」として尊敬された。

 1481年にスイスの各州の対立が激化したときには、彼の勧告によって「スタンスの盟約」が結ばれ、平和を回復した。それは、以後スイスの平和の基礎をなすものとなった。

 ニコラウスは、スイスの守護の聖人として親しまれている。


◆知恵は態度である

2015年03月21日 08時58分03秒 | 聖書

また、思慮に欠けた者に言う。
「わたしの食事を食べに来なさい。
わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、
わきまえのないことを捨てて、生きなさい。
悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい。」と。(箴言九4後―6)

育児ノイローゼになった若い母親が、子どもを殺しました。彼女の母親が電話を受けて飛んでいってみると、娘もはさみで胸を突いて死の苦しみのさなかにいます。「お母さん殺して」と言われ、ついに娘をガーゼで締め殺したという悲惨な出来事でした。
自分にたよりきって、つぶらなひとみで見あげていた赤ちゃん。それがどこが悪いのか、泣いて泣いて泣きやみません。その赤ちゃんをじっと見つめる時、いったいこの子をどうして育てたらよいのかと、迷わないお母さんはいないでしょう。思春期は訪れますし、入学試験も避けられません。これから一つ一つの人生の困難をしのいでいかねばならない育児人生を前にして、どんな気持ちだったでしょう。それに、自分の弱さや力なさや経験のなさを考えたらと思うと、このお母さんに同情できます。
もし、一つ一つのことに一つ一つの知恵がなければならないなら、よく考えると人間はみなノイローゼになりかねません。私など機械に弱いので、こうなったらこうこうすると細かく書いたカタログなどを見ると、うんざりしてお手あげです。しかし、ほんとうの人生の知恵とは、「この時はこう」「あの時はああ」という千差万別の一つ一つ別の知恵ではありません。
「わたしの食事を食べに来なさい。」こう呼びかける優しい天の父・万物の造り主である神のところへまっすぐに飛んでいく、祈って従う。――この態度にほかなりません。知恵とは態度なのです。神は、その都度、一番よいぶどう酒をくださいます。
すぐ神のところへ飛んでいくためには、自分の知恵・自分の肉の力をたよるエゴイズムを捨てることが大事です。だから、「捨てて、生きなさい」とも神は言われるのです。

 


◆見なさい。あなたがたが散らされて、

2015年03月21日 08時57分09秒 | 聖書

それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。(ヨハネ一六・三二)

ゲツセマネの悲哀を共にした者は、わずか数人であった。弟子たちの大部分は「苦痛」の奥義を見ることを許されるほどには、恵みに進んでいなかった。彼らは自分の家で過越のごちそうに夢中になっていた。彼らは、文字にのみこだわり、福音の精神に関しては幼子同様の、多くの人々を代表している。
十二人、否、十一人だけがゲツセマネに入り、大事件を目撃する特権を与えられた。十一人中八人は、遠くに残された。イエスとの交わりはもっていた。しかし最も深く愛された人たちのもつ親しさはそこにはなかった。最も愛された三人のみ、主の悲哀の奥義のベールに近づくことができた。しかし、ベールの中に入ることはできなかった。石を投げれば届くほどの距離が残しておかれなければならなかった。主は、ひとりで酒ぶねをお踏みにならねばならなかった。一人として主と事を共にした者はいなかった。
ペテロと、ゼべダイの二人の子は、少数の傑出した経験深い聖徒を代表する者であり、教父として書き記されるべき人であった。人は贖い主の愛の海原の上に住み、その波の深さをわずかに測ることができた。
ある選ばれた人には、他の人のため、あるいは将来人々を強めるために、隠れたところで苦しんでくださる大祭司の嘆願を聞くという、特別の恐ろしい苦悩を経験する機会が与えられる。彼らは主の苦悩にあずかり、その死の様と等しくされる。しかしこの人々すら救い主の苦難の聖なる場所に入ることはできなかった。主のご悲哀には、人の知識と同情の達しえない聖域がある。ここにイエスは残された。ここにおいてイエスは「ことばに表わせないほどの賜物」であられた。
アイザク・ウォッツの次のことばは適切ではないだろうか。
主が与えてくださる測り知れない喜びはすべて
測り知れない苦痛をもって買われたものである

 


第2列王記3章9-12節

2015年03月21日 08時55分47秒 | 聖書

3:11 ヨシャパテは言った。「ここには主のみこころを求めることのできる主の預言者はいないのですか。」すると、イスラエルの王の家来のひとりが答えて言った。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」



 イスラエルとユダとさらにエドムの王達は、協力してモアブの地に向かうことにしました。

しかし、その道は「エドムの荒れ野」を通る道でした。

これは、死海の西の方を通って、エドムの荒れ野を通過する道でした。

それは、困難が伴う道でした。

実際に7日間も回り道をしたので、水がなくなってしまったのです。

荒れ野で水がなくなったら、命に関わります。

ヨラムは、弱音をはきました。

しかしヨシャパテは、主の御心をお聞きしたいと思いました。

そこで預言者の存在を尋ねたのでした。

 これは私たちにとっても、いつも必要なことです。

私たちの歩みにはいつでも、問題とか困難が伴います。

それによって混乱したり、人を恨んだり、疑ったりします。

大事なことは、その時に静かに、主の言葉を聞くことです。


エレミヤ書 23章21節(使徒の働き23章)

2015年03月21日 08時53分39秒 | 聖書

★わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続け、わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。

■O:今日のコラム
今日の箇所は主が言われて走ったわけでも、語ったわけでもないということが書かれています。

=自分勝手な歩みをしていたゆえではないかと思います。

自分にも言える事ですが、私たちは自分がしたいこと、自分が成し遂げたいことをしていないでしょうか?主からの召し、走るべき道を本当に走っているでしょうか?

主からの召しの中を走ることが出来ることは大きな喜びです。
もちろん走らなければならない道の中で苦しさ、困難、葛藤…色々ありますが、主からの召しならば耐えることが出来ます。
そして、実を見たら何にもまさる喜びに変わります??

今日の箇所のように、主の道を走れない、主は語らない。主に遣わされてないのに、走り続ける。
これは本当に苦しいことです。
ゴールのない長距離走みたいなものです。

2テモテ4:7-8
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

主の召しの中を走る先は“義の栄冠”です。

主の召しに歩む人は教会のフルタイムスタッフでも、ビジネスの世界にいる人も主の栄光をあらわしています。1番カッコいい人はイエス様ですが、イエス様の次にカッコいい人は召しに歩む人だと思います。

私たちが走ることも、走るべき道を知る事も聖霊様によらなければ出来ませんが、どのみち走るのであれば、主の召しの中を走りたいと切に願います!

共に主から義の栄冠を受け取りましょう??


■A:考えてみよう
私たちは自分の召しの中を歩んでいるでしょうか?

自分勝手な歩み、プランを捨て、主の召し出した道を走ることが出来ますように。

召しが分からない、確信がない。
その場合は分かるまで、確信が来るまで祈りましょう。

主の御前に立った時、「私は走りきりました!」そう言えるのは、自分の召しの中を走りきった人のみが言える言葉です。

これこそ最高にカッコいい告白であると信じます??


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


3月20日(金)のつぶやき

2015年03月21日 01時42分50秒 | キリスト教