レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

ワタシの晩夏の恒例勤行

2023-08-26 21:47:51 | 日記
こんにちは/こんばんは。

幸いなことに「夏」と呼んで良い13〜15度の気温を保ったままで八月終盤を迎えているレイキャビクです。夜半にはすっかり暗くなるようにはなりましたが。




ゲイ・プライドに備えてのハットゥルグリムス教会
Myndin er eftir Rod_long@unsplash_com



久しぶりの更新となります。気がついたら前回から三週間も経ってしまっていました。なんというか、周辺世界(つまり私の身の回りの外界=フツーのアイスランド社会)でも私自身の生活でもいろいろ起こっていたような...

前回のブログ更新時は、ちょうど「野外ワイワイどんちゃん騒ぎ」の国民の祝日の週末だったのでした。その次の週末には「これぞ夏日」といった快晴の青空と金色の陽光の下で「ゲイ・プライド」のお祭りの開催。

その翌週のウィークエンドはレイキャビク市のMenningarnottメンインガーノホト「文化の夕べ」という、これもお祭りがあり、「夕べ」になる前の朝イチからレイキャビクマラソンなどが開かれて盛り上がりました。

これらすべてを通じてアイスランドでは奇跡的と言える「好天」に恵まれていました。当然ながら人出も凄まじいものがあったようです。これも当然ながらワタシはその中にはおらず、従ってこれらすべてはワタシの「周辺世界」の出来事でした。

強く感じたのは、「あー、コロナ終わった」去年もイベントそのものは再開されていましたが、今年と違いは「ガイコクジン」の数で、今年はツーリスト数もコロナ前に完全復帰し、レイキャビクは再びガイコクジン勢力の支配下に戻った感があります。




内外から参加者・見学者が殺到するゲイ・プライドのパレード
Myndin er eftir G_Jjohnson@unsplash_com


私自身の生活では、夏休みが終わり新年度の準備が着々と始動しています。例えば以前も何度か書いたことがあるFermingフェルミング「献信式」の夏期コースです。

これはキリスト教の洗礼式を十四歳になって確認する儀式です。伝統的にキリスト教国であるアイスランドでは、あいかわらず過半数の赤ちゃんたちが洗礼式を受け、教会の仲間入りをします。

当然赤ちゃんはまだ「信じる〜?信じな〜い?」の決断はできませんので、この洗礼式は親の責任を前提として成り立つものです。そして、赤ちゃんたちが成長し十四歳になる頃になると「そろそろ自分で判断できるだろう」ということで、キリスト教への信仰を確認する「献信式」が持たれるのです。

これって、かなりメジャーな儀式で、実際には「家族単位」でのイベントになります。各家庭は親戚一同を招いてのパーティーを開き、献信する子供たちは、豪勢な贈り物を手にします。本番は来春の復活祭前後に行われるのですが、そのための足掛け一年のクラスが夏に始まるのです。

クラスというのは、キリスト教の極意や教えを徹底的に?叩き込むもの。ウソウソ。聖書とは何か、イエスキリストは何をして何を教えたか等々のごく基本的なことについて、遊びやピザを交えながら学ぶものです。




ネス教会でのフェルミング・コースでの朝の礼拝
写真 by Me


私は毎年恒例で、このコースに助っ人として駆り出されます。多くの教会でこのクラスが持たれるのですが、私が駆り出されるのは2005年くらいから十年間居候していたネス教会というところ。自宅から歩いて十分強のところにあります。

その教会を出てからもう八年も経つのですが、なぜかネス教会はワタシが来るのは当然と考えているらしく、今年も当然のように駆り出されました。ワタシもこちらが助けを求める場合のことなどいろいろと忖度して、参加OKとしています。

実際には私の担当するのは、一週間のコースのうちの一日だけ。そんなに負担ではないはずなのです–「が、」–夏休み明けのトロンとした精神的、肉体的状況にある時のこの一日はかなりショック療法的な意味を持ちます。

だいたい、10〜15人くらいのグループに対しての40分の授業を、四、五回繰り返します。生徒は十四歳になっているか、春までになる連中ですから、日本で言うと中学二年生くらい?かな。

そういう「現役」のティーンですからね。おとなしく座ってなんかいないのですよ。関係ないおしゃべりと、キャッキャキャッキャという女子の鳴き声、スマホのビデオミュージック、女子より一回り小さいくせにやたらに自己アピールしたい男の子たち。

これらを「ワン・パック」にしたのがクラスです。




クラスのスナップ1
写真 by Me


私に与えられているテーマは「イエスについてのイメージ」とかいう、なんだかよくわからないものなのですが、「加えて、トシキのしている仕事の説明や、教会の他の『特命係』牧師の働きについても教えてあげて」ということで。

私は「移民と難民」のための特別職にあり、この仲間には他に日本語では「教誨師(きょうかいし)」とも呼ばれる刑務所付きの牧師さんや、病院のチャプレン、障害者のための牧師さんらがいます。

