レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

Baby word creatorの忖度(そんたく)

2020-09-27 00:00:00 | 日記
こんにちは。先週はだんだんと気温が下がり始めたレイキャビクです。火曜日には郊外のエイシャという癒し系の山が雪で白く覆われたのが目に入りました。「雪か〜...」と思っていたら、木曜日には明け方の気温がマイナス1度にまで下がりました。

日中は気温は7度だか8度まで上がったのですが、風が強く「寒〜!!」の一日となりました。コートも秋後半用のユニクロアイテムにスイッチ。確か去年は十月の後半まで使わなかったような...

仕事で訪れたロイガネス教会のハウスキーパーのおじさんに「寒いですね」と挨拶すると「うーん、秋だねー」...「秋?... 」しばし沈黙。冬だと思うんだけど...




そろそろ引き際?の清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Josh_reid@Unsplash


同じ日のFNNのニュースダイジェストを見ていたら、台風12号の影響で東京は気温が下がり日中19度になったんですね。それで前日までの気温につられて半袖で出勤された方々が、慌てて長袖や上に羽織るものをお店で求めたとか。

「肌寒いです」とインタビューされた女性が答えていましたが、19度なんて夢のような夏天気なんですけど、私には。もうお馴染みの出来事なのですが、それでも時折不思議になります。

念のために言っておきますが、生活圏では日本の方がアイスランドよりもズーーーッと寒くなりますからね。アイスランドの寒さは、人が生活する地域を見るならば、例えば釧路や旭川よりは比較にならないくらい暖かいです。

ちなみに雪だって日本海側の諸地域よりはずっと少ないです。日本って、気候に関してはものすごく多様な国なんですよね、考えてみると。こっちはモノトーンです。

さて、今回は日アでの言葉教育の違い?というと大げさですが、ちょっとした言葉文化の違いというか、考え方の違いについてです。

最近、といってもこの一年間くらいのスパンですが、私の周囲でポンポコと赤ちゃんが誕生しています。私の娘に赤ちゃんが生まれたことは最近書きましたが、その他にも、日本語教室の生徒だった女の子が成人して、この夏にお母さんになりました。

ちょっと遡って、昨秋には私が担当している教会の集まりのメンバーの夫婦に第一子の女の子が与えられました。この子は確か妊娠二十週という早産だったので、生まれる前から心配していたのですが、幸いなことにすくすくと成長し先日満一歳のお誕生日を迎えました。




先週の火曜日の昼前 雪化粧のエイシャ


久しぶりに会ったら、まあ元気、可愛い、かつワイルド?で教会のテーブルに置かれていたミニサイズの紙テーブルクロスを引きちぎりまくっていました。

ワイルドをしながら、隣りに座っている私を見てニタリ?と笑いながら「ضصثقفعخحجکمن」としゃべります:「ワイルドだろ?」まあ、赤ちゃん言葉なので得体の知れないもの。パパとママはイラン人です。

だからこちらも得体の知れない宇宙語で受け答えしました。

で、フと思ったのですが、日本人って、赤ちゃんと話しをする時には、赤ちゃんの方に言葉のレベルを合わせる文化がありますよね。赤ちゃんと向き合っている時に、中高生に向かって話す時のような話し方は普通しないですよね。そういうことをするのは、大人の方がわきまえがない、という考えがあると思うのです。

で、さらに、そういうところから「赤ちゃん言葉」なるものが生まれてきたのではないかと考えます。つまり自動車のことを「ブーブーが来ますよ、気をつけてねー」とか「ほら、犬さん、ワンワンがいるよ」とか。

多分、私たちは日本で生活して、周囲の子供達に接している時や、自分の子供に言葉を教える環境の中で、この「赤ちゃん言葉」なるものの存在を特に問題にすることはないのではないか、と思います。成長につれて言葉も変わっていくものだ、というのがフツーではないかと。




金曜日には教会前の駐車場にも氷が...


