レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

White Night 白夜 Midnight Sun

2019-06-30 00:00:00 | 日記
レイキャビクでは、先週も安定した天候と気温を保ってくれました。一時的に雨がぱらつくこともありましたが、大風とかはほとんどなく、気温も12―15度くらいを保ってくれています。

半袖シャツ一枚でも寒くないようなことが多く、ありがたや〜!です。少し前にも書きましたが、こういう感じの「夏日」(レイキャビクではこれが夏日です)は、ここ十年間くらい七月になると幾日かある程度でした。

今年は「えっ?! まだ六月じゃん!」と、改めてびっくりしています。しかも、これまでに相当そういう「夏っぽい」日が続いてきたような気がしますし。今年の夏は長い。という嬉しいゾクゾク感が湧いてきます。

ここで地球温暖化を持ち出すと、せっかくの嬉しいゾクゾク感が、怖〜いゾクゾクに変わってしまいますので、今は知らぬ顔をして通り過ぎておきます。

そういう夏最中(なつさなか)のレイキャビクから、今回は「白夜」について書いてみたいと思います。これも夏関連のトピックです。

言うまでもなく「夏至」が一番日が長くなる時ですね。だいたい六月の21日前後が夏至になるということです。以前は「夏至は6月21日」と決まっていると思い込んでいたのですが、多少は移動するとのこと。

今年は6月22日が夏至でした。ちなみに来年は21日。

この夏至と並んで、アイスランドでは6月24日を「ヨウンスメッサ」という一種の祝日として祝う習慣があります。この辺の文化事情については、以前書いたことがありますので、そちらも目を通していただけると嬉しいです。

ヨウンスメサ 夏至の祭り


今日は、文化的なことよりは、もう少し即物的に「じゃあ、レイキャビクの夏至って、実際どのくらい明るいのか?」ということをご紹介してみたいと思うのです。で、今回は少し写真を多用します。




6月17日前後 夜の10時過ぎ


まず一枚目ですが、これは午後10時05分に撮ったもので、私の古アパートの寝室兼書斎の窓からの、ご近所の様子です。ただし、これは夏至の夜ではなく、多分六月の17、18日くらいの夜だと思います。

続いては夏至の日の前日、6月21日の夜です。スミマセン、「夏至は21日」と思い込んでいたのですが、今年は22日だったと後から知りました。(^-^;

写真は午後11時50分くらいですね。これも拙宅の窓からの写真です。いや〜、ちゃんと外へ出て行って撮ればもっと見栄えがするのでしょうが、怠慢で申し訳ありません。m(_ _)m でも、あまり頑張りすぎると、続かなくなりますので... (言い訳)











写真は、一枚目とは反対側の通りです。ちいちゃなベランダからは、海が見えます。五枚目の写真、海の向こうにかすかに山のシルエットが見えますが、これはスナイフェトゥルネスという西の半島にある氷河です。




水平線中央にかすかに見えるシルエットは氷河


この氷河、今年の春先のニュースでは「2050年頃には、氷河は無くなるだろう」と言われていました。恐ろしや地球温暖化!

そして最後は日が変わり、翌22日の午前1時過ぎですね。ホレッ、見てみろ。夜更かししてちゃんと写真を撮る努力しをしているではないか?それはホントです。最近のワタシはもっと早く寝てしまうのが常です。








これは一枚目と同じ方面のご近所様です。

さて、気象局の公式ページの資料により、レイキャビク地域での日の出、日の入りの時間を見てみますと、日の入りが一番遅くなるのが六月の21日から23日の三日間で23:49分。

逆に日の出が一番早くなるのは六月の18、19、20の三日間で、03:09分ということです。

ですから、この最後の写真は日没後の写真ということになりますね。日が沈んでも、すぐには暗くはなりませんから空は明るさを保つことになります。

ここで、「白夜」なのですが、この言葉が「一日中日が沈まない」ことを指しているのか、あるいは「一晩中暗くならない」ことを指しているのか、曖昧な部分があるようです。

日本語のウィキによると「真夜中になっても薄明になっているか、または太陽が沈まない現象のこと」だそうです。

もし、厳密に「二十四時間日が沈まない」のを白夜とするならば、レイキャビクには白夜はないことになります。アイスランドでも、北部のグリームスエイという島まで行かないと、この意味での白夜はありません。

レイキャビクを含め、アイスランドのほとんどの地域では、夏至でも太陽は一応沈みます。ただ暗くなる前にまた昇ってくるので「暗い夜」は存在しないわけです。「白夜」を「暗くない夜」として考えるならば、レイキャビクでも白夜を楽しむことができることになります。

別に夜中が明るくても、それで何が変わるというわけでもないのですが、それでもなんとなく得をしたような、楽しい気分になってしまいます。

私は明るい夜は好きですね。「オーロラと白夜と、どちらかを選べ」と迫られたら、ワタシは迷うことなく「白夜」を選びます。オーロラは十五分で飽きますが、白夜は毎晩でも飽きません。

ですが、夏至を越してしまった今、だんだんと日が短くなっていく現実に直面しなくてはなりません。まだまだ七月はいいのですけどね、八月の半ばになってくると、気が滅入ってくることがあります。

一日の半分は明るくて、半分は暗い、というのが良いバランスで健康的なのでしょうが、自然というのは時に面白いイタズラをするようです。

皆さんも、もし関心があれば、レイキャビクでの夏の白夜を楽しみにいらしてくださいませ。


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アイスランド 「エコ」のトレンドと...

2019-06-23 00:00:00 | 日記
早いもので、日本からアイスランドに帰ってきてから早くも一週間が経ってしまいました。日本に向けて出発した頃 -五月の最終週でしたが- も好天で、出かけて行ってしまうのがもったいない気がしたのですが、その好天は私が不在中もおおむね維持されたようです。

さらに私が戻ってきてからも、天気は良いままになっています。実際、帰ってきた夜などは「暑い」と感じるほどで、シャツに、今回ユニクロで買ったショートパンツ(薄手の生地)で過ごしました。

アイスランドに移ってきた当初 -1992年からの数年- は夏でも「暑い」と感じることはほぼありませんでした。好天でも外へ出ると風が冷たく、長袖のものを一枚羽織る必要がありました。

「アイスランドの夏は、日本の高原の夏」というのが私の得た感想でしたし「夏らしい夏」を懐かしんだことを覚えています。

それが、十年くらい前からでしょうか?夏の後半、七月の中頃から時々「風が暖かい」ということを経験するようになりました。いつも、というわけではないのですが、夏っぽい風を体験するようになったのです。

「これが話題の地球の温暖化か」と、その当時でも思い当たりました。

今回、六月の中旬のうちに、「暑い」と感じるようになったのは、ますますその「温暖化」が進んでいる証拠なのでしょうか?

「地球温暖化」を阻止すべく、何らかの取り組みに参加することは、現在のアイスランドのトレンドになっています。

春先には「政府はもっとハッキリ、シャッキリ、もっとアクティブな温暖化阻止の取り組みをしてちょうだい!」という、大規模な「小学生の」デモがありました。

それに続いて大学生も同じ趣旨の抗議集会を開いていた記憶があります。




Graen kirkja「緑の教会」Facebookのぺージより


私が出入りしている教会でも、ゴミの分別をきちんとするようになっています。教会本部も、きちんとした分別等に関する指導を始めていて、一定の基準を満たすと「グライン・キルキャ」(緑の教会)という賞状(盾)を贈ってくれます。

これはごく最近の話しで、長い間ゴミの分別に関しては、東京はかなりの先進国でしたから、私は実は「アイスランドはまだまだ遅れてるな」とあきれていたことも記憶しています。

東京と違い(少なくとも私がいた八王子では)、分別が「合格ラインに達していない」ゴミを回収車が持って行ってくれない、ということはまだこちらではありませんので、ゴミの分別はいまだに日本(少なくとも八王子)の方が先を進んでいましょう。

もうひとつの「温暖化阻止」の取り組み、というか町のトレンドは「プラスチックのレジ袋!」反対の大合唱です。ついこの間までビニール袋を誰しもが20クローネ払っても利用していたのですが、いつの間にかビニール袋は、トウモロコシか何か植物性の原材料で作った袋に取って代わっていました。お代は倍になり40クローネ。

にもまして進んでいるのが「お買い物袋持参」。私も店別のお買い物袋がみっつほど車のトランクに入っています。いや、別に「店別」にする必要はないのですが、むしろ大きさが三種類と思ってください。

容量が大きいものは、気楽にどんどんぶち込めるので、便利といえば便利ですね。ただ、私はまだついついトランクから出して持っていくことを忘れてしまいます。独り身なので「買い出しに行く」という決意なくして買い物に行くことが多いからだと思います。





小中学生を中心とした若者たちが「地球温暖化」に抗議 今年三月


今回日本に帰省した間にニュースで見たのですが、日本でもレジ袋廃止に向かっていくようですね。ただコンビニでは「2030年を目処に廃止へ向かう」とかだったので、ずいぶん悠長?

都内のコンビニの店長さんがインタビューに答えていましたが、「始めから買い物に来るお客様もありますが、気が向いてとか急な必要に迫られていらっしゃる方が多いので、レジ袋の全廃はなかなか難しいものが...」

なるほど。それはそうですね。東京の真ん中とレイキャビクでは人の動きの規模と種類が違いますからね。単純比較は無理でしょう。

こちらでの「エコ運動」のもうひとつのトレンドは「電気自動車」です。これもごく最近の話しだとおもうのですが、ヴォルヴォが「2019年以降ガソリン車の生産を廃止する」とか打ち上げてから急速に「電気自動車」(EV)熱が上がってきている感があります。

実際にトヨタ車は軒並みハイブリッド車が売りに出されていますし、私の周囲でも日産のリーフをよく見かける気がします。電気自動車はリーフ以外にもあるはずなのですが、リーフがやたらと目立つ気がするのです。やっちゃえ、ニッサン。

レイキャビク市長は「電気自動車用のスタンドを増設し、ガソリンスタンドを減らす」意向を表明しましたが、これには石油関連の業界から「時期尚早」と批判が上がりました。「事実、ガソリン車の方がまだ圧倒的に多いのだから」とのこと。正論です。




こちらでは人気上昇中のEV リーフ


アイスランドの「国風」というか、ひとつ目に付く特徴は、社会が小さいが故に、何かがものすごく短い期間のうちに国に満ち溢れる、ということがよくあることです。

これはiPhoneやその他のハード系の「もの」に限らず、あるものの考え方や生活スタイルなどの「ソフト」もしかりです。

最近、ユーロビジョン参加に関しての世論の「右から左へ」の急旋回について書きかしたが、同じように「国民総意」的な現象は、この社会では割と容易く起こりえることだと思います。

憎しみが勝つ.....ユーロビジョン?


批判的に言えば、これは「ミニ・ファシズム」とも呼び得るものです。先日も教会のスタッフが雑談で電気カーへの「乗り換え」について話していました。私はつい最近、格好良いマツダのCX3の新車を買ったばかりだったので「オラは電気カーは最後の最後まで買わない」と述べましたところ「なんで?」と白い目で睨まれてしまいました。

「なぜならCX3の電気ヴァージョンはまだ出ていないし、おそらく将来も出ないだろうから」なのですが、それよりも「みんながやっていることをしないとは...」的な発想には、マジで反発したくなります。

「オラ、ユーロビジョンも見ないし、ハータリも応援しない。電気カーには最後の最後、免許を返上する時まで乗り換えないゾー!!」と言ってやりたいのでした。

その一方で、レジ袋全廃は構いませんし、お買い物袋持参運動にも参加します。人に言われる前から、その意義を理解できるし「そうしよう」と自分で納得できるからです。

「みんながそうしてるんだから、お前も...」はダメですよ。たとえ大義が存在し、皆の協力が必要であったとしても、そういう仕方で人に圧力をかけ服従を促すのはダメです。それは身の回りにあるファシズムですからね。

大義が明瞭であればあるほど、その種のミニ・ファッショは起こり得るような気がします。知らずに参加しているようなことがないように、自戒。


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トウキョウ港街ひとり日誌(19-1)– 驚きの旅ニッポン ついでにヘルシンキも

2019-06-18 00:00:00 | 日記
先週の金曜日、6月14日に二週間強の日本帰省を終えてアイスランドに帰ってきました。今、これを書いているのは6月17日月曜日の昼前です。なぜ、月曜の昼間にのんびりとブログを書いていられるかというと、今日は17. juni ソイチャンディ・ユニ - アイスランド共和国の独立記念日- で祝日だからです。

Gledilega hatid! (グレーズィレーガ ハウティーズ) と挨拶しますが、直の意味は「楽しい祭りを」となりますが、ここでは「(独立記念日のお祝い)おめでとう」という意味になります。




ソイチャンディ・ユニ 6月17日はアイスランド共和国の独立記念日
Myndin er ur Reykjavik.is



まだ時差ボケから立ち直っていない私は -これが「時差ボケ」なのか単なる「ボケ」なのか定かではないのですが- 子供連れの人でごった返す町中に出て行く気になれなれません。で、この機に日本帰省の締めを書いてしまおうと思い立ったわけです。

名古屋で三泊した私は、東京は新橋に宿を変え、ここでも三泊しました。「ホテルサンルート新橋」という、東京での定宿だったのですが、今年から「相鉄フレッサイン 新橋烏森口」とブランドが変わってしまいました。ホテル業界も熾烈な競争社会なのでしょう。でもホテル自体は相変わらずですので、ワタシ的にはOKです。

このような変化を含めて、日本へ帰るたびに気付かさせられる変化、進化、驚きというものがあります。アイスランドのような「世界の田舎」から出てきた者には、日本は「変化大国」と言っても過言ではないでしょう。

日本へ着く以前のことですが、JALの飛行機のトイレがウォシュレットだったことに驚いたことはすでに書きました。要するにその種のことが毎回、たくさんあるわけです。今回はそのようなことをいくつか書き綴ってみたいと思います。

まずはJALの続き。飛行機の窓にはカーテン替わりにシェードというか、上からプラッスチックの窓仕切りを降ろすのが定番だったと思うのですが、今のJAL機には変光ガラスが使われているのです!

つまりスイッチひとつで窓ガラス自体が光を遮るようになるのです。ちゃんと遮断度も調節できます。一番暗くしても、景色は透けて見えるし、太陽も、なんと言うか、白っぽい丸い球体として見ることができます。サングラス越しに太陽を写した時みたいに。

これはなかなか優れものですね。外がとにかく見える、というのが良いです。

さて、日本に帰った時に苦労するのが携帯です。私の携帯は当然アイスランドの番号ですが、日本ではネットのデータ通信もすべて「国際便」になってしまいます。うかつにスマホでなにか調べようものなら、高〜い請求が来てしまいかねません。

で、今まで携帯はスイッチオフにしていたのですが、そうなると日本の家族などと連絡に不便ですし、ちょっと調べ物もできない。レンタル携帯を借りたこともあるのですが、割高?な感じがしましたし、かつ借り物を持って歩くという緊張感があって嫌でした。

同じ時期に日本へ来る予定だった娘が、出発前に「私はWifi借りるから」とか言っていたのですが、よく意味を理解できませんでした。で、成田でふと見ると「Wifiが使えるSimカード」の広告。それを使うと「電話の通話はできないが、ネットには繋がる」そうな。

これは便利! と飛びつきひとつ買いました。1,5GBで2400円くらい。そんなに高くない。非常に重宝しました。ネットは使えて「通話はできない」というのが良いのです。休暇中に電話を受けたくはないのです。

しかもアイスランドでは九時間遅れています。私が日本にいることを知らないどこかのバカが夕方6時に私にかけてきたら、夜中の3時の電話ですよ。冗談じゃない。

というわけでこれは拍手です。ちなみに娘はこれとは別形態の、持ち歩きできる小ちゃなネットのローターのようなものを借りていました。いろいろあるんですねえ。ワタシはsimカード型の方がいい。




新橋の定宿ホテル 相鉄フレッサイン新橋烏森口からの夜景


こういう携帯機能の普及を受けてのことなのでしょうが、名古屋や新橋のホテルでは、部屋電話には「外線機能」がなくなっていました。あの「始めにゼロを回してから」というやつなのですが、これがもうないのですよ。

この変化はちょっとマイナス。今言いましたように、私の携帯は通話ができない状態にしてありますので、通話が必要な時にはホテルの外線を利用してきたのです。例えば母に「今、成田に着いた」とか一応知らせておきたい時とかです。

今回、名古屋に移った時には「関西地方でレベル4の大雨警報」が出ていたので、母に無事に名古屋に着いたことを知らせたかったのですが、外線使えない。「公衆電話」を使うには15階下のロビーまで降りてく必要があります。

面倒臭い、ということで渋々ワタシは携帯ナンバー2をスイッチオンにして名古屋から札幌へ「国際電話」をかけました。やれやれ...

同じホテル関連でもうひとつ。新橋のホテルを出発する日だったのですが、チェックアウトは通常は午前10時です。ですが私は移動の都合で11時までホテルにいたかったので、チェックアウト時間の延長をフロントに尋ねました。

すると私の「お客様情報」をスクリーンで確認していたフロント嬢が「お客様はサンルート会員から相鉄フレッサ会員に移行されていますね?」「移行されています」「でしたらアプリをダウンロードしていただければ正午まで無料で延長できます」「アプリ?」「はい、アプリをまだダウンロードされていないですよね?」

私はアプリというのは、なにか携帯から予約をしたりするのに必要な機能を入手するためのものと思い、「要らない」と見向きもしなかったのです。

ところがここで初めて「この場合のアプリとは会員証を意味するのだ」ということに気付かされたのでした。さっそくアプリをダウンロードし、チェックアウト時間は無料で延長できました。

「アプリ=メンバーシップ」この意味での「アプリ」を勉強させていただきました。それで思い当たることがありました。頻繁にお世話になるユニクロ。必ず「ユニクロのアプリとか大丈夫でしょうか?」と訊かれます。

今の今まで意味を理解しないまま「大丈夫です」と答えていましたが、あれも「ユニクロのサービス会員ですか?」という意味だったんだ! 慌ててユニクロのHPで確認したのですが、ユニクロのアプリは直接のポイント集めではないようなので、これはパスすることにしました。

それにしてもApplicationは「申し込み」「適用」が元の意味だと思いますので、実際に「会員」になった後での「会員証」の意味を含ませるのは「和製英語」だと思えて仕方がないのですが...

と言っても時代に追いついていない老人の泣き言、でしかないでしょうね... 「負けたー」感。

最後にアイスランドへの帰路途上でのヘルシンキ空港について一言。

「コンパクトでニートな国際空港」とアピールしているらしいヘルシンキのVantaan空港。往路で降りた際には人も多くはなく、落ち着いた「ムーミンだらけ」の空港に思われました。トイレでは必ず小鳥がさえずっているし(効果音のみ、念のため)。




大したビューではないWine & View からの景色


ところが帰りのトランジットの際、EU外国際線のエリアから、EU内国際線エリアに入ってみると、何と芋を洗うような人の数。「タケシタ通りか?」座るところさえ見つけるのが難しい。

仕方なく1000クローナ以上するグラスワイン(と生ビールの追加)を注文してして「Wine & View」というワインバーで席を確保。Viewというのは当てはまらない飛行場の片隅を横目で睨みながら、前回のブログの後半を書いて時間を潰しました。

アイスランド行きのフライトは夕方6時20分だったのですが、そのボーディング時間あたりにはめっきり人数も減っていました。きっと先ほどの「竹下通り」は一時的なラッシュアワーだったのでしょう。フーッ...

帰り着いたアイスランド、ケフラビク空港では予約した迎えのタクシーが来ていません。あれまあ?と思案していると知り合いの邦人Iさんとばったり。Iさんは息子さんが柔道の選手でアイスランド代表としてのオリンピックを目指しています。

その息子さんが私と同じフライトで日本での強化合宿から戻ってきたようです。そのお迎えに来ていたのですが、ご好意でワタシもレイキャビクまで乗せていただきました。ありがとうございます。

今回も周囲の助けをいただきながら、無事に日本滞在を終え戻ってくることができました。皆さんに感謝。m(_ _)m


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ナゴヤ南街ひとり日誌(19-1)- 「もっと休みをー!」部外者の願い

2019-06-16 00:00:00 | 日記
今回は約一年二ヶ月ぶりで「ナゴヤ南街ひとり日誌」となります。1992年にアイスランドへ移って以来、訪問したのはわずかに一回1996年だけだった名古屋へは、昨年の四月に二十二年ぶりに再訪を果たしました。

アイスランドへ移る直前の二年間は、私は「ニャゴヤ」の住民だったのです。昨年は、門前の小僧時代(神学生)あるいは新米牧師時代にお世話になった懐かしい方々に歓待していただきました。

ナゴヤ南街ひとり日誌(18-1)- 二十二年ぶりの名古屋

ナゴヤ南街ひとり日誌(18-2)- 出会い、再会、そして出逢い




ホテルの近くにあった立派な教会は在日大韓基督名古屋教会


それで味を占めたワタシは「夢よ、もう一度」と今年ものこのこ出かけて行ったのです。

というのは冗談です。

日本を離れて二十七年余。私自身が六十代になりました。当然のことですが、私の日本での知己の中にも天上の世界へ移っていかれる方が多々あります。あるいは、その前段階?で、一線を退かれて隠居生活に入るとか。

何れにせよ、そうなると、私の日本でのコンタクトが、ひとつ、またひとつと消えていってしまうわけです。となると、いつの日か私が日本へ戻っても「あんただ〜〜れ?」となるのは時間の問題。

これは相当リアルな老人の孤独。それを防ぐには今のうちに次世代の知り合い、顔見知りを作って、新たなコンタクトの可能性を増やしておくことが肝心。

私はシステム的にというか、組織的にというか、個人的な人間関係以外のところでは日本との結びつきがありませんので、成り行きに任せていたら自然と関係は薄くなっていってしまうことに気が付いたわけです。

というわけで、昨年は純粋なセンチメンタル・ジャーニーであった名古屋訪問。今年はもう少しクリエイティブな意味を持った高齢者対策となりました。

日曜日には昨年と同じく名古屋めぐみ教会の礼拝に参加させていただきました。ここではわずか一年の間に大きな変化が起こっていました。昨年おじゃました時の牧師さんは、私の神学校時代の後輩のAさんだったのですが、彼はこの四月に新しい教会へ転勤。代わりに神学校を出たばかりのO牧師さんが赴任していました。

教会の牧師さんの場合はよくあることなのですが、このO牧師さんも新任とはいえ、年齢は三十代半ば。以前は教育関係のお仕事をされていたそうです。礼拝の司式もとても落ち着いてこなされ、新任三ヶ月目とはとても思えないくらい。

この日曜日、名古屋めぐみ教会では、いろいろな活動が予定されていてとても立て込んだスケジュールでした。で、残念ながらO牧師さんとゆっくりお話しすることはできませんでした。これは次回に持ち越し。




懐かしの天白川 ここは毎日の散歩コースでした


そうこうするうちに、知り合いのご夫婦が教会まで私を迎えに来てくれました。ご夫婦は一昨年アイスランドのハットゥルグリムス教会で挙式されたのですが、昨年私が名古屋へ来た際に再会しました。

そしてその後赤ちゃんが誕生したので、今年も是非お会いしたかったのです。ご夫婦はわざわざ中華飯店に座敷部屋を予約してくださり、ゆっくりと赤ちゃんとご対面することができました。

座敷部屋の個室は、赤ちゃんが自由に気兼ねなく動き回れるようにという配慮で予約されたようです。赤ちゃんは現在十ヶ月くらいで、這い這いからつたい歩きに移行しつつあります。赤ちゃんというよりは子供さんと言うべきかな?

このくらいの歳の子供さんには気を遣いますよね。どこでも行く。なんでも手にする。なんでも口に入れる。親や周囲が常に気を張って見ていないといけません。その点では桟敷の個室というのはいいチョイスと感心しました。

ところが私自身は、「あぐらをかく」ということが肉体的に出来ないことのなっていることを改めて認識する機会となってしまいました。これは、本当にその場になって見て気がつくことなのです。

足の置き様がどうにも定まらず、右に流したり、左に流したり。意外なところでヨーロッパ化と老化がコラボしてしまっています。(^-^;

ご夫婦との会話の中で、「どのくらい夏休みが取れるか?」という様なことが話題となりました。アイスランドでは「夏休みは四週間」と法律で明確に規定されているので、皆、ガッツリ一ヶ月の休みを取ります。

ご夫婦のご主人の話しでは、やはり夏休みは一週間がマックスで、それ以上は言い出しにくい、とのこと。やっぱりそうなんですねえ…

日本の会社にお勤めの方々の休みの少なさは、今になって知られたことではありませんね。アイスランドで挙式をされるカップルは、毎年3〜4組はあるのですが、時折ご両親等親族の方が一緒に参列されることがあります。その折に「どのくらい滞在されるのですか?」と訊くと、大抵の場合は「いやあ、明日帰ります」「明後日帰ります」とかの返事。

せっかく遠路はるばるアイスランドまでいらっしゃったのだから、せめて一週間くらいのんびり観光すればいいのに、と思うのですが「いやあ、そんなには仕事を休めません」と判で押したような返事。

これは私には理解不能な事項ですね。アイスランドを始め、多くの国では労働者・勤労者が大体一ヶ月くらいの夏休みを取る中で、日本では同じ様にすると会社の経営が傾く様な状況にあるのでしょうか?




三十年ぶりの賞味「かつはる」


それは「非常に重要なポジション」に置かれ、休みが取れない状況というものもあるでしょう。ですが、それってすべての被雇用者に当てはまることなのでしょうか?

私にはにわかにはそうと信じがたいことです。日本では働いている方々が休みが十分に取れない、という現象は、休みを取ると会社が傾くというようなことよりは「休むことは企業モラルに反する」というような迷信がまだ根強いからではないか?と疑ってしまいます。

教会の教えでは「休むことは大切なこと」とされます。ただ「休み=レジャー」ではなく「休み=リトリート(退いて 顧みること)」に力点があるのですが。それでも「レジャー=リトリート」があり得ないわけではないですからね。

休みが「行楽地へ出かける」ということに限定されてしまうと、これはかえってストレスのもとになるかもしれませんし、「安息の時」とはならないでしょうが。

日本に定住していない者が、側からあまりゴタゴタいうのは気が引けますのでこの辺にしておきますが、政治や企業をリードする皆さんにあっては「休暇は勤労精神に反する」というような考え方から転換していただきたいものだと思います。

追記

ちょうど三十年前の1989年、神学生としてのインターン時代によく行った「かつはる」というとんかつ中華料理屋さん、まだありました。久しぶりに昼食を取りに入りました。

こういうことが嬉しいというのは、やはり歳ですかね〜〜〜。(*^^*)


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サッポロ北街ひとり日誌 (19-2) – 「当たり前」にひそむ恵みの時

2019-06-09 00:00:00 | 日記
北海道北東部の佐呂間町で「39,5度を記録!」というニュースを目にし、とんでもない灼熱地獄か?という不安を抱きながらやってきた今回の札幌です。しかし幸いなことに、着いてみると札幌はジャケットだけでは肌寒く感じるくらいの気温。ホッとしました。

私が札幌入りするのは、だいたい夜の十時前になります。成田から千歳へ飛ぶJALは朝、昼、夕の三便あるのですが、私は無理をすれば昼の便に乗ることもできるでしょう。ですが、疲労の蓄積が心配なので、成田で小休止することにしているのです。

陽の落ちきった時に札幌に入るわけですから、気温もそれなりに落ちてくれているわけです。今回はそれで正解。(*^^*)




爽やかな夏の陽光 札幌大通公園


私の札幌帰省はもちろん休暇です。母がまだ健在なので、母を訪ねるのが帰省のメインイベントであり、あちこちへの観光は始めからスケジュールには入っていません。

私は札幌駅近くの宿に滞在し(大衆的ビジネスホテル)、そこから毎日母がお世話になっている施設へ出向いていくことになります。

私の両親は道産子ではなく、もともと東京方面の人なのですが、兄の家族が札幌の住民を長くしているので(義姉は道産子)、父が病に倒れた後でこちらへ移ってきたのでした。もう十年になります。

今回の札幌帰省で特別だったことは、娘と娘のボーイフレンドに札幌で落ち合うことでした。娘サラとボーイフレンドのフラプンはふたりで日本旅行に来ていて、東京と京都観光を終えてから、札幌に来る予定でした。フラプン君は日本初めて。(*娘とそのBFとはいえ個人のプライバシーがありますので、それぞれ仮名です)

今回は話しが幾分プライベート方面になりますが、母がこの四月に八十八歳になったので、米寿のお祝いを一緒にしよう、というのが今回のメインイベントでした。

ちなみに米寿の祝いは一般に、数えの年で、つまり満八十七歳でするものかと思いますが、我が家はあまりそういうことには細かくないので悪しからず。

サラは今二十五歳で、秋には二十六になります。フラプン君は今年三十二歳。アイスランド人男性には大雑把に言って二種類あります。「オレオレタイプ」と「わりとシャイタイプ」です。

フラプン君は後者のタイプで、初めての来日でサラのおばあちゃん(私の母)や、私の兄の家族に会って食事をすることにかなり緊張しているようでした。

母の米寿のお祝いは、兄夫婦も交えて楽しく終了しましたし、サラとフラプン君はそれ以外にも母の住居を何度も訪ねて時間を費やしてくれました。サラはもともとおばあちゃん子で、母と話をするのが楽しくてならないのです。




お祝いをしたレストランでのサービスデザート


ちょっと逸れますが、サラはまったくのバイリンガルで、日本語、アイスランド語ともまったく不便はありません。アイスランド人ですが日本人でもあります、心の中まで。

外国で子供に日本語を教えるのは、それなりに親の努力と決意も必要としますが、その甲斐はある、と私は確信しています。以前にも書いたことがありますが、「子供に過ぎた負担」と諦めてしまうのは、子供自身よりは親の方です。子供の能力は親が案じるよりも大きなものがあります。

ハーフ? No, ダブル!


それはともかくとして、おばあちゃんとサラがペチャペチャキャッキャとガールズトークを繰り広げる片腹で、日本語はそれほどまったくわからないフラプン君も、ずいぶん我慢辛抱して付き合ってくれていました。

私も逆の立場で同じ状況を体験したことがありますが、これって本当に忍耐を必要とするものです。フラプン君に拍手。

こうして親子三世代 -私の兄の息子夫婦が子供連れで加わった時間もあるので、一時的に親子四世代- が集った今回の帰省、新しい家族のメンバー(候補生)も加えて、祝福された時となりました。

しかし、その時が楽しければ楽しいほど、別れることは辛いものになります。母はまだまだ頭ははっきりしていますし、肉体的にはそれなりに老齢を引きずり始めた部分はありますが、全体的には非常に元気で達者な方だと思います。

それでも八十八歳ですから「いついつまで元気でいる」という確約はどこにもありません。

翻ってサラの方ですが、この夏大学を卒業することが決まっていて研修医となります。これからの数年はまだまだ忙しいものになるでしょうし、次にいつ日本旅行が叶い、おばあちゃんに会いに来れるのかも定かではありません。「これが最後」かもしれないのです。

自分でもそのことをわかっているサラは、今回こうしてボーイフレンドのフラプン君をおばあちゃんに紹介できたことが、本当に嬉しかったようです。最後には涙。

海外在住の邦人の方々は、皆それぞれにこのような「別れ際の辛さ」を味合われた経験があるだろうと想像します。




道ばたで見つけたきれいな空色のデイジー 写真のフォーカスが甘く、残念


私自身は、父が七年間寝たきりの状態にあり、その間何度か危ない時期もありましたので、帰省し、またアイスランドへ帰る度に「これが最後」という気持ちで別れを告げていました。

そのためか、実際に父が亡くなった際には、悔いが残らなかったというか、「十分に別れを告げる時間が与えられた」というある種の納得をすることができました。

その期間を含むこれまでの十数年で学んだことは、別に日本への帰省の機会に限らず、自分が幸せを感じることができるような機会には、常にその時間を与えられた恵みとして、感謝して自覚しておくということでした。

「子供たちとは頻繁に会っているんだからいいんだ」「職場では毎日楽しくやっているけど、それが当然」ではなく、すべてそのように「ありがたい」状況にあることを恵みとして受け取り、感謝して自覚するということです。

これは何も海外在住の人に限られたことではなく、普通に生活している誰にでも当てはまることではないかと考えます。

多くの「悔い」は、与えられた恵みを恵みとして受け取らず、感謝すべき時に感謝を持って接してこなかったことに所以するのではないでしょうか?「当たり前」としているようなことこそ、恵みそのものであることが多いのでは?

私たち海外在住組が、日本を離れる間際に感じる難しさは、この「当たり前」のはずの「共にいること」が「当たり前でなくなる」可能性を考えざるを得ない状況に押しやられるからに他ならないからでしょう。

今、娘とフラプン君は、私より一足先に日本旅行を終え、アイスランドへの帰路についています。今回の旅行と、おばあちゃんとの再会がサラとフラプン君にとっても、また私の母にとっても、恵みとして自覚された人生の一コマとなってくれることを願い、祈ります。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

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