レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

アイスランド 2015クリスマス·ストーリー

2015-12-26 00:00:00 | 日記
Merry Christmas!!

えっ!? 遅い!? そうですね、天皇誕生日、クリスマス、そして年末からお正月へと駆け足で進む日本の暦では、今頃メリクリは出遅れですね。

こちらではクリスマスは十二月二十四日の午後六時から始まり、年を越えて一月の六日(一部地域では七日)まで続きます。年末年始も「クリスマス」の一部なわけです。

実際には十一月の末からアドヴェントが始まりますので、クリスマス「ムード」は一月前から始まりますが、これは日本でも似たようなものですね。

今回はこのクリスマス時期に「本当にあった怖い...」じゃなくて「アイスランド的な話し」をご紹介します。





今年、まだ冬の明けきらない頃にアルバニアから二組の家族がアイスランドへやってきて難民申請をしました。仮にパシャ家とレーカ家としておきます。二家族は別に知り合いではなく、別々にやってきました。

両家族ともまだ比較的若い(壮年)の夫婦と女の子、男の子がいる四人家族。男の子たちは同年で今四歳です。

私は赤十字のボランティアで、難民申請者の人たちのためのオープンハウスとかを手伝っていましたので、パシャ家の方とはわりと始めの頃から知り合っていました。レーカの家族の方はお父さんと一度会っただけで、それほどの交流はありませんでした。どちらかの子供さんが心臓に疾患がある、ということは聞いていましたが。

パシャ家のお父さんは早い時期に仕事を見つけ働いていたため、あまり会う機会はありませんでしたが、お母さんとふたりの子供、クレアとケンはいつもオープンハウスに来ていたので良い顔見知りになりました。

「顔見知り」程度だったのはわけがあり、この家族、英語がまったくダメなのです。それでも日常生活上どうしても不可欠な問題等は苦労しても話し合うようにしました。

特に息子のケンくんは喘息持ちらしく、投薬が必要でその薬が滞った時などあたふたしたことがありました。ですがそれ以上の複雑な話しはできなかったわけです。

アイスランドではアルバニアやマセドニアからの難民申請者も多くいます。実際、アルバニアの申請者が全申請者のトップの人数になっています。

ですが、アルバニアは紛争地域ではなく、難民申請をしてはいても実際には「移民労働者」ということが多いのです。ですから知り合った当初から「しばらくした後には退去勧告されるだろうな」と思っていました。

それから夏のピークを越えると、私の方が赤十字のボラをしている時間的ゆとりがなくなり、あまりペシャの家族とも会うことはなくなっていきました。

十二月も十日になって、この二家族とも本国へ強制送還された、とのニュースが流れました。パシャ家の滞在先には警察官が八人も、それも夜中にやってきて一家を引き立てていったとのことでした。

このニュースはアッという間に全国に広まり、さらに両家族の状況についての詳しい情報も明らかになっていきました。その中で一番のポイントは、この二家族とも経済難民ではなく、子供の病気の治療先を求めてやってきていた、ということでした。

レーカ家は四歳の男の子の心臓病、パシャ家のケン君の方は喘息などではない、もっと深刻な呼吸器系の疾患のようでした。さらにしばらくして、私はケン君の病気がcystic fibrosis 嚢胞性線維症(のうほうせいせんいしょう) であることに気がつきました。難病です。

One Republicは日本でも人気のバンドと思いますが、彼らの「I lived」はこの病気の人たちをサポートするための曲でした。私も好きで、何度もそのビデオクリップを見ていたのですが、相当遅くになるまでケン君の病気がそれであることに気がつかなかったのです。ワタシ、バカです。

知り合っていたのにまったく気がつかなかったのは、言葉の問題だけではなく、私の方に「経済難民だろう」という偏見があったためだと思います。そばにいてまったく気がつかなかった、という事実に悔しいのと後ろめたいのとで心が重くなりました。

さて、そういった事情が明らかになってくると、アイスランド中の人たちが「そんなに重い病気を持つ小さな子供たちを送還するとはひどいではないか!?」と送還を批判し始め、「これは国連の『子供の権利権利条約違反ではないか?』という声が島中に蔓延しました。

ケン君の病気を見ていた医師がきちんとした医療報告書を移民局に提出し、アイスランドでの治療を勧めていたことも明らかになりました。さらに別の専門家は「アルバニアの医療水準ではケン君は十歳まで生きられないだろう」という見解を送ってきました。

それでも移民局は「我に非はなし」という声明文。

Facebookのイベントで「二家族を呼び戻す」決起集会が呼びかけられると、瞬時のうちに二千人が「Going」に集まりました。私も他の予定が入っていましたが、参加することにしました。多少は自分の心を軽くするためです。