それが、オドロ木モモノ木なのですが、アイスランドにはこの赤ちゃん言葉なるものがありません。一歳児の赤ちゃんに対しても、もちろん接する態度は赤ちゃん向きの態度を取るでしょうが、言葉そのものはほぼ大人に対するのと同じ言葉を用います。

私の長男が赤ちゃんでやっと言葉らしきものを発し始めた頃のことです。テレビでは「お母さんと一緒」とかを見始めていました。眺め始めていた、と言うべきかな?

お母さんはアイスランド人だったので、ママはアイスランド語で、パパは日本語で話す。というのが原則になっていました。テレビのことをアイスランド語ではSjonvarpショーンバルプ(「sjon=視野」を「varp=投げる」という構造の言葉)といいます。

赤ちゃんにとっては長いし、難しそうな言葉だったので私は「『ションパ』いっしょに見まちょーか?」とか阿部寛さんの芝山検事のように息子に話しかけていました。

すると当時のヨメさんが「ションパじゃなくて、Sjonvarp。言葉が乱れるからちゃんとした言葉を使って」と小言。その時、この「赤ちゃん言葉」の文化の違いについて気が付かされたのでした。

後年、それで思い当たることがありました。アイスランドへ移り、アイスランド語をカタコトで喋るように努め始めた頃、アイスランド人は平気でフツーにアイスランド語で話しかけてくるのです。

なんというか、「こちらの『程度』を考慮してさじ加減を加える」ということが、まったく思考回路の中にないように思えました。多分、「赤ちゃん言葉」の拒否の文化に由来する、あるいはそれを生み出している源泉なのかしら?

もっともそのような「さじ加減」の是非については、きちんとした言語教育の専門家の方々の間で、「正解」があるのかも知れません。ワタシはその正解がどのようなものであるのかは存じません。

ですが、私がさらに後にアイスランド大学のお手伝いをするようになり、日本語を習い始めたばかりの学生さんたちと日本語で話しをしたり、書いたものを直してあげる時などには、私は必ず相手の学習程度を考慮し「忖度」しましたけどね。

日本語を習い始めて一年の学生さん相手に、それこそ「忖度」などという言葉を使ったら、それは使う方が「バカだ」と私は今でも思っています。




私のホーム教会の周囲も深い秋色


赤ちゃん言葉に戻りますが、息子に使ったこの「ションパ」、実際には息子は小学校に入るくらいまで使っていたように記憶しています。

ちなみに息子が初めて口にしたアイスランド語の「完成された」単語はflugvelフルーグヴェル「飛行機」で、かなり難易度の高い言葉でした。ついでに日本語での初の完成単語は「ムラサキ」で、これも結構ひねりの効いた言葉だったと思うのですが...

2016年に日本語教室を引退して以来、子供に日本語を教えるという作業からも遠ざかっていましたが、「娘の娘に日本語を教える」という役割が回ってくるような気配です。

まあ、娘の娘はいわゆる「クォーター」?ですから、どれくらい日本語に対する必要があるのかは、今はまだ明らかではありません。

機会はきちんと用意してあげて、いずれ娘の娘が自分で興味を持つか、持たないか、のどちらかになることでしょう。それはそれで、また邦人の海外在住組としては大きなトピック、考えるべき課題となります。

でも、スマホとか、IPadとか、最新の赤ちゃん言葉がワタシには欠如しています。補充するか、自分で考え出さないといけないですね。Baby word creator。意外と必要かも... !!