クラスでは、当然「え〜、教会にはですね〜... 」とか話し始めても、誰も聞いてくれません。作戦が必要。私はまず「はい、では、始めますから静かにして」と「日本語で」話し始めます。そしてホワイトボードに「藤間寿紀」と私の名前を「漢字で」書きます。だいたいこれで皆さん注目してくれます。へへ、単純な奴らだ。

後は、読みと意味を教えたあとで「日本ではねえ、始めに姓を名乗り、後から自分の名前を言うんだよ。中国や韓国でも同じだよ」とか説明し、そのあとで簡単な日本語のフレーズを教え、しゃべらせてみます。即席「日本語講座」。日本語はティーンの間では人気の言語なのです。

そこから自分のしている仕事の話しに移り、特に移民や難民に対する「偏見」というものについて説明。偏見は多くの場合、ステレオタイプの考えに培養されており、このステレオタイプは日常生活に蔓延しているから、と注意を喚起。




クラスのスナップ2
写真 by Me


その例として、「イエス・キリスト」の顔を揚げます。いろいろなスライドをプロジェクターで見せながら、「ほとんどのイエスは長い髪に口髭、細身の身体で、時にはすっかりヨーロッパ人の外見になっている」ことや、「実際には、聖書はキリストの外見についてはなにも語っていない。

つまり背が高いか低いか、細身か肥満か、なにも伝えていない」ことを説明し、「にもかかわらず、世に伝わるイエスのイメージはみな似通っている。これがステレオタイプ」と指摘します。

その後で、実際に各人にイエスの顔を「自分のイメージで」描いてもらいます。この時点で残り時間はだいたい8〜10分。このパターンで授業時間の四十分間は賄えます。

生徒たちの描いたイエスの顔は、それでも80%はステレオタイプのままです。「自由に描いていいから」と何度も言ったのでけどね。まあ、それは仕方がないでしょう。一回きりでステレオタイプを打破するのは無理です。教育全体で取り組んでいただかないと。

今年の場合は、最後の時間はふたつのグループをまとめてでしたので、計五回の授業で済みました。それでもずーっと立ちっぱなしなので、終わった時には結構お疲れ。

毎年、このコース前にはうんざりゲンナリしてネス教会を恨むのですが、終わってみればスッキリくっきり、良い気分になるのも毎年のことです。試練を甘受し、忍耐力を試し終えた気分です。なんというか、これが終わるとシーズン開始に準備ができた、みたいな。

そして、実際に今年は夏の終盤からかなり忙しくなったのでした。それはまた次の機会にお伝えできればと思います。アイスランドの社会の動向に関わる、結構シビアな部分があります。

ともかく最後に今日の結論。「学校の先生でなくてよかったー!! 学校の先生方、ガンバッてください」

*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

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「歳とってやっちゃいけないことは『説教』と『昔話し』と『自慢話し』」

2023-08-06 22:31:17 | 日記
こんにちは/こんばんは。

8月6日の日曜日です。この週末はVerslumannahelgiヴェルスルマンナヘルギ「商人の週末」と呼ばれ、明日の月曜日は国民の祝日となっており、三連休のウィークエンドなのです。

八月の第一月曜日を含む週末が、この「商人の週末」と定められています。「商人」というよりは「商業活動に携わる人々」という意味に受け取った方が正解と思います。

この週末は、ヴェストマンナ諸島をはじめ、あちこちで「ワイワイガヤガヤ野外どんちゃん騒ぎ」パーティーが催されるのが慣例となっていて、多くの人々がこぞって出かけていきます。とても楽しみにしている人々も多いのです。理解できませんが。

「商人の週末」についてはこちらも:「シーズン開幕直前情報」


この「商人の週末」が終わると、「夏休みも終わった」感が一気に浮上してきます。実際には、休み中の人もまだ多いのですが、少なくともいくばくかの人々は秋に向かっての仕事に着手し始めます。

私もそのひとりです。あさってからは仕事再開となります。この週末は夏休みの送別です。




清涼感アップ用ピック1
Myndin er eftir Hari_nandakumar@unsplash_com


ただ「まったり」しただけのワタシの夏休み。いろいろと自己啓発の本を読んだりメンタル系のYoutubeを見たりしていました。今年は「自分のありようの見直し」の年であり、その努力をまだ続行していますので。

いくつかの本やYoutubeは、とても良い内容を提供してくれましたので、いずれまた詳しくご紹介したいと思いますが、今回は特に高田純二さんの「教え」から考えたことを書いてみたいと思います。そうです、あの「天下のテキトー男」の高田純二さんです。

ワタシ、別に高田さんのファンでもなんでもないのですが、たまにバラエティで見かけると面白かったり、そうでもなかったり、というような存在の方です。ずーっと昔からいらっしゃる気がしていましたが、今、76歳でいらっしゃるそうな。

その高田さんが、2015年だかに「情熱大陸」の中で「歳を取ってからしてはいけないこと」を語ったそうです。「歳とってやっちゃいけないことは『説教』と『昔話し』と『自慢話し』」

なるほど。別に斬新な発想ではないと思うし、むしろ高田さんのようなキャラクターから出た言葉だから「へえー?」と感じさせる気さえします。ただ。その後に続く言葉が高田さんらしく「だからおれはエロ話ししかできないんだよ」あはっ!

