僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(11/30)弱っていく父、母。

2016年11月30日 15時42分38秒 | 日常、仕事、認知症
今月の半ば
実家の母の誕生日だった。
夫と私の休日が一致したので
誕生日には3日早いが
義母を連れて3人で実家に出かけた。
父にも母にも
もう誕生日のプレゼントは食べ物にしている。
これまで物でプレゼントしてきたが
年老いた2人には必要ないと思い
彼らの好きなものを買っていく。
そして寿司が好物なので(私以外は皆寿司好き)、
寿司も用意。
3カ月ぶりだった。

いつもなら父が何かかにか(汁物など)
高齢ながら
エプロンをして台所に立ち用意しているのだが
なんとな~く、疲れた父に思えた。
寿司などを持っていって正解だった。

そして母の様子。
もうガンの治療はしないと決断してから数カ月経つが
痩せたとかやつれたとかそんな印象がなかったので
それはひとまず安心した。

普段、私とは最低限の会話の義母は
母との会話に花を咲かせる。
こうして互いに同じ立場で、対等な話ができるので
ストレス解消に持ってこいだ。
義母を連れていく目的の1つだ。

肝臓にガンが転移してからの経緯について
ここに記録していなかったか。
それは割愛しておこう。
転移してから再び切る、ということを選択をせず
終末医療を選択。
その経過が、今のところ日常生活に支障がない、とのことだったので
あと1か月後に控える正月も
きっと5人で迎えることができるだろう。

母の面倒を見ている父が
疲れ気味というのが気になるところだが
(肉体的疲労もさることながら、精神的にも)
父と会話をする。
父は夜の暗闇におびえるようだ。
暗闇になると
色々なことを考える、と。
私はそれに同調。
私はここずっと
部屋の電灯をつけたまま寝ている。
本を読みながら、眠くなりいざ、電灯を消すと
頭の中が見えるようで
あれこれと考えて却って冴えてくる。
そして眠れなくなり、再び本読みから始まる。
電灯をそのままにして、本をポトンと落として眠りに落ちるのがいい。
だから父の気持ちもわかった。
父はテレビをずっと点けたままらしい。
父は、いつ自分が死ぬのか、とか考えると。
高齢の正常な頭というのは
それはそれで、年齢的に避けられない死の怯えがあるから不安になるようだ。
暗闇は、頭の中が見える、という恐ろしさがある。
私も、よく夫に電灯のことを言われるが
眠れないことのほうがいやなので(早朝4時前には起きるので)、
それを優先する。
電灯にもタイマーがあればいい。
2時間後には消灯しているとさすがに寝入っているだろう。
そんな便利なもの今、あるのかな。

父はよく
自分が死ぬときのあれこれを話すのだが
夏に行ったときの会話で。
「俺の葬儀の喪主は、J(父の甥。私とはいとこの関係だが、ただし、血の繋がりなし。そのJの子供(又甥)がうちの実家の近くに住み、父が可愛がっている。これは以前にもここに書いた)
に頼んである。」
「はあ?」と私。
「おかしいでしょ。娘がいるのに、いくら嫁に行ったからって、中学生とか小学生の私だったら、代理でJちゃんにやってもらうというのであればわかるけれど。
北海道時代のお父さんの会社の人たちやこっちにいるお父さんの友達とか知っているのは私でしょ。そういう人たちがなんて思うか。私はそれなら出ないよ。」
と珍しく私は主張した。
数年前の父や母のガン手術の時に出た、相続放棄の件から、父とはもう諍いはいやだ、父の言う通りに従う、と思ってきた私だったが
さすがに喪主の件は、私の意見を述べる。
「そうだよなあ、Jちゃんやその嫁さんも、それはおかしい、トモロッシちゃんがいるのにと言っていたんだ。」
父は、死んだあとも自分の考えの通りにやろうとしている人なので、一応これも私の想定内です。
ただ、娘として主張(間違ったことは言っていないでしょ、父とは養子縁組したとはいえ、一人っ子の長女です。小さい時から父の会社の人たちともよく遊んでもらって
今でも賀状のやりとりをしている。その私を差し置いて、甥のJに喪主をさせるとは、どこまで私に屈辱の思いをさせるのか。私は出ない、勿論夫も出ない、という私の結論。
周りの人たちのほうが常識的です。
「俺は母さんが先に死んだら、施設にでも入るのかなあ。」
と弱気なことをつぶやく。
私の友人たちはあの相続放棄の件を知っているので、彼女たちの言葉を借りるなら
「近くにいる又甥に介護させればいいじゃん。トモロッシさんは面倒見ることないよ。」となりたいところだが
現実に弱っていく両親を見れば
そうもいかない、やはり頼ってくるのは娘なんです、父も母も。
それが現実というもの。
「お父さん一人になったら、こっちに(私達の所)来ればいいじゃない。」と私。
これも普通でしょ、あたりまえでしょ、皆さんはどうですか。
父は
喜んで「そうかあ?そっちに行ってもいいのか?」と言っていた。