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。


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アイスランド 最近のガイコクジン事情

2020-09-20 00:00:00 | 日記
晩夏から初秋を通り越して、急速に秋只中へ移行している感のあるレイキャビクからこんにちは。




今回のフォトは「秋っぽい」特集
Myndin er eftir Rorry_hennessey@Unsplash


ここ数回は、とにかく「Cワード」を使わないようにしよう!と思い、実践してきました。今回ちょっとだけ触れておきますと、先週からまた、まとまった数の新規感染者が確認されるようになり、 火曜日からの四日間で128人、特に金曜日には75人が陽性と判明しました。これはこちらとしては大きな数字です。

それで、この週末はまたバーやパブは「閉店」の憂き目となりました。パブでクラスターもどきがあったとか。「レストランは営業できるのに、なぜバーとパブだけなんだ!?」とは、とあるバーのオーナーの苦言。

「たしかにー」とも思いましたが、より狭いスペースでの、より熱の入った飛沫の乱舞を考えると、いた仕方ないのかという気もします。

偶然かもしれませんが、東京でも一時減少していたのが、ここ数日でぶり返しているとか。日本とアイスランドで、相通ずるものがあるのは確かなようです。若い年代層に感染者が多い、感染経路不明が多い等々。

時折、日本のニュースなのか、アイスランドのニュースなのか、頭の中で混濁することがあります。単に老人性のボケか?

以上、Cちゃん関連トピック終了。

さて、今回は水曜日のネット版のモルグンブラウジィズ紙のニュースからご紹介します。移民についてです。

今年2020年1月1日の時点では、アイスランドに住んでいる「外国人」は55.354人だったそうです。

「住んでいる」ということの判断の仕方ですが、logheimiliローグヘイミリと呼ばれる「法定住所」がある場合に、こちらに住んでいるとみなされます。

アイスランドの法律では法定住所は一時(いっとき)にひとつしか登録することができません。それが、アイスランドの住所であれば「住民」となるわけです。日本でいう「住民票」みたいなものですかね?

もう一点、「外国人」ですが、これは「アイスランドの国籍を有していない人」のことをいいます。つまりアメリカやフィリピンの如く、二重国籍を認めている国の人が、アイスランドでの市民権を得た場合、それでもその人は依然アメリカ人やフィリピン人でもあるのですが、ここでは アイスランド人と勘定され、「外国人枠」からは外れます。




教会の役員のご婦人による「秋ショット」
Myndin er eftir Vigdis Palsdottir


さらに付け加えておきますが、例えば日本の方とアイスランド人が結婚あるいは同棲等で子供を授かった場合、その子供は二十一歳になるまでは二重国籍を有するのが普通です。普通というのは、ちゃんと日本の役所へ出生届けをして「国籍の留保」を希望すれば、ということになります。

その場合も、その子供はアイスランド人として勘定され、この国での「日本人数」には入りません。同じ人物が二回勘定されることはないわけです。

ですから、2020年初頭の外国人数55.354人には、すでにアイスランドの市民権を得た移民や、いわゆるハーフで二重国籍を持っている子供たちは含まれないことになります。

ちなみに「私」は含まれます。ワタシは相変わらず、単に「アイスランドに住んでいる日本人」であり、アイスランドのパスポートは持っていないのでした。

移民の数についてはこれまでも何回か書いてきました。前回書いたのは「アイスランドに住む人々」という記事で、2018年の二月のものです。それを、今回ちょっと覗いてみて我ながら驚いたのですが、2017年一月の外国人数は約三万人だったんですよね。

アイスランドに住む人々


一年後の2018年の初めには四万人。そして去年の初頭は五万人。このところ一年で一万人ずつ増えてきていたわけです。

そして、今年は五万五千人。増加のペースは五十パーセント減ですが、それでもかなりのハイペースで増加を続けていることになります。

さて、2020年1月1日時点でのアイスランドの総住民数は364.134人ということですので、外国人の比率は15.2%となります。

市民権を得た人や、二重国籍を持つ移民の子供たちを含めて、いわゆる「移民」として勘定した場合には、このパーセントはグッと上がるのですが、それをきちんと計算するのはなかなか面倒くさいものになります。

統計局のようにしっかりとしたデータを持つところで、専門家が取り組めば難しくはないかもしれませんが、ワタシのような門外漢には「二十パー超えじゃないの?」程度のザックリ予想止まりです。




