レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

スペンサー 

2013-04-29 03:00:00 | 日記
昭和の日、ですね。いよいよGWもエンジンがかかってきますね。旅や行楽地へ出かける方も多いかと思いますが、むしろ自宅でのんびりDVDや読書三昧という方もいらっしゃることでしょう。

最近何度か書籍、読書について書いてみましたがひとつ忘れていることがありました。愛読書です。愛読書となると事はずっとパーソナルな感じになっていく気がします。

私は読書は結構好きですので愛読書はかなりあります。その中でも長―い付き合いということを考えると、第一クラスの愛読書はロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズです。分類でいうと一応チャンドラーやハメットなどと同じハードボイルドに入るようです。

主人公のスペンサー(なぜかファーストネームは絶対に出て来ない)はボストンの私立探偵。といってもマーロウのようなニヒルなタイプではなく、もとボクサーという点は伝統的ですが、その他は料理好きの健康志向派で、自分の騎士道に忠実、詩を愛し恋人スーザンといつもイチャイチャしている大男です。

その現代的な設定の故にファンと敬遠する派がかなり分かれるシリーズのようです。

初めてスペンサーものを読んだのは大学1年生の時でした。プロットや謎は全くというほどないストーリーで、むしろスペンサーの生き方や人生哲学?が表に出てくる作品でしたが、私もたまたまボクシング大好き人間、詩も好きで人生道的な話しも好きでしたし、少し後には料理好きも加わり、要するにスペンサー氏とは共通するものが多かったので気に入りました。(ワタシはチビで、イチャイチャする相手もいませんが)

それからのスペンサーものとのお付き合いは今に至るまで34年にもなりました。残念ながら作者のパーカー氏は二年前の2011年に他界され、シリーズは一応全39巻で終わっています(弟子が引き継ぐという噂あり)。実は最後の二作品、持っていますがまだ読んでいません。終わらせたくないというケチな出し惜しみ根性です。



家の居間に並ぶスペンサー本。装丁がきれいなので飾りにもなる?


スペンサーものの核は極論すると「男はどう生きるか」「プライドとは何か」「スタイルのある生活」というようなことでしょう。評論家の中には「スペンサーは私小説だ」というような声もありました。確かにオタクっぽいアプローチも結構見受けられます。前述のように好き嫌いが分かれる由縁だと思います。

初期の頃の作品「残酷な土地」の中でのスペンサーと女性キャスター、キャンディとのやりとり:

キャ「あなたはいい人だわ。.... あなたは白人の男性、少数民族の立場を理解するのは不可能だわ。...」
ス「その論理を拡大すると、おれたちは結局、誰も他人は理解できない、と断定せざるをえなくなる。...おれは飢餓を経験したことは一度もないが、飢餓が存在することには反対だ。... その場合、おれがそのような状態を理解しているかどうか、という問題は生じない」
...
キャ「あなたはずいぶん深い物の考え方をする人ね、そんなに図体の大きい男にしては」
ス「きみはおれほどの大きさになったことがない。だから、理解できないよ」

小説や映画、どちらでもそうなのですがワタシは気に入ったものは何度でも繰り返し読んだり見たりするタチです。このスペンサーシリーズ37巻(最後の2巻を除いて)の通算読み切り数は相当なものになると思います。

京王線の車中で一冊目を読んでいた時はこんなに長いお付き合いになるとは思いませんでした。パーカー氏が亡くなる前、初めからの32冊を訳された翻訳家の菊池光さんも途中で他界されています。「愛読書」を送っていただきありがとうございました。感謝をもって黙祷。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この国で選びたい! 選挙権と国籍

2013-04-26 05:00:00 | 日記
21年間継続してアイスランドに住んでいますが、私は日本国籍です。つまりアイスランドに住んでいる日本人ということです。国籍を取得する条件は全て満たしていますが、今すぐにそうするつもりはありません。

その理由は単純で、アイスランド国籍を取得すれば日本国籍を放棄しなければならないからです。アイスランドは二重(または多重)国籍を認めていますが、日本は違います。

この二重国籍の問題は大きなテーマなので、そのうちまた取り上げてみたいと思いますが、今回は選挙権に関わる範囲のみで考えてみます。

小国アイスランドでは選挙の仕組みもスッキリクッキリで、市や他の町村などの地方自治体選挙、明日の土曜日に投票されるアルシンキの国政選挙、そして大統領選挙のみっつです。これに特定の問題についての国民投票を加えてもいいかもしれません。

