僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(3/31)私のカエル

2011年03月31日 22時35分27秒 | 東日本大震災

シンノスケのお得意ポーズ

明日で3週間である。
いまだに余震続きである。
大きな建物の中に長く居られない。
職場でのあの日が甦る。
家にいると、私よりネコたちの方が先に気づく。
身体が熱くなる。

お風呂に入っていない。
3週間丸々である。
ガスがなかなか復旧しない。

と、こういうふうに書いている途中に
何度か
揺れるのである。
そのたびにドキッとして
怖いし、心臓に悪い。

ガス復旧の遅れについては不満はないんだ。
全国のガス局から応援に来ていて
いろんなライフラインの復旧を手伝ってくれているんだ。
あ、また揺れた。
5分も立たないうちに
グラッと揺れる。

予定の日を大幅に遅れているということは
それだけ、大変な地震であった、とわかっている。

そこで
また、お湯を何度も沸かし
髪を洗い、身体を拭いた。
少しはスッキリするだろう。


心はスッキリしないね。
一番問題なことがまだ解決していないし
この先、どうなるのだろうかと
仙台に住む自分も不安である。
原発。
心が澱む。



夜にスーパーに行ってきた。
あまり混まないだろうと思って
行ったのだが
相変わらず、品物は完売のものが多く
制限しているのもある。
卵はたくさん仕入れてあり
入り口に積まれていた。
あまり売れていないのは
チーズ、キムチ、梅干。
種類が多いからかもしれない。



うちのカエルたちが
6匹出ていた。
皆、路地に出ていた。
庭に移動して、スーパーから帰ってくると
2匹が重なっていた。
どうぞ、たくさん子どもを残してほしい。

それから
発見。

秋だったか
気の強いカエルが死んだのだが
サンルームの下にお墓を作ったんだ。
雨に当たらないようにと。
確か、その辺にあった球根(何の球根がわからない)をいっしょに
埋めて、ビニールを貼った箱で覆ったんだ。
さっき、カエルを見たときに
箱が浮き上がったようになっていたので
地震でそのようになったのだろうと
直してやろうと、箱を取ると
何と、浮いていた理由は
球根の芽が出て、今にも花が咲きそうになっていたんだ。
どの球根よりも、葉が大きくて花の実がついていた。
明日、その写真を撮ろうと思った。
あのカエルが栄養分になったのかな。
そして
花も葉も一段と大きくなって
カエルの分身となって甦っていたんだ。
嬉しかった。
どんなに、地面が揺れようとも
花はしっかりと根付いて
再生してくれていた。
ありがとうね、私のカエル。
明日、写真を撮るからね。
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(3/29)サッカーのセレモニーに泣く。

2011年03月29日 23時57分42秒 | 東日本大震災
今日は、職場に行ってきた。
今月中に、お別れの品を届けなくてはと思って。
皆、PCに向かって黙々と仕事をしていた。
同じ部署の後輩に、品物とコメントを託して
渡すことができた。
ホッとした。

いつも楽しく話してきた、山P仲間にも
御礼の品を渡して。
別にこれでお別れじゃない。
またすぐに、皆と会うことにしているもの。

今はどの家庭も大変。
この年代になると、年を取った親のことが
現実に圧し(のし)掛かって来る。
彼女も
病気の父親、そして看病疲れの母親の面倒を
見なければならない。
特に、この地震によって、普段いっしょに生活をしていないものが
身を寄せることで、生活サイクルの歪み(ひずみ)が出てきて
殺伐としてくる。
私の家でもあること。

そんな話をしてきて、
最後に、昨日の山P話をしてきた。
笑いあった。
そしてお別れした。
また会える。家だって、自転車で5分だもの。
会える。
そう思って、にこやかに別れた。

ただ、肝心の一番の上司に挨拶をしていない。
今、彼非常に忙しいので
また日を改めて、挨拶しなくては。


昼食をまたまた
伊達の牛タン弁当にした。
駅の地下街が少しずつ回復してきたので
義母のお昼(散らし寿司)と私たちの牛タン弁当。
義母は、牛タンを食べない。
それを自転車の後ろに乗せて帰宅。

途中、コンビニの横で
伊達の牛タン弁当を屋外販売しているのだが
(最初の2回はここで買った)
そこの前を通ると
売り子さんが「伊達の牛タン弁当いかがですか~」と
私に言った。
私はうしろの袋を見せて
「買ったよ~」と言う。
「ありがとうございました!」とにこにこして返事をされる。

家に着くと
私の両親が来たことを知らされた。
病院の帰りに
先日の父のゴルフ旅行のおみやげを持ってきたのだ。
3、4日前に
両親から電話があり
「おみやげを渡したいから家に来ないか。」と言われたのだが
「ガソリンがもったいないから、メドが立ったら行く」とだけ答えた。
今は
会いたくない気分。
だから、今日の私たちの不在で会えなかったことに
なぜかホッとする。
あの日(停電中に父がわめいて来た日ね)のわだかまりが
まだ自分の中で消えていない。
あんな恥知らずな父だったとは。
いやいや、あんなのは序の口。
いまだに変わっていないんだ、と再認識。
忘れるところだった、普段あまり交流がないから。
半年前の両親との北海道帰省が結構、良かっただけに
父も大分丸くなった、と思っていただけにね。


夜。
今日はサッカーを観る日、山Pのクロサギを観る日と決めていた。
早めに夕食を終える。

そしてサッカーのセレモニー。
ボロボロ泣いた。
何ていうか
この震災で
初めて黙祷を捧げた自分だった。
高校野球の東北高校の試合も観られなかったし。
このサッカーの試合で
日本中の人々が
東北を応援してくれて
励ましてくれて
君が代もしっかりと歌い
最後に
こんなに大勢の人数がいるのに
皆厳粛な気持ちで黙祷を捧げてくれて
涙が出てしまった。
まだまだ
行方不明者がいて、
原発も落ち着かないし
とても追悼の気持ちというわけにいかないと
思っていた。



ああ、続かない。
ちょっとやめよう。
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(3/28)伊達の牛タン弁当 500円

2011年03月28日 15時02分53秒 | 東日本大震災

先週の金曜日だったか土曜日だったか
朝市に行ったとき、何も買わないでフラッと道にそれたら
こんな大きな看板が出ていて、秋田からわざわざ来ているということで
寄ってみた。
野菜が安かった。