これはmy shot レンズを通すと色が変わる不思議なプラント


モルグンブラウジィズ紙の記事によると、これらの外国人の六割強がレイキャビク周辺の地域に住んでいるそうです。

空港があるケフラヴィク地域では住民数の三割弱が外国人。北西部のフィヨルド地帯では住民の二割。北部では一割弱となります。

移民というか在住外国人の中で一番多いのはポーランド人で20.477人、外国人の37%に相当します。これは相変わらずダントツでのトップ。二番目に大きなグループはリトアニア人で5,9%、三番目はフィリピン人で3,8%となるそうです。

次いで、昨年のNew Icelanders、つまりアイスランド国籍を取得した人々についてですが、全部で437人が「おめでとうー!」となりました。ですが、これは一昨年の569人を下回っています。

過去十年間くらいの国籍取得情勢も、このブログで書いた覚えがあるのですが、見つかりません。もし見かけた方がありましたら是非お教えください。m(_ _)m 

国籍所得の申請にはいろいろな条件がもちろんあります。年数だけいいますと、通常の移民は七年間の継続した生活が条件。ただし、母国を失った難民の場合は五年間です。

教会で、難民の人たちとの定期集会を始めたのが2015年なのですが、当時集会に来ていて、滞在許可を受けることのできた人たちが、今、ちらほらと国籍所得の申請を始めています。そうなんです、もう五年が経過しようとしているのです。

この夏には、その中のふたりが晴れてアイスランド人となりました。ふたりとも、極めてしっかりと教会通いをしていた青年なので、私もとても嬉しく感じました。何というかホットしますね。「母国」がない状況というのは、やはり不安だと思うんですよね。私には想像しきれないものがありますが。




Go to travel  アイスランドも入れてください!
Myndin er eftir Cassie_boca@Unsplash


そして、その難民の人たちなのですが、昨年中に、このアイスランドで滞在許可が下りた難民申請者は468人。この人たちも当然アイスランドの「住民」として勘定されます。これまでは「滞在者」だったのですが、一歩前進。

そして、それらの中の多くの人が、また五年後には国籍取得申請者となり、New Icelandersとなっていくことでしょう。ワタシは「アイスランドに住んでいる日本人」のままでしょうが。

それにしても、2017年には三万人だった「ガイコクジン」、以降三年間で二万五千人の増加というのは、全体で三十五万人程度というこの小国にとってはかなりのものです。

それに伴うあまりありがたくない問題もいろいろと起こっています。ですが、長くなり過ぎますので、それはまたの機会にとしたいと思います。

日本はまだ残暑厳しいのでしょうか?こちらは急に寒くなりかけていますので、風邪をひかないように気をつけないといけません。暑いにせよ、涼しくなっているにせよ、今週も健康に気をつけてお過ごしください。

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「客人の目」と蓋付きソース入れ

2020-09-13 00:00:00 | 日記
このところのレイキャビクは、雲が多く雨が断続的に降り、時折り風も強し。が、夕方になると急に晴れ上がり青空と金色の日差しがさす – みたいな日々を繰り返しています。

気温は、まだ上は10ー12度くらい、下は7~8度はあります。昼間、外に出る時は普通の(そんなに厚くはない)セーターに、ユニクロのウルトラライトのダウンを着ていても、肌寒く感じることがあります。

もうすぐガクッと寒くなる日が来るでしょうねー。くわばら、くわばら。(知ってますか、この言葉?クワバタ、じゃないですよ。雷よけの呪い言葉転じて、災いよけのお呪いになったのだそうです)




本文とは無関係 清涼感アップ用です
Myndin er eftir Alex_mustaros@Unsplash


さて、今回はアイスランドでよく使われるフレーズGloggt er gests auga グルッグトゥ エル ゲストゥス オイガというものについてです。gloggtはgulugga「覗いて見る」の過去分詞形、er はbe動詞、gests augaは「客の(gests)目(auga)」ですので、フレーズそのものの意味は「客人の目で見れば」ということになります。