私は両親に
甘えない人間に育てられた。
母方の親類からの養子縁組をした、ということで
母は、父に申し訳なく思ったか
小さい時から厳しく、極端に厳しく育てられた。
甘えることは禁止、というくらいに。
学生のころ、あまりに無会話な私に
母から「もっともっと甘えてちょうだい!」と泣かれたことがあった。
今更甘える年齢でもない、甘えたい時期に、『甘えるな!調子に乗るな!」と言われた
私はますます固く心を閉ざしたことがあった。

そして父自身も
自分の身がこうして弱っていくとき
(今までは私の世話にならない、と言ってきた)
甘えるべき対象を見失っているようだった。

私は
自分の人生の大半がこの両親との確執と
想像していた。
そんな私のことを受け入れてくれた夫には感謝している。
義母だって
お近づきの印に、と
庭のバラをたくさんプレゼントしてくれた。
私の両親にない、ハートを揺さぶるプレゼントだった。
だがしかし
今、庭にパンツを捨てて、嫁に怒られる。
バラは生きている。
何十年もこの家の出来事を見つめている。

(11/30)台湾の青年

2016年11月30日 14時09分23秒 | 日常、仕事、認知症
先日
台湾から来た青年と話した。
たどたどしい日本語と流暢な英語だった。
私の耳が悪いので
夫や友人の言葉でさえよく聞き取れないで
呆れさせていた私にとって
語尾のはっきり聞こえない英語はますます聞き取りにくかった。
そこで
ライティングなら何とか読めると思い
書いてもらった。

そこで感じたのは
この子はまだまだ若い、なのに
英語を躊躇なく流暢に話す、
私は大学4年まで英語を習ってきた人間なのに
彼のようにペラペラと話せない。
この差はどこから?と思った。
日本人の英語力ってよく、先進国なのに英語が苦手だと言われる。
英語が苦手・・・学生時代は英語は好きだったし、テストの成績もそこそこ良かったし
が、会話となると、なぜか流暢に話せない。
考え、考え、単語を並べたり、と。
でも、英文を見ればすぐに何を言っているのかわかる。
つまり、
ヒアリングがダメなんだ、と思った。
他の国(英語圏外)の英語教育ってどうなっているんだろう。
私の受けた時代は何十年も前だから
今はヒアリングを重視した授業を展開していると思うが、
今の子たちは、ではペラペラと話せるのだろうか。
もっと英語の授業での到達目標を
点数どうのこうのより、英会話が成り立つ、英語を積極的に話す度胸をつけるといった
ものになるといい。
どうしても流暢に話すというのが照れる、の感情が英会話のネックになっているような気がする。