ニラとか、たらの芽とかごぼうとかをあれこれと買ってくる。
朝市は混んでいたが、値段を見比べながらも、何となく買わなかったのは
このあとに気づいた秋田の野菜があったからかもしれない。
というふうに
私は全て、自分の心のなりゆき(朝市に来てはみたが、買うまでにはいかないという
気持ち)のままに動いている気がする。
朝市と離れたところで販売していたので、人が少なかった。
もっと呼び込みをすればいいのに。
嬉しい看板だった。
同じ東北でも、日本海側の秋田には被害は少なかったであろう。
しかし
秋田も、かつて日本海中部地震の津波で多くの人たちが犠牲になった所である。
今回は、太平洋側だったので津波の被害はなかったけれど
同じ痛みを持つ東北人として、物資の応援に来てくれたのである。



今朝も強い余震があった。もう怖くて、しばらくは呼吸の乱れ。
浅い震源地だったので、ガタガタと揺れる音の刻み方が
あの日とそっくりだった。

トチはちょうど一階に下りてきたばかりで
あわてて、階段前のドアを自分で開けて二階に逃げていった。
ヒカルは
どこに隠れたのか幾ら呼んでも出てこない。
布団とマットの間に挟まったまま出てこない。

もう終わりにしてくれないか、あの揺れ。


今日は
東北太平洋沖地震の被災者に対する緊急小口資金特例貸付の説明会に行ってきた。
一世帯に一口ということで、私は対象にならなかった。
夫が書いた書類の
私の生年月日を見ると
今日の日付を書いていた。
私が「私の誕生日、まちがっているじゃない、4月9日だよ。なんで、今日の
日付を書くの」と、夫のありえない間違いに抗議。
すると「4月9日ですか。私も4月9日です。」と担当の、岡山から来た支援者が
言う。
「そうなの、山Pといっしょよね。」
「そうです、山Pといっしょです。」と握手を求めてきた。
若い男の子で、山Pと同じく優しい目をしていた。
「山Pのファンなんですか。」と聞かれたので
「そうです」とにこやかに、財布に入っていた写真を見せる。
真剣な場所での、ちょっとした和やかな空気。
何しろ、夫は「恥をかいた」と顔を真っ赤にしていたので。
今日、結婚記念日だったから、無意識に書いたのか、
それとも単純に今日の日付を書いたのか、あまり追及すると
怒るのでやめた。


遅い昼食を食べる。
買ってきたのは

伊達の牛タン弁当。仙台の有名な老舗の牛タン。

これ、こんなに牛タンが入っていて値段が500円です。
実はこれで3回連続で買ったのです。
牛タン好きの夫が、1回目に買ったときに
「500円でこんなに入っているなんて、安い!」と言ったので
ワンコインで3日連続で買っています。
味噌味ですが、おいしい!
また明日もかなあ、と思っています。

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(3/25)初めて映像を見たときのこと

2011年03月25日 01時05分34秒 | 東日本大震災
私の住んでいるところは
駅から歩いて15分くらいのところだ。
非常に便利なところである。
都会の中にいるにも拘らず
路地の奥のせいか
静かな環境である。
昔からの家があり、この路地を砂利道からアスファルトの舗装に
したのも平成に入ってからである。
古い家、庭があるから、カエルたちも生命を繋いできた。
生き延びてきた。
地震の次の日に
実家の母親を連れてきたのは正解だと思っている。
インフラの復旧は
断然都会の方が早い。
岩盤が違うせいか、実家の揺れとこちらの揺れとでは
部屋の中の物の倒れ方、落ち方でも全然違ってくる。
宮城県沖地震のとき
私は自分の部屋にいた。
今、その部屋は父の部屋になっている。
12畳くらいの一番日当たりのいい部屋である。
そこで経験したあの激しい揺れは、本当に死ぬかもしれないと
思わせた。
両親はそのとき、街の中にある、経営していた店にいた。
だから、同じ地震を経験したといっても
場所が違うだけでかなり揺れの違いがあるんだ。
おそらく、父たちは
大きな地震を体験したと思っていたにしても
店での体験と、家での体験の違いはわかっていなかったろう。
近所の方が来て
暗くなるまで、家の中に散乱したガラスをいっしょに片付けてくれた。
大きなゴミバケツいっぱいになった。
食器棚は倒れ、両親の部屋のタンスは倒れ
私の部屋のスピーカーは倒れ、プレーヤーのターンテーブルが吹っ飛ぶのを
目撃しながら階段を必死に下りていった。
夜中に帰宅し
そのありさまを両親は見て、母は泣き、父は呆然としていた。
そして連日の停電。
都会では翌日あたりに、停電は解消されたかと思う。

そういう経験もあったので
今回の地震では
実家の中はひどい状況だろう、と予想していた。
予想通りだった。
父の部屋の、足を踏み入れることのできない倒れた書類の山々、
パソコンが床に落ちていた。
その様子を見ただけでも、今回の地震の強さを父は
旅行から帰ってきてつくづくわかったかと思う。


地震の震源地傍でありながら
停電のために、何も情報を得られなかった。
自分たちの予想で、近いうちにやってくる平成の宮城県沖地震が
これなのかもしれない、と思った。
そして
近所の人のラジオで、
具体的な地名が出て、「荒浜に、2、300人ほどの遺体が道路にある。」
という情報の意味がよくわかっていなかった。
津波の恐ろしさは、誰もがきっとわかっていなかったろう。
そのラジオの情報から、どんな光景を想像したらいいのか、
一体何が起こったのか、道路をまっすぐに逃げ惑う人たちが
津波に巻き込まれたということか、
実感としてわからなかった。

そして。
停電が解消されて
テレビをつけたとき
初めてその映像を見た。
ショックで、地震が起こったあとに初めて泣いた。
これらを
地元の自分たちより先に
他の県の人たち、世界の人たちが観ていたんだ。
自分たちは
てっきり、揺れがどんなに激しくても、建物の崩壊がなかったことに
少し安堵していたのだが
数キロ先で、こんなことになっていたとは夢にも思わなかった。
荒浜、名取、亘理、多賀城、などなど
どの地も、田園と新興住宅地と共存している身近な町だった。
名取はよく、ネコの缶詰を買いに、灯油を買いに、
おいしいものを食べに行く所だった。
私がブログで
「今日は南に、ネコの食糧を買いに行った。」と書いている場所である。
その町が津波に飲み込まれていたなんて。
荒浜の情報が入ったときの
自分の想像したものがどんなにヤワなものだったか、
こんな恐ろしい光景に、一体一体、神様は
私たち、何か悪いことしたか!と問いたかった。
自然に怒ったってしょうがないのだが
あまりに残酷だ。
建物がつぶれようと、いつかは再建できる、再生できると
思ったけれど、人の命だけは奪ってもらいたくなかった。
それ以来
その映像が流れると、テレビから目を背ける。
あとは地元のさまざまな情報を見るのみにしている。
義母も、日中家にいても、テレビは観たくないと言う。
あの
恐ろしい波の足のようなものが、地上にある全てを飲み込んでいく姿が
焼きついてしまった。