その指し示す内容ですが、これはそう複雑なものではなく、要するに特定の国、会社などの団体、あるいは個人でもいいのですが、一定の環境に慣れ親しんでしまっている人には目に入らなくなるものがあり、客人とか他所者だけがそのことを指摘することができる、というようなことになります。

多分、日本にも同じような意味の格言とか言い回しはあるのではないか?と思うのですが、今のこの時点では思いつきません。言われていることは、別にアイスランドで特有の事象ではないですよね。

私はこのフレーズに思い出があります。

もう二十年も前になりますが(出た! 老人の昔話し! そうなんですが我慢、我慢) 、その頃の私はアイスランド滞在十年弱。ようやくアイスランド語を生活で使「え」始めた時期でした。

私生活的にはバツイチになった直後でもあります。その頃から、私はちょくちょくとこちらの新聞に自分のオピニオンを投稿し始めました。こちらの新聞は、日本とは違い「読者投稿欄」が日毎にそれなりのスペース設けられており、誰でも自由に自分の考えを述べることができるのです。

今ならFacebookやインスタで、気楽にできることですが、SNSが発展する以前は、そのように新聞に投稿するというのが、一般市民にとってはほとんど唯一の意見表明の手段でした。

私は日本からの移民だったので、かなり社会のいろいろな面について「あーだ、こーだ」指摘する材料を持っていました。そこに至るまでの十年間弱で、「アジア移民」に対する見下げるような風潮や侮蔑にはホトホトうんざりし、鬱積するものがありましたので、そろそろ指摘すべきものはしてやろう、と思い始めていました。

私はアイスランドでの教会では新しいポジションである「移民のための牧師」の第一号に就いていましたので、そのような公にした意見は牧師としてのものが基本でしたが、まあ、個人的な部分にかかるものも多かったですね。




清涼感アップ2
Myndin er eftir Chris_ried@Unsplash


分かり易い例をひとつ挙げると、その頃のビショップは頻繁にエチオピアにある協力教会のことをdotturkirkjaドホトゥルキルキャと呼んでいました。dotturというのはdottir「娘」の連語形、kirkjaは「教会」ですので「娘教会」ということになります。

つまり「子会社」とかと同じような造語で、「娘のような教会」となります。なぜ「息子」ではないのかというと、多分「教会」という単語が女性名詞だからでしょう。

アイスランドは、「宣教師協会」を通してエチオピアに宣教師を派遣しています。さらにチャーチ・エイドなどの開発支援も入って、学校建設やきれいな水を確保するプロジェクトも推進していましたので、アイスランド教会のビショップとしては「我々が面倒を見てやってる『娘教会』だ」という気分だったのだと思います。

しかし、教会では他の教会のことは「兄弟姉妹」として扱うのが普通です。私の出身教会である日本福音ルーテル 教会も、多くの支援をアメリカの教会から受けていましたが、アメリカの教会が私たちを「娘教会」などと呼ぶのを聞いたことは一度もありません。教会というのは基本的に「水平」、イコールなのです。

言葉遣いというのは、多分本人はそうとは意識していないことでしょうが「無意識に持っている感情」– この場合は「下に見る感情」–
を表すことも多々あります。

で、そういうことを新聞に書いて「こういう点はもう正すべきではないか?」と問うようなことをしたわけです。「援助をしているから『娘教会』と呼ぶようなことは教会の精神として正しいのか?アイスランドの教会を『上』とした優越意識ではないのか?」

今だったなら「そういう態度が『Black lives matter』運動を呼ぶ下地を作ったのだ」とも加えたでしょう。

結果はというと、賛同してくれる人は多くありました。他の問題でも同じようなことを結構何度もしましたので、一方で私を「生意気で、厚顔で、鼻持ちならない移民」と思った人も多くあったようです。うちのビショップもそういう感じでしたね。いつも上から目線で接してきましたから。私たちはいまでもfriendsではありません。少しも残念ではないですけどね。