その集会は十五日の火曜日に予定されていたのですが、その前日の夕方、びっくりするニュースが流れました。国会がこの二家族に市民権を与えることを検討している、というのです。しかも、かなり「既に賛成されている」というニュサンスで。

これはちょっと複雑なことの説明になってしまいますが、それでも簡単に言ってしまうと、難民申請の許可や人道上の滞在許可は「外国人法」関係の法律によって判断されます。その解釈運営に関して、移民局は非常に狭い了見でかかってきます。ですから突破口を開けるのが難しいのです。

ところが「市民権」の付与は別の法律であり、国会には国会の独立した判断で、ある人々に市民権を与える権能が与えられています。外国人法では条件を満たせない人に対しても国会は市民権を付与できます。そうすると、当然難民申請や滞在許可という事柄自体が消滅し「国民」として生活できることになります。

かなりのウラワザですが、以前にも使われたことがあります。日本でも問題になっていた元チェスチャンピオンの故ボビー·フィッシャー氏がこの仕方で、拘留されていた日本から「国民」としてアイスランドに迎えられました。(フィッシャー氏はチェスの大試合でアイスランドに来たことがあり、ここでは人気のある人物でした)

そして、あれよあれよという間にすべてが進行し、このクリスマス前にレーカ、パシャ家とも市民権を付与され、一月中旬に再びアイスランドへやってくることになりました。

このニュースをスカイプで伝えられるパシャ家の様子がニュースで流されましたが、当然歓喜の涙、涙でした。「最高のクリスマス·プレゼントです!」

国会は「今回の事例は例外的措置であり前例にはならない」とアナウンスしています。それはそうでしょう、「では家も」と難病の子供を抱えた家族が流れ込んできても困りますから。

私が考えるに、今回の出来事は非常にアイスランド的なエピソードでした。法律規則的には -少なくとも現在の規則のままでは- 救済が困難を極めた事態に直面して、国民の善意と良識が国会を動かしたのです。

かなり極端から極端に振れた感はありますし、今後似たような事例が生じた場合にどのような基準で対処するべきなのか等、多くの課題が残されています。でも今はふたりの幼い子供たちに、より大きな将来の可能性が与えられたことは確かですし、そのことをアイスランドの人たちは素直に喜んでいると思います。

ケン君にしても、レーカ家の男の子にしても、まだまだ大変な闘病生活が控えています。神の支えがこの二家族にこれからも豊かにあることを祈ります

そして日本の皆さん、今年のお付き合いをありがとうございました。
良い年の瀬、お正月をお迎え下さいますよう。


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はみ出し?神学生の未来 遡って見ると

2015-12-20 05:00:00 | 日記
さて「日本一小さな大学でのホコホコ」の続きです。なんとなく展開が「老人の思い出話し」的になってきてしまいましたが、それは老人の特権です。(*^^*)

さて、長〜い前置きが終わってようやく書きたかった本題に入ります。それは我が「同窓の友」についてです。

日本一小さい大学と謳われた日本ルーテル神学大学(現ルーテル学院大学)-ここでは併設の日本ルーテル神学校を含めて話していますが- の中にあって「神学校」に属する生徒はさらに小さなグループでした。

私が在籍した1980年代後半の頃は、神学大学の三年次が神学校の第一学年とされていました。今はシステムが違うと思います。ですから、神大の三年生に編入した私は、その時点で神学校の一年生でもあったわけです。

神学校には含まれていない神大の一二年次生を含めても「神学コース」には、そうですねえ、二十人くらいだったでしょうか?不思議ではないですよね、今の時代に牧師になろうとか、神学を勉強しようなどというのは、相当な変わり者でしょうから。(^-^;

さて、その神学コースの学生で、かつ「牧師になる」と決意を固めていた生徒はさらに一回り小さくなって二十人弱だったと思います。この生徒たちの大半は寮に入り生活していました。

少人数の集団なので、もともと特に問題なくまとまっていましたが、それでも気が合う仲間が自分たちでグループを形成するのは人の常です。神学校、またはルター寮でも、そのような仲のいいグループがいくつか出来上がっていました。

(すみませんが、女子の神学生の生活ぶりの方は触れられません。そこまで深く知る術がありませんでしたので...)