地震後
東北は雪が何度も降った。
翌朝には道路が3月でありながら凍った。
それらが全て悲しかった。
被災地に追い討ちをかける自然。
なぜにそんなに、私たちを苦しめる。
3月は芽吹くときじゃなかったか。
一日一日過ぎていけば
暖かさに近づくのではなかったか。

そして
福島の原発の事故。
心が痛い。
どんな思いで福島の人たちは過ごしているのか
自分がその立場にあったら・・・とか
考えると、全身が重くなっていく。
血が脚の方に全部下りていくようだ。

頑張らねば、と思いつつも
まだまだわからない。

そういう中で
アメリカ軍が、仙台空港の復旧に頑張ってくれている。
仙台空港で、がれき除去するアメリカ軍

いったん更新。
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(3/24)スーパーの行列が少し緩和された

2011年03月24日 23時41分40秒 | 東日本大震災
何か書いていないと
不安になる。
これは元々の自分の性分だから仕方ないだろう。
パソコンとか
ブログとかが生活になかったころ
ノートに日記を書いていた自分だ。
今は
これがその日記代わりである。
そして公開だから、多少の秘匿もある。
自分の年齢や仕事や家庭の事情や自分のマイナスな面や。

今日も変則的な生活である。
まず睡眠が規則的じゃない。
あの停電から、早くに寝る習慣は身についたけれど
安心した熟睡ができていない。
そのため
何かを忘れたいために、テレビを観ていると
ウツラウツラしてくる。
疲れているのかどうかもわからない。

今、家では
三食とも私が作っている。
普段は、義母とは食事の時間が別で、
自分たちの食べたいものを食べてきた。
しかし
この地震で、未だガスが使えず、
卓上コンロと七輪で
なるべく一斉に食べるようにしなければならない。
ガスボンベも節約しなければならない。
これまでの自由な食事時間は、お昼の食べるときが時に3時になったり
夜は、夫が遅いと10時、11時はざらだった。

しかし
義母はいつも規則正しく、三食の時間にきっちり食べてきた。
だから
今も、義母に合わせている。
すると時間の拘束が出てくるのだ。
午前中に
大きなスーパーに並ぶと、1時間くらいは覚悟。
(これは大分緩和された時間)
そこで手に入らなかった場合は、次のスーパーを目指して
そこでも並ぶ。
そのうち、お昼になってしまう。
義母は、お昼を待っているだろう。何時に帰宅してくるのかわからずに。

義母は
卓上コンロの火を点けることはできない。
しない。
自分の母のように、点け方がわからないのではなく
点け方を教えても、火が怖いということで
私がやっている。
夫はそんな自分の母親を冷ややかに見る。
食事の空気がまずいときがある。
だから、義母には専ら食事後の食器洗いを担当してもらっている。
義母は
「自分で作るより、トモロッシちゃんの料理で食べるほうがおいしい。」
ということで、いつもよりたくさん食べているとのこと。
今夜は
ごはんを炊かずに、お好み焼きにした。
昨日の肉を残しておいたので、それを入れて。
お昼はうどんにした。
お米もできるだけ節約だ。
それから
食パンも手に入った。
広島のパンだった。
明日の朝はパン。

食べることって、ホント、当たり前だけれど
大事なことなんだ。
今まで、ずいぶん無駄にしてきたものが多い。
冷蔵庫の奥で、忘れられた存在のものをたくさん廃棄してきた。
今は、賞味期限がどうのと言っていられない。
食べきること、有りがたがって食べ切ることを
意識している。

いったん更新。


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(3/23)トシちゃん、笑わせてくれてありがとう。

2011年03月23日 20時54分45秒 | 東日本大震災
久しぶりに
久しぶりに
テレビを観て笑った。
トシちゃん、笑わせてくれてありがとうね。
夫がPCをしている間
眠くなってきたので
テレビを観ながらソファで寝ようとしていた。
懐かしい歌を披露する番組をやっていて
トシちゃんが出るのがわかったので
それまで我慢していた。
最後まで観なくてはならないかなあ、と思っていたら
8時すぎに
3曲も生歌を歌ってくれて
目が覚めた。
抱きしめてTONIGHTとハッとしてGOODとごめんよ涙。
いつだったかの
ヘイヘイヘイでもカッコよかったので
またも別なチャンネルで特別扱いよ。
終わったあとのお話が、軽くて軽くて、ゲラゲラ笑ってしまった。
全然懐かしい雰囲気じゃなく、いつものノリでお話していて
地震のことをその間だけ忘れて
ゲラゲラ笑った。
ありがとう!トシちゃん!
80年代の歌、アイドルの歌はいいね。

今日は午前中に仕事をしに。
終わった。
自分の荷物も全て持ってきた。
残さなくてはならない資料は上司に手渡した。
でも、挨拶はしていない。
もう一度、行かなくては。
地震前に皆への御礼の品物を買っておいたのだが
それを15日に配る予定にしていたのが
この地震で、予定が狂ってしまった。
今日も皆それどころじゃない。
3、4階の被害状況を見ることができた。
これは本当に、大変だなあ、いつ復旧できるのだろう、と眺めた。
その復旧のあとも見られず
私はこの職場にはいないんだ。
たった4年間、いや専門職の時代を含めたら
私の人生の半分はこの職場で過ごしたことになる。
見納めにしては
つらい状況だった。
近いうちに、日を改めて挨拶に行こうと思う。
だから
今日は誰とも、さようならをしなかった。

午後に
佐川急便に、荷物を取りにいく。
北海道の従兄弟から、米が届いている。

佐川急便に行ってみたら、車が並んでいた。
皆、荷物を取りに来ているんだ。
いろんなところから、救援の物資が届いたんだね。
非常に忙しそうだった。時間がかかるかなと
思ったが、それほどかからなくて
荷物をわざわざ、個人の車まで運んでくれる従業員。
皆、どこも変則的な仕事で大変なんだ。
お互い、頑張ろう。

お米の値段が昨日
10キロ、3700円というのがあった。
高いのでやめる。
そんなときに北海道から米が届く。
すぐに取りに行った。
ありがとう、従兄弟。

スーパーの行列が緩和されてきた。
2週間ぶりに肉を手にする。
そこで
今日はカレーにした。
七輪で作ったのだが、外は雪がちらつき
寒かった。
まだまだ寒さが残っている。

今日は
今日の出来事だけを。

あのあとの続きをまた明日に記録しておこう。
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(3/22)うちのカエルたちにつぶやく