ちなみに、この「娘教会」という言葉、いつしか耳にすることがなくなっていました。はっきりした理由は知りませんが、それでも「ビクトリー!」

で、そうこうするうちにモルグンブラウジィズという老舗の新聞が、ある時社説で私のオピニオン投稿について触れてくれたことがありました。その時にエディターの人が使った言葉が、この「客人の目で見れば」というフレーズでした。「トシキは外国からの移民としての目でアイスランド社会を描いてくれる。彼の批評は真面目に受け止める価値が十分にある」とかいう内容だったと記憶しています。




レイキャビク市内ハウテイグス教会の立派な洗礼盤


褒めてくれたのですから、喜ぶべきなのですが、私は思いました。「『客人の目』というのであれば、オイラでも他の誰かでも同じではないか。客人の誰もがオイラと同じことを言えるわけではないぞ。オイラの意見はオイラの教育と見識に拠っているのだから、『客人』ですますな!」

その当時は、多少とんがっていましたね。嫌われるのも当然。でも、それでもそうする必要があったのです。いやいや、今ではもう、雪見大福のように、柔らかくまろやかな人柄になりましたよ、もちもちで。

ただ、今でもこの「客人の目で見れば」というフレーズには引っかかるものがあります。自分ではあまり使いません。

ですが、ひとつだけ、このフレーズを使いたい事例があった(ある)のです。そのことを書こうと思ったのに、前振りが長くなり過ぎました。まあ、いいや。

今いるブレイズホルトゥス教会。私は気に入っていて好きな教会なのですが、おかしな点があります。それは洗礼という儀式に使う洗礼盤です。これは、洗礼式を行う際に使用する水を入れるための、いわば洗面器的な用途で用いられます。

洗礼式はある人がキリスト教徒になる際の儀式で、ルーテル教会では「サクラメント」と呼ばれる最高に大切な儀式のひとつです。ですから、普通どこの教会でも洗礼盤はそれなりに立派なものを備え付けています。

それがブレイズホルトゥス教会では、レストランの蓋付きのソースの入れ皿のようなちいちゃな容器。実際はソース入れなのか、他の料理用なのかは定かではありません。ただ、初めてこの教会で洗礼式を行う時はビックリしました。「えっ? 何だコレ? 世界の何だコレミステリー!」ときゃりーちゃんが言いそうな代物だったのです。




「何だコレ? ブレイズホルトゥス教会の洗礼用?ソース器


後から聞いた話しでは、それなりのストーリーがあり、この教会をデザインした著名な建築家の先生が、洗礼盤には蓋付きのものを、という考えを持っていたそうです。

その方が、ロンドン旅行をした時にたまたま通りで見かけたのがこの器。蓋がクルリと回転する式の料理用の器でした。「これだ!」と思ったその建築家の巨匠はその器をお土産にして帰国。教会に献上したとか。

巨匠のお土産故、当時、誰も「No」とは言えず、そのまま居座ったそうです、それ以降三十余年に渡り。

他所から移ってきた私は、おそるおそる「このソース入れは何なのか?」と尋ね、もう少しちゃんとした洗礼盤を入れるべき時期では?とお伺いを立てました。幸い、この申し出は受け入れられ、来年中くらいには「まともな」洗礼盤が入るように努力をすることになりました。

これこそ「客人の目」の好例です。みんな、慣れ切ってしまい誰も不思議に思わなかったのでした。

こういうことは、どこでも起こり得ることですよね。「客のくせに余計な口出しを」などと激さずに、ちゃんとお客さんの言葉に耳を傾けることも大切なことだろうと考えます。

でも、ワタシの古アパートを訪れた客人のご意見など、とても聞く勇気はワタシにはございません。それはそれ、「パンドラの箱」みたいにキープしておかないと... (*^^*)