平均して学生たちは皆、真面目で、かつそんなに固くない連中でした。勉強や実習はにはきちんと取り組むが、夜は時間があれば野球見たり、寮の部屋で鍋をやったり、という感じ。フツーですよね。

ラグビーが好きな連中や、バンドを組んでいる生徒もいましたが、各グループはただ気の合う連中が集まってる、というだけでそれ以外の区別の基準はなかったと思います。




現在のルーテル学院大学のチャペル
-写真は学院大学のFacebook Pageより転載-


それとは別にいわゆる「優等生」と「はみ出し者?」の区分も自然となされていたように思います。これはすべての学校生活でありえることでしょうが、そういう区分があるという現実と、その区分が「公正」なものであるかどうかとはまったく別モンです。

で、仲のいい悪いはこの「優等生」「はみ出し者」の区分を超えていたと思います。多少の差があったとしても、所詮は「神学生」という変わり者集団の中でのことですから。

また話しが長くなってきました。はしょります。私は優等生でした。実際成績は良かったですし、後輩の恋愛相談にもよくのっていましたから。自分には煙も立たなかったのに...

で、早い話が私は卒業真近になって、ようやく遅い春が来たのですが、それがもとで牧師になってわずか二年でアイスランドに越してしまいました。これは多くの人を失望させましたし、ヒンシュクも買いました。まあ、無理はないですね。この辺の顛末はまたの機会に残しておきます。

ポイントは、二年間でアイスランドへ来てしまったが故に、私は同窓生たちがどんな牧師さんになったかを知ることなしに、その後の長〜い年月を過ごすことになったのです。

当時はスカイプなどもないですし、こちらはこちらで新地での生活を確立するのに必死で、日本を懐かしんでいる余裕などもありませでした。

それがここ三四年です。ご多分に漏れずFacebookによって、懐かしい同窓生の皆さんと再会することができたわけです。ほぼ例外なく、アイスランドへ越した1992年以降一度も会っていない連中です。二十三年以上会っていないことになります。

わずかな例外は同期で三年次に編入したA牧師先生で、この方には十八年くらい前に一度、そして今年の夏に帰国した際に東京の教会でお目にかかりました。

さてFacebookで再会した同窓の牧師さんたちなのですが、総じて言えるのはみんな「おっさん」になったなあ、ということです。私は全然変わっていませんが。

ところがです。その「おっさん化」した牧師さんたちは、皆さん、大そう立派な牧師さんたちになっているのです。さらに付け加えると、この方たち、学生の頃はどちらかというと「はみ出し気味?」だった皆さんなのです。

全身びっしょりになりながら、奇声を発してでっかい水鉄砲を振り回してスタッフの子供達と遊んでいた(遊んでもらっていた)神学生たち。バンド漬けだった神学生、女の子を部屋へ呼んで謹慎になった神学生、その他諸々。

FBでフォローできる範囲では、地区の父兄会の会長さんや、幼稚園の組長じゃない園長先生、刑務所の教誨師等々を本職のかたわら務めていらっしゃいますし、本業の方でも「いつ眠るんかい?」というくらいご多忙の方が多いようです。

大したものです、と感服。

ですからねえ、学生の頃どうだったか、というのは何も物事の根拠にはならないということでしょうね。あっちこっちはみ出て、どうもしっくりいかない、とフラストレーションを持っている若い方もいらっしゃると思います。

でも、そんなこと気にしないで。そのうちまとまるところにまとまってくるでしょう。その際に夢をなくしていると小さくまとまってしまいますが、夢をしっかり放さずにいれば、周りが驚くくらい大きくまとまるかもしれませんよ。「おっさん」のアドヴァイスです。(^_-)☆


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ルター寮とマルガレータ寮

2015-12-13 05:00:00 | 日記
さて今回は「日本一小さな大学でのホコホコ」の続きです。その「日本一小さな大学」とは、私が在学していた1986年当時の日本ルーテル神学大学のことで、そこに併設されていた日本ルーテル神学校もまことに小さな学校でした。詳しいことは前回のブログを参照してください。

前回説明しそびれましたが、この「神学校」というのは牧師になるための専門学校なのですが、どこの教会でもいい、というわけではなくて、このルーテル神大で学んで牧師になるのは日本福音ルーテルという教会と、日本ルーテル教団というふたつの教会だけです。

学部の福祉科の学生さんたちの場合はいろいろな教会から集まっていましたし、必ずしもクリスチャンでない人もいました。ですが神学校はこのふたつの教会、教団に属する生徒だけが進むものでした。

一応、念のために。私の描写は二十五年ほど前のことですので、現在とは違う点が多々あります。現在の様子は前回のブログで貼り付けたリンクを参照してください。

もうひとつ念のために。「福音」は「ふくいん」と読みますからね。(^-^;