2011年03月22日 21時19分32秒 | 東日本大震災


巣穴の中から出てこようとしたので写真を撮ると、ひっこんでしまった。
    この後ろにも2匹います。もっと奥にもいるかも。



    別な所から庭に出てきていたカエル君。


昨日はちょっと湿った空気になっていたので
夜、庭に出てみた。
カエル、7匹確認。
今日の夜は3匹確認。

うちのカエルたちは地震にもめげず、原発にもめげず
春を告げる空気に反応して
冬眠から醒めた。

カエルよ
地面に身体を密着させるカエルよ
地震は怖かったかい。
私は
あなたたちの方が
人間よりも
実際は地震について知悉しているような気がするんだ。
地面を寝床にするあなたたちの方が地の神、海の神と
通じているような気がするんだ。
四川のカエルたちは、地震前に何万匹も大移動したそうな。
あなたたちは
私の庭から逃げたりはしない。
ゆったりと出てきて庭を闊歩している。
だから
大丈夫だよね。
図体ばかりがでかい私のほうが
地の轟きにうろたえているよ。
でも
万が一、この地を離れなければならないとき
あなたたちもいっしょだからね。


今日は久しぶりに出勤した。
遠い所から来る人たちは
車で来ても、明日のガソリンがないから
どうにもならないようだ。
まだまだ皆、大変だ。

地震後の建物に初めて入った。
怖い気持ちがあった。
内部の壁はところどころ崩れていた。
3階、4階の破損がひどく、立ち入り禁止となっていた。
地震当日に見た
西側と南側のつなぎ目が軋んだ所はやはり
ズレたようで、これからどうなるのか、と先が暗い。
余震がずっと続いており
そのせいで、よりズレが生じたりしたら、と思うと・・・

私の机の上のものは無事だった。

はやぶさの置物がコロンとなっていたが、ネコの置物はしっかりと上に載っていた。
腕時計も無事だった。

少し仕事をして
会議に参加。
もう契約が切れている私であるが、こうして仕事が残っているので
参加。
このあとの予定を言われる。
ほとんどが未定である。
建物の修復をしなければ、仕事が進まない。
しかし、今すぐに業者が入れるわけではない。
どこも込み合っているだろうし、なかなか困難であるかと思う。
明日も行く。
私物の半分を持ってきた。

夕食のとき
強い余震が来た。
1階の食堂にいたので、食事を中断し
2階のネコたちのところへ。
皆、怯えている。
何度も何度も来るね、余震。
食事の続きをする気持ちになれなかった。
夜も
やってくる。
一体、いつこの恐怖から解放されるのだろう。
今夜は
また、逃げ出すための荷物をまとめておかねば。



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(3/21)実家のこと、父のこと

2011年03月21日 16時43分20秒 | 東日本大震災

地震に怯えるトチ。

今日は曇りだ。日差しがないと寒い。
お彼岸であるが
墓参は延期した。墓のことが心配であるが
少し距離があるので、ガソリンを温存したいために
義母には、延期を伝える。

明日
職場に行くことにした。
もう私の契約は期限が切れたが
仕事の途中の地震だったために、どうなっているのか
非常に心配。
引継ぎをするにしても、書類がバラバラになっているし
私物もあることだし
まだ完全に、契約切れということになっていない。

いろいろと不安だ。
生活のこと。


地震当日から思い出して
少しずつ書いているのだが
個人的なブログのために
地震の状況を伝えるものではない。
自分の周りのこと、母のこと、父のことなど
記録も兼ねて書いている。

前回の続きである。
前回は
母がこちらに避難してきて
母が安心していたところまで書いた。

母のパニックに対して、義母が落ち着いていたので
母は逆に安心したようだ。
余震のたびに、奇声を発する母をなだめていた。

母の面倒、相手をしてもらっている間に
私は
早めの夕食を作ることができた。
明るいうちに済ませてしまわないと
行動ができない。
早めに食べて
義母の隣の部屋に、母の布団を敷く。
注意点を伝えた。
トイレに行くときは懐中電灯をつけるようにと言ったが
パニックになると
どこに置き忘れたかわからなくなる母なので
義母に懐中電灯を預ける。
母、
トイレのレバーもわからない人だ。
7時には寝せた。
あったかい布団になっていた。
熱湯をペットボトルに入れて、湯たんぽ代わりにしておいたので。
地震当日の夜は、近所の家でお世話になったが
ほとんど寝ていないという。


私たち夫婦は
8時ごろに外に出る。
なぜかというと
街のほうが明るく見えたからだ。
これは電気が来た、と思った。
どこまで来ているのか確かめに行った。
一部分だけだったが
明るい灯りがあちこちに見えて
心強かった。
もちろん、いったん道をはずれれば真っ暗だ。
家に戻っても真っ暗だ。
だが
私は、まだ浅い眠りの母たちに
「街のほうに電気が来たから、きっとまもなくこっちもつくよ。」
と伝えた。


そして私たちも早くに寝床に就く。
私はソファ。
夫は布団。

そんなとき、9時ごろだったか
夫が
「何か、叫んでいる。」と起きた。
私は聞こえなかった。

家の外で誰かが叫んでいる。
男の声。
それは父だった。
そしてその横に
隣の奥さんがいた。

何度もうちに呼びかけていたらしいが
全く応答がないので
隣の奥さんが台所でそれを聞き、
出てきて
「奥の方にいるから聞こえないかもしれないので
もっと呼ぶといいですよ。」ということで
わざわざ付き添ってくれたのだ。


ここで
一度だけつながった電話のことを思い出してみよう。
福島にいる、というだけで
なぜそこにいるのかわからない私は
まず
自分たちの命は大丈夫、と伝え
父にも
どんなに時間がかかってもいいから
生命に危険のないようにこちらに帰ってきてくださいと
伝えた。
だから、福島から交通手段がないはずの父は
もっと遅くにこちらに戻ってくるものと思っていた。
必死で帰宅したのだろうか。


父は
玄関に入るなり
わめきちらしていた。
私は
今でもあの有様を
「ああ、この人とは暮らせないな・・・」と
つくづく思ってしまうのである。
誰に向かって言っているのか
玄関に誰もいない状態でも
言いたいことを大きな声でどなりまくっているのである。
私の実家に貼った張り紙にまで文句をつけている。

「鍵をなぜ持っていくんだ。」を何度もどなって繰り返している。
鍵を持ってきたことが彼の逆鱗に触れたらしい。
これもよくわからない。

「鍵をよこせ。母さんはどうした!鍵はどうなっているんだ!
こっちはお客さんを連れてきたのに、家に帰ったら
鍵がないじゃないか!」
「鍵を持っていったなら、なんで電話しないんだ!」
それらを繰り返してどなっている。