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私は失敗した! – 昭和教育の盲点

2020-09-06 00:00:00 | 日記
「想像を超える勢力」を持つとかいう台風10号が、九州に接近していると聞いています。春からの疫病、夏の豪雨と今年は、特に九州地方の方々には繰り返しのダメージになっていました。この台風による被害が、出来る限り最小のものとなることを願っております。

私などが言うのも場違いですが、大事をとってすべてを準備し、避難されますよう。

さて、コテっと忘れていましたが、このマイナーブログ、先月の末で開始以来の八周年を迎えていました。細々とでも八年間続いているのは、ひとえに訪ねてくださる皆様のおかげです。深く感謝いたします。m(_ _)m

始めのうちは毎日更新していましたが、だんだんペースが落ちて、というよりは適切なペースを見つけ、現在は基本週一回の更新に落ち着いています。

平均週一でも八年間のうちに591回の更新をした、という記録になっています。で、正直に言いますが、自分でもこれまでに書いたすべての記事を記憶しているわけではないのです。

特に理由のない限り、なるべく重複したことを書くのは避けようとしているのですが、どうしても繰り返しは起こってしまっていると思います。繰り返しを見つけられることがありましても、老人をいたわる気持ちで大目にみてあげてください。




セルヤランドゥスフォスという滝 清涼感もアップ
Myndin er eftir Andrey_andreyev@Unsplash


さて、今回書こうと思っていることも、実は以前に書いたことがある記憶のあるトピックです。外国の地名や人名の日本語での読み方についてなのですが、これはアイスランドの地名に関しては書いた記憶がはっきりと残っています。

それで、一応事前に何を書いたかチェックしておこうと思ったのですが、見つけられませんでした。そこで、今回の記事は今回の記事としてお読みくださいますよう。よろしくです。

このブログでは、もちろんアイスランドの地名や人名に触れることが毎回のようにあるわけですが、日本語の仮名表記にする際には、なるべく「こっちっぽい」表記にするように気をつけています。

よく触れるランドマーク的なHallgrims教会。アイスランド語っぽく読んでいただけるように「ハットゥルグリムス教会」といつもしています。

この教会名、ツーリストの人が呼ぶ時にはたいてい「ハルグリム」とか「ホルグリム」となります。英語読みですよね。国際的な通用度からは間違いではないでしょうが、このブログでは面白味が減少します。

また、地名でSeljalandというところが南部にあります。そこにある滝Seljalandsfossは観光スポットになっています。これは「セルヤランドゥスフォス」とするのが「こっちっぽい」というか、正解です。

以前、日本の某国営放送が「セリャランズフォス」と訳そうとしたそうなのですが、アイスランド滞在経験のあるスタッフの頑張りで正しく訂正されたそうです。

この言葉の場合は「セルヤ(コテッジのような小屋)」「ランドゥス(土地)」「フォス(滝)」というみっつの言葉の連語なのですが、SeljaはSelという語の連語形で「セルヤ」と発音します。これを「セリャ」としたがるのも英語式なんでしょうが、元の言葉の成り立ちを無視しすぎのように思えます。

ですから、現地の言葉の読み方と、国際的に通用する読み方の間には往々にしてギャップがありますし、これをうまく一致させるのはもともと無理なことです。そこで必要なことが「妥協点」というか、良い「あんばい」を見つけ出すことになります。




ランドマーク化したハットゥルグリムス教会
Myndin er eftir Ferdinand_stohr@Unsplash


さて、今回書きたかったのは、実はアイスランドの地名・人名のことではなく、漢字名の読み方についてです。具体的に言うと中国人名、あるいは時に韓国、北朝鮮の人に名前になります。

最近は変わってきているように思えるのですが、私が日本に住んでいた頃には、まだ中国の人の名前でも、韓国や北朝鮮の人の名前でも、それが漢字で表記されている限り、日本語の漢字読みが原則でした。