次の日、
偶然にも街の中でその子に会った。
これから東京に行く、と言っていた。
またお会いしましょうと握手を交わす。
台湾青年、また日本に来てください。

ヒアリングの強化ですね。
しかし、私の耳は日本語さえ聞き取れない、聞き間違いをする。
でも、勉強って楽しいよね、
してないけれど。

(11/30)義母の下着類の後始末

2016年11月30日 09時32分36秒 | 日常、仕事、認知症
先ほどの義母の下着類の件。
どこにどうしまわれていたのか
大量の下着類(パンツ、ガードル、シャツ、股引、靴下などなど)を
今片付けている。
以前から
義母が物を無くしたときに私が探すのだが
その探すときに、あちこちから下着や靴下が出てきたので、
もう使わない古いものは捨てたほうがいいよ、いざ物を探すとき大変だから、と
忠告してきた。
そこで義母は捨てるものを袋に入れ始めた。
そこまではいい。
後で私が少しずつゴミに出していくから、片づけはまず彼女が。
枚数にして何百枚です。
100枚ではきかない。
そして昨日、新たに、サンルームの段ボールから出てきた。
また、庭に面した外の物置きにも、一塊があった。
ガードルの量の多いこと。
かつての義母は恰幅がよかった。
今は痩せているけれど、ガードルの量からして、それを穿いてスタイルを良く見せようとしていたのだろう。
そして、パンツも多い、多い。
使い古したものではなく、これまで買っては穿かないで取っておいたものばかり。
「これ、使っていないじゃない、穿けるでしょ。」と言っても
「これは私のじゃない。サイズが違う。」と義母。
「パンツなんて、L版、M版くらいの差しかないのだから、穿けるでしょ。」と言っても
私のじゃない、の一点張り。
それらを見て、義父の残した遺産をそれら(服も大量です。今のところそれらは捨てる気はないらしい)に使ってきたことに内心腹が立ってね。
買っては使わないで、ため込んでおく、そしてサイズが合わなくなった今、「私が買ったものではない」と捨てる。
この考えが何とも空しくてね。
まあ、それはいいでしょう、いずれはそれらも処分しなくてはならないので今のうちに処分できて。
ただ。
なぜに
庭に捨てるのか。
10日ほど前に
台所の炊飯器を置く台の下に下着発見。
「なぜ、こんなところに置くのか。捨てろー!」と私。
そしてそれを捨てた場所は
後になって庭だったことに気付く。
なんで、庭に捨てるんだ、と問うたとしても後の祭り。
「あれは私のじゃない!ガキども(妄想)がいたずらしたものだ。」と。
「あなたのやったことの後始末は私がやるのだから、こういうことは辞めてよ!ゴミ箱や袋に捨てるようにしてよ。」
聴く耳なし。
ああ、
「厭がらせの年齢。厭がらせの年齢。」(「厭がらせの年齢」とは丹羽文雄の小説)
雨に濡れたそれらを回収して、昨日新たに見つかった一塊といっしょに置いておく。
ゴミと一緒に、紙袋に入れて捨てているのだが、まだまだそこに手をつけられないほど、今玄関ホールに山積みになっている。
とにかく
今までカワイイ、綺麗と思ったものは誰にもお金の干渉を受けずに買ってきた人だから、これから予想されるその他の処分に頭悩まされる。
なお、洗濯は私がやっている。いや、洗濯機がやっている。スイッチがわからなくなってきたので、セットするまで私。
そして干すのは自分でやれ、と言ってある。
パンツも干しているが、これまで捨てた綺麗なものとサイズが変わらない。むしろ、今穿いているものが古く、それらを捨てて新しいものを
穿けばよいのに、それは拒絶である。
愛着なんて下着にはないが、せっかく買っても、捨てられる下着が可哀想だ、なんて思っていてはきりがない。そこは無心で捨てよう。

義母の昨日の名言。
「トモロッシちゃん、私は第一線から退くから。」
唐突に、作業している私にこうしていつも名言を吐く。
さも、私の反論を誘うかのように。
第一線って、何の?


(11/30)サンルームの掃除

2016年11月30日 08時19分19秒 | 日常、仕事、認知症
昨日と今日、久しぶりに2日続けての休みだ。
昨日はサンルームを掃除した。
サンルームは、家を建ててから7、8年してから
保護した猫のために後付けしたものだ。
現在は
1階にいるダイジローの日中の日向ぼっこが中心である。
ところが最近
ダイジローが2階で他の猫たちと過ごすことが多くなった。
2階のほうが日当たりがよく
皆がいるので寒いときはくっつき合って過ごしている。
ただ
同じ白色の猫「トモ」と仲が悪い。
トモがダイジローのストーカー化している。
ストーカーと言っても、恋心を抱いているわけじゃない。
狙って喧嘩を吹っ掛けようとしている。
そのため、私達が仕事で不在のときは
ダイジローを1階に置いているのだが
最近は夫が出勤のとき(夫のほうが後に出る)
「ダイジロー、1階に行くぞ。」と連れていこうとしても
1階に降りるのはいやだ、と抵抗する日が続き、
2人とも出勤の時も2階に置くことにした。
その代わり、2階ではトモは奥の私の部屋にいてもらうことにした。
慣れればそれなりにその状態が常になる。