お年寄りの「説教」「昔話し」「自慢話し」に辟易させられた経験は誰でもあることだろうと思います。実際、この三つを日常的に行なっているお年寄りの方々自身も、以前はそのように思ったことがあるはずだと考えます。

では、なぜ自分でも体験しているのにも関わらず、自身がお年を召した時に同じ轍を踏む道を辿ってしまうのか?




ヴェストマン諸島の「ワイワイガヤガヤ野外どんちゃん騒ぎ」の一コマ
Myndin er ur Visir.is/VILHELM


現在、私も「高齢者」の範疇に入っていっているので、そのことを考えてみました。自分を顧みてみると、まず「説教」は私の場合はチョト特別です。牧師なので「説教」というお話しをする機会が職業的かつ定期的に与えられています。

そのせいか、職場やプライベートでもことさら「説教」するようなことはない、と思います。もちろん必要な「説教」は個々人に対してもします。まあ、説教というよりは忠告・アドバイスと言った方が適当でしょう。

「昔話」「自慢話」はどうか?この二つは、二つのように見えて実際はひとつのことであるように思えます。「昔話し」はだいたい「自慢話し」の導入ですし、「自慢話し」は過去の自分についての話しに思われます。

この二つに関してはですねえ、私も常習的にではないにしても、それなりにしているなあ、と認めざるを得ません。多分、このブログの中でもしてきているはずです。

この点に関しては、私自身も若い頃には気がつかなかったけど、今にしてその裏にある「理由」に気付かされたように感じていることがあります。それはですねえ、誰しもその人自身の「前史」を持っているということです。

例えば、ある会社のある職場に初老の男性がいたとします。在籍三十年としましょう。その職場にはその職場の歴史があり、この男性が囲まれていた職場の条件や環境もあり、その中で男性が経験した苦労やもたらした功績もあることでしょう。

ですが、普通の職場では、そのような「職場小史」はオフィシャルには存在しません。ですから、最近職場に加わった若いスタッフは、その男性が「以前よりいる」ということ以外には、何もわからないのが普通です。

当たり前の話しですが、新たに職場に加わったスタッフにとっては、その時が「始まり」であり「スタート地点」です。そこから「あれが足りない」「これは非効率だ」というような健全な批判精神が働き始めるわけです。




清涼感アップ用ピック2
Myndin er eftir Michael_behrens@unsplash_com


ですが、その「始まり」「スタート地点」は、決して本当の「始まり」でも「スタート地点」でもありません。以前からあるものを維持したり、発展させてきたものの「途中経過」であるわけです。

ですから、それまでの経緯の理解なしに今あるものを評価することは、ある意味無理解の上に立った評価になってしまいますし、その場にいる三十年勤務の男性についても正しい評価を持てないことになります。

そのギャップを埋めるために、その男性がその職場の「昔話し」をし、必要に応じて「自慢話し」をして職場の成り立ちや自分自身を分かってもらおうとしたとしても、私にはそう「耐えられないこと」ではないと思えますし、むしろその職場の誰にとっても有益なものだろうと考えます。

「小史」というものは、社会の中のいずれの局面においても大切なものではないでしょうか?ある意味、歴史は小史の塊ですからね。

私自身は、アイスランドでの移民の生活に関連して、三十年近く働き続けていますが、残念ながら「小史」は残されていません。ですから、過去にどんな状況にあり、誰がどんなことをなしたか?についても、人が移り変わっていけば、何も残るものがなくなります。

そうすると、いつも新しくその場に立つ人たちが、自分たちの「始まり」から物事に着手することになるわけで、これは非効率です。実際に、現在の移民に関する議論の多くは、ずっと前からなされている議論の蒸し返しに過ぎません。

これは変えた方が良いのですが、そうなると高齢者が「昔話し」をしなければならなくなるわけです。




天下のテキトー男 高田純二さん
Myndin er ur Twitter


社会のある分野でも、職場でも、プライベートな集まりでも、とにかくその場にいる人々はすべからずそれぞれの「前史」を持っています。もちろん、高齢者だけではなく若い人たちもです。

周囲にいる人たちの、そういう「前史」を理解するには、まずもって話しを聞くという、多少の努力と忍耐は必要でしょう。

高田純二さんの言葉から、そんなことを考えていた私の夏休みでした。それでもこの言葉はしっかりと胸の引き出しに放り込んでおきます:「歳とってやっちゃいけないことは『説教』と『昔話し』と『自慢話し』」


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。

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