例えばかつての中国のリーダー毛沢東氏は「もうたくとう」、鄧小平氏は「とうしょうへい」でした。韓国の元大統領の金大中氏は「きんだいちゅう」でしたし、北朝鮮の独裁者金日成氏は「きんにっせい」という具合。

私はこのまんまで世界史(チョウ苦手科目)を学び、また日本のメディアに接していました。日本でなら、それで支障はなかったのです。

それが、アイスランドへ移ってきてから、世界情勢の話題とかで中国やアジアについて触れられた時、アイスランド人が「中国はマオがねえ...」とか言い始めました。

「えっ!? いきなり大地真央?なんで?」と私。今の方なら浅田真央さんなのでしょうが、私にとっては「マオ」の変換のトップは当時も今も大地真央さんなのでした。

このアイスランドの方が言及した「マオ」はもちろん毛沢東氏のことでした。毛沢東氏の名前は英語表記にすると、Maó Zedongです。読み方は英語ではマオ・ゼイドンですが、中国語ではツェードンみたいな発音らしいですね。

いずれにしても、中国名をいつも日本語で読んでいた私にとって、英語での呼び方はまさしく盲点、ブラックホールなのでした。

ちなみに鄧小平氏はDeng Xiaopingデン・シャオピング、現在の国家主席である習近平氏はXi Jingpingでだいたいシ・ジンピンのような発音になります。だから、英語表記はやはり中国語の発音を再現しようとしているのでしょうから、日本での「音読み」みたいになるわけですよね。

これは、私にとってはかなり痛手の盲点で、「えっ? Maoを知らないのか?」とかなってしまうと、もう現代の常識人からはずされたようになってしまいました。




私の「マオ」は大地真央さん
Myndin er ur Takarazuka_an.co.jp


最近の日本のニュースを見ていると、アナウンサーの人たちも現地読みの名前をつかうようになっているのでしょうか?韓国や北朝鮮の要人のニュースの場合は、現地読みのように感じるのですが、中国の場合は相変わらず日本読みではありませんか?この点、ちょっと不確かです。すみません。

先日の香港の民主化活動家のアグネス周庭Agnes Chow Tingさんのニュースでは、大方は「チョウ」さんとなっていて、「しゅう」さんではなかった気がしますが。まあ、彼女の場合はアグネスという英名があるので、そちらが一番使われていたのかな?

人名は、国によってというか、言葉によって呼び方が変わることは皆知っていますよね。欧米関係ではそんなに問題はないと思うのです。歴史の勉強とかを通しても、フランク王国のシャルル大帝はカール大帝でもあるし、英語読みではチャールズ大帝ともなるとか。

ついでに、コロンビアのサッカー代表ハメス・ロドリゲス選手のハメスはJamesですし、ガッツ石松に勝ったボクサー、エステバン・デ・ヘスス(プエルトリコ、のちに殺人罪で服役)のヘススはJesusです。スペイン語圏では、平気でJesusジーザスを名前に付けますね。




「民主化の女神」アグネス・チョウ・ティングさん
Myndin er ur Youtube.com


元に戻って、それが中国語とかハングル語の名前となると、これは日本人にとっては気を付けなければならない点だと思います。漢字名の名前は、音読みから想像することは多少できましょうが、耳から聞いただけでは絶対にわかりません。知識として知っておく必要があります。

現在の教育やマスコミの現場では、そのことを踏まえた上での原則はあるのだろうと想像しますが、それ以前に教育を受けたおじさん、おばさんたちはこの点を一考されることをお勧めします。

もし、英語でのコミュニケーションを体験されることがある場合には、漢字人名の再学習も必要なことがあろうかと思います。

これは私の失敗体験からのアドバイスということになります。これから中国や韓国の方の名を口にしたり、耳にしたりする機会はますます増えていくことでしょうから、「転ばぬ先の杖」としてくださいませ。


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