今月の半ば
実家の母の誕生日だった。
夫と私の休日が一致したので
誕生日には3日早いが
義母を連れて3人で実家に出かけた。
父にも母にも
もう誕生日のプレゼントは食べ物にしている。
これまで物でプレゼントしてきたが
年老いた2人には必要ないと思い
彼らの好きなものを買っていく。
そして寿司が好物なので(私以外は皆寿司好き)、
寿司も用意。
3カ月ぶりだった。
いつもなら父が何かかにか(汁物など)
高齢ながら
エプロンをして台所に立ち用意しているのだが
なんとな~く、疲れた父に思えた。
寿司などを持っていって正解だった。
そして母の様子。
もうガンの治療はしないと決断してから数カ月経つが
痩せたとかやつれたとかそんな印象がなかったので
それはひとまず安心した。
普段、私とは最低限の会話の義母は
母との会話に花を咲かせる。
こうして互いに同じ立場で、対等な話ができるので
ストレス解消に持ってこいだ。
義母を連れていく目的の1つだ。
肝臓にガンが転移してからの経緯について
ここに記録していなかったか。
それは割愛しておこう。
転移してから再び切る、ということを選択をせず
終末医療を選択。
その経過が、今のところ日常生活に支障がない、とのことだったので
あと1か月後に控える正月も
きっと5人で迎えることができるだろう。
母の面倒を見ている父が
疲れ気味というのが気になるところだが
(肉体的疲労もさることながら、精神的にも)
父と会話をする。
父は夜の暗闇におびえるようだ。
暗闇になると
色々なことを考える、と。
私はそれに同調。
私はここずっと
部屋の電灯をつけたまま寝ている。
本を読みながら、眠くなりいざ、電灯を消すと
頭の中が見えるようで
あれこれと考えて却って冴えてくる。
そして眠れなくなり、再び本読みから始まる。
電灯をそのままにして、本をポトンと落として眠りに落ちるのがいい。
だから父の気持ちもわかった。
父はテレビをずっと点けたままらしい。
父は、いつ自分が死ぬのか、とか考えると。
高齢の正常な頭というのは
それはそれで、年齢的に避けられない死の怯えがあるから不安になるようだ。
暗闇は、頭の中が見える、という恐ろしさがある。
私も、よく夫に電灯のことを言われるが
眠れないことのほうがいやなので(早朝4時前には起きるので)、
それを優先する。
電灯にもタイマーがあればいい。
2時間後には消灯しているとさすがに寝入っているだろう。
そんな便利なもの今、あるのかな。
父はよく
自分が死ぬときのあれこれを話すのだが
夏に行ったときの会話で。
「俺の葬儀の喪主は、J(父の甥。私とはいとこの関係だが、ただし、血の繋がりなし。そのJの子供(又甥)がうちの実家の近くに住み、父が可愛がっている。これは以前にもここに書いた)
に頼んである。」
「はあ?」と私。
「おかしいでしょ。娘がいるのに、いくら嫁に行ったからって、中学生とか小学生の私だったら、代理でJちゃんにやってもらうというのであればわかるけれど。
北海道時代のお父さんの会社の人たちやこっちにいるお父さんの友達とか知っているのは私でしょ。そういう人たちがなんて思うか。私はそれなら出ないよ。」
と珍しく私は主張した。
数年前の父や母のガン手術の時に出た、相続放棄の件から、父とはもう諍いはいやだ、父の言う通りに従う、と思ってきた私だったが
さすがに喪主の件は、私の意見を述べる。
「そうだよなあ、Jちゃんやその嫁さんも、それはおかしい、トモロッシちゃんがいるのにと言っていたんだ。」
父は、死んだあとも自分の考えの通りにやろうとしている人なので、一応これも私の想定内です。
ただ、娘として主張(間違ったことは言っていないでしょ、父とは養子縁組したとはいえ、一人っ子の長女です。小さい時から父の会社の人たちともよく遊んでもらって
今でも賀状のやりとりをしている。その私を差し置いて、甥のJに喪主をさせるとは、どこまで私に屈辱の思いをさせるのか。私は出ない、勿論夫も出ない、という私の結論。
周りの人たちのほうが常識的です。
「俺は母さんが先に死んだら、施設にでも入るのかなあ。」
と弱気なことをつぶやく。
私の友人たちはあの相続放棄の件を知っているので、彼女たちの言葉を借りるなら
「近くにいる又甥に介護させればいいじゃん。トモロッシさんは面倒見ることないよ。」となりたいところだが
現実に弱っていく両親を見れば
そうもいかない、やはり頼ってくるのは娘なんです、父も母も。
それが現実というもの。
「お父さん一人になったら、こっちに(私達の所)来ればいいじゃない。」と私。
これも普通でしょ、あたりまえでしょ、皆さんはどうですか。
父は
喜んで「そうかあ?そっちに行ってもいいのか?」と言っていた。
私は両親に
甘えない人間に育てられた。
母方の親類からの養子縁組をした、ということで
母は、父に申し訳なく思ったか
小さい時から厳しく、極端に厳しく育てられた。
甘えることは禁止、というくらいに。
学生のころ、あまりに無会話な私に
母から「もっともっと甘えてちょうだい!」と泣かれたことがあった。
今更甘える年齢でもない、甘えたい時期に、『甘えるな!調子に乗るな!」と言われた
私はますます固く心を閉ざしたことがあった。
そして父自身も
自分の身がこうして弱っていくとき
(今までは私の世話にならない、と言ってきた)
甘えるべき対象を見失っているようだった。
私は
自分の人生の大半がこの両親との確執と
想像していた。
そんな私のことを受け入れてくれた夫には感謝している。
義母だって
お近づきの印に、と
庭のバラをたくさんプレゼントしてくれた。
私の両親にない、ハートを揺さぶるプレゼントだった。
だがしかし
今、庭にパンツを捨てて、嫁に怒られる。
バラは生きている。
何十年もこの家の出来事を見つめている。