母を起こして
「お父さんが、鍵をよこせって言っているよ。」と言ったが
母はぐっすり寝ていて
よくわからない。
それを受け取って父に渡す。

確かにこちらに連れてくるとき
「私の家にいる。携帯は電池切れ。自宅の電話番号。」
を書いておいた。
鍵のことは
当然、母が持ってくるものだと思っていた。
しかし
彼らには決まりがあるらしく
鍵は、物置のどこかに置くことになっているらしい。
父はスペアキーを持っていないのだ。
たった1個の鍵である。
娘ながら、はじめて知った。
私も実家の鍵などは持っていない。

父は
お客さんを車に待たせている(実家の隣の方に送られてこちらに来たのこと)ことで
カッカッとなっている。
お客さんを泊めるんだ、何か食べさせなくてはならないんだ、と
これもどなって言う。

私は
「あの家に入るの?無理だよ。ひどいよ。
どこに泊めるの?」
「母さんのベッドに寝てもらうから。」
「え、お母さんの部屋も、テレビとか倒れて危ないよ。」
と言ったあと、私は
「わかった。とにかく見てきて。見ないとわからないでしょうから。
真っ暗だから、これを持っていって。ガラスが廊下や階段に落ちているから。
もしも、ダメだったら、お客さんを連れてこっちに来てください。」
と、持っていた懐中電灯を渡した。
真っ暗な玄関での会話である。

父は
鍵、鍵、鍵、お客、お客、お客を何度も繰り返しどなりつつ
帰宅した。

ハア~、参った。
父の偏執狂的な言い方、一方的な言い方に参ってしまった。

そのうち、1時間くらいして
こちらも電気がついた。
母はあきれている。私も、義母も。
夫は出てこなかった。仲が悪いので。


翌朝、
私は
朝食前に夫とともに家を出た。
こっちは電気がついたことによって
ヒーターも、コタツもつけられるし
何よりもテレビも観られる。
だから、こっちに父とお客さんを連れてこようと思った。
母には、そう伝える。
「ありがとうね、心配かけるね。」と言われた。

そして
実家に行ってみると
父の車がなかった。
お客さんをどこに送ったのだろう。
どこから来たお客さんかわからないし
空港も、鉄道もダメなはず。

一応、また玄関の前に置手紙。
「電気が通ったのでこちらのほうが暖かいはず。お客さんとともに
来てください。」と。

そして
自分の家に帰ると
今度は
義母が
「今、お父さんがお母さんを連れて帰ったよ。お母さんは、帰りたくないと
言っていたけれど、『おれが迎えに来たのに、なんで帰らないんだ』と言って
連れていったよ。でも、お母さん、あわてていたので、大事な薬を忘れていったよ。」

私たちはまた、その薬を持って実家に向かった。
夫に申し訳なかった。

両親は居た。
掃除をしていた。
そして
昨夜の父の姿ではなく、しおらしい父になっていた。
母は
「私は、怒ったからね、お父さんに。」と私に伝えた。
おそらくは
家に戻って
あのひどい状態をはじめて見て、どれほど大変な地震だったかを
わかったのでしょう。
あの寒い中、どのように過ごしたのか。


父よ
わかったか、この地震がどれほどひどいものだったか。

そのあと
私の家に
何本かの電話が入った。
父の友人の奥さん(9月に北海道に3人で帰ったときに、数十年ぶりに会った人)から
も安否を気遣う電話があった。
そこで
ようやくわかった。
やはりいつものメンバー(北海道時代の友人たち)といっしょに
ゴルフ旅行に出かけたとのこと。
小田原の友人のところで、地震を知ったらしい。
そして北海道の友人は羽田から北海道に帰り
父は新幹線で仙台に向かい
おそらくは福島までで止まったのだろう。
もう一人の友人というのがどこの誰かは結局わからなかったが
父は、仙台の自分の家に泊まれと言ったのだろう。

父は
この地震の凄さを知らない。
だから
鍵のことをなぜ電話しないんだ、なんて
私にしてみれば
のんきなことを言っていたわけだ。
何度も何度も電話しても通じない、ということが実感として
なかったのだ。
私が父につながった唯一の電話で
命がどうのこうのって言ったのが、何を言っているんだか、という
思いで聞いていたのかもしれない。

もうあちらも電気が通ったと思うが
テレビで観た映像に
この地震が世界をも巻き込むほどに凄かったことを
遅ればせながら知ったことだろう。
何が
鍵だ。何が、お客さんだ。

あれから私は
父に連絡していない。

いったん更新。



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(3/20)西日本の救援隊の皆様ありがとう

2011年03月20日 22時14分26秒 | 東日本大震災




今日はお昼近くに
街に出てみた。
少し暖かい日だったので、緑を見たかった。
うちから自転車で7、8分のところに大きな公園がある。
そこでは
若者がギターを持ってきて
歌っていた。
犬を連れた人が散歩をしていた。
誰もが
街のあちこちで見つけた店の食糧の袋を提げていた。
私も
これから買いに行くんだ。
買ったあとに
皆この公園で、いつもの日常を感じ取りたかったのだろう。

街の中はまだまだ
活気を取り戻していない。
どこも内部が滅茶苦茶になっていて
ガスも通っていないから
商売にも、仕事にもならない。
ガラスを取り替えたくても
ガラス屋もやられている。

全てが循環していない。
機能していない。

官公庁街なので、県庁や市役所前の広場などの駐車場には
災害救援隊の車がたくさんあった。
遠く
神戸から、堺から、神奈川からの車両が
この東北にやってきた。
ありがとう。
頭の下がる思いです。
写真を撮ったあとに
神戸の方に頭を下げた。
その方も頭を下げた。
お互い、
ありがとうの気持ちを込めて
頑張ろうの気持ちを込めての
無言の挨拶だった。

私たちが再生したときには
今度どこかで何かがあったら
丈夫な身体で
丈夫な心で
助けに行かなければ、という気持ちにさせる。
日本国中が
今、東日本のために頑張ってくださっている。

恩返し。
きっとそれができるときが来る。
それはなにか有事のときに限定されるものじゃない。
有事の状態はないほうがいい。
西日本に旅に出ていくだけでも恩返しになるような気がする。

お金があったら
たくさんの支援をしてくださった世界中の国々に
御礼行脚をしてみたい。


さて
今日は魚屋に行ってきた。
初めて入るところだ。
見つけたのでとにかく覗いてみよう、と思った。
野菜ばかり食べていて
魚、肉類は全く口にしていない。
たこの足1本とその他加工したものを手に入れた。
久しぶりの豪勢な食卓になるね。
そこで今日の夜食は
たことたまねぎで、かき揚げにした。
義母はおいしい、と食べていた。
久しぶりの脂っこさだね。
加工したものは日持ちがいいので
少しずつ食べていこう。

外にいると
余震が全くわからない。
こうして自転車に乗っているときにも
余震はあるのだろうか、と思った。
家に帰れば
やはり
余震が続く。
今もあったばかりだ。

髪を洗っていない。
櫛の通りが悪くなった。
夫は
2日置きに、水で洗っている。
私は髪が長いので
水で洗うことに抵抗。
ポットの湯を何回も沸かしてやるしかないか。
洗髪だけをしてくれるところを探すしかないか。

いったん更新。
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(3/20)実家のこと、母のこと。

2011年03月20日 09時45分57秒 | 東日本大震災


今朝起きて
鏡を見ると、目の下のクマがくっきりしていた。
昨夜もソファで寝る。
奥の部屋にいるネコたちのために
ストーブをつけるが、余震のたびに消しているので
なかなか温まらない。
風邪を引き始めたネコが数匹いる。
そしてそれはうつるので、蔓延するかもしれない。

私の体調は昨日よりいい。
おそらく昨日は
余震のたびにドキリとするのでその不安感と
酔ったような感覚に身体が疲れていたのだと思う。

私のそれらと、避難所にいる人たちの不安感とかストレスとか諸々のことに
比したら
申し訳ないものだ。

父に何度も連絡して
ようやく1度だけ携帯につながった。
地震当日の夜中である。

父は
福島にいる、という。
彼らの事情がわからない。
母は一人で家にいるということで
翌朝
私たちは実家に出かけた。

実家周辺の家はほとんど無傷である。
中には、ガラス窓が壊れたりしたのもあったが
宮城県沖地震のときのほうが
こちらの町は被害がひどかった。
田圃を造成して新興住宅地として出発した町だった。
当時はポツポツと家が建っていたばかりだ。

実家には母がいなかった。
近所の家に行ってみると
そこに母がいた。
そこは
宮城県沖地震のときにも私がお世話になった家だ。
私が嫁いでから
その家のかたたちとはほとんど会っていなかったが
おばさんも母と同じ病気になっていた。

母は私たちに驚き
すぐに自宅に帰る。

やはり
私の今の家の中よりもひどい状況だった。
二階に上がろうとしても
階段の照明が落ちていてガラスの破片の散らばる階段になっていた。
夫がその大きな破片だけを片付けてくれ、二階に上がってみた。
父の部屋の
足の踏み場もない散乱の仕方、パソコンはどこかに吹っ飛んでいた。
書類が部屋中ひっくりかえっている。
母の部屋も
テレビは倒れ、ベッドが移動し
鍵のかかっていない窓は全開になっていた。

台所の食器棚は倒れ、中身散乱、粉々。
浄水器吹っ飛び。
などなど
どこもかしこも手をつけるには
今急にできることではないと思った。
とりあえず
少し片付けて
今日は街の中にある私たちの家に行こう、と言った。
都会だから
こっちよりも、電気などの復旧も速いはず、と言い。
宮城県沖地震の教訓である。
とにかく、都会とこの実家の町とでは
何もかもが復旧の遅速が違った。

母を連れて車に乗り
数百メートル先、海方面へ向かってみた。
やはり通行止めになっていた。
この先が
津波の被害があった町々である。

母を私たちの家に連れてくる。

母に
なぜ父は福島にいるのか、聞いてみても
よくわかっていなかった。
「お父さんは、友達とゴルフ旅行に出かけた。」とだけ言った。
友人とはどこの誰か
行き先はどこか
なぜ福島にいるのか
何もわからなかった。

後にわかったのだが
父は北海道の友人たちとまた
旅行にでかけ
静岡、神奈川辺りの友人と合流してゴルフを楽しんでいたのだ。
脳梗塞の母にはきっと
冷蔵庫の作り置きの食料を食べるように言っていたのだろう。
母は地震パニックの人で
それは昔からだった。
本当に地震が怖い人だというのは北海道にいたときからわかっている。
十勝沖地震のときは
母は私を家の中に置いたまま、外に逃げた人である。

母は私の家に来て
ようやく落ち着いた。
義母が相手をしてくれて
日の当たるサンルームで二人で話していた。
笑顔があった。
ホッとした。




うちには
七輪がある。炭もある。
こういうとき、便利だ。
あの雪の前日と違って温かくなったので
私はこれで煮炊きをする。
余っている野菜を煮込んで
卓上コンロでご飯を炊く。
とにかく家にあるもので今は過ごさなければならない。
残っていた乾麺、野菜などそれらが役に立った。
母が喜んで食べる。

母が正常だったとき
ずっとお店をやっていて、料理自慢だったのだが
今は包丁すら持てない。
持つことができても
なにがじゃがいもで、どう切り、どう料理するかわからない。
だから今は父が料理を全部やっている。

私は母に
味の事で文句を言われるかもしれないので
「非常時なんだから、味には文句を言わないことね。」と言ったら
母は
「これは私の口に合う。お父さんのは、いつもしょっぱいの。」と言いながら
煮物の汁を私の分まで飲み干す。
母がようやく落ち着いたことに本当にホッとした。

ネコが多いことにいつも
「ネコを捨てよ。」と言っていた母は
一階にいるダイジローに大変興味を持ち
隙さえあれば、声をかけてちょっかい出していた。
もともと北海道にいたとき
ネコを飼っていた私たちだ。
(そのネコを、仙台に引っ越してきたときに、母が大学病院の実験動物として
献体したことは以前書いた。もちろん私は取り戻しに行ったけれど。それらのことも
きっと母は忘れているだろう。それを口にすることは絶対にしたくない。)

母は
こちらに来て
義母との話に笑顔を見せ
私の料理に舌鼓を打ち
ダイジローに癒されていた。

いったん更新。


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(3/20)あの日のこと

2011年03月20日 00時43分29秒 | 東日本大震災


もう一度、この雪景色の写真を載せよう。
これは
当日の私の不安を表している写真なんだ。
あの日
地震が起きた時刻には雪は降っていなかった。



私は職場にいた。
大事な仕事を仕上げなければならない皆だった。
それでも息抜きに
あと数日でこの職場を去る自分は
持ってきたデジカメで
私の周りの人たちの写真を撮っていた。
そして
再び、職場で地震が起こった。
再び、と書いたのは
前日だったか、その前の日だったか
やはり職場で地震に遭遇し
強かったために建物の外に出たばかりだった。
それで収まったのだけれど
これは大きいものがいつか来る、と思わせた予告のようなものだった。
その前の朝にも小さな地震が起こり、収まったかと思ったらすぐにまた連続して
小さな地震になり、この立て続けの地震は不気味な予告のようだったんだ。
そして
あの日。
私たちは建物の軋むなんとも言えない音に怯え
(NZの地震の恐ろしさもわかっていたから)
とにかくこの建物から逃げなければ、という思いだった。
築40年近くの古い建物である。
外に出て、収まると思いきや
更に更に揺れがひどくなって
目の前にある建物が倒れてくるかもしれないという恐怖心が襲った。
足がすくんで、逃げ場がないあの気持ち。
これは私の住んでいる所だけではなく
東日本の広範囲で感じていた恐怖の気持ちだったんだ。
西側に建つ建物と南に建つ建物、そのつなぎ目が軋んで
交互に揺れるのだ。

崩れるか、と思ったが
何とか持ちこたえた。

それから20分後くらいに
私はいったん自宅に戻った。
近くのコンビニが停電の状態で営業しており、人々がいろいろと買っていたので
私も乾電池だけ買ってきた。

職場から家に戻るまでの辺りの建物を見た。
外壁が崩れたり、瓦屋根が壊れたりしていたが
あれだけ大きく長く揺れたにも拘らず
建物が崩壊した、というのはなかった。
そして
心の中で
日本の建物は凄い、と改めて思っていた。
まだまだ
あの時は、あんな悲惨な状況になっていたとは全く
気づいていなかった。

家に帰って、まず
ネコたちのことが心配で
1匹1匹、存在を確認した。
うちは数が多いから、一体どこに隠れているのか
本などに埋もれていないかと
心配しつつ確認した。
ネコたちもかなりショックだったようで
後に血尿の出すネコもいた。
そして丸一日、椅子の下から出てこないのもいた。
もちろん食餌など、喉に通るはずもない。
トイレにも全く行かない。
身体が固まったまま出てこない。

ともかく全員、無事を確かめた。
停電になっているので
震源地も震度も被害状況もわからない。
でもそれでも、まだ、楽観視していたのかもしれない。
家の中のメチャクチャな様子を見ても
このくらいは当たり前、という感覚の揺れだと思っていた。

職場を後にするころに
雪がちらつき始めていたと思う。
そして家についてから
しきりに降り始めた。
空は暗くなり
その日の天気予報に、雪が降るというのは失念しているが
尋常じゃない降り方に思えた。
地震のあとに、急に
真冬のように降り始めた。
それが怖かった。
いつもなら
雪が好きだ、と書いている私である。
その私が
この雪の降り方が悲しくなってきたのだ。
地震も、雪が降るのも自然である。
自然のあらゆることが、私たちを見放しているように思えた。
しかし、まさかそこに津波が加わるなんて、毛頭考えつかなかった。

近所の人たちが外にいたので
私も出ていった。
家の中がどれほどひどいかを話し合った。
そして
誰かが携帯のラジオを持っていて
「荒浜の方の道路に遺体が2、3百あるようだ。」と放送しているのを聴いた。
津波が起こった、ということだった。

よく、つかめなかった。
ピンと来なかった。
確かに、これまでの地震で
津波警報はあったけれど
どこもうまく対処してきたから
それを想定していたが
2、3百・・・というのがピンと来なかった。
一体
何が起こっているのか。
地元で大きな地震に遭いつつ、地元のことがよくわからない。
私たちは宮城県沖地震を体験しているから
あの大きな揺れのあとは
停電とガスストップと余震の心配、そして辛抱だというふうに
思っていたんだ。
建物が崩れた、というのは見た限りではなかったから
それらさえ我慢できれば再び
元の生活に戻れると思っていたんだ。
荒浜で何が起こっているのか、津波がどんな状況だったのか
全くわかっていなかった。

再び私は職場に戻った。

急に寒くなったところに
皆、まだ怯えて居た。
若い子たちを帰すにも交通手段がないらしい。
電話も携帯も、情報を知る手段がない。
仕事をしていた建物には入れない。
皆、PCも点けっ放し、書類はあちこち飛散しているかと思う。
それでも、中に入れる状況じゃない、とわかった。

結局、電車もストップしていて
利用している人は帰れず仕舞い。
そのときも
ただ電車がストップしているだけだと思っていたのかもしれない。
まさか
仙台駅そのものが閉鎖されるほどダメージを受けていたとは
誰もが思ってもいなかっただろう。

再び家に戻り
何をすべきかを考えた。
まず
義母に言って
かつて入院していたときに買った携帯ラジオを探させた。
全く何が起こっているのかわからないから
ラジオだけが情報源だった。
幸いにも見つけることができ、電池を補給。
ようやく聴けた。
少しずつ状況がつかめてきた。

そして
私の実家に電話をしても
もちろんつながらない。
道路の状況もわからない。
私は昨年の9月以来
両親とは会っていない。
半年も連絡を取っていない。
おそらくは近所の人たちに助けられていると思った。
すぐに駆けつけるには
私と両親の溝が深すぎるのだ。

その日の夜は
仙台の町の灯りは全て消え
皮肉にも
夜空の星がくっきりと輝いて見えた。
そして
余震に怯え、いつでも外に出られるよう
身の回りの整頓をして
寒さの中
ずっとラジオを聴いて
眠れぬ夜を過ごした。

冷静になろう
私は大きな地震を2回体験している。
2回目の地震のときは死ぬかもしれないと思ったじゃないか。
あの一番激しい揺れの中で、脱出したじゃないか。
あの揺れと今回の揺れを頭の中で比較していた。
地盤が違えば、同じ仙台でも
街の中と、当時田圃を造成したばかりの実家での揺れでは
全く違う、だから
今回はこんなに大丈夫だったのだから
大丈夫だ、と言い聞かせていた。

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(3/19)地震後あれから一週間

2011年03月19日 11時16分00秒 | 東日本大震災


これは
3月11日、地震直後の写真である。
あれから一週間経った。
昨日、7日目の午後2時46分には
私は
パンを買うための行列の中にいた。
そして心の中で手を合わせた。
一週間経っても
心は全く晴れない。
少しは前向きになるかと思ったが
今日は特に気分も身体もすぐれない。
それまでは毎日
町の中を、食糧を求めて彷徨っていた。
ガソリンも少なくなっているので
車はなるべく使わず
自転車であちこちのスーパーを巡っていた。
長い長い行列を目にして
気持ちが萎えてしまって
しかも、係の人に聞いてみると
売るのは
下着、靴下、ガスボンベ1本、という情報で
これは別な所を探そうと
また自転車を走らせる。
途中
パン屋の前の行列を見つけて
並ぶと、既に整理券を配布した後。
それでも
残りの菓子パンを買えるかもしれないと
並ぶ。
2個の菓子パンを買えた。
午後から2回目の整理券を配布するということで
また午後に出かけそこに並ぶ。
18番目だから、余裕で買えるだろう、と安堵する。
おじいさんが並び始めた。
整理券の持たないおじいさんだった。
それでも菓子パンが買えるかもしれないので、と待っていた。
午前の私と同じだ。
食パン1斤と菓子パン2個限定の整理券。
私の順番になって
私は食パンだけを買った。
菓子パンは、整理券のない人に残そう、という気持ちだった。
本当はそれも買っておじいさんに、と思ったが
おじいさんよりも先に来て並んでいる人もいたので
それはやめた。
皆、順番どおりに、並んでいるんだ。