さて、普通考えれば外国人は選挙には関係ないと思われるでしょうが、実はここでは5年以上継続して居住している外国人は地方自治体選挙には参加できます(スカンジナビア人の場合は3年間です)。投票できるだけではなく立候補も可能です。

これは2002年に法律が改正され可能になりました。(スカンジナビア人に関してはそれ以前より道が開かれていましたが。スカンジナビア諸国は一種の兄弟国関係という意識があるので、少し特殊です)

法改正の際も得に反対はありませんでした。西欧に共通することなのでしょうが、こちらでは「タックス・ペイヤー」という意識がかなりはっきりしているので、外国人であれきちんと税金を払っている以上口を挟む権利があるとみなされているようです。

ただこれは国政にはそのままでは適用され得ません。国政には外交など国の独立性に関わる問題も含まれてきますので、外国人は残念ながら選挙権はありません。ただ二重国籍を持っている人たちは自分自身の母国での規制に引っかからなければ選挙に参加することができます。

というわけでアイスランドに住む日本人であるワタシは明日投票所へ行くことはできません。ちょっと残念。

その代わり、と言ってはいけないのでしょうが日本の選挙に投票することはできます。選挙があるたびにお知らせをいただいております。投票したことはありません。するつもりもありません。帰省の際に消費税を払う以上の税金は払っていませんし、海外派遣と違ってこれから先また日本で生活をする予定もない身としては、投票することがむしろ無責任なことに思われるからです。

翻って日本では外国人への地方選挙への参政権についても根強い反対がありますね。在日朝鮮・韓国人の人が約56万人、在日中国人が68万人という事情がある日本では、外国人への地方選挙参政権も二重国籍の承認も「国の危機」につながる、という危惧が強いのだと理解しています。

でもそれって公正なことなんでしょうかね?

なぜ日本に大勢の朝鮮、韓国、中国等の人が住んでいるということの経緯も大切な問題だと思います。それはさておいても、日本にずっと住んでいて同じように税金を払い続けている人がその払った税金の使い方に何の意見も言えない、というのはどんなもんでしょうか?

なんらかの危惧が本当に存在するのなら、具体的にどのようなものであるかを明らかにしたうえで、その危惧を解消するための手だてというものを考えることはできないのでしょうか?

これはかなり基本的な人の権利の問題だと考えます。日本でも議論があるのは承知していますので、それが創造的な方向で継続されることを願います。

また同じことが在アイスランドの外国人の国政選挙権についても言えると考えます。そちらの方は、こちらにいる当事者たちが声を上げないといけないですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルシンキ - 小さくとも国会

2013-04-24 05:00:00 | 日記
前回書きましたように、アイスランドの国会であるアルシンキの議員の選挙がこの土曜日に行われます。定員は63議席。現在の与党は社会民主党とレフト緑の党です。

アイスランドの伝統的?な政党はこれら与党の他には、金融危機時の与党(社民党との連立)で、それまで万年与党だった独立党、地方を基盤にした進歩党があります。

進歩党は実際には保守等なので、「進歩」を意味する「framsokn」という単語は実際には「保守的」ということを意味してしまうことがあります。アイスランドの人たちは本当に「進歩的」ということを意味したい場合には別の言葉を選びます。エエイややこしい...

以上はわりと歴史のある安定政党なのですが、金融危機真っ只中での前回選挙時には、市民運動系の運動党が誕生しています。さらにアルシンキではないのですが、レイキャビク市の選挙時に同じく市民運動系のベスト党が躍進しました。現在の市長の党です。

今回のアルシンキ選挙では、上記の運動党がピラター党と夜明け党へ分裂発展、ベスト党も市政から国政へ進出を狙い明るい未来党を形成しました。

この他にも新憲法の制定を促す民主主義ウォッチ党(かなり無理矢理な訳ですが)やライト(右)緑の党、家庭党、虹の党、その他の新しい党派が出来ています。数が増え過ぎて従来の投票用紙の形式では間に合わない、と選管は慌てていると報じられていました。

さて、アイスランドの選挙が日本と一番違う点は、ここでは100%比例代表制であることです。つまり各政党は比例代表名簿を選挙時に提出し、有権者はその名簿を選ぶわけです。

選挙区は六つあるのですが、議席は10の選挙区が3、11の選挙区が3あります。政党はそれぞれの選挙区での比例代表名簿を提出します。規則を詳しく調べてないのですが、定数の倍数はリストに載るのが通常です。つまり定数10の選挙区なら20人の候補者が必要になります。