福音ルーテルの方は略して「ニップク」とかJELC、ルーテル教団の方はNRKと呼部のが内部の人間でした。JELCはJapan Evangelical Lutheran Churchの頭文字ですが、NRKのほうは Nihon Ruteru Kyoudan の頭文字でNHKと同じ類です。

神大、神学校合わせて120—30人くらいのキャンパスだったと思うのですが、きれいなチャペルが付いている本館のすぐ隣りに、中庭を挟んで学生食堂がありました。その学生食堂を含む建物がそのまま男子寮、女子寮となっていました。

男子寮はルター寮といい建物の二、三階を占め、女子寮はマルガレータ寮といい最上階の四階でした。男子三十人、女子二十人くらいだったと思うのですが、ちょっと不確かです。

(日本の)キリスト教の大学ですから、もちろん男子寮と女子寮は分け隔てられており、夜半に男子寮生が酒瓶下げて女子寮へ、などということはできない決まりになっていました。逆もまた然り。

実際私は一度も女子寮には入ったことがありません。年に一二回、オープンハウスがあって、その時だけはお出入り自由だったのですが、別に訪ねる相手もいなかったですから。

で、私はそれまでの生涯を通じて「寮」なるものに入居したことが一度もなかったですし、どうもプライバシーのない生活のイメージが付いてしまっていたので、寮には入りたくありませんでした。

ところが牧師になるつもりで神大に入学してくる生徒(神学生と呼ばれます)は「共同生活の訓練」とかいう大義のために皆入寮するように、とのお達しが出されました。腐ったタマゴは同じカゴ、じゃなくて「大切な雛はみんなで育てる」?ということで。

で、私もめでたくルター寮生となったのでありました。




真ん中の建物、出っ張っている部分が学生食堂、その他は主に学生寮
写真はFacebook同窓会ページより転載


私の部屋は二階の隅っこで、静かな一角。部屋にはツインサイズ(けれども一人で使う)のとシングルがあり、謙虚なワタシはシングルでいい、と言いました。

ちょうど六畳くらいだったでしょうか?作り付けのベッドと本棚プラス机があり、洋服ダンスも。中で動き回るスペースはなかったですが、謙虚なワタシにとっては十分な空間でした。

勝手に安いカーペットを敷き、簡単な食器類を買い込み、ちいちゃな冷蔵庫も備え付けると、そこらのビジネスホテル並みにはなりました。結構、身の回りはきちんと整頓するタイプなんです。

で、注文しておくと例の学生食堂で夕食を食べられるのですが、一食三百五十円だったような?ただメニューは「その日のディナー」一品のみ。それが一定間隔でローテンションしてます。

これを言うのは本当に当時の寮母さんらに申し訳ないのですが、私は「三百五十円では引き合わない」と二週間でギブアップしました。そして「自分の飯は自分で作る!」と自炊を始めたのです。

実はもうひとつ理由があったのですが、その頃の私は「チョー」のつくボクシングファンで、自分でも30キロのサンドバッグ(と釣るための枠)、パンチングボール、グローブなどを持っていました。

ジムに通うほどの根性はなかったので、あくまでもボクサーではなくてファンです。それでも筋トレとかはサラリーマン時代から欠かさずにやってましたし、体重は55キロから58キロの間という、今では信じられない細さでした。

自室のドアのサイドにもトミー·ハーンズやドン·カリーのポスターを掲げてましたが、これは一種のあこがれで「ああいう体格を目指そう」的なニンジンだったわけです。

当然食べるものにも気を使い、何をどれだけ食べればいいのかを真剣に学んだことがあります。

そんなこんなで「自分の食生活は自分でコントロールしたい」という思いがありましたし、またそれとは別に料理そのものにも関心がありました。

私の部屋は廊下を隔てた向かいがトイレ、左手が共有の炊事場になっており、場所的にはとても恵まれていました。炊事場はいかにも男子寮の炊事場、という感じでしたが、きれいに整頓し、電熱器(火気厳禁)やまな板、でっかいフライパンや鍋などを購入し、これは使いたい人が使っていい的にしてあげました。

なにしろ勝手に共有の炊事場のオーナーになりましたので。こうして自炊生活が始まったのですが、これは結構その後の生活に影響しましたね。私はその後、9年間結婚していた時期もありますが、その間も家庭のメインのシェフは私でしたから。それが始まったのがルター寮です。

本当に書きたかったことは、当時の同窓の連中のことなのですが、またまた思い出話しが長くなり過ぎました。持ち越しで〜す。(*^^*)


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日本一小さな大学でのホコホコ

2015-12-06 05:00:00 | 日記
今回はチョー個人的なことを書きます。

私は東京は三鷹市にある日本ルーテル神学大学という大学とそこに併設されているルーテル神学校というところを卒業して牧師になりました。もう二十五年も前の話しです。神学大学は現在ではルーテル学院大学と名称が変わっていますが、神学校の方はそのままです。

私は、その前には市ヶ谷と飯田橋の間にある超マンモス大学で政治学を修めていましたので、神大は三年次編入、卒業後直で二年制の神学校に入りましたので、三鷹での在籍期間は四年間でした。

神大の隣りは東京神学大学という、これもプロテスタント系の神学大学で、金網ひとつだけで隔てられています。なぜここにふたつも神大があるか?というとこの両校のさらに隣りは国際基督教大学という、グレードの高い大学があり、これは戦後のGHQの方針?で広大なキャンパスを持っていました。(なにしろキャンパス内に18ホールのゴルフ場がある。今は知りませんが)

それでキリスト教のよしみで、広大なキャンパスのおすそ分けをしてくれたようです。これは未確認伝説ですので、そのつもりで。

さらに補足しますと、神大は文部省(当時は「科学」は付いていなかった)認可の大学なのですべての人に開かれています。神学校の方は牧師を訓練教育する学校なので、一種の専門学校ですべての人が入れるわけではありません。将来、教会の牧師として見込まれ、教会の推薦を受けた人だけが入学できます。

当時の神大は「日本一小さな大学」というキャッチフレーズがあったほど、小さな学校でした。キリスト教学科と福祉学科があったのですが、90%の学生は福祉科で、全部合わせても百人前後の生徒数だったと思います。

現在のルーテル学院大学は、カリキュラムにおいても、学校施設においてもずっと進化しています。

現在の情報はこちらで。




私が在籍した当時のキャンパス風景
-写真はFacebook同窓会ページより転載-


ですから、ほとんどの学生とは顔見知りになり、それはホコホコした感じのキャンパスライフでした。ただそれはもちろん個人によって受け取り方は違いましょうが。

私は二十七歳で編入しましたので、ほとんどの福祉科の学生の人たちよりはかなり年長でした。神学科や神学校の生徒は一般に「老けて」いました。これは高卒ストレートから牧師になっても、なかなか教会の人たちが受け入れてくれない、という日本的な文化の土壌があったからだと思います。実際私も「三年間は社会へ出てからにしろ」と言われていましたから。

それで、福祉の学生さんの多数派は女の子なのですが、年長だった私は「おにいさん」的に結構慕われていました。それがワタシの「ホコホコ感」の理由です。(^-^;

私は高校は国立にある某有名進学校にいたのですが、あれは灰色の日々だったなあ。なにしろ周りにいる連中がみんなワタシよりも頭がいいのです。ああいうのは精神衛生上非常によくない。

浪人期間を挟んで入った某マンモス大学もキャンパスライフは灰色の日々でした。というか、キャンパスライフはなかったですね。「政治は実践」と思って外でいろいろやっていましたが。

某マンモス大学は生徒を効率よく循環させたいので出欠を取ることが稀で、かつ暗記試験の天才だったワタシは、先生の顔を見ることなく終わった科目も含めて良い成績で卒業しました。でも、つま〜んない!大学生活でした。

あっ、ひとつだけあのマンモスキャンパスでいいことがありました。学生食堂がいくつもあったのですが、メインの学食のカレーライス、カツカレー、オムライスはとても安くて美味しかったです。カレーはホントに旨かったなあ...具なんかほとんど溶けちゃってスープみたいだったんですけどねえ。

というわけで、ルーテルのキャンパスでの四年間はそれまでの十年弱の「灰色の青春」の後での「この世の春」的な年月となりました。実際にはその間、インターンという教会での住み込み実習の期間が八ヶ月あり、私は名古屋に行っていましたので、三鷹で過ごしたのは三年半弱だったのですが。

「この世の春」とは言いましたが、それでも色恋沙汰はやってきませんでした。他の学生の色恋騒動の相談にのってあげることは何度もあったように記憶していますが、自分自身はその点では蚊帳の外でした。

サンマさん言うように「お兄さんみたい、はダメなんや。もう恋愛の対象じゃないって」タシカニ〜。(^-^;

で、まさしくキャンパスの中心部に隣接して、男子寮と女子寮があり、当時は男子が三十人、女子が二十人くらい入っていたでしょうか?
...というところで、長くなりますので、続きは次回にします。書こうと思っていたことにまったく触れられませんでしたが、必要な前置きです。(*^^*)


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