その後、別なスーパーに行く。
そこでは頑張って並ぶ。
あまりに行列が長いと、トイレのことが心配になるので
(寒くて身体の芯から冷えるんだ。トイレの近い私。)
気持ちが続かないんだ。
でもここではガスボンベが3本買える、ということで頑張って並んだ。
米も買える、ということで
2キロの米も買う。
小豆の缶詰が残っていたのでそれも買う。
小麦粉をだんごにして、おしるこ風に作れば
甘味も取れる。

ガスボンベを買ったことで、少し気分が高揚する。
それだけで
気持ちが嬉しくなる。
動いていないと
張り裂けそうだ。


昨夜は8時に寝た。
あれ以来
私の寝床は、2階のソファである。
寝巻きに着替えるなんてとんでもない、いつでも
逃げられるように服を着たまま寝ている。
何度も何度も来る余震に
心身ともにビクッとして
眠りも浅い。
寝られるときには寝ておこう、
8時であろうと、眠いと思ったらこっちのもの、寝よう、という気持ちだ。

今朝は
4時過ぎに起きた。
2階でゴソゴソして
昨日買ったパンを3人で食べる。
気分が今一つなので
今日は心身を休める日にしよう、と思った。
さっき
生存者が1人見つかった、というニュースを観て
良かった、良かったと口にする。
一人でも多く見つかってほしい。
まるで
もう生きている人がいないような映像ばかりだが
こうして実際に生きていた人もいるんだ。
あきらめないで、助けてほしい、助かってほしい。

いったん更新。
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(3/14)仙台から。

2011年03月14日 09時09分19秒 | Weblog
皆さん、私は無事です。
ありがとう。
後ほど詳しく。
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(3/8)おもいがけないプレゼント

2011年03月08日 20時55分21秒 | Weblog

     お花とバナナケーキ

昨日は
思いがけないプレゼントをいただいた。
私が仕事をしているときに
終わる5分前にゾロゾロと同じ部署の方々が入ってきた。
若い子たちの前で
仕事の最後ということで、お花の贈呈の演出をしてくださった。
たった4年間のお付き合いなのに
ここまでしていただけるとは。

その他
若い子たちが作ったバナナケーキもいただいた。
手紙ももらった。

いよいよ
この仕事が永久にお別れなんだ、と思った。
13年前に区切りをつけたはずが
まさか今、本当の区切りになるとは。
あのとき、最後じゃなかったのか。
13年後のことを想像だにできなかった。

仕事をやめる、ということをほとんどの方が知らなくて
この花を用意していた人たちから聞かされた、ということで
あとから
「やめるんですって?驚いた。」と言いに来た。
私は
「4年前に来たときも驚いたでしょうね。」
と言う。
いったんやめた人間がまた戻ってきて
丸4年勤めて去っていく。

親しい人たちからもお叱りの言葉。
正式に、辞めるなんて聴いていない、と。
それは謝った。
でも、バイトの身だし、やめることを大っぴらに言うのも憚られた。

いろいろと事情のある身なので
また、何かの形で戻ってきていたらごめんね、と言った。
地下で、掃除をしていても、優しく声かけてね、と冗談とも言えない現実的な
言いかたをして。
「職業に貴賎なし」なんて伏線を張って。

今、若い子たちのために
しおりを作っている。
カードとかを切って、本にはさめるやつ。
いわゆるブックマーク(栞)。
昔から、
絵を描いて、そこにちょっとした言葉を添えて
高校の学園祭のときに、部に来た人たちのために作ったりしていたんだ。
結構、持っていってくれた。
今は、カードや葉書などを切り貼りしてだけれど、
何か言葉も入れたいなと思っている。

今日はここまでにしよう。
先のことを考えると暗いので、今日は何も考えないようにしよう。
そしてまだまだ
仕事は残っているので
最後まできちんとしよう。
コメント (4)
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(3/6)閃雷(senrai) 大地の詩

2011年03月06日 10時41分17秒 | 名曲
閃雷(senrai)


今日は
我が街に拠点を置く素晴しい演奏家の演奏を。
その方たちとは
閃雷(せんらい)という
和太鼓と津軽三味線のグループである。

2007年にいちどブログで取り上げている。
閃雷というグループ ここをクリック

その中のどなたかから昨夜コメントをいただいた。
そして私は
頭の中でいろんなことを想像した。

いいものは皆に知らせたい、
感動したものは皆にも共有してもらいたい、という
私の考えで
これまでの
オトメちゃんや
はやぶさについて
若い人たちに語ったり薦めたりしてきた。
そして
今回も、若い人たちとほぼ同年代の彼らが
1つの専門的な楽器を日々練習し打ち込んで
感動的な演奏をしている、ということを告げねばならないと思った。
明日、また彼女たちに会えるので
伝えようと思った。

和太鼓と津軽三味線は
世界に、ジワジワと浸透していっている。
自分たちの国にない、オリエンタルな演奏、というよりは
むしろ
自分たちの国にもあるロックと共通する演奏ということで
共感を得ているのだろう。
たった三本しかない弦の力強い演奏、そしてドラムとはまた違った
和太鼓の勇壮な響き。
これは日本人の矜持の音として誇っていいだろう。
you tubeのあらゆるそれらの演奏には
日本人だけのコメントだけではなく
外国の人たちのコメントが幾つもついている。
音楽に国境はなし、演奏に心打たれることは国がどうのこうのじゃない。

仙台は学都の町と言われて久しいが
音楽の町でもある。
モンキーマジックのメンバーはメジャーでありながら
この街を離れない。
居心地の良い街なのかもしれない。
私の住む場所は
中心地の勾当台公園がすぐ傍にある。
演奏するホールや会館も自転車で5,6分で行ける。
食べ物の市(いち)が出るときに限って出かけるが
もっともっと、気楽に演奏を聴きに行くべきだね。

では聴いてみてくださいね。

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