ところが実際にはひとつの選挙区で、ある特定の政党が獲得できる議席というのは多く見積もって5。ですからプロの?政治家を目指す人は上位4位くらいまでには入る必要があります。

もっともアルシンキは議員のメンバー交替が可能で、例えばある議員が病気などで休養する必要がある場合は、名簿の次点者の中から交替議員が出ます。ですから名簿の上位にいれば、当選しなくとも国会に参加する機会は十分にあります。

その名簿の順位は大体選挙の半年くらい前に各政党ごとに行われる予備選挙で決められます。これは政党内選挙で「誰々を1位に!」というようなことを決めるためのものです。アメリカの大統領選のミニミニ版のようなものです。

予備選挙はある一定規模のある党では行われますが、新しい市民運動系の小政党では省かれることの方が多いようです。そういう党は普通特定のカリスマ候補?によって動いていますので、選挙をしてまで決めるものでもないようです。

で、先ほど述べましたように、名簿状は20人登録されていても実際に国会活動に関わる可能性があるのは上から6人が限度でしょう。ですから下位の12、3人は飾りということになります。この「飾り」にはシンパである学識文化人や著名人、はたまたそこらのおっさんが入ってきます。

今回の選挙、実は保守である進歩党が大勝ちするという予測が出ていました。今はちょっと落ちてきていますが。いつもはないような「大勝ち」で困ることは、名簿のずいぶん下位の方まで国会に関わる人が出てくるということです。

もともと名簿の飾りの意味で名を連ねた人たちが、実際に国会運営に引っ張り出されたのでは当人も困惑するでしょうが、国民もたまったものではありません。節度ある範囲に落ち着いて欲しいものです。小さくとも国会なんですからね。
...というようなことを言うのは、これも保守的かな...?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルシンキ - 民主主義の原点?

2013-04-22 05:00:00 | 日記
日本ではゴールデンウィークが始まる前、心浮き立つ時期だと思います。アイスランドでも心浮き立つというか、心騒ぎ立つ日々の最中となっています。国会選挙がもうすぐ27日の土曜日に行われるのです。

さてアイスランドの国会はアルシンキと呼ばれます。「アル」は「全」、「シンキ」は「審議」を意味しますから「全審議会」というような意味でしょうか?

アルシンキは紀元930年に創設されました、というか第一回の会が開かれました。開かれたのはあの「地球の裂け目」と呼ばれ、北米大陸とヨーロッパ大陸の境界となっているというシンクヴェットルです。ちなみにシンクヴェットルというのは「審議の平原」を意味します。

この歴史からなんとかお国自慢を発掘したいアイスランド人は「アイスランドは世界初の民主主義議会の歴史を持つ」ということを言うのが好きです。あえてコメントしません... (^-^;

ここで歴史に入ると出口が見えなくなりますので、今回は現代に飛びます。アルシンキは一院制で4年任期です。現在の定数は63。32万人を63人で代表していることになります。選挙区は全部で六つ。北西部、北東部、南部、南西部、そして北レイキャビク、南レイキャビクとなります。

アルシンキは律儀に4年サイクルで選挙をしてきましたし、日本ではいつも声高く叫ばれる「解散」という言葉も聞いたことがなかったので、任期途中での解散はないものだと思っていました。

ところがそういうわけでもなく、経済崩壊直後の2009年には、当時の議員がまだ任期を半分残していたにもかかわらず選挙となりました。ただ、それは国政を取り巻く状況が経済危機により著しく変わってしまったため民意を問う、という話し合いの結果であり、日本でのように解散を駆け引きの切り札として使うというような「政治技」ではなかったと理解しています。

さて政治だ、選挙だというと日本では「関心ないよー」という現象がまだ私が日本にいた頃からずーっと続いているように思います。これは無理もないですよね。日本のような選挙民数の中での「清き一票」は大海に小石を投ずるような気になってしまいますよね。(ワタシ、もともとは政治学の専攻で大学時代はずいぶん政党や選挙にも参加しました。)

アイスランドでは政治参加意識は相当高いものがあります。いつも同じことの繰り返しになりますが、小さい社会なのでひとりの発言、提案がものごとを変えることがありえますし、その過程を目の当たりにすることができます。
それがあるならば、そうしらけた意識にはならないで済むようです。

今回の選挙はいつにも増して関心が高いような気がします。それにも理由があります。前回の選挙は経済崩壊の直後の大混乱の中でしたが、今回は少し落ち着きが戻り、それでも各家庭のローンの問題や借金苦などいまだ改善されておらず、かつ切実な問題がくっきりと選挙の争点として浮かび上がっているからです。