1階にいたらいたで
義母の相手になっているのだが
義母のあまりの変な可愛がり方に辟易していたから2階に落ち着いてくれてよかった。
サンルームは日中は暑いのに、「寒いであろうから」と色々な掛け物をかぶせたり
全部サッシを閉め切って、サンルームに通じる食堂の戸も閉めて
蒸し風呂状態にしてしまう。
「ダイジローが脱水症状を起こしてしまう!」と帰宅した私が怒る。
「だって、寒いでしょ」と義母。
「入口の戸も閉めてしまったら、いざトイレに行こうとしても行けないでしょ!」と私。
トイレは食堂や廊下にある。閉じ込められた状態になって、トイレに行けない。
「あ、そうか。」と初めて納得する義母であるが
明日は閉めないでね、と言っても、次の日には忘れ、「寒いから」とまた閉じ込めるわけだ。
それらがあるから、2階にいることを自ら望んだダイジローの過ごし方にホッとしている。


本題に。
そのサンルームの掃除だが、一人でこれをやるのは大変だった。
まず物を外(食堂側)に出す。
段ボール箱、椅子、猫用の壊れたタワー、義母の洗濯物干し、義母の鉢植え、義母のじょうろ、義母の敷いた赤い絨毯、ござ、などなど
いつのまにか物置になっていた。
段ボール箱には、かつてそこで飼育した鳩のPちゃんの餌が未開封のまま入っていた。いつか戻ってくればそれを、と思っていたのか。
そして別な段ボール箱には義母の下着がギッシリ詰まっていた。(この件についてはまた別枠で)
義母の置いたものは義母に渡した。
もう、ここにあなたのものは置かないで、と。
1階にいる義母がどこもかしこも私物化して、自分の溢れた物をこうして置いている。それを黙認してきた今までだったが
もうそれは辞めた。

物が無くなった状態のサンルームの掃除機かけ。サッシの溝の掃除。遮光カーテンの除去(もう古くなったので)。
拭き掃除。
出した物の後始末まではいかなかった。
それは玄関前のホールに積み重なっている。今日、やるか。
じょうろや洗濯物干しが無言で戻ってきたが
それはあなたのもの、もうあそこで花に水やりとかしないで、カビが生えている、と再び返す。
彼女は、これは私のものではない、という意識が働くので(つまり、もう花にも水をやったりしなくなったので、自分のものではないという解釈)、
自分のものではないのは、どこかに置く、捨てる、という発想。

そのサンルームの掃除をしたのは、ある目的があるから。
ただ実現するかどうかわからないので、まだ書かないでおこう。
いや、いつものことです、本来の目的のために作ったサンルームですから。
なかなかたやすいことじゃないけれど。

(11/30)冬の蝿

2016年11月30日 07時10分57秒 | 文学/言葉/本
二階の居間に
一匹の蝿がいる。
ここ1週間ほど、いやもっと前からか飛び交って
今は天井に張り付いている。
そこで蝿の寿命を調べた。
成虫期になって1カ月半くらいだと書いてあった。
部屋の中は暖かいし
猫たちの食べ散らかした餌がヒョイとあるので
なんとか生き延びているようだ。
駆除しようかと思ったが
1カ月半と見て、そのまま放っておこうと思った。


  冬の蝿逃せば猫にとられけり  一茶

わざわざ「冬の」と季節を入れているから蝿そのものは
夏の季語らしい。
季節を飛び越えて冬まで生きながらえた蝿だから
生命閉じるまで、ちょっと見逃している。
衛生、衛生、と言われても
そんなこと気にしない昭和の私である。
台所で見つかったゴキブリでさえ、ティッシュで捕まえて
庭に投げる私だ。
カエルの餌になるかもしれない、寒さで死ぬかもしれない、
でも私が積極的に殺すのは御免被る。
それを汚い、不衛生、と言われても
私自身が気にしないので。
庭の樹木に作った蜘蛛の巣でさえも除去できない。
蜘蛛の巣が不都合なときは
先端の糸を別な枝にくっつけてやる。
「ちょっと頭にくっつくので通るのに邪魔。」ということで。
蜘蛛は慌てて糸の上を歩き回るが、大勢に影響がないのですぐに落ち着く。
小さな虫にも、短い人生の生きる権利がある。
この世の生命、人間だけじゃない。
今までそうして自分が過ごしてきたのだから
これからもそうやって残りの人生やっていく。