現在「春の珍事」?(あ、こりゃ失礼 m(_ _)m )として起っていることは、各家庭の借金を全て帳消しにする、という公約を掲げた進歩党(現有議席9)が40%近い支持を得ていて議席数30になるか?というリサーチが出ていることです。

そうなるとちょっと困るかも...という危惧もあります。それは次回説明できればと思います。

政治のトップと庶民の距離が短いことはとてもいいことだと思うのですが、反面「本当にコイツで大丈夫なのかなあ...?」と疑い始めると底なしの恐ろしさが涌いてきてしまいます。そうなると「だったら自分が」という思考回路が動き出すようで。

まあ、ここでは政治が開かれた領域であることは確かだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

持ち込み可です 自費出版王国アイスランド(続)

2013-04-19 05:00:00 | 日記
アイスランドの書籍文化、その中の自費出版事情の続きです。

20年間のような長期の展望に立つ時、国民の10人にひとりがその期間内に本を一冊出版するという統計の出ているアイスランド。かなりアクティブな出版事情だが、それを支えているのが自費出版だ、というようなことを前回書きました。

先日のBS1の取材協力の折りに書店の店先や図書館でたまたま居合わせた人たちに自費出版について質問をしてみました。ほぼ全員が(20人弱だと思いますが)自費出版に関して肯定的な意見を持っていました。

「何でも自分でやりたがるアイスランド人らしい」「出版することで自分の人生の一里塚になる」「自分からの確かなメッセージになる」というようなものが主な意見でしたし、「機会があったらぜひ自分も出版してみたい」という人がほとんどでした。(質問をした20人弱の中にもしっかり自費出版経験者がいました)

さて書店の方からお話しを伺ったり、店先でお客さんに質問をしていていて気づかされたことがあります。自費出版、ということそのものがアイスランドでは日本でのように明白な概念ではないらしいのです。

日本では出版は出版社が行うものであり、自費出版というのは少々特別な部類の出版形態であって、何か特別な機会や(愛誠小学校創立100年記念とか)、ある特定のグループの思い入れ(同人会雑誌のような)の産物というように見られているのではないかと思います。

私の印象ではアイスランドでは考え方が逆のように思われるのです。ちょっと極端な言い方になりますが、本は出したい人が自分で費用を工面して出すものであり、その中で商業価値のあるものだけが出版者と契約を結べるものだ、という流れではないかと考えます。

そのひとつの証左として挙げられるのが、自費出版本の書店持ち込みが可能なことです。日本では自費出版本はなかなか一般書店では扱ってもらえないと聞いています。ここでは簡単な合意書に署名するだけで自費出版本が書店の店頭に並びます。

そしてここで大切なことは、一度書店の書棚に納まってしまうと出版社から出ている本も自費出版本も簡単には見分けがつかなくなってしまうことです。もちろん大手の出版社のロゴが入っていればそれは出版社扱いの書籍でしょうが、小さな出版社ですと例え出版社のロゴが入っていてもそれだけでは自費出版かそうでないかの見分けはつきません。



「エイミュンドゥスソン」の伝記コーナー
有名人無名人、みーんな一緒です

実は私自身も五年ほど前に小さな詩集を自費出版し、それを書店に持ち込みしたことがあります。「ニークル」という小さな出版グループ(「夢の国アイスランド」の著者で今ではすっかり著名人であるアンドリ・スナイル・マグヌサソンさんが創立したものです)を通したのですが、事実は自費出版でした。

で、持ち込みされた私の詩集はしっかりと詩歌の棚の中に納まり、他の有名無名な詩人の皆さんの中に入れてもらったのです。本屋さんに行って書棚に自分の名前を見るというのはなかなか嬉しい経験でした。

ただし持ち込み本にはひとつだけ条件が付きます。一年間限定で売れ残りは返品されます。書店のキャパシティにも限度がありますから、これは仕方ないことでしょう。

全部で17の店舗を持つ「エイミュンドゥスソン」という書店のダウンタウンのお店では現在置かれている書籍の15%が自費出版の本であるということでした。ただ、この「一年間限定規定」のために自費出版本は絶えず流れていっているので、もうすこし長いスパンで見るならば20%を越す、ということでした。

「本は読むだけのものではない、自分で出すものでもある」小さな国だからこその利点もありますが、発想の転換にもなる視点ではないでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする